横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流


ものづくり日本の源流を訪ねる
横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流





第7章
浦賀ドック――世界でも希少遺産の2つのレンガドック


浦賀ドック


(1)浦賀はドックの街

■世界に5基しかないレンガドック遺産
開国とともに政府は、浦賀に流れる長川の河口に造船施設をつくり、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。
1860年に太平洋を横断した咸臨丸を出発前に修理したのもここだ。

その後、ここに大きなドックが作られ浦賀ドックとして親しまれた。2003年に稼働を停止した巨大なクレーンが残るレンガドックは、いま再開発が進もうとしている。

あまり知られていないが、浦賀には貴重なドックが2つ残されている。
一つが浦賀駅前の住友重機械工業のドック、もう一つが浦賀湾口にある川間ドックである。

どちらもいまは使われていないが、明治30年頃につくられたもので、

●オランダ・アムステルダム郊外のデン・ヘルダーの2基
●ロッテルダムヘルフースルイス郊外の1基

とともに、世界に5つしか残されていないレンガ造りのドックの中の2つなのである。

レンガドックは、歴史のなかである時期しか作られなかった世界的にも貴重な産業遺産で、オランダの3基は再開発されて、博物館として整理・保存・公開されているが、浦賀の2つは手つかずの状態だ。

とはいえ、実はどちらも見ることができる。これを見逃す手はない。今のうちである。

三崎や城ケ島、観音崎、久里浜の東京湾フェリーなどに行く際には、ぜひ寄ってみたい。

アクセスは京急線の浦賀駅から。
品川から快速特急を利用して1時間弱、京急本線の終点だ。京急線は、久里浜線ではなく、こちらが本線だという所に、浦賀の歴史が感じられる。

駅を降りると、目の前のV字型に伸びる2本の道路に挟まれて工場が見える。
これが通称浦賀ドック、住友重機械工業渇Y賀造船所である。

造船所としては平成15(2003)年3月末日をもって閉鎖されたが、この地は、嘉永6(1853)年に幕府によって造船所がつくられ、渡米前の咸臨丸が修理を受けた、造船史に欠かすことのできない由緒ある場所なのだ。

浦賀駅を起点に、住友重工のレンガドックと造船台、さらに川間ドック、江戸時代の灯台である燈明堂を訪ねてみよう。
途中、駅から浦賀の歴史を味わいながら順に歩いても、片道3kmほどの道のりだ。
  

浦賀駅前。V字に走る道路の間に住友重機械工業椛「船所、通称浦賀ドックがある。

造船所前の歩道にはめられた咸臨丸のレリーフ・タイル。
   


■武士と町人が喧嘩――浦賀の二つのドックで
そもそもどうして浦賀に2つのレンガドックが作られたのか、いきさつを見てみよう。
浦賀は東京湾への入口に位置する海洋輸送の要衝である。

享保5(1720)年には、江戸湾に出入りする船の積み荷を改めるために浦賀に奉行をおき、船番所を設けて積み荷を改めた。

開国後、幕府は自ら戦艦の建造をめざして、嘉永6(1853)年に浦賀湾にそそぐ長川河口にドックを作り、浦賀奉行与力の中島三郎助らに洋式帆船の軍艦鳳凰丸を作らせた。
万延元(1860)年にアメリカへ出港前の咸臨丸を修理したのもこのドックだった。

しかし、明治9(1876)年になると、幕府が横須賀製鉄所を建設したことから、この造船所は役目を終え、閉鎖されてしまった。

明治も中頃になると、産業も徐々に起こり、輸送を担う船舶への需要も急増し、民間資本で造船事業を行おうという動きも生まれてくる。

東京湾口というロケーションの良さに目をつけて、浦賀への造船所建設を目指したのが、渋沢栄一が中心になった石川島造船所と、農商務大臣などを務めた榎本武揚らの2つのグループである。

石川島造船所は明治28(1895)年、浦賀分工場を設立して川間にドックを造り、31年から営業を開始する。
一方、榎本武揚らのグループも浦賀船渠鰍興して明治32(1899)年にドックを完成させる。

こうして2社がほぼ同時期に、競うように浦賀に造船所を造るのをみて、明治28年3月8日の国民新聞も、さあ、どっちが勝つかとはやし、「浦賀に二大船渠、武士と町人喧嘩」と揶揄している。

結局この勝負、いざ営業を始めてみると、ダンピング合戦になって、両社とも営業的に立ちいかなくなり、明治35年浦賀船渠(後の住重)が石川島造船所を買収することで、決着がついた。

浦賀は、細長い湾を挟んでV字に発展した町だ。幕末に湾に流れ込む川の河口をせき止めて、掘削しドックをつくった。その後、明治30年頃に、石川島造船所と浦賀船渠という2つの会社が競ってレンガドックを作った。いま、湾口近くの川間と、浦賀ドックの2つのドックが残されている。


(2) 歴史を物語るレンガづくりドック

■浦賀船渠=住友重工業浦賀造船所
以後、浦賀船渠鰍ヘ、住友重機械工業と社名を変えるが、通称、浦賀ドックとして地元に根を下ろして事業を展開してきた。

平成15年に工場は閉鎖してしまったが、数々の駆逐艦や帆船の海王丸、2代目日本丸、さらには石油タンカーなど、1000隻以上の船舶を建造してきたこの造船所は日本の造船史に欠かすことができない輝かしい歴史を持っている。

造船事業そのものは、新工場を横浜市夏島に建設し、機材を移して稼働中だが、浦賀ドックの敷地内は建屋も含めてほとんど手つかずで残されている。
中を見学する機会は、年に一度開催される公開行事「咸臨丸フェスティバル」や「中島三郎助まつり」、不定期に開催される見学会しかないのだが、実は貴重なドックなどは外から見ることができるようになっているのだ。

京急浦賀駅から浦賀ドックに沿って右(西)の道路を700メートルほど行くと工場入口がある。
ドックの歴史が書かれた看板があるので、これを一読して先に進もう。

しばらく行くと、塀が低くなっていて、タワークレーンが見えてくる。中を覗くとドックが目の前に見えるのだ。

しばらく行くと、今度は塀が金網になっていて、工場をバックにクレーン2基が見える。
中にははいれませんので、外から見てください、という工場のイキな計らいであろう。住重さんやるではないか。

現在、この一帯を再開発するとの話もある。レンガドック、造船台を含めて公開・保存されることを期待したい。
 

浦賀ドックの来歴が紹介されているボードが工場入り口に提示されている。

工場の塀越しに中のドックの様子が見える。

工場をバックにした2基のクレーン。建屋の手前に1号ドライドックが、建屋の向こう側に造船台がある。
   


■115年の歴史――浦賀ドックの1号レンガドック
浦賀ドックの広い敷地の中には、長さ150メートルの造船台、148メートルの1号ドライドック、クレーン、ポンプ室、巻き上げ用のウインチ、機関工場などが残されている。

1号ドックは、明治32(1899)年に作られたもので、長さは148m、幅20m、深さ8.4m。修船用のレンガ造りのドライドックである。
オランダ人技師デ・レーケの基本設計、ドイツ人技師ボーケルの指導で杉浦栄次郎が築造した。杉浦は、横須賀製鉄所でドック作りを学んだ技術者の一人だ。

レンガの積み方は、一段に長手小口長手小口・・・と交互に積み、それを段ごとにずらして積むフランス積みである。
レンガは110年の稼働を経て老朽化し、色はくすんで見えるが、きれいに洗浄すれば鮮やかな色によみがえりそうだ。

ドックには船舶をウインチで引き入れるが、そのためのウインチがゲートの左右に各1基ある。
船が入った後、船をドックの底に置かれた台の上にセンターを合わせて正確に誘導するため、先端部の左右に各1基、中央部分に1基の合計5基が設置されている。

クレーンはドックの左右に2台あって、1基は7トンのジブクレーン、もう1基は「石川島 昭和18年 20T」の銘鈑が付いたタワークレーン。
タワークレーンは上部は取り外されて、近くに置かれている。

クレーンは、ドックに沿って動くようにレールの上に載せられている。
設置以来70年を経過して風化し、さびてはいるが、手入れしてペンキを塗り直せば、ジブクレーンとともに、見事なモニュメントになりそうだ。
ドックと2台のクレーン、どちらもその雄姿を見せてくれる日が近いことを期待したい。
  

設備が搬出された機関工場では、イベントの際にコンサートなども行われている。

設備が搬出された機関工場では、イベントの際にコンサートなども行われている。

ドックと2基のクレーン。左端にブルーのウインチが見える。

ドックの先端部分。Rが付けられて丸くなっている。

ドックの壁面。きれいに5段の階段状になっている。

ドックの向こうに工場建屋が見える。中央に見える建物がポンプ小屋で、小屋の右手前にブルーのウインチが見える。

20トンのタワークレーン。レールの上に載っている。

外されて横に置かれているタワークレーンのブーム。
   


■115メートルの造船台
浦賀橋梁のもう一つの目玉は、1号レンガドックに1年遅れて明治33(1900)年10月に完成した全長380尺(115メートル)のコンクリート造り造船台だ。

造船台とは、斜面上のレールを海の中に引き込み、海水を遮蔽するゲートをつけてポンプで海水を排出できるようにしたもので、造船工場の設備としてはこちらがエースだ。

大きな船を作る手順は、

@受注・設計から
A資材を発注し
B鋼材を加工し
C船体を溶接して組み立て
D進水させ
E艤装用岸壁に移して必要な機材を艤装し
F海上試運転後の完成

・・・となるが、この工程で、C→Dを担当するのが造船台である。

造船台のレールの上で船体を作り、できたところでゲートを開けて海水を入れ、斜面を滑り下ろして進水させる。

船体ができたら、艤装用の埠頭に接岸して内装や上部を完成させる。
経営的に見れば、ドック・造船台の稼働率をいかに上げるかが課題になるので、こうした造船手順で進められる。
この造船台で数々の戦艦が作られてきた。

浦賀ドックは海軍工廠からの依頼で明治40(1907)年7月に駆逐艦「長月」を、9月に「菊月」(ともに長さ69m、381重量トン)を建造して以来、駆逐艦づくりでは定評のある造船所として、第二次大戦が終わるまで多くの駆逐艦を建造してきた。

造船台の大きさが115mしかないために、小型の駆逐艦向きなのである。

その後、第5船台までつくり、第2船台が最大226mまで延長された。
戦後には、船台のサイズをこえる大型のタンカーも建造しているが、一度には作れないので、前後2つに分けて作り、後で合体するという離れ業も行ったそうだ。

大型船を建造中の造船台はそびえるような大きさで壮観だ。
塀の外からも見え、浦賀の住民たちも、毎日のように、どこまで完成したかと楽しみに眺めていたという。

浦賀の街は、町ぐるみが浦賀ドックとともに生活を営んでいた。

建造中の造船台 大型船を建造中の造船台。そびえるような大きさで壮観だ。塀の外からも見え、浦賀の住民たちも、毎日のように、どこまで完成したかと楽しみに眺めていたという。まさに町ぐるみが造船とともに生活を営んでいた(『レンガドックかわら版』第7号より)
  

造船台の下半分。海面の高さはゲートを支える支柱の上部あたりだ。

造船台のゲート。

造船台の上半分。左の工場建屋の前までつながっている。
   


(3) 川間ドック

■マリーナに残る日本初のレンガドック
浦賀の街は、湾を挟んで東西が対峙している。
駅からV字の右(西)の道を浦賀ドックに沿って進むと、浦賀ドックの先に、東西浦賀を結ぶ庶民の足、渡し船乗船場がある。

そこからさらにかつての「うらが道」を先に行けば、やがて左手にヨットハーバーCity Marina Velasis が見えてくる。
ここまで駅から約2km。道路に沿って入口があり、奥に事務所棟と、係留されたヨットが見えてくるので、事務所棟に行って受付で「レンガドックを拝見させてください」とお断りして中に入れてもらおう。

事務棟のすぐ右隣がドックなので、事務所に入る前に、ちらとドックを覗くことができるが、あくまでも私有地なので、まずは事務所にお断りするのが筋だ。
許可をいただいたら、事務所棟をまっすぐ抜けて係留場に出る。

桟橋に下りると眼の前にドックが満々と水をたたえている。
ドライドックだが、ゲートが取り払われているので、海水が入っているのである。ドックの底は水の中で見えない。

長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7m。水面に浮かんだ桟橋から見ると、大きさが実感される。整然と組み上げられたレンガがきれいだ。

建造されて115年も経ているとは信じられないくらいしっかりしていて汚れも少ない。ヨットハーバーの付帯施設として使われているのだからそれなりのメンテナンスもされているのだろう。
  

川間ドックのあるマリーナ入り口。奥の建物が事務所棟だ。

全長136.7メートル。ゲートが取り外されているので海水が入っている。

ゲートの外はそのままヨットハーバーにつながっている。
   


■残したい第一級の文化財遺跡
このドックは明治31年に日本で初めてつくられたレンガドックだが、設計・築造したのは、横須賀製鉄所で学んだ恒川柳作や大倉粂馬、山崎鉉次郎ら。
日本人による初のレンガドックである。

ドックの形は、先頭部分が丸くなっていて浦賀ドックとほぼ同じだが、煉瓦の積み方が少し異なる。
こちらはイギリス積みによく似たオランダ積みである。長手だけの段と小口だけの段を交互に積むのはイギリス積みと同じだが、長手段の端で七五(レンガの長手方向の長さを3/4にしたもの)を用るのがオランダ流である。

不思議なのは、横須賀製鉄所の官費性としてフランス式の造船学を学んだ恒川柳作らが、なぜオランダ積みを選択したのかということだが、どうやら真相は、当時は、フランスでもオランダ積みをはじめ、様々は積み方が行われていたということのようだ。フランスではフランス積みばかりというわけではなさそうだ。

浦賀ドックと川間ドック、どちらのレンガドックも、オランダのものと比べると深さが大きい。
<全長-深さ>でみると、オランダの3基は157-7、90-6.5、120-8で、川間136.7-9.7、浦賀148-8.4だ。

これは、オランダのドックが1806年〜66年に作られたのに比べて、日本の2つは1898年、99年で、この間に船舶技術が発達して木造の帆船から鉄鋼の蒸気船へと変化しており、鋼鉄船の喫水が深いためにドックの水深が深くなっているのだ。

日本製の2つのレンガドック、産業遺跡としても第一級の文化財で、一見の価値がある。こちらも、産業文化財として整備・保存・公開されることを期待したい。
  

時代を経て老朽化しているが、まだしっかりしている。

レンガの積み方はオランダ積みが良く見える。

水中に続く階段。ここの階段は浦賀ドックに比べると段差が高い。
   


  (3)浦賀・燈明台と庶民の足・渡船

■江戸湾への航路を照らした和式灯台・燈明堂
川間ドックから、さらに先に進むと、うらが道は久里浜に行く分岐点に出る。
右に行けばトンネルを経て久里浜まで3km、この分岐点を左に進むと、約1kmほどで、江戸時代の灯台を復元した燈明堂のある燈明崎に行く。燈明崎には駐車場もあるので車でもいける。

小型船舶しか建造三は許されていないにしても、物資輸送の効率化に船舶は不可欠である。江戸時代でも、東京湾の入口に位置した浦賀は、船輸送の頸動脈である。浦賀湾の入り口に燈明堂がつくられたのは慶安元(1648)年のことだ。
家康が関が原の合戦で勝利すると大阪に代わって江戸に幕府がうつされ、全国から人や物資が江戸に集まるようになった。
輸送には船が使われるが、東京湾の入り口、浦賀水道は潮流も早く、船頭にとっては頭痛の難所だった。

夜間の航路の安全も問題になり、こうして作られたのが和式の灯台・燈明堂である。
その後、幾度かの改築が行われているが、安政元(1854)年の安政東海地震後に再建された燈明堂が、平成元(1989)年に復元された。

構造は、高さ7.3メートル、石づくりの土台の上に木造2層の建物。
上層は、四面に銅製の網が張られ鉄骨製の障子が嵌め込まれていたという。
内部には燈明皿が置かれており、油を燃やすことで明かりをともしていて、菜種油などを燃やす明るさは、遠く房総半島からも確認できたという。
堂内には堂守が常駐して明かりの管理をしていたそうだ。

ペリーもこの燈明堂の明かりを目安に航路を設定したと言われているが、1866年にアメリカ等と結んだ条約で、洋式の灯台を設置することがうたわれ、明治2(1869)年、ヴェルニーによって観音崎灯台が設置されたことで、燈明堂の役目は終了した。
  


東京湾に臨む燈明堂。遠くの房総半島からも明かりが見えたという。

木造2層の建物で、高さは7.3メートル。

この一帯はかつては浦賀奉行(船奉行)の処刑場だったとかで、供養塔が建てられている。
   


■209年続く渡し船――海の上の市道
浦賀駅からここに来るまでのちょうど真ん中あたりに、湾の対岸とむすぶ渡船の乗り場がある。
享保5(1720)年に浦賀奉行が西浦賀に置かれると、「船番所」も作られ、浦賀湾は船改めを受ける船があふれ、町には人も集まって大いに栄えたという。

しかし、東西に分かれた浦賀の町は、間に深く切れ込んだ湾が邪魔をして、わずか300メートルほどの対岸に行くために、湾をぐるっと3kmほど歩かなければならなかった。

そこで、享保10(1725)年、東-西浦賀の間を行き来する渡船が設けられた。
以来290年、通勤や日常生活に欠かせない交通として変わらずに運行されてきた。

実はこの渡船、現在は民間に委託されて運営されているが、唯一の横須賀市営の交通機関で、この航路は「浦賀海道」と名付けられ、2073号線として登録されているれっきとした海の上の市道なのである。

渡船場は、東叶神社と西叶神社の近くにあり、どちらにも、レトロな待合室が設けられている。いまは機械船になっているが、昭和30年ころまでは櫓を使った手漕ぎの船だった。

渡船料金は1回150円、中学生以下、自転車は50円である。
東西間の距離は400メートルほどで、所要時間は10分弱。4.8トン定員13人(船員1人、旅客12人)の愛宕丸が1隻でピストン輸送していて、渡船場入り口に呼び出しボタンがあって、愛宕丸が対岸にいる時にはボタンを押すと迎えに来てくれる。

運行時間は毎日7:00〜18:00頃まで、時刻表はなく、客があれば運行し、いなければ、どちらかで客待ちをしている。
  

船番所跡

横須賀市営の渡し船「愛宕丸」。対岸との距離は目と鼻の先だ。

渡船料金は150円。中学生、自転車は50円。

西浦賀の待合所

東浦賀の渡船場から見た対岸の西浦賀
   


■帆布の専門店
浦賀は、鋭く切り込んだ狭い湾の両側に家が広がる町だが、湾口近くの両側にヨットハーバーがある。
ヨットと言えば、帆が不可欠だが、浦賀ドックの東浦賀の出入り口近くにおすすめめのお店がある。帆布の専門店「三浦屋」である。

浦賀ドック−燈明堂−川間ドックと見学した後は、西叶神社に戻ってお参りし、渡し船で東浦賀へ。
渡船場から、歩いて愛宕山に登り、浦賀駅に戻る道の途中で、帆布製品を覗いてみるのも悪くない。気に入ったものが見つかるかもしれない。

帆布(カンバス)を利用したオリジナル製品を並べて、なかなかの人気だ。
専門は船具や設備などを覆うカンバスのカバーづくりだが、カンバス素材を使って作る手作りバッグや小物が人気なのだ。

店内にはたくさんのユニークなかわいいバッグが並べられている。シンプルな布地を活かしたカラフルな手作りバッグはどれも魅力的で、しかも価格はリーズナブル。
ちょっと手に取ってみたくなる。自分使いにも、お土産にも最適だ。
  

西浦賀の渡船場近くにある西叶神社。東浦賀に東叶神社がある。春秋2期の大祭は、盛大に行われる。

西浦賀にある帆布専門店「三浦屋」。創業天保6(1835)年という老舗で、本業はもちろん帆布を使ったカバーなど各種製品。軽さが特徴の綿帆布のオリジナル・トートバッグなどが並ぶ。見ていると欲しくなる。

三浦屋バッグ すべてオリジナル製作の帆布バッグ。数千円と価格もリーズナブルで人気だ。
   


   


 
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