横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流


ものづくり日本の源流を訪ねる
横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流





第1章
横須賀製鉄所
――100年を超える現役ドックの宝庫



米海軍と自衛隊が同居する横須賀港


(1)知られざる横須賀

■明治日本の産業革命遺産
1854年、4ハイの蒸気船の来襲によって幕府が知ったのは、我が国の脆弱な防衛力だった。
そこで、フランスの指導の下、造船所を作り、機械加工技術の育成と軍艦の建造をめざした。その出発点となったのが横須賀製鉄所だった。

起工150周年のドックが残る横須賀を中心に、戦艦三笠、浦賀ドック、日本初の洋式灯台・観音崎、横浜製鉄所跡を訪ねてみよう。
2015年7月5日ユネスコの世界遺産委員会は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」を世界文化遺産に登録することを決定した。

この遺産には長崎造船所や八幡製鉄所、韮山反射炉、釜石の高炉跡など、申請した23施設すべてが構成資産として認められたが、実は、このほかにも申請の中に入っていない、重要な資産・遺跡がある。それが、ここに紹介する横須賀製鉄所だ。

本来ならば、官営の造船施設であること、明治3年に作られた我が国初の石づくりドライドックが残されていること、さらに、ここで育った造船技術者が後に全国でドックや戦艦づくりに携わって造船王国日本を生み出す原動力になったこと・・・などから、ここが真っ先に候補地に選らばれるべき施設なのだ。

なによりも、地震大国日本で、1871年の建設以来140年を経過して、なお現役で使われているドックの質の高さは、産業遺産として文句のない重要文化財級の価値をもつ。

なぜ、登録資産に横須賀が入っていないのか、理由は、米軍の基地内にあって保存も自由にならないためだ。致し方ないが、非常に残念である。
ここでは、こうした貴重な知られざる横須賀製鉄所とその関連遺産を見てみよう。

横須賀の港は、かつて鎮守府が置かれ、最大の海軍工廠があった。



■駅から1分――非日常の観光名所
横須賀の町を訪れる場合の下車駅は、JR横須賀駅、京浜急行「汐入」駅、「横須賀中央」駅の3つ。
車なら、国道16号を下るか、横横道路の横須賀インターを降りるかになる。

電車なら、東京から横須賀線で約1時間15分、JR横須賀駅で降りて改札口を左に出る。
50メートルも歩けばヴェルニー公園である。目の前は横須賀港だ。

向かいの右手は米海軍基地の埠頭だが、修理中の潜水艦などが係留されている。
遠くには米海軍のイージス艦など軍艦も見える。
左手は海上自衛隊横須賀地方総監部の埠頭だ。
大型の軍艦を目の前にした眺めは壮大、横須賀港は、日本の海上自衛隊と米海軍の戦艦が間近に見られる非日常空間なのだ。

青い海と小高い緑の丘に囲まれた港、それがかつて軍港として栄えた横須賀港である。

駅から1分で行かれる、こんな便利で見ごたえのある観光地を見逃すわけにはいかない。一度足を運んで自分の目で貴重な過去の遺産と横須賀港のいまを味わってほしいところである。

なかには、軍港が産業遺産?あるいは、ものづくり強国の遺産?と疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれない。

横須賀と聞いてなにを思うかと問えば、軍港、米軍基地、原子力空母、どぶ板通り、最近では海軍カレー・・・などの答えが返ってくるかもしれない。
こうした横須賀の持つ、いわば戦争につながる負のイメージは、多くの日本人に共通していると思う。

しかし、実は、横須賀港イコール軍港というだけではなく、日本が造船大国、ものづくり強国へと変貌していく過程で、その出発点になる貴重な産業遺産をもった町でもあるのだ。

横須賀軍港の歴史をたどってみると、知られざる横須賀の姿が浮き上がって来る。
  

JR横須賀線の横須賀駅。JRには珍しい平屋建てである。戦後は、繁華街のある京急横須賀中央駅に乗降客が集中している。

横須賀港全景。左にヴェルニー公園が広がり、右は米軍基地。左先の自衛隊基地にオレンジ色の南極観測船「しらせ」が寄港中だ。右奥の小高い丘の間に水路が見えるが、その奥が長浦港。
   


■一度は見たい横須賀のものづくり遺産
JR横須賀駅からヴェルニー公園を、ほんの2,3分進み対岸をみると、「3DRY DOCK2」と書かれた2階建ての建物が見える。

左に3号ドック、右に2号ドックを控えた、ポンプ小屋である。
小屋の左右の海面すれすれに「A」と書かれた文字が見える。これがドライドックのゲート(船渠)で、このゲートを開けて海水を入れて船を引き込み、海水を抜いて船体を修理する。

30メートルほど右にもう一つ「A」と書かれたゲートが見える。
これが1871年につくられた日本最古の石造りドライドック1号のゲートだ。

この横須賀港、何げない風景の中に、100年を超える産業遺産がたくさん隠れているのだ。
横須賀には以下のような貴重な産業遺産がたくさんある。

・横須賀製鉄所で使われたオランダ製スチームハンマー(ヴェルニー記念館)
・フランスの軍港ツーロンをモデルにつくられた横須賀港・長浦港
・日本における造船技術の原点となる3つのドライドック
・日露戦争の旗艦となった戦艦「三笠」(記念艦「三笠」)
・1869年に点灯した日本初の洋式灯台(観音崎灯台)
・1848年につくられた和式の灯台(浦賀燈明堂)
・290年間続く渡し船(浦賀渡船)

などなど。

これはどれも造船王国日本を生み、現在の日本の高度なものづくりを構築した出発点になるものなのだが、それだけではない。

フランスの指導で運営された横須賀製鉄所では、明治初年の時点で、定時労働、週休制、年金制度、職場内職業訓練校・・・などが導入されており、近代的なマネジメントを確立するための先駆的な役割も果たしているのである。
  

「A」と書かれたものがドライドック。右から第1号、2号、3号と並んでいる。140年の歴史を経てなお、どれも現役で稼働中だ。




日本で初めての洋式灯台観音崎灯台。横須賀製鉄所のフロランらの設計。1,750燭光の明るさで、光到達距離31.5kmと圧倒的な光力で東京湾入り口の航路を照らした(「日仏文化交流写真集・第1集」駿河台出版社刊)。
   


(2) 横須賀を堪能するおすすめルート

■横須賀港周辺のおすすめルート
横須賀港を堪能していただくおすすめのルートは、JR横須賀駅を出発点として、ヴェルニー公園(ヴェルニー記念館・横須賀港・海上自衛隊戦艦)−YOKOSUKA軍港めぐりクルーズ(45分)−どぶ板通り−三笠記念館−猿島−と楽しんで、最後にポートマーケットに寄ってお土産をゲットするというコース。

出発点の改札を出るとすぐ近くに、ヴェルニー公園があるので、横須賀港を一望し、ヴェルニー記念館で横須賀製鉄所、横須賀造船所、横須賀海軍工廠の一端に触れよう。

港では、運が良ければ、すぐ隣にある海上自衛隊の岸壁に接岸する自衛隊の、「ヘリ空母いずも」やイージス艦などの戦艦を見ることができる。

そのままヴェルニー公園を散策しながらすすめば、500メートルほどで、YOKOSUKA軍港めぐりクルーズの発着桟橋に出るので、軍港めぐりのクルーズ(45分)で、横須賀港のいまを堪能しよう。

クルーズ船は1時間おきに出航しているが、満席で埋まっていることが多いので事前の予約が安心だ(https://www.tryangle-web.com/naval-port/info.html)。

クルーズ発着の桟橋は京急「汐入」駅が近い。「汐入」駅を出発点にしても、ヴェルニー公園は近いので、問題はない。

クルーズを降りたら、国道16号を渡って、1本裏を走るどぶ板通りへ(300m)。この一角は、いわば「アメリカ街」。
ボリュームのあるネイビー・バーガーや海軍カレーを売り物にするお店も多いので、ここで昼食をとるといい。

どぶ板通りを抜けて三笠公園へ(600m)。
日露戦争の日本海海戦で旗艦として戦った記念艦「三笠」を見学した後、すぐ裏に猿島への船の桟橋があるので、猿島に渡り(所要時間10分)、首都防衛のために設けられた要塞の島を見学していただこう(約90分)。

島から戻れば、桟橋から300mほどの所に、ポートマーケットがあるので、ここで横須賀の海産物などをゲットして、京急・横須賀中央駅(約1km)から電車に乗るのがいい。
中身の濃〜い一日になるのは間違いない。
  

南極観測船しらせは自衛隊横須賀基地が母港である。

どぶ板通りのバーガーショップ。店づくりはアメリカンテイスト。

三笠公園。奥に見えるのが日露海戦の旗艦「みかさ」
   


■浦賀・観音崎の遺産を堪能するおすすめルート
横須賀港周辺で遺跡を楽しんだ後、さらに浦賀・観音崎の遺跡を楽しんでいただくには、横須賀中央から、京急バスで観音崎を目指そう。

途中走水水源地で下車して(20分)、横須賀製鉄所で使う水を確保するために明治時代に作られた水道の水源地を見学、蛇口があるので、一口味わっておこう。
バスを乗り継いで観音崎をめざす(15分)。

終点の観音崎でバスをおりたら、灯台まで、散策路があるので、それを楽しもう。
途中で、東京湾を守るための砲台があちこちにあるので、眺望を楽しみながら山道をウォーキング気分でゆっくり回ればおよそ2時間。

家族づれならば、観音崎県立公園には広い駐車場もあり、ふれあいの森、ロッジ、博物館、バーベキュー場などたくさんの施設があるので、一日楽しめる。
再びバス停に戻ったら、ここからは浦賀行のバスを利用する。

浦賀駅まで、バスでおよそ15分。京急「浦賀」駅で降りると眼の前に住友重工業の工場があるので、工場に沿って右の方向へ。
ここからはバスに乗ってもいいが、途中で見たいものがあるので、歩いた方がいい。

およそ7,8分、工場の壁に沿って歩くと、左に大きなクレーンとドックが見えてくる。通称、浦賀ドックと呼ばれた住友重工のレンガ造りのドックである。

さらに、道沿いに進むと、やがて西浦賀と東浦賀を結ぶ渡船場があり(5分)、さらに進むと、左にマンション群が現れ、その先にヨットハーバー「Velasis」がある(10分)。

ここの敷地内に、明治32年に作られた川間ドックと呼ばれるレンガドックがある。
事務所の受付によって「ドックを拝見させてください」とお願いして、入れていただこう。海水をたたえたドックの姿をみることができる。
ここからさらに先に10分ほど進むと、岬の先端に、江戸時代の灯台である燈明堂がある。

楽しんだ後は、帰りは京急の久里浜駅か浦賀駅、あるいはJR久里浜駅に出て帰ろう。
どちらの駅も始発駅なので、座って帰ることができる。
久里浜までは歩いても、30-40分ほどなので、歩くのもいい。
  

日本発の洋式灯台観音崎灯台。



住友重工業のレンガ造りドック。1860年に咸臨丸が太平洋を横断する前に最後の修理を行ったドックである。

浦賀の燈明台。洋式灯台ができる前の灯台が再現されている。
   


(3) 横須賀製鉄所がつくられた背景

■140年使い続けられる遺産
100年名家、100年老舗という言い方がある。
長く持続することのすごさをたたえた言い方だが、スマホが3年で古くなる時代に、産業施設で140年を超えて、使い続けられるというのは驚きだ。

横須賀港にあるドライドックがつくられたのは1871(明治4)年。まだ多くの庶民が髷を結っている時代につくられたドックが、現役ドックとして船の修理に使われているのだ。この地震の多いくにでである。信じられるだろうか?

なぜここにドライドックが作られたのか、少し歴史をひも解いてみよう。

1853年ペリーが4隻の黒船で来航し、幕府に開国を迫った。幕府は翌年開国するが、その時に圧倒的な軍事力の差を認識し、兵力増強の必要性を悟る。
士族は開国反対をやかましく叫び、攘夷(外国人をやっつけろ)を唱えるが、ひとたび戦火を交えれば敗戦は必須である。刀や火縄銃で大砲に勝てるわけがない。
軍備の増強こそ日本の国を自立させるために不可欠だったのである。

ペリーの来航で、約220年間継続していた大船の建造禁止令を幕府は解くが、独自に大型船を建造する力があるわけではなく、結局、欧米諸国から購入するしかなかった。

1853年以来、幕府や各藩が欧州各国から購入した大型船は94隻。そのために500万ドル近くを費やした。

しかし、あわてて購入したために、満足にチェックもせず、ボロ船を急きょ繕ったものなど悪質なものをつかまされることもあった。

そのため、各藩では購入したはいいけれど、満足に動かなかったり、十分な操船・修理技術もないために持て余し気味というありさまだった。

そんな状況を見かねた小栗上野介は、勘定奉行につくと、国内で技術を育成し、軍艦を独自に建造・修理するという方針を立てる。とはいえ技術はどこにもない。

そこで指導を仰いだのがフランス公使レオン・ロッシュだった。
フランスの軍港ツーロンを模して日本に造船所と軍港を作ってはどうか、との提案を受けて、候補地として選ばれたのが横須賀だった。
  

入り組んだ右の入り江が横須賀港、左が長浦港。横須賀港に右に広がるのが横須賀の街。右の海の中に浮かぶのが猿島。

ヴェルニー公園に建てられた、港に向かって立つ小栗上野介の像。
   


■ペリーがよこした降伏用の白旗
造船所・軍港建設計画は、幕府が新政府に代わっても、殖産興業・富国強兵策として継続される。
しかし、なぜ幕府はそんなに軍拡に急いだのだろうか、理由の一つに、1853年に来航したペリーの仕打ちがあった。

ペリーは、幕府との交渉に際して、開国を勧める米大統領フィルモアの親書とともに、白旗2枚と個人的な書簡を渡しているのだが、その書簡には、

「通商を願い出ているが、もし不承知ならば、国法に従って防戦せよ。必勝は我らにあり、和睦を願うならこの白旗を押し立てるべし。炮を止め艦を退て和睦する」

と記されていたという。
開国せよ、さもなくば攻撃するぞ、という脅しである。

無茶な話だが、当時は、こうした列強の無理がまかり通った。

時代は、艦船の大型化がすすみ、欧米諸国は競うようにアジア、アフリカへ進出して、領土獲得と貿易をめざした。
当時、欧米諸国が決めた国際法「万国公法」によれば、世界の国は3つのカテゴリーに分けられていた。

@「文明国」:欧米諸国。独立した自治権をもち、征服・割譲・開拓などで新たな領土を獲得し、相互に承認することで所有権を確定する権利を有する A「半文明国」:日本などアジア諸国。部分的には承認されるが、不平等条約が「文明国」の主導で結ばれ、拒む場合には武力によって受け入れさせることができる B「未開地」:アフリカ諸国など。「無主の地」(所有者のない土地)とされ、「文明国」が「先占の原則」でそこに植民地を自由に設定できる

とされていたのである。19世紀後半は、欧米の列強が我がもの顔で七つの海を牛耳っていたのである。

ペリー一行の横浜上陸の図。手前のカッターは先頭に白旗を掲げ、白の天幕を張り、白旗を掲げている。他意がないことを自ら手本に示したといわれている(『隠されたペリーの「白旗」』信山社出版)。


(4)遅れてきた国−−フランスの逆転策

■若干25歳の造船技師レオンス・ヴェルニーの起用
フランスにとって、小栗からの造船所建設への支援申し入れは渡りに船だった。
1854年、幕府は日米和親条約を締結した後、イギリス、オランダ、ロシアと和親条約を結ぶが、こうした動きに乗り遅れたのがフランスだった。

そして、58年7月に、幕府は米・蘭・露・英と続けて修好通商条約を締結するが、フランスはこれにも乗り遅れ、通商条約を結ぶのは2か月後のことだった。

しかし、逆にこれがフランスに幸いした。先行する4か国が、居丈高に幕府に開国をせまり難題を持ちかけるなかで、乗り遅れたフランスは幕府に食い込むために、他の4か国への対応法をアドバイスするような協力姿勢で幕府と接するのである。

フランスは、幕府がイギリスの船会社から購入した翔鶴丸の修理にも応じ、幕府から信頼をえたことで、軍港や造船所建設の相談が持ち込まれるようになった。

小栗上野介から本格的な軍港・造船所づくりへの相談を持ちかけられたロッシュらが造船所建設の責任者として推薦したのが、上海で造船の指導をしていた25歳の造船技師レオンス・ヴェルニーだった。ヴェルニー公園、ヴェルニー記念館の名は造船所の首長だった彼の功績を記念して名付けられたものだ。

小栗らの当初の計画では隣の長浦湾に軍港を作る予定だったが、水深が足りないことが分かり、ヴェルニーやロッシュらとの視察で、ツーロンによく似た地形の横須賀に設置することが決められた。

ヴェルニー公園で小栗上野介と並んで立つヴェルニーの像

フランスの軍港ツーロン。横須賀港は、ここをモデルに整備されることになった。
   


■フランス式マネジメントの導入
横須賀にツーロンを模した軍港と造船所を作るために、計画は2段階で進められた。

横須賀で使用する機械類などを整備する製鉄所を、先行して横浜に建設し、同時にフランス語と造船技術者を育成した後に、横須賀製鉄所を建設する。

この計画に従って、1864年に横浜製鉄所を、翌65年に横須賀製鉄所を起工する。
その間、ヴェルニーはフランスに帰国し、必要な技術者を採用し、設備を手配した。

こうして採用され、来日したフランス人技術者は52名、敷地内に造船・修船用のドライドックが作られ、長さ300mの製綱工場などの施設が整備されて、本格的な造船所として稼働し始める。

この横須賀製鉄所には、フランス人技術者が導入されるのに合わせて、フランス式のマネジメントが導入された。

勤務時間が明確に決められ、日曜日を休む週休制が導入され、また、造船技術者を育成するための学校が設置された。後述する浦賀ドックをはじめ、国内各地のドックなどはここの学んだ技術者たちによって作られた。

この工場は、横須賀製鉄所以外の仕事も引き受け、日本の産業近代化にさまざまな貢献をしていくことになる。

明治政府も各国との通商協定の締結で知恵をつけていき、フランスとの通商条約では、横須賀製鉄所をはじめとして具体的な支援をうたうようになっていた。

洋式の近代的な灯台の設置もその一つで、観音崎灯台、野島崎灯台などがフランス人によって設置された。
また、フランス人ポール・ブリューナが首長を務めた富岡製糸場の工場を設計し、機械類を整備するなど、遅れて日本にやってきたフランスが、日本の産業近代化に大きな貢献をするようになったのには、他の国々の高圧的な態度の隙間をついたしたたかなフランスの戦略でもあった。









第2章
ヴェルニー公園――軍港横須賀を見渡す歴史の公園


軍港を前にしたヴェルニー公園にあるヴェルニー記念館


(1)ヴェルニー記念館

■横須賀港−−米海軍と自衛隊が同居する港
JR横須賀線「横須賀」駅の改札口を出ると、すぐ先はヴェルニー公園で、青々とした港が広がる。
港は、右奥から正面(東)、左(北)に広がり、対岸の米軍基地の岸壁には、修理中の潜水艦が係留されたりしている。

横須賀軍港を目前に開けた臨海公園は横須賀製鉄所の首長だったフランス人技師ヴェルニーの功績をたたえて作られたものだ。
ヴェルニー記念館には、横須賀製鉄所の原動力となった、鍛造用の3トン、0.5トンのスチームハンマーも展示されている。製鉄所建設の立役者であった小栗上野介とヴェルニーの胸像に往時をしのぶ。

軍隊に縁がない一般人にとって、潜水艦を目の当たりにするのは新鮮な驚きだ。なぜなら、潜水艦の位置は軍の最高機密になるからだ。世界中の潜水艦は、その所在地が謎だ。日本の自衛隊員も、潜水艦乗務になると、家族にさえ、どこに行くかを明かせない。
港の北側は海上自衛隊の基地である。左の方を見れば、何隻かの戦艦が停泊しているはずだ。
全長248メートル、話題のヘリ空母「いずも」もこの横須賀港所属なので、運が良ければこうした大きな戦艦がいくつか見られるはずである。

10月には、オレンジ色が鮮やかな南極観測船「しらせ」がたまたま着岸していた。
南極観測に出かける前の器材の積み込み作業に忙しいようだった。

「しらせ」は海上自衛隊に所属し、母港が横須賀港なのだ。いつも見られるわけではないが、運が良ければこういう場面に出会える。

その先にはネイビーカラーの戦艦が何隻か停泊している。横須賀港は自衛隊と米海軍が同居する軍港なのである。

目の前に展開する非日常的な光景に最初は戸惑うが、マスコミでも話題になるイージス艦など高性能な戦艦を近くで見られるオープンさも、いまの横須賀や海上自衛隊を象徴する光景である。
  

ヴェルニー公園地図。横須賀港とヴェルニー公園の位置がわかる


左の地図の右下にあるショッパーズプラザ屋上からの光景。左がヴェルニー公園。奥が自衛隊基地。中ほど、岸壁が少し出ているあたりにヴェルニー記念館がある。

対岸は米海軍基地。潜水艦などが見える。

デッキウォークの先は海上自衛隊の基地だ。遠くに軍艦が見える。

南極観測船として4代目になる2代目「しらせ」。2008年に進水し、排水量12,500トン、全長138m、厚さ1.5mの氷の中を3ノットで航行することができる。乗組員は自衛隊員で80名、研究者など179名が乗れる。輸送用の大型ヘリ2機と小型ヘリ1機の3機を搭載している。
   


■官営として残った唯一の造船所
JR横須賀駅からほんの数十メートル、公園に出るとすぐ左がヴェルニー記念館である。
横須賀製鉄所の首長として日本の造船と産業近代化に大きく貢献したフランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績をたたえて2002年横須賀市が建設した施設である。

ヴェルニーは、1837年にフランス南部で生まれ、パリのエコール・ポリテクニークで造船学を学んだあと海軍造船大学校に進み海軍技術者になった。

卒業後は造兵廠で働き、1860年にはフランス海軍が中国・寧波で運営する小型砲艦の造船所で監督者を務めた。

1864年に任務が終わると、駐日公使のレオン・ロッシュらの要望を受けて横須賀製鉄所の建造計画に参加し、1876年までの12年間、首長として造船所の立ち上げ・運営を指導し、多くの造船技術者を育成した。

相談を受けたヴェルニーは周到な計画を作る。その一つが、事前に横浜製鉄所を作り、そこでフランス語を教え、機械加工・造船などの技術者を育成し、横須賀に投入するというものだった。

幕末の開国に際して、幕府は軍船の建造の必要性を痛感して、造船所を長崎や江戸・石川島、横浜、横須賀に開設するが、それらの中で、官営の工場として国が変わらずに運営してきたのが横須賀製鉄所(造船所)であった。
ヴェルニー記念館は ここ 2002年に整備された学習施設で、開館時間は9:00−17:00で月曜日休館。駐車場なし。JR横須賀駅から徒歩1分。


■150年前のスチームハンマー
横須賀製鉄所は後に横須賀造船所と名前が変わるが、当初、製鉄所=鉄製品を加工する工場という意味でつけられたもので、実態は造船所だった。

周辺に協力工場があるわけではないので、パーツから道具まですべてを工場で内製しなければならなかった。

肝心の鉄鋼だけは、国内では入手できなかったために、フランスなどから輸入された。

工事が始まったのは1864年8月。小栗上野介やヴェルニーの計画は、単に造船所を作るだけでなく、一大軍港を作るという壮大なものだった。
モデルにしたのがフランスが誇る軍港ツーロンだった。

ヴェルニーは、横須賀製鉄所の建設計画書を提出した後、いったん技術者の採用や機械類の調達にフランスに戻るが、その時に調達された設備の中にあったのが、いま、ヴェルニー記念館に展示されている2機のスチームハンマーである。

1機は門型の3トンのスチームハンマーで、もう1機は0.5トンの片持ち型ハンマー。
熱した鋼鉄を型の中に入れて、上記の動力を利用して持ち上げたハンマーを落として押し固める、鍛造品を加工する設備である。

この設備で使った金型や金ハシなども館内に展示されている。いずれもオランダ製で、1865年製の銘が入っている。

館内には、横須賀製鉄所や近代の歴史遺産を紹介する映像、体験学習用機材、スチームハンマーの稼働模型なども展示されている。
詳細な資料も用意されていて、受付で申し出るといただける。ご興味のあるかたは、一読されるといい。
  
門型の3トンスチーム・ハンマー。0.5トンハンマーとともに、慶応元(1865)年に作られたもの。国の重要文化財。



片持ち型0.5トンスチーム・ハンマー。平成9(1997)年まで在日米海軍横須賀基地船舶修理廠で稼動していたが、平成12(2000)年に横須賀市へ移管され、2002年に復元修理されて記念館に移された。国の重要文化財。

1865年オランダ・ロッテルダム製の銘鈑。ヴェルニーがオーダーしたものだが、当時のオランダが高い技術力を有していたことがわかる

鍛造の金型。3トンの耐荷重の金属フック。


鍛造中の高熱の材料の寸法を測るパスや金ハシなどの工具

当時の稼働中の様子。
   


(2) ヴェルニー公園

■バラ公園に立つ旧海軍基地2つの衛門
公園を進むとすぐ右手に、道路側に沿って2つの古い門が立っているのが見える。
8角形のレンガ模様の門で、かつて、ここが海軍基地だったころの、基地への入り口の衛兵ボックスだ。裏に回ると、2つの門の間から港が見える。

高さはおよそ4メートルくらいか、屋根は銅板ぶきのドーム型をしていて、本体は、鉄筋コンクリート造りに、外壁にタイルを貼ったもののようだ。
明治末から大正初期に作られたもので、いかめしい当時の軍隊の面影をよく伝えている。

このあたりの地名は「逸見(へみ)」。右の門には「軍港逸見門」、右の門には「逸見上陸場」の文字が見える。歴史と当時の海軍の威厳を感じさせる衛門だ。

すぐ近くに横須賀製鉄所建設の功績者、小栗上野介とヴェルニーの胸像が並んで建てられている。
小栗の像の足元には、大きな功績がありながら罪に問われた無念さを訴えているかのように、小栗が斬首された郷里の地の石が敷き詰められている。ときの為政者に主導される歴史の理不尽さを物語っているかのようだ。

この一帯は、フランス式の庭園を模して整備されており、花壇や噴水が設けられている。
100品種、2000本を超えるバラが植えられていて、初夏には見ごろを迎える。

公園の海側は、板貼りのボードウォークとして整備されていて、心地よい潮風に吹かれながら、散歩を楽しむことができる。
木陰で一休みするなら、カフェレストランもあり、ネイビーバーガーや海軍カレーも食べられるので、港を眺めながらの一休みも悪くない。
      

港を前にしたヴェルニー公園。2つの門が見える。

2つの衛兵ボックスの間から海が見える。
逸見(へみ)上陸場。逸見波止場衛門
軍港逸見門。コンクリートにタイル張り。
小栗上野介忠順。幕府の奉行職にあったことで、明治新政府になって斬殺された。
レオンス・ヴェルニー。着任時は27歳という若さだった。

5月には、庭園はバラが満開だ。

カフェレストラン「コンセール」。木陰で一休みにはうってつけ。
   


■軍港横須賀の面影−−長門を建造する技術力
ヴェルニー公園を奥に進むと、いくつかの碑石が置かれた一角があり、「海軍の碑」「戦艦長門碑」「軍艦沖島の碑」などが建てられている。

明治以来、海軍は佐世保、舞鶴、呉などに鎮守府を置いていたが、なかでも横須賀は、筆頭の位置にある重要な軍港で、かつての海軍在籍者にとっては、それなりの感慨をもって思い出す聖地でもある。

帝国海軍の戦艦名をあげると、現代では、大和や武蔵の名がエースのようにいわれるが、この2艦は、海軍が起死回生策として極秘の中で建造した戦艦で、報道も一切なし。国民にとって戦艦のエースは、連合艦隊の旗艦「長門」だった。

排気量39,120トン、1920年に呉の海軍工廠で造られたあと、横須賀鎮守府に所属し、太平洋戦争を終戦まで生き残った。
当時最強とうたわれた英国のドレッドノートを越える性能を持っていたことから超ド級と呼ばれた、世界初の40センチ砲を備えた戦艦である。

碑文には、

「ありし日の連合艦隊旗艦長門の姿をここに留めて激動の時代をしのぶよすがとする」

と記されている。
長門は、戦争は生きのびたが、終戦後はアメリカに接収され、アメリカがビキニ環礁で行った原爆実験の標的にされて沈んだ。そうした長門の数奇な運命を悼むかのようだ。

軍艦は、当時の国の最高の技術を集めた、いわば、技術力の塊であり、軍艦を検証することは、その国、造船所の技術力を検証することでもある。

西洋の産業技術を導入してわずか50年ほどで世界最先端の軍艦を作ってしまう、日本人の技術力もなかなかのものといえよう。

この、超ド級戦艦の長門を日本が独自に建造したことから、世界は日本の技術習得の速さに驚き、このあたりから日本の軍事力を警戒するようになってくる。
長い歴史を積んでそうした技術を獲得してきた列強には、その短時日で技術力を工場させたにほにほんのスピードの速さは驚きだったに違いない。
  

「戦艦長門碑」

   


■正岡子規の碑
長門の碑のすぐ横に「軍艦沖島の碑」がある。
沖島は昭和11年に建造された機雷水雷の敷設艦で、昭和17年にソロモン群島の海戦で沈み、44名が命を共にした。
昭和58年に生存者が、亡くなった戦友をしのんで慰霊碑を建立したものだ。

この碑に並んで、一番奥にあるのが正岡子規の碑である。
軍関連の碑が並んでいるので、子規が海軍の碑を?・・・と、一瞬?マークが頭を巡ったが、こちらは海軍とは関係のない、単なる横須賀港にまつわる句碑だった。

碑文は、

「横須賀や 只帆檣(はんしょう)の 冬木立」

明治21(1888)年に、夏季休暇に浦賀から横須賀を旅した際に読んだもので、1867年生まれの子規、一高生21歳の時の句である。

帆檣(はんしょう)とは、帆柱のこと。季節は夏だが、港には帆柱が林立していて、冬の枯木立のようだ、とよんだ句である。
時は明治21年。軍港にたくさんの軍艦が停泊している。
石炭を動力源としながら、巡航時には帆を張って航行する帆船仕様になっている船がほとんどで、帆をたたんで停泊している姿をよんだものだ。

世のなかは殖産興業・富国強兵にまっしぐらに進みつつあるなかで、港内に停泊している軍艦のマストが冬木立のように見える。のんびりした違和感のようなものを詠んだのであろう。

軍関連の碑と並ぶと突き放した第三者としての視点が異彩を放っている。当時の横須賀港は、観光地の目玉でもあったということが改めてわかる。
  

軍艦沖島の碑。

「横須賀や 只帆檣の 冬木立」正岡子規の句碑。
   


(3)海上自衛隊横須賀基地

■まじかに軍艦が見られるポイント
平成の時代に、はじめて横須賀港を訪れた若い人たちの正直な感想は「えっ、こんな近くで、軍艦が見られていいの?」。

軍艦や兵器と言えば各国をあげて開発競争が繰り広げられているトップクラスの機密の塊といってもいい。
敵に手の内を知られれば、対策が講じられて、兵器は無力化する。そんな軍艦をこんな近くで簡単に誰でも見られて大丈夫なのか・・・と気になるのだが、外から見る程度では、なんの問題もないのだろう。
そんな簡単に中身が分かるようなつくりでは兵器として失格でもある。

横須賀港の魅力は、運が良ければ、そうした最新鋭の軍艦がまじかに見られるところにある。海上自衛隊が保有する軍艦は、大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保のどこかに所属している。

横須賀総監部には、ヘリ空母の「いずも」や南極観測船「しらせ」をはじめ多くの軍艦が所属しているので、ここにはいつも何隻かが停泊している。

ここに所属していない戦艦が、訓練等で寄港することもある。何度か訪れただけでも、ヘリ空母の「いずも183」「ひゅうが181」、さらには補給艦の「おうみ426」、護衛艦「すすなみ114」、イージス艦の「あたご117」などが湾内に停泊していた。

戦争は反対、と思う一方で、技術の粋を集めた戦艦の究極の機能美に触れると、単純に、その姿に感動し、凄いなあと思う。

いかにも頑丈で重そうな鉄の塊が海に浮くのも驚きならば、大きな塊が動く姿もまた壮観である。この感覚は、一度、目の前に見てみないと分からないかもしれない
  

ヘリコプターを搭載した空母「いずも」。19,500トンで、最大ヘリコプター14機を搭載可能。全長248メートルもあり、近くで見ると大きい。海上自衛隊保有している艦船の中で最大のもの。これで時速30ノットで航行できるのだから驚異のパワーだ。

補給艦「おうみ426」。13,500トンだが、補給品を積み込むと最大25,000トンになる。全長221メートルは遠くから見ていても大きい。湾岸戦争の当時、インド洋に出て補給活動を行った艦である。この艦には、女性用の居住区が設けられている。護衛艦「すずなみ114」。護衛艦というのは、イージス艦やヘリ空母などを護衛する艦である。

護衛艦「あたご177」。イージス艦で、正面に見える六角形のマークがイージス艦の命であるレーダー。遠くの敵機を正確に探知できる索敵能力、迅速に状況を判断・対応する情報処理能力、一度に多くの目標と交戦できる対空射撃能力を備える画期的な装置である。
   








第3章
YOKOSUKA軍港めぐりクルーズー−−軍港横須賀のいまを知る


横須賀港軍港ツアー


(1) いま首都圏で人気の“非日常に触れるクルーズ”

■YOKOSUKA軍港めぐりクルーズへ
いま、首都圏で人気なのが「YOKOSUKA軍港巡り」クルーズだ。
米海軍基地の施設と、旧横須賀軍港(現海上自衛隊基地)を遊覧船で一回りする小さな船旅だ。

対岸に明治4(1871)年につくられ、いまも稼働中の我が国初の石造りドックを望み、潜水艦や軍艦など軍港のいまがまじかに見られるのが人気の秘密である。

JR横須賀駅とともに、横須賀港へのアプローチのもう一つの出発点は、ヴェルニー公園を挟んで反対側にある京急「汐入」駅だ。
いま、首都圏のツアー人気で1、2位を争うのがYOKOSUKA軍港めぐりクルーズ。

この遊覧船に乗るのならば、京急汐入駅が最適だ。ただ、JR横須賀駅と京急汐入駅間の距離は歩いても5、6分なので、JR横須賀駅で下りて、ヴェルニー公園を通り抜けての散策を楽しむのもおすすめだ。

京急・汐入駅を降りると、正面は国道16号に面したロータリーだ。すぐ右に、近代的な芸術劇場やホテルメルキュールのあるベイスクエア・ヨコスカがあり、その手前を線路の高架に沿って右に入ればどぶ板通りにでる。

ビルを右に見てまっすぐ進み、歩道橋の階段を上がって、国道16号線をまたぐデッキウォークから正面に見えるショッパーズプラザ(ダイエー)をめざす。汐入から歩いて4分、JR横須賀駅から公園を通ってまっすぐ来ればおよそ10分もかからずに着く。

ショッパーズプラザの裏側に、軍港めぐりクルーズの遊覧船乗り場の桟橋がある。桟橋の前に受付があるので、予約を確認しておこう。

クルーズの出発は、11:00〜15:00の1時間ごと。土日祝日には10:00の便もある。1回のクルーズは約45分。料金は大人1人1,400円、小学生は700円。15名以上なら10%の団体割引がある。

このクルーズは、首都圏のツアー人気ランクで常に上位に入るほどで、事前に予約することをお勧めする。予約は電話やインターネットで可能だ。
横須賀軍港めぐりクルーズの受付はこちら
  

京急汐入駅を出ると、右にベイスクエア・ヨコスカがあり、その前を進むと歩道橋がある。これを越えた正面のダイエー(ショッパーズプラザ)の裏側に、クルーズの乗り場がある

横須賀軍港めぐりクルーズの受付。電話:046-825-7144(9:00-17:00)


     

クルーズ発着桟橋と遊覧船Sea friend X



JR横須賀駅で下車してヴェルニー公園を横切ってくれば、デッキウォークの先にクルーズ船と発着桟橋が見える。
   


(2) 米軍基地・海上自衛隊の艦船を眺めて45分

■間近に最新鋭のイージス艦を見る
横須賀軍港は湾の中ほどにある吾妻島を挟んで、東の横須賀港、西の長浦港と分けられる。
もともとは、吾妻島は陸続きだったが、長浦港と横須賀港の間をショートカット水路を掘ってしまったので、吾妻島が作られた。
いまは、倉庫・補給庫として日米で供用されているこの吾妻島を、反時計回りにぐるっと一周する形でクルーズは進む。

クルーズ船が出発してすぐに右に見えてくるのが、米海軍基地。文字で「A」と書かれたドライドックのゲートが見える。
明治初めに建造された石づくりの3つのドライドックが、手前から第1ドック(長さ137m)、第2ドック(151m)、第3ドック(96m)と並んでいる。
明治4(1871)年〜17年にかけて完成したドックで、140年たった現在も現役で船舶の修理に使われている。
運が良ければそのすぐ隣の岸壁に潜水艦が係留されているのが見られる。

ドックを右に見てしばらく進むと、アメリカ海軍横須賀基地の埠頭で、イージス艦など米軍の主力となる護衛艦などが停泊していることが多い。
艦橋に、六角形の大きなマークが見えるのはイージス艦で、機密満載の最新鋭艦だが、こんなオープンな形でまじかに見られることとに驚く。
六角形に見えるのは最高水準で索敵を行うレーダー部分である。
  

YOKOSUKA軍港めぐりクルーズのコース(所要時間は約45分)。


「DRY DOCK 3 2」と書かれているのが海水を配水するためのポンプ小屋。その左に3号ドック、右に2号ドックがある。

潜水艦。かなりの大型だが、艦名などは分からない。

この日はたまたまイージス艦ラーセンが入港していた。
   


■自衛隊載新鋭艦を見る
東京湾に出て左に舵を切る。右に横須賀市夏島の住友重工業の横須賀工場、日産追浜工場が見えてくる。
ここから先は、海上自衛隊の基地で、船越地区は、自衛隊の総司令部、つまり全海上自衛隊を指揮する本部があるところだ。

海洋観測船「5106しょうなん」が停泊していた。 海洋観測船とは、潜水艦などが座礁せずに活動できるように、そして対潜戦に影響を及ぼす海底の地形や底質、磁気雑音などの自然環境を観測し、データを収集することを主任務とする船である。

しばらく進むと、港の中央に廃船になった潜水艦が係留されている。訓練用に使われるのだろう。奥に掃海母艦「463うらが」が見える。

掃海母艦とは、機雷の排除を任務とする掃海艇などの移動基地として、燃料や物資の補給などを行う軍艦だ。機雷の排除では世界最強の戦艦である。
ここから吾妻島を切り離して作った新井掘割水路に入る。水路では、自衛隊員が訓練を行っていた。

水路を抜けると自衛隊横須賀地方総監部の吉倉桟橋である。
この日は、護衛艦「152やまぎり」、「107いかづち」、「423ときわ」、「174きりしま」などが停泊していた。
ヴェルニー公園から見える岸壁がこの岸壁だ。

クルーズの主要時間はおよそ45分。目の前に出てくるめったに見られない光景に目を奪われていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。

解説も分かりやすく、軍港のいまが手に取るようにわかる。
日常的には目にすることのない米軍と自衛隊の艦船を間近に見るクルーズ、一見の価値がある。
  

東京湾は穏やかに船が航行している。


夏島の住友重工業の工場(右)が見える。民間船舶を建造する工場だ。大きな自動車輸送船のような船が左に見える。ここは日産の追浜工場だ。

海洋観測船「5106しょうなん」。

潜水艦。敗戦になったものだが、訓練用に使われているのだろう。奥は掃海母艦「463うらが」、機雷などを除去する。

新井掘割水路を進む。左は吾妻島、右は自衛隊基地。

水路では訓練を行っていた。


護衛艦「152やまぎり」。護衛艦はイージス艦や空母を護衛する。

護衛艦「423ときわ」、索敵機能を備えたイージス艦「174きりしま」。

自衛隊横須賀総監部の岸壁に停泊する護衛艦「101むらさめ」、試験艦「6102あすか」。試験艦とはステルス化や省力化を目的にテストする戦艦である。
   


(3) どぶ板通り−−スカジャン発祥のアメリカン・ストリート

■有名人と手形を比べる
クルーズを降りたら、国道16号をまたがる歩道橋を駅の方に戻ろう。
国道から1本裏の路地に入ると、そこが「どぶ板通り」。大滝町までの約300mほどの通りは、異次元のアメリカンストリートである。

どぶ板通りとは、いかにも裏通りという名前だが、もともとは道の真ん中をどぶ川が流れていて、それを塞ぐために、海軍工廠にお願いして鉄板をもらってふたを被せたのが通りの始まりという。それが間もなく、どぶ板通りと呼ばれるようになったそうだ。

第2次大戦後、横須賀基地に寄港する米海軍の兵隊さんを対象にして商いを始めるお店がふえて、「米軍兵士の歓楽街」に成長した。
お店も、米軍兵士に合わせたアメリカ風の構えで、沖縄の北谷(ちゃたん)と同様にアメリカンストリートの雰囲気がある。

昭和30〜40年代くらいまで一世を風靡した“スカジャン”の名で知られる、米兵が着るジーンズ地のジャンパーの発祥の地でもある。

近年は、日本人客が主流で、通りもきれいに整備され、米軍人を対象にした日本土産を販売する店も少なくなった。
それでも、ミリタリーショップや土産物店、アメリカンバーなどが連なり、特有の雰囲気をかもしている。

この通りを楽しむもう一つのポイントは、横須賀になじみの深い著名人の手形レリーフだ。
汐入から通りに入ると、すぐ左が芸術劇場。その先の交差点に、手形レリーフの所在地を示した案内板がある。

猪熊功、高島秀武、渡辺真知子、王貞治、佐々木主浩、宇崎竜童・・・など、横須賀出身者や横須賀芸術劇場出演者など50人ほどの手形のタイルが歩道のあちこちに埋め込まれているので、探して歩くのも楽しい。

手形レリーフの所在地を知らせる案内板。


モールに埋められている手形の一部。猪熊功は地元の出身で五輪柔道の無差別級で日本に金メダルをもたらした地元の英雄だ。

朝のどぶ板通り。まだ前夜の余韻が残り目覚めていないようだ。
  
   


■ボリューム満点・ネイビーバーガー
汐入駅から入ると、手形レリーフの案内板のすぐ右に延命地蔵尊がある。
地域の方のていねいなお世話で、いつもきれいに整備され、ろうそくも灯されているので、ここでお参りしてから通りを歩こう。

正面を見ると、すぐ隣にはPOPな飾りが見える。ライブハイス「横須賀かぼちゃ屋」だ。地蔵尊とライブハウスが隣り合わせというものいかにも横須賀らしい。

通りの両側には、バーガーショップ、ミリタリーファッションショップ、昔ながらの肖像画店、写真館、バー、日本土産店、カフェ・・・などが並ぶ。朝早くは閉まっているが、昼時になると店を開けるので、お店をえらんで本場のネイビーバーガーや海軍カレーをほおばるのも悪くない。たいていのお店が両方を食べられる。

ネイビーバーガーは、レギュラーでパテが220g、ハーフで120gほど、海軍カレーも、牛乳とサラダ付なので、どちらも一食としてボリュームは十分だ。

横須賀の3大グルメは、

●ネイビーバーガー
●海軍カレー
●チェリーチーズケーキ

多くのお店でどれも食べられるので、シェアし合うのもいいかもしれない。どちらを選択するかはその日の気分で決めればいい。

どぶ板通りは直線の通りで300mほど歩くと大滝町の大通りに出る。大滝町の通りが横須賀のいわばメインストリートである。

次のコース、日露戦争の旗艦だった記念館「三笠」のある三笠公園に進むには、大滝町を左に曲がって国道16号にでる。
  

延命地蔵尊。隣はライブハウス「横須賀かぼちゃ屋」。いかにも横須賀らしい光景だ。


どぶ板通りのお店。つくりが独特の雰囲気を出している。

ヨコスカ名物のネイビーバーガー

海軍カレーには、海軍の伝統に倣って、定番でサラダと牛乳がついてくる。

どぶ板通りの中ほどにある海軍カレーとネイビーバーガーのお店「TSUNAMI」。海軍カレー、各種バーガーのほかに、タコスなどもある。












第4章
横須賀造船所――140年間現役で稼働する
石造りドック


軍100年を経てなお現役で稼働を続けるドック


(1) 横須賀製鉄所−横須賀造船所−横須賀海軍工廠

■貿易港横浜を支えた修船施設
いまは、米海軍横須賀基地内にあるが、対岸のヴェルニー公園や軍港めぐりクルーズから日本最古の石づくりドックを見ることができるのだ。
1、2、3号ドックは建造以来140年を経過し、現在もなお、現役で稼働を続ける。

日本の造船・機械加工技術の発展に大きく貢献した横須賀製鉄所に日本の造船・機械加工技術の原点を訪ねる。

京急線の快速特急で品川から約1時間、「汐入」駅を下車して国道16号線を右に行き、200メートルほど進むと本町2丁目の交差点がある。
この交差点の正面に米海軍横須賀基地のゲートがある。

横須賀製鉄所は、明治初めに横須賀村の三賀保、白仙、内浦にまたがる約244,600uに、山を崩して海面を埋め立て造成・建設された。

「製鉄所」の名は、鉄材を加工する工場という意味で、ねらいはフランスのツーロン港をモデルにした軍港と造船・修船施設の建設だった。

当時の敷地は、いま米軍に接収されていて入れないが、年に何度かある開放日は、このゲートから入って見学することができる。

1859年の横浜開港以来、太平洋の荒波を越えてたどり着いた外国船は、船体が傷んで修理の必要なものも多く、修船施設の整備が要望されていた。

勘定奉行小栗上野介の提案をうけて、慶応元(1865)年9月27日横須賀に修船と造船施設が作られることになり、ここから横須賀の町は大きく変貌していく。

貿易港・横浜に対する修理施設・横須賀は、フランスの貿易港マルセイユに対するツーロンと同じ関係である。
  

明治元年〜9年の横須賀製鉄所。元年に工事中だった1号ドックは完成し、7年に工事がはじまった3号ドックも完成。施設はほぼ、出来上がっている。(協力「横須賀市自然・人文博物館」)

本町2丁目交差点。国道16号線に面した米海軍基地ゲート。
   


■自前ですべてをつくる総合工場
工事は、フランス人も驚くほどの急ピッチで進められ、造船台・修船台とともに、明治4(1871)年には石造り、全長137メートルの1号ドックが完成した。

当時は、機械工場などが市中にないために、造船に必要な機材をすべて内作せざるをえず、敷地内には、鋳造工場、錬鉄(鍛冶)工場、製缶工場、製綱工場、製帆工場、型工場、船具・滑車・木工所などがある総合工場だった。

ヴェルニー記念館に置かれているスチームハンマーも錬鉄工場で使われていたものだ。
手始めに、十馬力船などの小型の蒸気船を作った。横浜製鉄所との間で機材の輸送に使う輸送船さえ自前で作らねばならない状態だったのである。

1865年に江戸幕府が始めた横須賀製鉄所は、1868年に明治新政府に引き継がれる。
幕府の奉行を務めた小栗上野介が新政府によって斬首される一方、製鉄所は明治2(1869)年には大蔵省の管轄に変わり、翌3年には新設された工部省の管轄に。
4年に横須賀造船所と改名し、やがて鎮守府が横須賀に置かれると、造船所は海軍の主力工廠になっていく。

明治時代初期には、民間の造船業が未発達なために、内国船や外国艦船の建造・修理なども行い、明治3年には、206トン、40馬力、積石約500石、乗客数100名の木製汽船「弘明丸」(後に青函連絡船に使われた)を完成させるなどしたが、海軍省の所属になってから戦艦づくりに傾斜する。

列強の侵略を防ぐための富国強兵政策は焦眉の急だった。
冷戦時代なら考えられないが、いまはgoogle earthで基地内の地図が誰でも見られる。
当時の施設と、現在の位置関係を比較してみたのが以下の図だ。
明治9年の横須賀製鉄所の位置を現在のgoogle earthと比較してみた。工場がほぼ完成した後、横須賀製鉄所は、その後海軍の直属となって海軍工廠として終戦を迎え、現在は、米海軍の基地として使用されている。年に何度か開催される開放日に、ドックを間近に見ることができる。(下写真は、クリスチャン・ポラック氏蔵)
  

掘削・建設中の1号ドック(『日仏文化交流写真集・第1集』駿河台出版社)。

機材の運搬用に、十馬力船をいくつか建造し、横浜製鉄所から機材の運搬などに使用した(「横須賀海軍船廠史」)。

建造中の弘明丸(旧横浜丸)(明治2(1869)年)。横浜丸として明治3年に完成し、後に弘明丸と改称して、青函連絡船などに使われた(『日仏文化交流写真集・第1集』駿河台出版社)。
   


(2)丁寧さとこだわりが効率を阻害

■製鉄所から海軍工廠へ−−初の軍艦「清輝」を建造
明治4(1871)年に137メートルの1号ドック建造したのに続いて、

●明治7(1874)年に3号ドック(96m)
●明治17(1884)年に2号ドック(151m)
 と建設され、艦船大型化の流れの中で
●明治38(1901)年4号ドック(240m)
●大正6(1916)年5号ドック(324m)
●昭和10(1935)年6号ドック(366m)

と作られていく。

完成以来まもなく150年になろうとする1号ドックから77年経った6号ドックまで、現在も使用されており、特に石づくりの1−3号ドックは当時の日本の技術を検証する国宝級の産業遺産といっていい。

なお、ドックの最大の課題は、給排水時間である。最も長い2号ドックを真ん中に配置したのは、もっぱら両側にある1号、3号ドックの排水ポンプを活用して、長いドックの排水効率を向上させる工夫である。

横須賀製鉄所はヴェルニーの指導で作ったフランスの技術を集めた最新の造船所で、日本人が設備を使いこなせるように、先行して"横浜製鉄所((五) 横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場)を作り、横須賀製鉄所で使用する設備を製作しながら、フランス語と機械加工技術・造船技術を訓練した。

明治4(1871)年、横須賀造船所と改名。翌年、明治5(1872)年には海軍省主船寮が主管になる。

ここで、待望の軍艦第1号「清輝」(せいき:897トン、全長61メートル)を完成。清輝は西欧の軍艦には及ばないが、それでも自前で軍艦を建造できたのは大きな成果で、進水式には明治天皇も臨席している。

この船は日本の艦船として初めてヨーロッパへ遠征している。技術力を誇示するためのお披露目というところか。

明治8(1875)年には、海軍がイギリスの指導を受けるようになり、軍政がイギリス式に変わったことで、ヴェルニーを解雇。イギリス人技師2名を採用する。

こんな中で、明治9(1877)年2月には砲艦「磐城」(1464トン、350馬力)、3月には国産第3艦「天城」を進水させる。天城は938トン、720馬力、乗員160名。
クルップ式の砲門を備えた3本マストの国産初の巡洋艦だった。

フランス人技術者なしで、軍船を建造できるまでになっていた習得力の速さは注目に値する。

この後、造船所は、明治17(1884)年には横須賀鎮守府直轄に、そして明治35(1903)年には横須賀海軍工廠となり、大型軍艦の建造に一直線に進む。
  

3つのドックの位置関係。それぞれ間にポンプ小屋があり、両方で使えるようになっている(季刊「大林」より)。

造船台上の「清輝」の竜骨(『日仏文化交流写真集・第1集』駿河台出版社)。

「天城」の進水式(1877.03.13)。清輝級スループの拡大改良型で船材の多くは天城山で伐採したものを使用。完成は翌1878年04月04日(『日仏文化交流写真集・第1集』駿河台出版社)。
   


■効率の悪さがネックで戦争に間に合わない
明治17年には横須賀造船所を鎮守府直轄とし、錬鉄・鋳造・旋盤・製缶・組立工場の拡充・整備を図った。

世界の戦艦が、木造艦から鉄骨木皮艦、鉄製艦、鋼鉄艦へと急速に変化しており、それに対応した処置だった。
同時に、造船所条例が制定され、横須賀造船所は、海軍の艦船の建造・修理・艤装を主目的とすることが決められた。

こうして、建造能力が向上し、戦艦づくりに専念することになり、明治20(1887)年には鋼鉄鉄皮の砲艦「愛宕」(621トン)を進水させ、水雷艇や補助艦艇などを建造。
さらには、鋼製の海防艦「橋立」、巡洋艦「秋津洲」を完成させるが、橋立の建造には6年間、秋津洲の建造には4年間と、長時間を要するという非効率ぶりだった。

海軍としては、折から始まった日清戦争(明治27(1894年7月〜95年3月))などでも、自前の戦艦を使いたかったが、非効率な建造ペースゆえに生産が追い付かず、日露戦争(2004年2月〜2005年9月)に至っても、主力艦船は輸入戦艦に頼らざるを得ないというありさまだった。

日本が世界に認められるきっかけとなった日露戦争の日本海海戦の主力艦船、旗艦「三笠」をはじめ、富士・八島・敷島・朝日・初瀬はすべてイギリス製で、三笠は15,140トン、速力18ノット、主砲に12インチ砲4門を備えた当時の世界最新鋭艦で、技術的にも、日本との格差が大きかった。

それにしても富岡製糸場や横浜開港で見せた機動力のあるプロジェクト管理力はどこへ行ってしまったのか、臨機応変な対応を拒む海軍という組織の宿命かもしれない。


(3)石づくりドライドック

■石づくりドライドック――艦船大型化の足跡
1-3号ドックを少し詳しく見てみよう。 一般にドックは、
●船舶建造用ドック:
船舶を建造するためのドックで、海に向かって船台がスロープになっており、ゲートで水が止められている。
●船舶修理用ドック:
船舶を修理するためのドック。海に接して掘られ、ゲートで水面と分けられている。底面はほぼ平坦。
の2種類に分けられ、構造的に見れば、以下の2種類がある。
●ドライドック:
土地を掘削して地面を掘り、船を引きこんで排水して修理を行う
●フローティングドック:
海上に箱型のドックを浮かべて使用する

横須賀製鉄所のドックは、修理用のドライドックで、ドックのゲートを開けて船を引き入れ、ゲートを閉じてポンプで排水し、船体を露出させて修理や点検作業を行う。
1−3号のドックがつくられたのは1号(明治4年、137m)、3号(明治7年、96m)、2号(明治17年,151m)の順で、この大きさは、当時の戦艦−駆逐艦−巡洋艦を想定したものと予想されている。

1号ドックは当時の欧米の大型戦艦4,000〜5,000トンクラスに合わせて建造されたもので、この大きさの戦艦の入渠・修理が可能だった。

その後、機動力があって小回りのきく駆逐艦の時代があり、最後につくられた2号ドックは、艦船の大型化が急速に進み、大きなドックが必要になったことを示している。

この艦船の大型化競争はこの後も進み、20年後の明治38(1905)年の4号ドックでは全長240m、大正6 (1916) 年に建造された5号ドックでは324m、昭和10(1940)年の6号ドックでは366mと拡大していく。
こうした大型化の流れは止まらずに、航空機の時代が明らかになり始めた1940年代になっても、大和、武蔵という巨艦建造へのこだわりが続いていた。

ゲートに「A」と書かれているのがドックで、右から1号ドック、2号ドック、3号ドック。


ドックの壁面、渠壁。石材がしっかりと組み上げられている。


1号ドック。センターラインに沿って船台が並べられている。入渠した船の船底のセンターをこの船台に乗せ、左右から木材で支えて排水する。このドックには、舵などを納める凹部がなく、渠底が平坦で排水用に傾斜していないなどが特徴だ。これらは、2,3号ドックで修正されている。


1号ドックの先端部。昭和10年〜11年に渠頭部分がコンクリートで延長されたことがよく分かる。

1号ドックで修船中の船舶(『日仏文化交流写真集・第1集』駿河台出版社)。   
   


■地震にびくともしない土木建設力の凄さ
現在、1-3号のドックは日米の共用に供されており、自衛隊の艦船のみならず民間の修船にも使用可能だ。

それにしても建造以来150年近くたって、まだ現役というのは奇跡だ。
石材はいずれも、伊豆・小松石や相模産の安山岩の石材で、500×500×1,000ミリのサイズ。
150年経った現在も、摩耗は見られるが全体にしっかり機能しており、耐候性、耐海水性も問題なし。

石積みの間をつなぐ目地にはコンクリートが必要だが、1号ドックでは輸入コンクリートが工事費の半分を占めたため、ドックの裏面は消石灰・火山灰を混合したベットンと呼ばれるものを使用した。

コンクリートが国内で生産されるようになるのは明治8(1875)年である。

ドックに船を引き入れてゲートを閉じれば、渠底や渠壁には水+艦船の重量の負荷がかかる。排水をすれば、渠壁には逆に周辺の地面からドックを内側に押し出す荷重がかかり、渠底には艦船の荷重がかかる。
ドックにはこの耐荷重を持ちこたえる強度が必要である。

地震が多発する環境のなかで、この両荷重に耐えながら、水漏れを防ぎ、寸法を保ち続けるには、しっかりした構造設計と施行が不可欠だ。
このことだけでも、明治初頭にこうした土木建築物を作り上げた、先人たちの技術力に驚きを禁じ得ない。
  



2号ドック。監督者のフランス人が帰国したため、日本人にって工事された最初のドックとなった。明治初期としては最大規模のドック。先端部の1/3ほどにもゲートがあって、ここでに分割して使用できる構造になっている。そのため、ゲートや、排水用の暗渠、舵をおさめる舵井(だせん)が2つずつある。




3号ドック。3つの中で一番小さいドック。

3号ドックのゲートの内側。ゲートが見える。
   


(4) フランス語と造船技術の伝習学校

■フランス語、造船技術者の育成
産業近代化という点で、横須賀製鉄所が残したもう一つの足跡は、50人ものフランス人技術者が来日して事業所に従事し、人材育成に力を尽くしたことにある。

製鉄所での指導はフランス語で行われたために、造船学を学ぶものはまず、フランス語を学ぶ必要があった。
次項で紹介するように、横須賀製鉄所に先行して横浜製鉄所を建設し、そこでフランス語や機械加工技術の基本を指導したが、それはこの横須賀製鉄所の事業展開、技術者の育成などをスムースに進めることをねらいとしたものであった。

首長のヴェルニーが赴任するにあたってねらいとしたのは、単に造船所を建設するだけでなく、学校を設けて造船技術者を育成することにあった。

そのため、彼は学校の設置を熱心に政府にはたらきかけ、事業所内学校ともいうべき黌舎(こうしゃ)を設立しているのである。

しかもそのレベルは、単に職業学校というものではなく、フランスの高等学校への留学を目指すような、本格的な専門学校であったため、授業はフランス語で行われた。

造船技術を学ぶために、まずフランス語の習得が求められたのである。
こうしたねらいはまさに実現して、この学校から、後に浦賀ドックの設計などで活躍する恒川柳作なども生まれている。

高度な技術者とともに優秀な技能者を育成するために、伝習学校や職工学校を併設している。
伝習生とは、慶応2年に始めたもので、士族の子弟らを技術者として育成するもので、職工学校は横須賀周辺の地域から10歳以上の子弟を集めて機械加工の高度技能者を育成した。

こうした教育の中でも大きな役割を果たしたのは、横浜製鉄所からのつながりで行われたフランス語の授業であり、ここからフランス語通訳なども生まれている。

造船技術者としては、黌舎で学んだものの中からフランスの大学に留学する者も生まれており、短期間であったが、高等教育機関として大きな役割を果たしている。

黌舎 横須賀製鉄所内に設けられた、造船技術教育のための学校「黌舎」。右端に見える2階建ての建物が黌舎。左の塔がある長い建物は製綱工場(『日仏文化交流写真集・第1集』駿河台出版社)。


(5) 基地内に残る海軍遺跡――横須賀鎮守府

■威風堂々とした海軍の奥ノ院
米海軍横須賀基地のゲートを入ると、ドックの手前の右に高台があるが、その高台の上にあるのが、大日本帝国海軍鎮守府の本庁舎と横須賀海軍艦船部の建物だ。

横須賀造船所は、明治5(1872)年以降、海軍の配置になり、明治17(1884)年には横須賀鎮守府の直轄になり、同22(1889)年鎮守府造船廠になった。

鎮守府とは、大日本帝国海軍の艦隊の地方を統括する機関で、横須賀のほかに、佐世保、呉、舞鶴の各鎮守府があり、横須賀鎮守府は最初に設定された最大の鎮守府だった。

明治23(1890)年に初代の本庁舎が建設されたが、関東大震災で全壊したため、大正15(1926)年に建設されたのが現在の本庁舎である。現在のといっても、いまは米軍基地の中にあり、米軍が使用している。

鉄骨造りの三階建て総建坪675坪、柔構造を基本とした耐震設計で、防火対策も取られている当時としては近代的な建物だった。
海軍所属の真島健三郎の設計で、持論の壁を軽くするという耐震構造を実践している貴重な事例だ。

ここの司令長官は大将か中将クラスが務めた。
当時、東洋一の軍港と言われた横須賀港をもつ最大の鎮守府にふさわしく、シンプルだがどっしりした建物で、若手などは、近づくだけで震え上がったのではないか。
現在は、米海軍司令部が本部として使用している。

隣に旧横須賀鎮守府会議所・横須賀海軍艦船部の建物がある。こちらは昭和9(1934)年に建てられた鉄骨造り二階建て。外壁は小豆色の煉瓦タイル張りで、建物前面の中央部には大きな柱形が白で立ち上がっている。

建物上部には三角破風があり、1階が執務室、2階が会議室・ホールになっている。現在は米海軍の第七艦隊の司令部として利用されている。
  

旧横須賀鎮守府。外壁は鉄骨に鉄網セメント吹付の上に小豆色のタイル貼り、内壁は鉄網モルタルと漆喰塗り。

鎮守府建物のエントランス。二階への階段が存在感がある。

1階のオフィス廊下。ドアの両側や天井などに細かな装飾が施されているのがわかる。

入り口には海軍の組織図がある。

旧横須賀鎮守府会議所・横須賀海軍艦船部の建物。2階建てだが、2階が天井の高いホールになっているので、4階建てくらいの高さがある。建物に入らずに外から2階ホールに行けるようになっている。

入り口に小栗上野介とヴェルニーに敬意を表して写真が掲示されている。

入り口に、旧大日本帝国海軍の鎮守府の司令長官などの写真が掲示されている。

横須賀鎮守府会議所の2階ホール。すっきりした鉄骨組の機能的な美しさがある。着任式など催し物や集会に利用されているようだ。
   


■旧横須賀工廠の庁舎――CPO下士官クラブ
鎮守府の高台を下ってドックの方に歩くと右に白い建物がある。
関東大震災で全壊した初代庁舎の跡に、昭和の初めに建設された旧横須賀海軍工廠の庁舎である。

これも、鎮守府と同じ真島健三郎の設計で、やはり2階建て、鉄骨造り、壁は鉄網にセメントの吹き付けという計量の柔構造である。

昭和初期には、横須賀鎮守府管内でこの旧横須賀海軍工廠庁舎や旧横須賀海軍病院庁舎、および兵舎(現米海軍横須賀病院庁舎及び病棟)などといった建物が、真島の柔構造理論で建設された。

いまは、米海軍のCPO(Chief Petty officer:下士官)クラブとして利用されている。
この建物の前に、昭和2年4月1日に、庁舎の竣工を記念して作られた記念碑がある。

この碑に使われた材料は、全壊した初代庁舎に使用されていた資材だという。屋形の上部には、エッチングで初代庁舎の正面図が描かれた青銅版がはめ込まれていて、下には「明治辛未年建ANNEE1871」と刻まれた石版がはめ込まれている。
さらに、土台の部分には、レンガで縁取りされたスペースに、横須賀製鉄所と海軍工廠庁舎の由来が記されている

「初代庁舎ハ、横須賀製鉄所時代、現第一上陸場前ノ地ヲ相シテ、明治三年8月之ヲ起工シ、翌々五年四月(西暦一八七二年)竣成ス・・・大正十二年九月一日関東地方ノ大震災ニ遭ヒテ、廠内過半ノ工場倉庫ト共ニ、初代庁舎建物ヲ併セテ崩潰スル処トナリ・・・新庁舎ノ竣工ヲ告グルニ当リ、爰ニ初代庁舎営造用材ノ一部ヲ以テ碑ヲ作リ、庁舎ノ由来ヲ添記シテ、以テ記念トナス・・・昭和二年四月一日 横須賀海軍工廠」(読点は筆者挿入)

 

旧横須賀海軍工廠の庁舎、現在はCPOクラブとして利用されている。装飾は少ないが、縦長で上下開きの窓が特徴。

昭和2年に設置された新庁舎竣工記念の碑。屋形部分に描かれているのは大将12年の関東大震災で倒壊した初代庁舎の正面図。

新庁舎竣工記念の碑の全体。下部に由来が記されている。CPOクラブ入り口のすぐ横にある。
   
   








第5章
横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場


元治2(1865)年8月に創業した横浜製鉄所(石川口製鉄所)


(1)慶応元年につくられた近代工場

■技術の発展を阻害した大船建造禁止令
工場を作ったからといって、ではすぐに動かせるかといえば、そういうわけにはいかない。
時代は江戸、元治2(1865)年8月である。働くのはちょんまげを結い、腰に刀を差している人間である。旋盤を動かせということ自体が成り立たない。
横須賀製鉄所を稼働させるためには、機械加工の技術をみにつけらければならない。

技術者・技能者の育成をめざし、横須賀製鉄所で使用する機械を製造するために建設されたのが横浜製鉄所だ。
JR根岸線石川町駅近くにあった工場は、いまは工場跡碑がある以外に当時をしのぶ物はないが、フランス語と機械加工の実習場として日本産業界に果たした役割は小さくない。

JR石川町駅の北口改札口を出て左(海側)に行くと、目の前に大きなマンションとスーパーマーケットがある。道を左に取れば、中華街への「西陽門」があり、ここを行けば延平門(西門)から中華街へ入る。西陽門の手前に車止めと右に花壇があるが、その花壇の中に「横浜製鉄所跡)と書かれた碑が立っている。
前を行く人はだれも目にとめないが、ここが、慶応元(1865)年8月に建設された日本初の本格的な洋式工場「横浜製鉄所」の跡地だ。

周辺はさま変わりしていて、いまはわずかに碑が立つだけで、当時の面影はなにもない。
中華街に急ぐ人も、すぐ横に立つ碑の存在には目もくれず、素通りする。さびしい限りだが、100年前にここに日本初の近代的な機械工場があったことはだれも想像できまい。

前項で、横須賀製鉄所の準備工場として横浜製鉄所をつくり、そこで人材育成とともに横須賀製鉄所で必要な設備を製作したとご紹介した。
その横浜製鉄所があったところだ。

建設に至るてんまつは以下のようだ。

嘉永6(1853)年6月、ペリーが巨大な蒸気船とともにやってきた。巨大な黒船の威力と高度な技術を目の当たりにした幕府は、諸外国の侵略に対抗するためには大型軍船の建造が不可欠として、同年9月には、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「500石積(排水量約100トン)以上の軍船は建造してはならない」という大船建造禁止令を撤廃して、諸藩に大型の軍船の建造を許可した。

しかし、いかんせん造船技術がない。そこで幕府が取り組んだのが横須賀製鉄所であり、そのパイロット工場としての横浜製鉄所だった。
  

横浜製鉄所の所在地地図。明治16年のころの地図で、現在の地図に重ねれば、ほぼJR石川町駅から中華学校があるあたりになる(神奈川県立博物館編『横濱銅板畫−文明開化の建築』有隣堂)。

JR根岸線石川町駅前。右の植え込みに「横浜製鉄所跡」の碑が立つ。中華街に行く際にぜひ読んでみよう。

「横浜製鉄所跡」の碑。いきさつも詳しく説明されている。
   


■江戸初期に大型船安宅丸を建造
日本は四方を海に囲まれている。船舶は基本的な移動手段として、秀吉の時代には、朝鮮戦役などで活躍した安宅船(あたけぶね)と呼ばれる大型帆船が作られていた。

奥義は木割法として船大工棟梁に相伝された。
寛永12(1635)年には、幕府は外皮を銅板で覆った竜骨の長さが125尺(38m)、幅53.6尺(16m)、推進力は2人掛りの艪が100艇という和洋折衷の軍船・安宅丸を完成させるほどになっていた。

幕府は、こうした技術が諸藩に渡り、軍船を建造されることに危機感をもち、以後、大型船の建造を禁止した。
そこで日本の造船技術は止まってしまったのだった。

禁止令の解除とともに、幕府自身も造船をめざし、河口を利用した造船所・ドックを浦賀に設置した。翌年には洋式の木造帆船の軍艦「鳳凰丸」を建造するが、軍船としてより輸送船として利用されるだけで終わった。

結局、浦賀造船所は、造船をあきらめて修理場として活用されることになり、万延元(1860)年に、咸臨丸が太平洋を横断する前にメンテナンスをここで受けている。

後にこの場所に、浦賀橋梁株式会社の造船所が建設されることになってドックも新設され、住友重工業渇Y賀造船所へと展開してゆく。

10円切手になった荒波にもまれてアメリカ航海中の咸臨丸。日米修好通商条約100周年を記念して1960年に発行された記念切手のモチーフにされている。


(2)横浜製鉄所が残した足跡

■横浜製鉄所の誕生
大型船の解禁とともに、幕府だけでなく諸藩も同じように軍船づくりを始め、水戸藩は嘉永6(1853)年江戸隅田川の河口に石川島造船所(後のIHI)を、薩摩藩は翌年には桜島に桜島造船所を設け、加賀藩は七尾造船所を作り、軍船などの建造を試みた。

佐賀・鍋島藩もまた、藩内の三重津に造船所を設けることを目指し、オランダに蒸気船建造用の機械類を発注し、オランダ人から蒸気船作りの指導を受けて準備を進めていたが、造船所を作るには莫大な費用が必要なことが分かり、自力での建造をあきらめて、購入した設備類を幕府に献上してしまった。

この鍋島藩から献上された設備を活かして造船所づくりを考えていた時の勘定奉行・小栗上野介がフランス公使のロッシュに相談。

フランス軍艦のセミラミス号の乗組員が鍋島藩からの献上品を視察。これらの機械類では馬力が小さくて大型の軍船の建造には向かないことが判明。
横浜近郊で小型船の修理に活用し、横須賀製鉄所のための機械づくりを兼ねて技術を習得した方が良いとのアドバイスを受けて、横浜に艦船修理施設を作ることになった。

横浜製鉄所設置の目的は、横須賀製鉄所設立原案によれば、以下のようになっている。

「横須賀製鉄所設立に先立ち、一の製作所を横浜にもうけ、現所有の工作機械を据え付け、もって艦船修理の工事を起こし、あわせて本邦人をして西式工業を習得せしむるにあり、このために仏国海軍士官を雇い入れ、その事業を担当せしむる。・・・」

そこで、横浜の本村に工場を建設、鍋島藩から献上された設備の他に、咸臨丸で渡った遣米使節団がアメリカで購入してきた工作機械などを持ち込んで据え付けた。

同時に、フランス人の技術者を採用し、横須賀製鉄所のための準備を兼ねたパイロット工場として、フランス語の通訳や工業技術の実習指導を行う目的工場を整備した。
  

横浜製鉄所。奥は港。構内図の左手から見た写真(『日仏文化交流写真集第1集』駿河台出版社)。

横浜製鉄所。中央の橋が見える先が製鉄所で、左の町並みは元町。(『日仏文化交流写真集第1集』駿河台出版社)。
   


■機械工作のイロハを伝授
工場は、広さ約4,300坪、変形四角形の土地で、鋳造工場、錬鉄工場、製缶工場、旋盤工場、木型や木工用旋盤、模型工場・・・など16棟をもつ、最新鋭の工場だった。

首長にフランス船セミラミス乗員のドローテル海軍技官が就任。横浜製鉄所に雇い入れたフランス人技術者は12名で、専門は、錬鉄、鋳造、製缶、木型、鑢鑿(りょろ:ヤスリ・ノミ)などで、横浜製鉄所では、輸入した鉄材を利用して、横須賀製鉄所で使用するヤスリやノミなどの工具類から、小型の蒸気機関などを製作。
そのプロセスで機械加工技術のイロハから伝授し、日本人職工を育成した。

横浜製鉄所の役割は、横須賀製鉄所を成功させるためのパイロット工場であり、横須賀工場が立ち上がって稼働を始めればその役割は終わる。

とはいえ、1865年当時、本格的な設備を備えた洋式工場としては、幕府が安政4(1857)年にオランダ人技術者を招いて長崎に作った造船施設「長崎鎔鉄所」があるだけで、江戸付近には皆無だった。

水戸藩が隅田川の河口に作った石川島造船所にしても、造船に必要な設備がそろっているわけではなく、その運営には苦労をしていた。

そこに、本格的な設備を備え、しかも最先端の技術を持った技術者が指導する工場ができたため、注文は殺到した。
船舶修理だけでなく、機械加工を行う設備と技術があったために、当初のねらいであった横須賀製鉄所用の工具や設備を作る一方、多くの依頼に応じて、さまざまなものを製作した。
  

横浜製鉄所の構内図。横浜の石川口にあったので横浜石川口製鉄所と名乗った(『石川島重工業株式会社108年史』より)

横浜製鉄所の図。石川口製鉄所となっているのは、明治12年に、平野富二が払い下げを受け、東京の石川島平野造船所(後の石川島播磨重工業)の分室(石川口製鉄所)と改名したため(神奈川県立博物館編『横濱銅板畫−文明開化の建築』有隣堂)。
   


■富岡製糸場の鉄水槽を製作
富岡製糸場の鉄水槽。繰糸用の水を蓄える鉄製の水槽。
富岡製糸場にある鉄水槽も、輸入鉄材を鋼板にし、パーツに分解して製作して現地に輸送、現地でリベット接合で仕上げたものだ。

富岡製糸場の繰糸機はフランスからの輸入したものだが、蒸気機関の補修部品なども横浜製鉄所で製作したと言われている。

横須賀製鉄所では、初期にいくつかの小型船を建造しているが、横浜製鉄所との間の器材の輸送に使った十馬力船の小型船舶用の蒸気機関はここで製作したものだ。
また、陸軍の野砲の修理などのように、各藩が輸入しながら持て余していた設備などの補修もここに持ち込まれた。

機械加工、工作の実力としては、大型艦船用の馬力の大きな、高圧の蒸気機関を製作する力はまだなく、やむなくフランスから輸入して何とか間に合わせていたが、比較的低圧のものであればなんとか製作できるようになっていた。富岡製糸場で使用した小型の蒸気が間もここで製作したと石川島播磨(株)の社史にある。

最大の課題は、製鉄所と言いながら鉄鋼を生産する能力も設備もなく、鉄材そのものは輸入に頼っていたことだった。

この状態はしばらく続き、幕末から鍋島藩や水戸藩、さらには幕府自身によって釜石での製鉄事業などが試みられていたが、いずれも小さな反射炉のレベルにとどまっていて、とても大型の艦船を建造するような鉄鋼を連続生産するに至らず、日本で本格的に高炉を使った鉄鋼の生産が行われるのは明治37(1904)年の八幡製鉄所での成功をまたねばならなかった。


(3)役目を終えて石川島平野造船所へ払い下げ
元治2(1865)年8月に創業した横浜製鉄所は、幕府が倒れた後、事業はそのまま明治新政府に引き継がれ、明治3年頃には日本人技術者も育ち、従業員160余名の大きな事業体になっていた。
しかし、明治4(1871)年になると、横須賀製鉄所の工場設備も整備されてきて次第に機能するようになり、横浜製鉄所は準備工場としての役割を終えてゆく。
同年4月には、横浜製鉄所は横浜製作所と改称され、翌明治5(1872)年、横浜製作所は横須賀製鉄所とともに海軍省の主管になり横浜製造所と改名、12月には横浜製鉄所は大蔵省の管轄へと変わり、民間への貸与が行われるようになる。

造船施設を持たない工場では、経営の見通しが立たなかったのである。

自前の営業をあきらめた横浜製造所は、その後、船舶修繕工場として郵便蒸気船会社、三菱会社などに貸し出されたが、最終的には、明治12(1879)年に平野富二が運営する石川島平野造船所に貸与され、横浜石川口製鉄所として存続することになった。

そして、設備等は東京・隅田川河口にあった石川島製鉄所に移され、明治20(1887)年には同社に払い下げられた。これによって、石川島造船所の設備環境は飛躍的に向上し、同社は民間のトップクラスの造船所となった。

当時の工場のあった石川島は、いまは住所標記で佃2丁目、もんじゃ焼きで知られる月島である。
●民営洋式造船所発祥の地の記念碑 佃島の石川島公園にある石川島平野造船所跡の記念碑。ここは、もともと水戸藩が造船所を建設したところで、IHIの創設者平野富二が払い下げを受けて石川島平野造船所と名付け、わが国初の民営洋式造船所として再スタートした。以来、石川島播磨重工業鰍ェ明治・大正・昭和と多くの軍艦・商船を世に送り出してきたが、昭和54(1979)年工場が移転し幕を閉じた。

(4)我が国初の石鹸工場
もう一つ、わが国初の石鹸工場も、この横浜製鉄所、横須賀製鉄所の流れの中から生まれた事業の一つである。

JR石川町南口の改札口を出ると目の前を中村川が流れる。
右に行くと、横浜元町の商店街にでるが、商店街とは逆、左(西)の方に、1.3キロほど行くと、右手に5つ目の橋「三吉橋」がかかっている。
三吉橋を渡った先には大衆演劇の三吉演芸場があり、その先は、横浜の黒門市場と称される、買い物客で混雑する横浜橋商店街だ。

商店街は帰りの楽しみにして、橋を渡ってすぐ右に折れて川沿いの道を東=駅の方向に少し戻ると、左に横浜市万世ポンプ場があるが、その手前「万世子供の遊び場」の入り口に「石鹸工場発祥の地」の碑が立っている。

明治6(1873)年、横浜の堤磯右衛門が洗濯石鹸の製造に成功し、日本最初の石鹸工場を建てたのがこのあたりだ。

堤磯右衛門は近くの磯子村に生まれ、幕府の横須賀製鉄所建設に際して工事監督を務めた。その際、現場で石鹸が使われているのを見てその効果を確認。フランス人カメラマンのボイルより石鹸製造のノウハウを教えられる。

調べてみると輸入額がかなりの金額にのぼっていることを知り、石鹸づくりの事業化を思い立って、三吉町4丁目に工場を建てて、製造を始めた。
その後、研究を重ねて化粧石鹸、香水、洗髪粉の開発に成功して事業を広げていった。やがて、商品の優秀性が認められるようになり、数々の博覧会などで受賞するようになっていく。

図の右上に記入されている円形のマークが博覧会などで受けた賞牌である。堤自身はこの後、インフルエンザで明治24年に倒れ、堤石鹸製造所も同26年には閉鎖された。
  

堤石鹸製造所。日本で初めて石鹸の製造を事業化した工場。明治15年頃の最盛期の姿である。中村川が運河として輸送に重要な役割を果たしていたことがよく分かる。(神奈川県立博物館編『横濱銅板畫−文明開化の建築』有隣堂)。

日本最初の石鹸工場発祥の地――堤磯右衛門石鹸製造所跡――明治6年日本で最初の石鹸製造所を創業。明治10年に第一回国内勧業博覧会で受賞し、事業を発展させた。

横浜橋商店街は、大阪・黒門市場と並び称される横浜を代表する商店街だ。毎日買い物客で活気にあふれている。
   









第6章
戦艦三笠と猿島――日露海戦を勝利に導いた旗艦と要塞の島


日本海海戦での旗艦「三笠」のマスト


(1)「天気晴朗なれど波高し」よみがえる三笠の雄姿

■三笠公園までのアプローチを楽しむ
明治38(1905)年、世界最強とうたわれたロシアのバルチック艦隊を破って列強を驚かせた日本海海戦。連合艦隊の旗艦として活躍したのが戦艦三笠である。

英国ヴィッカーズ社で明治35(1902)年に竣工した15,140トンの戦艦。往時をしのんで、横須賀三笠公園に保存されている三笠と、三笠沖1.7kmに浮かぶ東京湾要塞の「猿島」のレンガ造りの要塞跡を訪ねる。

京急線汐入駅を降りてどぶ板通りを真っ直ぐ進むと、大滝町の大通りに出る。

右に行けば5分ほどで京急横須賀中央駅に至るこの通りが、横須賀随一の賑やかな通りである。
逆に、横須賀中央駅を起点にするなら、改札口を出て左に大滝町の通りを7、8分進むとどぶ板通りの入り口(出口)に出てくる。

この交差点を国道16号に出て海の方にしばらく進むと「三笠公園」入口のアーチが見える。
正面に米軍基地の入口が見えるが、手前を右に折れてまっすぐ5分ほど進むと三笠公園だ。京急線の汐入駅から1.5km、横須賀中央駅から1.2kmほどの距離だ。

三笠公園入り口から三笠公園までの約300メートルほどの道は、遊歩道としてきれいに整備されている。
途中に、住友重工渇Y賀工場で昭和59(19854)年に建造された2代目の日本丸のマストを1/3に縮尺したモニュメントが置かれている。マストだけだが、帆を張った美しい姿が想像される。

この遊歩道をさらに進むと、花壇と疎水のある三笠公園に出る。
一帯は、花と水がベースになった海辺の公園になっており、音楽噴水などもあって日に何度か音楽に合わせて噴水が上がる。
夜にはライトアップされているので、夏の夕涼みにもいいだろう。

公園の中央に司令長官東郷平八郎の像が立っていて、背後の海べりには、三笠のネイビーカラーの雄姿と高く天に伸びるマストとが見える。
  

本町通に面した「三笠公園」への入り口。


笠公園入口を入ると、正面に米海軍基地の三笠口ゲートがある。
三笠公園への遊歩道に、世界に誇る高速帆船2代目日本丸(住友重工浦賀ドック製)の1/3サイズのマストがモニュメントとして飾られている。

遊歩道を進むとやがて遠くに三笠が見えてくる。

日本丸を紹介する説明版。
   


■「坂の上の雲」の世界
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読まれた方にとっては、戦艦「三笠」と聞けば、主人公の一人秋山真之の人生と重なって、ある感慨をもって思い出される名前ではないか。

日本が国際社会に登場する過程でおきた、ロシアとの清国・遼東半島をめぐる争いに端を発した日本海海戦で、司令長官東郷平八郎の巧みな戦術で、無敵といわれたロシア・バルチック艦隊を撃破した、その旗艦である。

勝利した日は、町には終日万歳三唱の声が絶えなかったという。
国民が戦いの結果をかたずをのんで見守り、日本の行く末を自身のことのように感じていた時代である。

三笠は英国ヴィッカート社のバロー=イン=ファーネス造船所で作られ、1902年に就役した。
全長131.7メートルで排水量15,140トン、最大速力は18ノット、乗員860名、主砲40口径30.5センチ連装砲2基4門、副砲40口径15.2センチ連装砲14門・・・。
当時の世界最高クラスの性能を誇る軍艦である。

戦艦「三笠」が記念館として保存されるようになったのは、大正14(1925)年。
進水以来25年、軍縮条約により廃艦・除籍された三笠が解体の危機に瀕したとき、国民の間から保存の声が上がり、横須賀に置かれた。

昭和33(1958)年、保存会が結成されて記念館として整備され、一般に公開されるようになった。
現在は、国の委託を受けて財団法人三笠記念館として保存・公開活動が展開されている。観覧料は600円(シニア500円)。ゆっくり見ても1時間、しばし明治に時代に戻って当時を思ってみるのもよい。

館内では、主砲の30センチ砲やその砲弾、15センチ砲が置かれた砲室、環境などをま近かで見られる。
三笠の艦橋に立って

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

と大本営に打った電文や、Z旗に込めた

「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」

を暗唱してみるのも悪くない。
  

三笠を背に、司令官東郷平八郎の像が立つ。

記念館三笠を海側から見たところ。

記念館「三笠」の配置図(「三笠保存会」案内より)

主砲の40口径30.5センチ連装砲。弾丸がすぐ横に置かれているが、重量400kgという重さで、装填の大変が分かる。

配置図に補助砲と書かれている8センチ砲、合計20門あった。

操舵室。

装甲艦橋と操舵機器。

艦橋からの眺め。ここに立って砲弾が飛び交うなか、東郷平八郎や秋山真之が指揮をとった。
   


■現存する唯一の戦艦
明治以来、海軍が建造・購入し、就役した艦船のほとんどが残されていない。廃船になった船は解体され、鉄材は再利用されるから残ることはない。

帝国海軍が誇る、史上最大の戦艦、大和(263m、69,000トン)や武蔵(263m、62,000トン)も、第二次大戦中に敵の攻撃を受けて沈没したまま、海の底に眠っている。

最近、武蔵が見つかったと報告されているが、海中の遺跡として、簡単に引き上げることはできないのだ。

また、大和の前の、フラグシップだった長門(225m、39,120トン)は、沈没せずに終戦まで生き残ったが、戦後、米国に接収されて、1946年ビキニ環礁で行われた核爆発の実験「クロスロード作戦」の標的として使われ、第2回目の核実験を受け7月29日に沈没した。

記念館「三笠」は、残されている唯一の帝国海軍時代の戦艦であり、貴重な資料でもあるのだ。

残念ながら、主砲、副砲は、除籍する時点で取り外されたので、現在、装備されているものはすべてレプリカだが、三笠艦上で見る限りそれをほとんど感じない。
なにより、その質感・重量感に圧倒される。

砲室のハンモックの様子などを見ると、砲の横で寝起きした砲兵の思いなどが伝わってくるようだ。これはぜひ一度見ておきたい。

砲室と書かれている部屋にある15センチ(6インチ)速射砲。この砲室にハンモックをつって10名の砲手がここで寝起きを共にしていた。


(2) 猿島――東京湾に浮かぶ要塞

■ 三笠桟橋から10分の遊覧船
猿島は、東京湾に浮かぶ最大の自然島である。三笠公園の沖合1.75kmに位置する周囲約1.6kmの小さな無人島だ。現在は全島が猿島公園として横須賀市が管理している。

近年は、島内散策や釣りの穴場として人気もあり、発着場周辺に残るわずかな砂浜を利用して海水浴もでき、バーベキューの器材もレンタルで楽しめることから家族連れや、若い人たちのグループでにぎわっている。

この猿島へ渡航する遊覧船は、記念館「三笠」のすぐ裏にある三笠桟橋から出ている。
記念館三笠のすぐ裏に案内所があり、猿島への入園料(200円)を払って猿島への往復チケット(大人一人1,400円)を購入しよう。
猿島への渡航時刻表は、8:30〜16:30まで1時間ごとに、猿島からは09:45〜17:00まで1時間ごと。

猿島までは所要時間は10分ほどで、島の発着場は島に唯一ある砂浜。
食材と調味料、食器を持参すれば、対岸の横須賀の街を遠くに眺めながらバーベキューが楽しめるので、海風に吹かれてのBBQの意外な穴場かも。
webページが<a href="http://www.tryangle-web.co.jp/sarushima/">ここにある。
  

遊覧船。所要時間は10分ほど。湾内なので、波も穏やかで、船酔いの心配はない。




猿島。終戦までは、東京湾・首都圏保護の拠点であり、軍の要塞があったので、渡航が禁止されていた。いまは、緑豊かな公園として整備されている。
   


■整備されて現代によみがえる要塞
猿島は、幕末から第二次大戦前まで、東京湾と首都防衛のための拠点だった。
弘化4(1847)年、幕府により江戸湾防衛のための台場が設けられたのが最初だ。

長崎に出入りしているオランダから外国の船が日本周辺で様子をうかがっているとの情報を得て、江戸湾に入ってくる外国船への防衛策だったが、そのための十分な火力を持った武器もなく、黒船の江戸湾奥への入船も阻止することもできないありさまだった。

明治に入ると首都防衛の必要性がさらに高まり、陸軍省・海軍省の所管となって、本格的な砲台が構築された。
小高い丘を切り開き、岩盤を削ってトンネルを掘り、煉瓦で覆った兵舎や弾薬庫などをつくって、本格的な要塞を作り上げた。

しかしながら、この猿島要塞は一度も実戦を経験することなく、終戦を迎えている。

戦後は米軍に接収されたが、渡航は可能になり、海水浴などに利用された。
長い間、放置されている状態が続き、平成7(1995)年に横須賀市が大蔵省から委託を受けて管理するようになって、要塞の施設も含めて公園として整備された。

平成15(2003)年に、横須賀市に譲渡されたのを機に、横須賀市が猿島公園として整備した。現在は、案内をするボランティア・ガイドもいて、人気の観光地になっている。

島全体の管理事務所は発着場近くの砂浜にある。季節によって売店(7-9月)、レストラン「オーシャンズキッチン(7月中旬〜8月末)、BBQのレンタルショップなども営業しているが、ほかには売店なども何もないので、音連れ瑠際は、必要な飲料などはしっかり用意していった方がいい。 詳細は、WEBページで事前に調べておこう。
  

猿島内の地図。

要塞の案内図。道はしっかり整備されており、案内板もしっかりしているので初めてでも大丈夫。
島内探索の道は遊歩道として整備されている。ハイヒールは避けてスニーカーで1時間ほどの散歩を楽しみたい。

渡船の発着場。砂浜は、海水浴、。バーベキューに使われる。BBQの道具は、カセットなど島内は持ち込み禁止なので、レンタルできる。
   


■要塞の中を散策する
島内散歩のスタートは管理事務所から。すぐ裏に、明治時代につくられた発電所がある。もちろん島内用だ。

この横の道を上っていくと、切り通しに出る。右に壁をくりぬいてレンガをはめた兵舎跡や弾薬庫が見える。中もきれいに整備されているが、入るには事前の申込みが必要だ。

兵舎の上には階段が付けられていて、かつては砲台があったがいまは藪の中だ。

この要塞で多くの兵士が生活をしており、トイレも風呂もあった。写真はトイレの跡である。

感心するのは、兵舎や弾薬庫の出入り口や窓の装飾、上部アーチなどがていねいに作られていること。軍施設であるが故の、張り詰めた気持ちを癒そうとしたものだろう。

切り通しはトンネルに続き、トンネルの中にも、弾薬庫など施設がつくられていた。
トンネルを抜けて少し登ると、砲台跡があちこちにある。

いまは木々が茂って島外への見通しはあまり良くないが、この茂みを、隠れ蓑として利用すれば、要塞としては悪くない環境にあるのだろう。

帰りがけに寄った管理事務所近くの広場には三角点があった。
ぐるっと島内を一周すると、およそ1時間。
帰りの渡船は1時間おきなので時間を調整し、適当に休憩を入れながら余裕を見て回ると2時間は必要か。

古びて苔むした、緑に囲まれた道は気持ちよく、草いきれを吸いながらの散歩は日ごろの疲れも癒される。
  

発電所。蒸気機関を利用した発電機がある。ここから電力を供給していた。

兵舎あと。中もきちんと整備されているが、事前に申し込まないと見学できない。

弾薬庫。ここも中はきれいに整備されている。

砲台に上る階段。使われることがないのだろう苔むして朽ちている。
トイレ跡。兵舎・弾薬庫の向かいにある。切り通しは廊下の感覚だったのだろう。

2つのトンネル。きれいに整備されていて崩壊の危険はない。

砲台跡。



三角点。金属票に「4等三角点 運輸省横須賀港」と表示されている。四等三角点とは2km間隔で設置する三角点で、全国に69,000点ある。
   


■ポートマーケット
猿島から戻り、三笠桟橋に着いたら、帰りに横須賀の海産物などを買っていこう。
お土産をゲットするなら、桟橋の近くにあるポートマーケットがおすすめだ。

桟橋を出て左に海沿いに200メートルほど行くと右に大きな建物が見える。
「Yokosuka Port Market旬産旬消」と書かれている。広い駐車場には何台かの観光バスも駐車している。

広い店内には、横須賀の海で取れた新鮮な魚介類をおく横須賀市漁港直営のお店や、佐島漁港直営店、長井漁港や三崎マグロの問屋直営店などの魚介類の他に、葉山牛や地元の野菜、海軍カレーのお土産パック、地元の菓子・・・など、新鮮な材料や食品が店内一杯に並べられている。ゆっくり試食しながら、選ぶのもいい。

また、建物の外側には、飲食店が並び、ジェラートや地元野菜を使った一口ピザ、佐島漁港直営の飲食店「なぶら」、和洋中の「WORLD KITCHEN」があるので、ここで食事をすることもできる。横須賀の名物グルメを楽しもう。
  

横須賀のグルメを楽しめる「Yokosuka Port Market旬産旬消」。駐車場も広いので、ここに車を止めて猿島へ渡るのもありかもしれない。

飲食店も併設されているので、食事も可能だ。



店内には、漁協の直営店が朝獲れの鮮魚を並べている。
   









第7章
浦賀ドック――世界でも希少遺産の2つのレンガドック


浦賀ドック


(1)浦賀はドックの街

■世界に5基しかないレンガドック遺産
開国とともに政府は、浦賀に流れる長川の河口に造船施設をつくり、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。
1860年に太平洋を横断した咸臨丸を出発前に修理したのもここだ。

その後、ここに大きなドックが作られ浦賀ドックとして親しまれた。2003年に稼働を停止した巨大なクレーンが残るレンガドックは、いま再開発が進もうとしている。

あまり知られていないが、浦賀には貴重なドックが2つ残されている。
一つが浦賀駅前の住友重機械工業のドック、もう一つが浦賀湾口にある川間ドックである。

どちらもいまは使われていないが、明治30年頃につくられたもので、

●オランダ・アムステルダム郊外のデン・ヘルダーの2基
●ロッテルダムヘルフースルイス郊外の1基

とともに、世界に5つしか残されていないレンガ造りのドックの中の2つなのである。

レンガドックは、歴史のなかである時期しか作られなかった世界的にも貴重な産業遺産で、オランダの3基は再開発されて、博物館として整理・保存・公開されているが、浦賀の2つは手つかずの状態だ。

とはいえ、実はどちらも見ることができる。これを見逃す手はない。今のうちである。

三崎や城ケ島、観音崎、久里浜の東京湾フェリーなどに行く際には、ぜひ寄ってみたい。

アクセスは京急線の浦賀駅から。
品川から快速特急を利用して1時間弱、京急本線の終点だ。京急線は、久里浜線ではなく、こちらが本線だという所に、浦賀の歴史が感じられる。

駅を降りると、目の前のV字型に伸びる2本の道路に挟まれて工場が見える。
これが通称浦賀ドック、住友重機械工業渇Y賀造船所である。

造船所としては平成15(2003)年3月末日をもって閉鎖されたが、この地は、嘉永6(1853)年に幕府によって造船所がつくられ、渡米前の咸臨丸が修理を受けた、造船史に欠かすことのできない由緒ある場所なのだ。

浦賀駅を起点に、住友重工のレンガドックと造船台、さらに川間ドック、江戸時代の灯台である燈明堂を訪ねてみよう。
途中、駅から浦賀の歴史を味わいながら順に歩いても、片道3kmほどの道のりだ。
  

浦賀駅前。V字に走る道路の間に住友重機械工業椛「船所、通称浦賀ドックがある。

造船所前の歩道にはめられた咸臨丸のレリーフ・タイル。
   


■武士と町人が喧嘩――浦賀の二つのドックで
そもそもどうして浦賀に2つのレンガドックが作られたのか、いきさつを見てみよう。
浦賀は東京湾への入口に位置する海洋輸送の要衝である。

享保5(1720)年には、江戸湾に出入りする船の積み荷を改めるために浦賀に奉行をおき、船番所を設けて積み荷を改めた。

開国後、幕府は自ら戦艦の建造をめざして、嘉永6(1853)年に浦賀湾にそそぐ長川河口にドックを作り、浦賀奉行与力の中島三郎助らに洋式帆船の軍艦鳳凰丸を作らせた。
万延元(1860)年にアメリカへ出港前の咸臨丸を修理したのもこのドックだった。

しかし、明治9(1876)年になると、幕府が横須賀製鉄所を建設したことから、この造船所は役目を終え、閉鎖されてしまった。

明治も中頃になると、産業も徐々に起こり、輸送を担う船舶への需要も急増し、民間資本で造船事業を行おうという動きも生まれてくる。

東京湾口というロケーションの良さに目をつけて、浦賀への造船所建設を目指したのが、渋沢栄一が中心になった石川島造船所と、農商務大臣などを務めた榎本武揚らの2つのグループである。

石川島造船所は明治28(1895)年、浦賀分工場を設立して川間にドックを造り、31年から営業を開始する。
一方、榎本武揚らのグループも浦賀船渠鰍興して明治32(1899)年にドックを完成させる。

こうして2社がほぼ同時期に、競うように浦賀に造船所を造るのをみて、明治28年3月8日の国民新聞も、さあ、どっちが勝つかとはやし、「浦賀に二大船渠、武士と町人喧嘩」と揶揄している。

結局この勝負、いざ営業を始めてみると、ダンピング合戦になって、両社とも営業的に立ちいかなくなり、明治35年浦賀船渠(後の住重)が石川島造船所を買収することで、決着がついた。

浦賀は、細長い湾を挟んでV字に発展した町だ。幕末に湾に流れ込む川の河口をせき止めて、掘削しドックをつくった。その後、明治30年頃に、石川島造船所と浦賀船渠という2つの会社が競ってレンガドックを作った。いま、湾口近くの川間と、浦賀ドックの2つのドックが残されている。


(2) 歴史を物語るレンガづくりドック

■浦賀船渠=住友重工業浦賀造船所
以後、浦賀船渠鰍ヘ、住友重機械工業と社名を変えるが、通称、浦賀ドックとして地元に根を下ろして事業を展開してきた。

平成15年に工場は閉鎖してしまったが、数々の駆逐艦や帆船の海王丸、2代目日本丸、さらには石油タンカーなど、1000隻以上の船舶を建造してきたこの造船所は日本の造船史に欠かすことができない輝かしい歴史を持っている。

造船事業そのものは、新工場を横浜市夏島に建設し、機材を移して稼働中だが、浦賀ドックの敷地内は建屋も含めてほとんど手つかずで残されている。
中を見学する機会は、年に一度開催される公開行事「咸臨丸フェスティバル」や「中島三郎助まつり」、不定期に開催される見学会しかないのだが、実は貴重なドックなどは外から見ることができるようになっているのだ。

京急浦賀駅から浦賀ドックに沿って右(西)の道路を700メートルほど行くと工場入口がある。
ドックの歴史が書かれた看板があるので、これを一読して先に進もう。

しばらく行くと、塀が低くなっていて、タワークレーンが見えてくる。中を覗くとドックが目の前に見えるのだ。

しばらく行くと、今度は塀が金網になっていて、工場をバックにクレーン2基が見える。
中にははいれませんので、外から見てください、という工場のイキな計らいであろう。住重さんやるではないか。

現在、この一帯を再開発するとの話もある。レンガドック、造船台を含めて公開・保存されることを期待したい。
 

浦賀ドックの来歴が紹介されているボードが工場入り口に提示されている。

工場の塀越しに中のドックの様子が見える。

工場をバックにした2基のクレーン。建屋の手前に1号ドライドックが、建屋の向こう側に造船台がある。
   


■115年の歴史――浦賀ドックの1号レンガドック
浦賀ドックの広い敷地の中には、長さ150メートルの造船台、148メートルの1号ドライドック、クレーン、ポンプ室、巻き上げ用のウインチ、機関工場などが残されている。

1号ドックは、明治32(1899)年に作られたもので、長さは148m、幅20m、深さ8.4m。修船用のレンガ造りのドライドックである。
オランダ人技師デ・レーケの基本設計、ドイツ人技師ボーケルの指導で杉浦栄次郎が築造した。杉浦は、横須賀製鉄所でドック作りを学んだ技術者の一人だ。

レンガの積み方は、一段に長手小口長手小口・・・と交互に積み、それを段ごとにずらして積むフランス積みである。
レンガは110年の稼働を経て老朽化し、色はくすんで見えるが、きれいに洗浄すれば鮮やかな色によみがえりそうだ。

ドックには船舶をウインチで引き入れるが、そのためのウインチがゲートの左右に各1基ある。
船が入った後、船をドックの底に置かれた台の上にセンターを合わせて正確に誘導するため、先端部の左右に各1基、中央部分に1基の合計5基が設置されている。

クレーンはドックの左右に2台あって、1基は7トンのジブクレーン、もう1基は「石川島 昭和18年 20T」の銘鈑が付いたタワークレーン。
タワークレーンは上部は取り外されて、近くに置かれている。

クレーンは、ドックに沿って動くようにレールの上に載せられている。
設置以来70年を経過して風化し、さびてはいるが、手入れしてペンキを塗り直せば、ジブクレーンとともに、見事なモニュメントになりそうだ。
ドックと2台のクレーン、どちらもその雄姿を見せてくれる日が近いことを期待したい。
  

設備が搬出された機関工場では、イベントの際にコンサートなども行われている。

設備が搬出された機関工場では、イベントの際にコンサートなども行われている。

ドックと2基のクレーン。左端にブルーのウインチが見える。

ドックの先端部分。Rが付けられて丸くなっている。

ドックの壁面。きれいに5段の階段状になっている。

ドックの向こうに工場建屋が見える。中央に見える建物がポンプ小屋で、小屋の右手前にブルーのウインチが見える。

20トンのタワークレーン。レールの上に載っている。

外されて横に置かれているタワークレーンのブーム。
   


■115メートルの造船台
浦賀橋梁のもう一つの目玉は、1号レンガドックに1年遅れて明治33(1900)年10月に完成した全長380尺(115メートル)のコンクリート造り造船台だ。

造船台とは、斜面上のレールを海の中に引き込み、海水を遮蔽するゲートをつけてポンプで海水を排出できるようにしたもので、造船工場の設備としてはこちらがエースだ。

大きな船を作る手順は、

@受注・設計から
A資材を発注し
B鋼材を加工し
C船体を溶接して組み立て
D進水させ
E艤装用岸壁に移して必要な機材を艤装し
F海上試運転後の完成

・・・となるが、この工程で、C→Dを担当するのが造船台である。

造船台のレールの上で船体を作り、できたところでゲートを開けて海水を入れ、斜面を滑り下ろして進水させる。

船体ができたら、艤装用の埠頭に接岸して内装や上部を完成させる。
経営的に見れば、ドック・造船台の稼働率をいかに上げるかが課題になるので、こうした造船手順で進められる。
この造船台で数々の戦艦が作られてきた。

浦賀ドックは海軍工廠からの依頼で明治40(1907)年7月に駆逐艦「長月」を、9月に「菊月」(ともに長さ69m、381重量トン)を建造して以来、駆逐艦づくりでは定評のある造船所として、第二次大戦が終わるまで多くの駆逐艦を建造してきた。

造船台の大きさが115mしかないために、小型の駆逐艦向きなのである。

その後、第5船台までつくり、第2船台が最大226mまで延長された。
戦後には、船台のサイズをこえる大型のタンカーも建造しているが、一度には作れないので、前後2つに分けて作り、後で合体するという離れ業も行ったそうだ。

大型船を建造中の造船台はそびえるような大きさで壮観だ。
塀の外からも見え、浦賀の住民たちも、毎日のように、どこまで完成したかと楽しみに眺めていたという。

浦賀の街は、町ぐるみが浦賀ドックとともに生活を営んでいた。

建造中の造船台 大型船を建造中の造船台。そびえるような大きさで壮観だ。塀の外からも見え、浦賀の住民たちも、毎日のように、どこまで完成したかと楽しみに眺めていたという。まさに町ぐるみが造船とともに生活を営んでいた(『レンガドックかわら版』第7号より)
  

造船台の下半分。海面の高さはゲートを支える支柱の上部あたりだ。

造船台のゲート。

造船台の上半分。左の工場建屋の前までつながっている。
   


(3) 川間ドック

■マリーナに残る日本初のレンガドック
浦賀の街は、湾を挟んで東西が対峙している。
駅からV字の右(西)の道を浦賀ドックに沿って進むと、浦賀ドックの先に、東西浦賀を結ぶ庶民の足、渡し船乗船場がある。

そこからさらにかつての「うらが道」を先に行けば、やがて左手にヨットハーバーCity Marina Velasis が見えてくる。
ここまで駅から約2km。道路に沿って入口があり、奥に事務所棟と、係留されたヨットが見えてくるので、事務所棟に行って受付で「レンガドックを拝見させてください」とお断りして中に入れてもらおう。

事務棟のすぐ右隣がドックなので、事務所に入る前に、ちらとドックを覗くことができるが、あくまでも私有地なので、まずは事務所にお断りするのが筋だ。
許可をいただいたら、事務所棟をまっすぐ抜けて係留場に出る。

桟橋に下りると眼の前にドックが満々と水をたたえている。
ドライドックだが、ゲートが取り払われているので、海水が入っているのである。ドックの底は水の中で見えない。

長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7m。水面に浮かんだ桟橋から見ると、大きさが実感される。整然と組み上げられたレンガがきれいだ。

建造されて115年も経ているとは信じられないくらいしっかりしていて汚れも少ない。ヨットハーバーの付帯施設として使われているのだからそれなりのメンテナンスもされているのだろう。
  

川間ドックのあるマリーナ入り口。奥の建物が事務所棟だ。

全長136.7メートル。ゲートが取り外されているので海水が入っている。

ゲートの外はそのままヨットハーバーにつながっている。
   


■残したい第一級の文化財遺跡
このドックは明治31年に日本で初めてつくられたレンガドックだが、設計・築造したのは、横須賀製鉄所で学んだ恒川柳作や大倉粂馬、山崎鉉次郎ら。
日本人による初のレンガドックである。

ドックの形は、先頭部分が丸くなっていて浦賀ドックとほぼ同じだが、煉瓦の積み方が少し異なる。
こちらはイギリス積みによく似たオランダ積みである。長手だけの段と小口だけの段を交互に積むのはイギリス積みと同じだが、長手段の端で七五(レンガの長手方向の長さを3/4にしたもの)を用るのがオランダ流である。

不思議なのは、横須賀製鉄所の官費性としてフランス式の造船学を学んだ恒川柳作らが、なぜオランダ積みを選択したのかということだが、どうやら真相は、当時は、フランスでもオランダ積みをはじめ、様々は積み方が行われていたということのようだ。フランスではフランス積みばかりというわけではなさそうだ。

浦賀ドックと川間ドック、どちらのレンガドックも、オランダのものと比べると深さが大きい。
<全長-深さ>でみると、オランダの3基は157-7、90-6.5、120-8で、川間136.7-9.7、浦賀148-8.4だ。

これは、オランダのドックが1806年〜66年に作られたのに比べて、日本の2つは1898年、99年で、この間に船舶技術が発達して木造の帆船から鉄鋼の蒸気船へと変化しており、鋼鉄船の喫水が深いためにドックの水深が深くなっているのだ。

日本製の2つのレンガドック、産業遺跡としても第一級の文化財で、一見の価値がある。こちらも、産業文化財として整備・保存・公開されることを期待したい。
  

時代を経て老朽化しているが、まだしっかりしている。

レンガの積み方はオランダ積みが良く見える。

水中に続く階段。ここの階段は浦賀ドックに比べると段差が高い。
   


  (3)浦賀・燈明台と庶民の足・渡船

■江戸湾への航路を照らした和式灯台・燈明堂
川間ドックから、さらに先に進むと、うらが道は久里浜に行く分岐点に出る。
右に行けばトンネルを経て久里浜まで3km、この分岐点を左に進むと、約1kmほどで、江戸時代の灯台を復元した燈明堂のある燈明崎に行く。燈明崎には駐車場もあるので車でもいける。

小型船舶しか建造三は許されていないにしても、物資輸送の効率化に船舶は不可欠である。江戸時代でも、東京湾の入口に位置した浦賀は、船輸送の頸動脈である。浦賀湾の入り口に燈明堂がつくられたのは慶安元(1648)年のことだ。
家康が関が原の合戦で勝利すると大阪に代わって江戸に幕府がうつされ、全国から人や物資が江戸に集まるようになった。
輸送には船が使われるが、東京湾の入り口、浦賀水道は潮流も早く、船頭にとっては頭痛の難所だった。

夜間の航路の安全も問題になり、こうして作られたのが和式の灯台・燈明堂である。
その後、幾度かの改築が行われているが、安政元(1854)年の安政東海地震後に再建された燈明堂が、平成元(1989)年に復元された。

構造は、高さ7.3メートル、石づくりの土台の上に木造2層の建物。
上層は、四面に銅製の網が張られ鉄骨製の障子が嵌め込まれていたという。
内部には燈明皿が置かれており、油を燃やすことで明かりをともしていて、菜種油などを燃やす明るさは、遠く房総半島からも確認できたという。
堂内には堂守が常駐して明かりの管理をしていたそうだ。

ペリーもこの燈明堂の明かりを目安に航路を設定したと言われているが、1866年にアメリカ等と結んだ条約で、洋式の灯台を設置することがうたわれ、明治2(1869)年、ヴェルニーによって観音崎灯台が設置されたことで、燈明堂の役目は終了した。
  


東京湾に臨む燈明堂。遠くの房総半島からも明かりが見えたという。

木造2層の建物で、高さは7.3メートル。

この一帯はかつては浦賀奉行(船奉行)の処刑場だったとかで、供養塔が建てられている。
   


■209年続く渡し船――海の上の市道
浦賀駅からここに来るまでのちょうど真ん中あたりに、湾の対岸とむすぶ渡船の乗り場がある。
享保5(1720)年に浦賀奉行が西浦賀に置かれると、「船番所」も作られ、浦賀湾は船改めを受ける船があふれ、町には人も集まって大いに栄えたという。

しかし、東西に分かれた浦賀の町は、間に深く切れ込んだ湾が邪魔をして、わずか300メートルほどの対岸に行くために、湾をぐるっと3kmほど歩かなければならなかった。

そこで、享保10(1725)年、東-西浦賀の間を行き来する渡船が設けられた。
以来290年、通勤や日常生活に欠かせない交通として変わらずに運行されてきた。

実はこの渡船、現在は民間に委託されて運営されているが、唯一の横須賀市営の交通機関で、この航路は「浦賀海道」と名付けられ、2073号線として登録されているれっきとした海の上の市道なのである。

渡船場は、東叶神社と西叶神社の近くにあり、どちらにも、レトロな待合室が設けられている。いまは機械船になっているが、昭和30年ころまでは櫓を使った手漕ぎの船だった。

渡船料金は1回150円、中学生以下、自転車は50円である。
東西間の距離は400メートルほどで、所要時間は10分弱。4.8トン定員13人(船員1人、旅客12人)の愛宕丸が1隻でピストン輸送していて、渡船場入り口に呼び出しボタンがあって、愛宕丸が対岸にいる時にはボタンを押すと迎えに来てくれる。

運行時間は毎日7:00〜18:00頃まで、時刻表はなく、客があれば運行し、いなければ、どちらかで客待ちをしている。
  

船番所跡

横須賀市営の渡し船「愛宕丸」。対岸との距離は目と鼻の先だ。

渡船料金は150円。中学生、自転車は50円。

西浦賀の待合所

東浦賀の渡船場から見た対岸の西浦賀
   


■帆布の専門店
浦賀は、鋭く切り込んだ狭い湾の両側に家が広がる町だが、湾口近くの両側にヨットハーバーがある。
ヨットと言えば、帆が不可欠だが、浦賀ドックの東浦賀の出入り口近くにおすすめめのお店がある。帆布の専門店「三浦屋」である。

浦賀ドック−燈明堂−川間ドックと見学した後は、西叶神社に戻ってお参りし、渡し船で東浦賀へ。
渡船場から、歩いて愛宕山に登り、浦賀駅に戻る道の途中で、帆布製品を覗いてみるのも悪くない。気に入ったものが見つかるかもしれない。

帆布(カンバス)を利用したオリジナル製品を並べて、なかなかの人気だ。
専門は船具や設備などを覆うカンバスのカバーづくりだが、カンバス素材を使って作る手作りバッグや小物が人気なのだ。

店内にはたくさんのユニークなかわいいバッグが並べられている。シンプルな布地を活かしたカラフルな手作りバッグはどれも魅力的で、しかも価格はリーズナブル。
ちょっと手に取ってみたくなる。自分使いにも、お土産にも最適だ。
  

西浦賀の渡船場近くにある西叶神社。東浦賀に東叶神社がある。春秋2期の大祭は、盛大に行われる。

西浦賀にある帆布専門店「三浦屋」。創業天保6(1835)年という老舗で、本業はもちろん帆布を使ったカバーなど各種製品。軽さが特徴の綿帆布のオリジナル・トートバッグなどが並ぶ。見ていると欲しくなる。

三浦屋バッグ すべてオリジナル製作の帆布バッグ。数千円と価格もリーズナブルで人気だ。
   








第8章
観音崎灯台――日本初の洋式灯台


東京湾の入り口を見下ろす観音崎灯台


(1) 観音崎灯台――外国から求められた灯台づくり

■日本にできた洋式灯台の第1号
開国とともにやって来る外国船にとって大きな問題は、流れの速い東京湾入口の狭い航路で、夜間に正確な位置を知りたいということだった。そのため灯台の建設が求められていた。

日本で初めて洋式灯台が建設されたのは、明治2年1月1日。浦賀水道を望む観音崎に横須賀製鉄所の技師ヴェルニーとフロランによる煉瓦と石灰の白塗装の灯台だった。

作られた当時の観音崎灯台は、高さ19メートルでコンクリート造りの8角形。海から40m弱の丘の上にある日本初の洋式灯台だった。
この灯台は、いま日本の灯台50選に選ばれている。

観音崎灯台に行くには、車で国道16号線を下ればいいが、バスならばJR横須賀駅か、京急線の汐入、横須賀中央から観音崎行きバスを利用するのが便利だ。
あるいは逆に、浦賀から観音崎行きのバスでもいい。終点の観音崎一帯は神奈川県立公園になっている。

灯台まで高さ40m弱、海沿いの遊歩道と山道を、30分ほど歩くことになる。途中、砲台の跡もあるので、ウォーキング気分で時間をかけて楽しむといいかもしれない。

1859年に横浜が開港してどっと押し寄せた外国船にとって、最大の課題は房総半島との間わずか6.9km、流れの速い東京湾の入口をどうしたら安全に抜けられるかということだった。
海底は岩が複雑な地形を生み出している。特に視界のきかない夜間が大問題で、灯台の設置が切望されていた。

首都防衛から言えば、この東京湾入り口の海底の地形は極秘である。明らかになれば、攻め入る側はその地形を利用してひそかに潜水艦を侵入させることができる。また、船舶を沈没させて、東京湾への出入りを防ぐことができる。戦略上の重要な情報なのである。

こうした中で、慶応2(1866)年、米英蘭仏各国と結んだ江戸条約(改税条約)では、観音崎・剣崎(三浦半島)、野島崎(房総半島)など、全国8か所への灯台設置が条件にされた。
便利にすれば侵入されやすい、不便のままにすれば侵入を防げるが、交易は伸びない。幕府内の議論にはまだそうしたジレンマもあったが、内向き志向の古い基準を捨てる世界の流れは止められなかった。

おりから幕府は、横須賀製鉄所を建設中で、建築資材としてレンガを作っており、横須賀製鉄所のヴェルニーやフロランによって、このレンガを使用した洋式灯台の設置が進められた。

こうして、最初に作られたのが、東京湾入り口の両側に位置する観音崎灯台(1869年)と、野島崎灯台(1870年)だった。
  

観音崎は太平洋から東京湾に入る、入り口の高台に位置している。はるか洋上からも見通しがきき、灯台には絶好のロケーションである。

観音崎灯台の案内板



現在の光源とレンズ。4等フレネルレンズで、群閃白光、7.5秒ごとに閃光、77,000燭光の明るさで、光達距離は19カイリ(約35km)。

観音崎灯台。現在の灯台は3代目で大正14(1925)年に作られたコンクリート製。参観料:中学生以上200円。小学生以下無料。
   


■フランス製レンズで光達距離26km
最初に建設された観音崎灯台は、高さ12.12メートルの四角形のレンガ造り洋館で、標高40メートルの高台にあった(海面から52m)。

フランス製3等フレネル式レンズを輸入し、光源には3重心灯器を使用し、燃料は清国製の落花生のオイル、実効光度は1,750燭光で、光達距離は17カイリ(31.5km)だった。
建設工事が着工されたのが明治元(1868)年11月1日で、わが国ではこの日を「灯台記念日」としている。

太平洋を渡ってくる船舶から見ると、房総半島の突端にある野島崎灯台が最初に目に入る。
そのため、野島崎灯台が3-4倍強い光量で遠くから来る船舶に東京湾の位置を知らせ、観音崎の灯台が東京湾内、浦賀水道の航路を知らせるという分担になっている。

灯台の光源は点滅することが必要で、分銅の重さでロープを引っ張り、重力を利用してレンズを回転させていた。
燈台守は、夜間に光を点滅させるために、分銅を2時間おきに巻き上げねばならず、重労働であった。
当初はメンテナンスもあり、管理はフランス人技術者によって行われ、その後、イギリス人に引き継がれた。

観音崎灯台は、この後、関東大震災など、いくどか地震に見舞われて被害に遭い、現在のものは関東大震災後の大正14(1925)年に再建された3代目。

観音崎公園のバス停付近は、海べりが遊歩道になっていて散歩を楽しめる。潮風に吹かれながらのんびり歩くのも悪くない。

突端から走水までボードウォークが作られていて、海水浴場や横須賀美術館、走水まで海際を散歩することができる。
  

明治2(1869)年2月11日(旧暦1月1日)に完成した観音崎灯台は、レンガ造りの四角い洋館だった(「日仏文化交流写真集・第1集」駿河台出版社刊より)。

建設中の観音崎灯台 完成間近の観音崎灯台(1869年1月29日)。手前は灯台守の宿舎(「日仏文化交流写真集・第1集」駿河台出版社刊より)。

分銅の重さでロープを引っ張り、レンズを回転させる装置。上についているウォームギアがロープが引かれる力をレンズの回転に変えている。

観音崎灯台に使われたレンガ。64,000個で作られた。レンガはすべて横須賀製鉄所で焼いたもの。野島崎、城ケ島、品川灯台にも使われた。

県立公園観音崎公園の地図。観音崎公園HPより

観音崎付近の渚沿いのボードウォーク。
   


(2)観音崎砲台跡

■東京湾・首都防衛の拠点
観音崎灯台へ登る道の途中に、かつての砲台跡があるので、覗いてみよう。
観音崎付近一帯は、江戸時代後期、文化9(1812)年、幕府の命で会津藩が台場を築いたところである。

浦賀水道を見下ろす高台からは、湾内を通過する船舶が良く見える。
絶好の監視ポイントだが、実は、ここに築いた台場から、沖を行く戦艦に砲弾を発射しても、当時保有していた大砲では届かなかったという笑い話のような記録もある。

その後、明治14年になって軍が管理する要塞となり、以後、第二次大戦が終わるまで、首都防衛の拠点として猿島同様に砲台が整備されたが、そうした砲台跡が残されている。

灯台周辺にある砲台跡で、立ち寄ってみたのは、北門第2砲台跡、北門第3砲台跡の2か所。砲が外され、草生えた砲台跡は、兵どもが夢の跡である。

この観音崎灯台の周辺一帯は県立公園になっていて、谷内六郎の作品がある横浜市立美術館や海と山の自然を紹介した観音崎自然博物館などがあり、子供が楽しめるアスレチック遊具などもたくさんあるので、家族連れで楽しめる。

灯台近くには、湾内を航行する船舶の安全を見守る海上保安庁の東京湾海上交通センターもある。
湾内を航行する船舶に対して、レーダー、カメラなどで把握した安全情報を提供している所だ。

一般には知られていないが、東京湾の入り口は、水深が浅く、流れが速く、フェリーも横切るという、航行上の規制もいろいろある難所でもあるのだ。
  

北門第2砲台跡の入り口。


北門第2砲台跡に上がったところ。第3海保との間に来た戦艦を攻撃し、通行を阻止する。

北門第3砲台跡で、こちらはもう少し東南方向の浦賀方面を攻撃し侵入を阻止する。


第3砲台に装備された28サンチ榴弾砲。榴弾砲砲身が短く、上向きに発射し頭上から敵艦の甲板を打ち抜くのに適した砲弾。

観音崎灯台と砲台を結ぶ切り通し道とトンネル。
   


(3)走水水源地・横須賀美術館

■ロシア機雷が奉納されている走水神社
ここから、少し海べりの道をたどって横須賀方面に向かい、走水の水源地を訪ねてみよう。
横須賀製鉄所を作ったときに、工場用水と飲料水が必要になり、ヴェルニーらが探し求めてたどりついたのが、よい水が沸くと評判の走水だった。
観音崎から距離はおよそ2.2km、散歩がてら歩いても30分ほどだ。

観音崎から横須賀美術館前を通って走水の防衛大学の海上訓練場までボードウォークが作られ、海辺を行くことができる。

海に向かって開けた眺望がすばらしく、美術館でも多くの人がこの光景を楽しんでいる。カフェのアクアマーレもあるので、美術館で作品を鑑賞しながら一休みするのもおすすめだ。ここには、谷内六郎さんの作品が集められた「谷内六郎館」も併設されている。

ボードウォークは防衛大学の艇庫裏で終わり、道は国道16号線に出る。
しばらく行くと、大津漁港の手前で左に入る道があり、100メートルほどで走水神社がある。

ここは、景行天皇の110年に日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀ってできたという伝説のある神社で、境内にある手水舎の水は、関東大震災でも枯れなかったという。
地下30メートルからくみ上げられていて、お水取りのパワースポットとして人気だ。

また、日本武尊が上総への渡航の際、小庵の主がはまぐりのなます料理を献上したことから、昭和47(1972)年に神奈川県調理師会が発起人となって、ここに「包丁塚」を建立しており、毎年「庖丁供養祭」が行われている。

ここに、日露戦争の時のロシアの機雷が奉納されている。さすがに防衛大学近く、海軍の街・横須賀と感心した。
こんなのもありというのは、神社の懐の深さか。
  

横須賀美術館。朝井閑右衛門の作品など、横須賀・三浦半島ゆかりの作家の美術、版画、彫刻などがある。谷内六郎館も含めて観覧料一般310円、高大生65歳以上210円。中学生以下無料。

走水神社由来。





走水神社の夏祭(2015年は7月26日)は神輿が海に入る海上渡御があることで知られる。

包丁塚。神奈川県の調理師会により昭和47年に建立された。毎年「包丁供養祭」がおこなわれている。

包丁塚。神奈川県の調理師会により昭和47年に建立された。毎年「包丁供養祭」がおこなわれている。

横須賀鎮守府司令長官だった海軍中将上村彦之丞によって明治43年にロシアの機雷が奉納されている。機雷は、艦船が接触したとき爆発する水兵器で、日露戦争時にロシア軍が実際に使用したものだ。
   


■明治9(1876)年からわき続ける水源地
走水神社からさらに進むと、国道16号線は海岸と離れて高台にのぼる。
しばらくの間、下に走水漁港と漁港に渡る伊勢町橋、走水海岸と東京湾を望む絶景が続く。
ここは運が良ければ、富士に沈む夕日が見られるという東京湾眺望のポイントらしい。

走水の高台から走水海岸を見る。目の前に広がる東京湾の光景はすばらしい。

この道はしばらくするとすぐに下り、右手に大きな駐車場が見えてくる。
すぐ裏は走水海岸、そして隣は走水水源地管理センターである。
駐車場に給水用の蛇口が設置されており、多くの人がポリタンクやペットボトルなどに水を詰めている。

この水源地は、明治9年にヴェルニーらがここから内径12.5センチ、長さ1メートルの土管をつないで約7キロメートル離れた横須賀製鉄所まで高低差で水を引いた。

この水は、いまでも、横須賀市営水道として、内径25センチの鉄管で毎日2千立方メートルの水が供給されている。

この水源は、関東大震災でも枯れなかったことから、横須賀市の災害時の補給基地になるほどの、折り紙つきの水源地である。

国道を挟んで反対側に旧水源地がある。古いレンガの塀で囲まれた中は見られないが、地下に貯水池がある。壁のレンガは、どういうわけかイギリス積みである。

レンガ塀に、出入り口や窓だったところが長手のレンガでふさがれて、アーチ形の模様がつけられている。色が違うのは、後から新しい煉瓦で塞いだためだ。
  

東京湾の光景。海上に浮かぶのは猿島。

水源地につくられた給水装置。水がおいしいと評判で、ペットボトルなどに持ち帰る人も多い。

手入れがされているにしても、何度かの震災を経てもなおしっかりしていることに驚く。

国道16号を挟んで水源地の旧貯水池がある。壁は横須賀製鉄所で作ったレンガが積まれている。
   



   





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