横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第1章
生糸を金貨に変えた道――近代化を支えた日本版「シルクロード」



神奈川県庁舎


■横浜が生糸の輸出港として
現在の横浜港大さんばし
2014年、富岡製糸場がユネスコの世界文化遺産として登録されたが、その時に同時に世界文化遺産に登録されたのが「シルクロード:長安=天山回廊の交易路網」である。

ユーラシア大陸を横切って洋の東西を結ぶ数千キロの壮大なスケールには及びもつかないが、戦後になって、かつて日本にも同じように生糸を輸送した「絹の道」があったと、日本版シルクロードが見直されるようになった。

ペリーの来航以来、日本は、米英露蘭仏と通商条約を結び、1859年に横浜、長崎、函館の3港を開港した。
これを機に、海外から多くの商人が押し寄せたが、彼等が日本で競うように買い求めたのが、お茶と生糸だった。

ちょうどそのころ、フランス、イタリアでは、蚕が微粒子病に侵されて減少し、供給不足に陥っていたため、蚕種と生糸の確保は重要な課題だったのである。

横浜で生糸が売れるとの情報で、国内生産が一気に活気づいた。
生糸の輸出が唯一の外貨獲得策ということもあって、政府は、養蚕・製糸業を奨励する。

各地で増産された生糸が、滝つぼに水が吸い込まれるように横浜に集まり、横浜は生糸輸出港としての地位を不動のものにする。

以後、80年間にわたって生糸が日本の輸出品目のトップを占め、その80パーセント以上が、横浜港からの輸出で(表1)、横浜は長い間、生糸輸出のほぼ100パーセントを占めていた。
  
表1 横浜港からの生糸輸出量(kg)
年 別全国輸出高(A)横浜輸出高(B)(B/A)比率
明治4年800,150.40757,209.694.60
  5年541,296,00534,038.498.60
  6年726,969.00638,668.887.90
  7年592,099.20590,889.699.70
  8年714,268.80714,268.8100.0
  9年1,127,347.201,113,436.898.80
 10年1,042,070.401,042,070.4100.0
 11年877,564.80877,564.8100.0
 12年990,057.60990,057.6100.0
 13年883,612.80883,612.8100.0
 14年1,089,244.801,089,244.8100.0
 15年1,744,243.201,744,243.2100.0
 16年1,887,580.801,887,580.8100.0
 17年1,268,870.401,268,870.4100.0
 18年1,485,993.601,485,993.6100.0
 19年1,593,648.001,593,648100.0
 20年1,876,694.401,876,694.4100.0
 21年2,828,649.402,826,835.2100.0
 22年2,495,404.802,469,398.498.90
 23年1,276,128.001,261,00898.80
 24年3,220,560.003,199,996.899.10
 25年3,269,548.803,269,548.8100.0
  

七福人-種紙会社より海岸鉄道眺望の図。蚕紙とは、蚕種を販売するために紙にカイコの種を植え付けたもの。蚕種を販売する会社から海岸を走る鉄道を見た様子を描いたものだが、店員を七福神になぞらえているところは、いかに商売が好調であるかを物語っている(横浜市立中央図書館所蔵)

1962年に来日し、慶応元(1865) 年に居留地76番に店舗を構えたスイス人の生糸商バビエル商会。屑糸の取扱高は外国商館中第一位を誇っていたという。居留地76番は、現在はローズホテルや、横浜ユーロタワーが建っているあたりである(有隣堂刊『横浜銅版画』より)
   


■横浜に集まる生糸商人たち
もともと民家がわずかに数十軒あるだけの山手から横に飛び出した寒村の砂州(横浜)を整備し、内海を埋め立てて地ならしして、そこに政府が声をかけて、江戸や地元の商人に店舗を構えさせた。

しかし、商人たちも異人相手に何を売ったらよいの分からない。
困って、手あたりしだい店先に品物を置いたところ、生糸が売れた。

いくらでも買うからもっと見せろと言う。半信半疑で店を構えた商人たちは色めきたった。

最初の生糸取引が行われたのは、地元出身の芝屋清三郎の店だったという。
安政6年(1859年)6月28日に英人イソリキが、甲州産島田造生糸六俵を高値で買ったという。

これで、どうやら外国人は生糸に興味があるらしいことが分かり、以後、怒涛のように横浜に生糸が集まることになる。

こうして、中居屋重兵衛、亀屋・原善三郎、野沢屋・茂木惣兵衛、甲州出身の若尾幾造など生糸で財を成す商人が台頭してくる。


開港とともに外国人商人、国内商人がやってきて、店舗ができる。港からはしけで本船に荷物を運んだ(横浜市立図書館所蔵)

■ロジスティックスが市場を制する
明治初めの国内の生糸生産量をみると(表2)、東北、北関東、山梨、長野が多い。

岩代は、福島市・二本松市あたり、羽前は山形県の酒田・飽海郡を除いた部分である。
江戸時代初期には養蚕家が繰糸・糸づくりをしていたが、中期になると地域の繭を集めて製糸する人が独立し、後期になると繊維に合わせて糸を撚る撚糸業が独立する。

ここで養蚕、製糸、撚糸の分業ができる。生糸商人が活躍するのは、製糸された生糸を繊維にするために撚糸業者に販売する、その間のつなぎ役であった。

幕末から明治にかけて、日本の養蚕地帯として、大きく3つの地域、
@福島を中心とした東北、
A上州、上信越、埼玉、
B長野県南・山梨など
・・・があり、産地から生糸を江戸・横浜に運ぶルートはいくつか使われていた。

江戸時代には江戸・日本橋を起点として5街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)が整備されていた。
参勤交代はこうした街道を利用して行われた。しかし5街道はどちらかと言えば公用道で、駅ごとに荷を積み替えねばならないなどの制約が多く、一般には街道を避けて脇往還や舟運などが活用されていたようだ。

日数がコストにつながり、相場取引が基本の生糸は時間が勝負で、ロジスティクスは成否を決めるポイントになっていた。


表2国別生糸生産高の変遷。当時の養蚕は、上野、武蔵、信濃、岩代、甲斐、羽前などがさかんで、開港後もこれらの産地から横浜に出荷された


■絹の通った道
生糸が江戸・横浜に運ばれたルートはいくつかある。
東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用された。元東大教授で横浜開港資料館館長を務めた高村直助はこの水運を利用した生糸輸送のルートを「水上のシルクロード」と呼んでいる。
@東北地方(出羽や陸奥・南部・会津など)からの輸送ルート
江戸への参勤交代は、基本的に奥州街道を使うルートだが、鬼怒川(阿久津河岸や板戸河岸:栃木県)で舟に積んで久保田河岸まで運び、境河岸まで陸送して、利根川−江戸川と経て江戸湾に出て、日本橋界隈の問屋へというルートが多く使われた。

A上州・北信州・武蔵を中心とした北関東・北信地方からの輸送ルート
基本的に中山道に沿ったルートだが、荷駄で運ぶより水運が利用された。利根川支流の烏川の倉賀野河岸や平塚河岸で舟に積み、利根川-江戸川と経由して日本橋まで。江戸時代、倉賀野は上信越からの物資輸道の一大拠点であった。また、高崎-本庄-熊谷-桶川-蕨-板橋というルートも用いられており、明治5年には陸運会社が設置されて、人馬でも生糸を運んだ。

B飛騨・美濃・南信濃・甲斐地方からのルート
飛騨・美濃からは名古屋に出て舟運も利用されたが、一般的には、甲州街道に沿って松本や塩尻、あるいは木曽から岡谷−甲府を経由して八王子−江戸へ、あるいは、八王子往還を経て横浜に抜けるというルートが利用されている。

これらのルートの最終区間、東京-横浜は、1870年(明治3年)に蒸気船の弘明丸が就航しており、1872年(明治5年)には蒸気機関車が通っている。横浜での生糸取引価格の変動をにらみながら、こうしたものも利用されている。

明治3年には、東京−横浜間を横須賀製鉄所で建造した外輪型の蒸気船「弘明丸」が運航している。毎日、朝9時に東京(永代橋下)を、午後2時に横浜を出発する。船賃は、一等3分、並2分、12歳以下1分。現在に換算して大雑把に一等1500円、並1000円、子供500円という所か(横浜市立中央図書館所蔵)。
  

生糸が江戸・横浜に届くルート。東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用された。 

倉賀野河岸由来。江戸時代、倉賀野は上信越からの物資輸道の一大拠点であった

明治はじめに東京-横浜間を就航した横須賀製鉄所で建造した外輪型の蒸気船「弘明丸」(横浜市立中央図書館所蔵)。
   


■八王子から横浜に向かう「絹の道」
こうした中で、八王子−横浜のルートが絹の道と呼ばれるようになったについては、鑓水商人と呼ばれる生糸商の存在が大きい。

幕末まで、生糸取引の中心は京都・西陣であった。
多摩地区には早くから生糸商人が多数存在し、特に八王子には鑓水商人と呼ばれる集団がいて、大きな勢力を誇っていた。

東北から上州に出て生糸を買い付け、それらを京都・西陣へ運んでいたのである。これを「登せ糸」という。

1859年に横浜が開港すると、永い間、京都へと流れていた生糸が、横浜へと流れるようになる。その時に中心になったのが、東北や上州、さらに甲州街道沿いの村々で生糸を購入し、生産者と強い関係を築いてきた鑓水商人であった。

彼らは、幕末から明治にかけて、上州や南信州、甲州産の生糸を買い集め、横浜に運んだ。
小さな集落の鑓水村は、外国商人も訪れるほどの隆盛を誇ったという。

もともと、八王子から鑓水−原町田−川井と経由して東海道に出る道は、八王子往還として利用されていた。
そして、幕府が開港に合わせて、東海道から横浜港へと向かうアクセス道「よこはま道」を整備したことで、八王子往還−浜街道と結ぶ「絹の交易路」が生まれることになった。


■日本版シルクロードの盛衰−−郵便事業を促した生糸商人の往来
多摩、横浜の丘陵地帯を通るこのルートは起伏の激しい難路とされていたが、それでも八王子から横浜に生糸を運ぶにはもっとも早いルートとして利用された。

この道を通って生糸が運ばれたことを示す一つの例として、郵便制度の開通を見たのが牧野正久である(牧野正久「日本シルク・ロードの究明」「郵和」no.72)。

明治5年7月、政府は、それまでの駅伝馬制度に代えて、東京−横浜間の郵便物受付を始め、

「東京を除くの外、横浜より各地への仕立便緩急により賃銀高下有るべく候え共、先規に基き一里六〇〇文の定額を以て請取り、夜行は倍増其余時宜に寄るべきこと」

の太政官布告を出している。つまり、東京−横浜間だけでなく、いくつかの町への郵便と現金送金も受け付け、各地別仕立賃銀表を附記しているのである。

代表的な地として、五里武州長津田、六里同原町田、七里半相州横須賀、九里同浦賀、十二里武州八王子、二十里同川越、三十六里上州高崎、三十六里八丁同富岡、三十三里同桐生、五十七里信州上田……の10地名が、距離とともにあげられている。

横浜−長津田−原町田−八王子……はまさに、絹の道であり、川越−高崎−富岡……はその延長である。

現金送金を可能にしたこの郵便制度は、横浜に生糸を売りに来た商人への便宜を優先した施策である。
八王子−横浜を結ぶ絹の道が、いかに生糸商人にとってなくてはならないルートだったということができる。

鑓水から大栗川に下りてくると、御殿橋があり、そのたもとに、古い「八王子道道標」の様子が掲げられている。


東北や上越方面からの水運を利用したルート、八王子からの絹の道は、幕末から明治の初めに我が国の生糸貿易を支えた大動脈でもあったが、大量に輸送できる鉄道の登場で、時代とともに歴史の表から消えてしまった。

1872年(明治5年)に、イギリス人技師モレルの尽力で新橋-横浜間に鉄道が開通。最初は途中駅が未完成で汽車は新橋−横浜間をノンストップで走った。新橋横浜の前に、品川−横浜間が開通しており、まず、この間で仮営業された。明治5年5月7日(新暦1872年6月12日)のことである。

初日は往復2便だったが、翌日には6往復になった。4か月後には新橋まで開通している。品川発は午前9時、10時、11時、午後3時、4時、5時の1日6便、横浜発は午前8時、9時、10時、午後2時、3時、4時。
このダイヤからもわかるように、起点は横浜だった。横浜を早く出て遅く帰るという横浜を優先したダイヤ編成になっている。運賃が上等1円50銭、中等1円、下等50銭であった。

新橋-横浜間の前に、明治5年5月7日(新暦1872年6月12日)品川-横浜で仮営業で鉄道が開通した。横浜を優先したダイヤ編成になっている。(横浜市立中央図書館所蔵)

荷駄で運べばほぼ1日かかる25kmほどの距離が、わずか35分に短縮されてしまったのである。前年には、東京-横浜間を蒸気船便が開通している。荷駄で運ぶ時代は、終りはじめていたのである。
その後鉄道は、1883年(明治16年)には上野−熊谷間、翌年には熊谷−前橋が開通し、上野−前橋がつながった。
新宿−立川間の27.2kmに甲武鉄道が開通したのは1889年(明治22年)。新宿−立川間を1時間で走った。
平均時速30km、1日の徒歩分の距離が1時間で行ける。圧倒的な便利さに、荷駄や水運は駆逐されていった。

そして、1908年(明治41年)東神奈川−八王子間の横浜鉄道が開通。
これらの路線からも分かるように、日本の鉄道整備は、生糸輸送を目的に行われたのである。

1872年、イギリス人技師モレルによって横浜−新橋に初の鉄道が開通が、当初、横浜駅は海の中であった。現在の青木橋から桜木町への道は、高島嘉右衛門によって開設された、海中の土手道だったのである。この話は、後程詳しくご紹介したい。
いま、桜木町駅の裏にモレルを顕彰してひっそりと鉄道創業の地碑がある。
  

1872年、イギリス人技師モレルによって横浜−新橋に初の鉄道が開通。横浜はいまの桜木町駅あたりにあった。

桜木町駅から関内よりに鉄道創業の地碑がある。すぐ横の高架を根岸線が走っている。
   






第2章
「繊細な飼育が、良質の繭をつくる」――桑都・八王子で養蚕を今に伝える長田誠一さん――



蚕が紡いだ純白の繭


日本版シルクロード「絹の道」の起点になったのは、桑都と呼ばれた八王子である。
その八王子自身もまた、養蚕と織物の盛んな町でもあった。
周辺が開発されて住宅・農地が広がるなかで、いまでも無農薬で桑を栽培し、年に2回、春蚕と晩秋蚕を続けている養蚕農家の長田誠一さん。

養蚕を始めて5代目、これからもこの伝統を守っていきたいという長田さんを、晩秋蚕の繭の出荷前に訪ねた。


(1)交通の要衝として物資が集積した八王子

■桑の都・八王子
横浜に生糸を運ぶ起点となったのは八王子である。
八王子は江戸と甲州・信州を結ぶ甲州街道(国道20号線)、横浜と川越・上州を結ぶ川越街道(国道16号線)、青梅を経て甲州に通じる滝山街道(国道411号線)が交叉する、交通の要衝であり、江戸時代には宿場町として栄えていた。

このため、4日市(横山宿)、8日市(八日市宿)などが早くから開かれ、東西の物資の集散地となっていた。

地勢的には、関東平野の西端に位置し、山地・丘陵が三方を占めて、東にへと浅川が流れて半盆地の扇状地を形成している。こうした地形から米作がむずかしく、かつては桑が栽培され、養蚕が盛んに行われていた。

八王子は別名「桑都(そうと)」と呼ばれたという。「浅川を渡れば富士の影清く、桑の都に晴嵐吹く」と西行が詠んだと伝えらるこの歌の真偽は不明だが、かつて、桑の木が栽培され、養蚕も行われて桑都と呼ばれていたことは間違いないようだ。

  

JR八王子駅を北口に出ると、ロータリーの2階がテラスになっている。このテラスは「マルベリーブリッジ」(桑の橋)と命名され、織物の町の伝統を伝えるために、かつてあった八王子城を模した塔「絹の舞」が飾られている。 

市の取引の無事を守る守護神を祀った市守神社。現在でも毎年2月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる祭礼がおこなわれている。

   


■桑の並木通り
八王子の養蚕、機織は、文政年間(1820年頃)にはすでに知られていたようだ。
横浜が開国すると、機織業はさらに繁栄し、特に生糸・絹織物については、横浜につながる八王子往還(神奈川道)があったことから、群馬や信州、甲州、秩父などからも生糸が集まり、横浜港への中継拠点として重要な役割を果たしていた。

JR八王子駅北口から浅川大橋に伸びる大通りは、桑の並木通りと名付けられている。
駅から300メートルほど離れた甲州街道との交差点(八王子駅入口)までは両側にマロニエが植えられているが、そこから先、浅川大橋までの400メートルは桑の木が植えられている。

桑が街路樹として使われているのは全国でも珍しい。
甲州街道の交差点から少し先の西側に「桑並木の由来」の碑がある。

1954年(昭和29年)、地元に工場をもつ片倉工業鰍ゥら桑の木50数本の寄贈を受け、織物の街の象徴として市や養蚕・製糸・機織り関係者らによって植栽されたものだという。

市内で桑が街路樹として植えられているのはここだけだが、小宮、片倉城跡、鑓水などの公園にも桑の木が植えられていて、養蚕・機織りの街の伝統を伝えている。
  

駅北口のテラス歩道マルベリーブリッジから見た桑の並木通り。手前の駅近くの街路樹はマロニエで、桑は少し先に行くと見える。 

両側に手入れされた桑の街路樹が並んでいる。柔らかな緑が目に安らぎをあたえてくれる。


50数本植えられた桑の木は、現在36本が残されていて、排気ガスなどをものともせずに道行く人に緑を提供している。植えられてから60年、欠けているところもあるが、この樹勢をみる限り、街路樹としての適性もあるのではないかと思える。せっかく桑都と称するならば、駅近くのマロニエも、桑に代えてはどうだろうか。
   


(2)養蚕の伝統を現代に生かす――長田養蚕
そんな八王子も、いまでは養蚕を行う家はわずか3軒。そのうちの1軒、加住町の長田誠一さん(44)のお宅にうかがった。
養蚕農家が高齢化するなかで、40代で、養蚕の伝統を何とか守っていきたいと奮闘する八王子農協の若手養蚕家である。

八王子駅から滝山街道を下って車で20分ほど、このあたりは1500年頃には高月城、滝山城などの城下町として栄えたという。
樹齢400年で、市の指定天然記念物の山桑「高月のクワ」も近くにある(長田さんのお宅は個人宅で公開はされていません)。

養蚕の様子については、東小金井にある東京農工大学の「科学博物館」をごらんください。東京農工大学の前身は明治19年(1886年)に造られた農商務省蚕病試験場で、その「 参考品陳列場」が、昭和27年(1952年)に博物館法に基づく「博物館相当施設」に指定され、平成20年度に、「東京農工大学科学博物館」になっている。
  

「東京農工大学科学博物館」に養蚕に関するさまざまな資料・道具が収集され、展示されている。

各地区、各国で作られている繭が収集・展示されている。世界でも大きさや形に違いがあることに驚く

養蚕から製糸機、機織まで、さまざまな道具や機械もかなりの数だ。
   


■春と秋、年に2回の養蚕
「私の家はもともとは小作農家で、養蚕を始めたのは明治30年頃、祖父の父の五右衛門の代からで、祖父喜兵衛の3人の姉たちが家で機を織っていたそうです。

長田家としては私で12代目、養蚕農家としては5代目です。この母屋も五右衛門が建てたもので、昭和36,7年までは茅葺でした。
その五右衛門は農業の傍ら生糸商人をはじめて、稼いだ資金で少しずつ畑を購入し、桑を栽培。10年ほど続けて桑を確保できるようになったところで、自分で養蚕・生糸づくりを始めたと聞いています」。

横浜が開国して生糸輸出がブームになっていたころのことである。
地元や甲州から集まる生糸を買い付けて「絹の道」を通って横浜に運んでいたそうで、八王子から自宅に帰る道では、「途中で襲われるなんて言う危ない経験もしたようです」と長田さん。

100年の歴史を経て、養蚕は長田家の家業だが、いまは兼業という。
かつてこの地域には桑畑もたくさんあった。
長田さん宅でも、父親の代に「年に5回の養蚕で、1トンも出荷したこともあったようですが、いまでは春蚕(5月〜6月)と晩秋蚕(8月旬〜9月)の2回だけで、他に、道の駅などに出荷する分も含めて年間飼育するのは10分の1の6万頭くらいになってしまいました」という。
  

「八王子市内で養蚕をやっている農家は今では3軒。最盛期には年間1トンを生産したようです。いまはとてもそんな状況ではありませんが、気持ち的には近づけるように頑張っていきたい」と長田誠一さん。 

浅川の支流・谷地川に面して建つ長田さん宅。2階は作業部屋で1室。母屋の左に、別に建てた大小2つの蚕室がある。


繭は毛羽や汚れが落とされてきれいにされる。純白できれいな出荷前の状態。
   


■むずかしくなった無農薬の桑栽培
養蚕する回数が少なくなってしまったのにはいくつか理由があるが、大きなのは桑の栽培の問題と、そしてカイコを飼う蚕室の問題。

カイコは、ほぼ30日間桑の葉を食べ、途中、3-10日ごとに脱皮を繰り返して成長する。
そして、4回の脱皮を経て成虫(ガ)になる前にサナギになるが、このサナギの期間を安全に過ごすために、自分の身体を包むように周囲に糸を吐きだして繭をつくる。
カイコは成長をサナギで止めて繭を製糸工場に送って、生糸に紡ぐ。

「カイコは人間が繭を取るために改良を重ねた生き物で、カイコ自身の力ではエサも探せず、生きてゆくことができません。
桑の葉を食べて大きくなり、脱皮を繰り返して体重は1万倍に成長しますが、桑の葉もカイコの状態に合わせて、稚蚕の頃は細かく刻んで与えます。
人間の手助けがないと生きられないほど繊細なのです」。

カイコは卵から孵化した当初は、大きさも2〜3ミリと小さく、それが桑の葉を摂取して3-10日で脱皮するが、体重は脱皮するたびに、当初の20倍、120倍、720倍・・・と級数的に大きくなり、さなぎになる寸前には体重は約1万倍に増える。

1頭のカイコは、約20〜25グラムの桑の葉を食べる。枚数にして約20枚。
カイコが60,000頭とすれば、桑の量は全部で1,500kg=1.5トン、葉の数にして120万枚にも及ぶ。
その量の桑の葉を確保するためにはおよそ10アール(100m×10m)近い桑畑を必要とする。

しかも、「カイコは特に脱皮直後はちょっとした変化にも傷つきやすくて、農薬が付着している桑の葉を食べれば、それで死んでしまいます。虫よけスプレーも使えません。このあたりも宅地化が進み、周辺で家庭菜園やガーデニングなど農薬を使うケースも増えて、桑を栽培することが難しくなっています」
と長田さん。無農薬が条件で、殺虫スプレーもダメとなれば、八王子で栽培を続けるのは容易ではない。

表3 カイコが作る繊維と桑の量
絹織物1反(着物1着)20.4反
生糸900g18.5kg
作られる繭の量4.9kg(2,600粒)100kg
桑畑の面積4.9u10アール(100u)
桑葉の量90kg2,000kg
蚕種2,700頭62,000頭
カイコは孵化してから成熟するまでに体重が1万倍に増える。食べるクワの量は、想像以上に大量である。

  

家の前、浅川の土手にある桑畑。晩秋蚕がおわった頃なので、桑はほとんど食べつくされている。 

母屋の2階。ここは、蚕が繭づくり「まぶし」を行う部屋でもある。

長田さんは、2階の作業室で出荷前の最後の作業である、繭についた毛羽や汚れを落とす「ケバ取り」作業中だった。「自動で毛羽を取ってくれる機械の調子が悪く、手作業でやっています」(長田さん)。かつてはこうした機械を販売・修理してくれる会社もたくさんあったが、いまでは数えるほどしかなくなってしまったという。

   


■繁忙期には常連のボランティアが支援
カイコの飼育は、とくに孵化した直後はデリケートで難しい。
長田さんでは、3回脱皮した後の4齢のカイコを稚蚕小屋からスーパー飼育台小屋へと移動し、広げて育てる。

その後も脱皮を繰り返し、成熟したところで、母屋の2階にある作業場に移し、「回転まぶしと呼ばれるマス目の繭づくり用の場所に移す。

2階への階段は手すりもなく、外にむき出しになっています。
大きな蚕座を手で運び上げる時にぶつかるので、手すりをつけなかったんです」(長田さん)。

この時期は忙しく、通常は長田さん、お母さんの百々代さん、奥さんの晶さんの3人で行う作業も「養蚕期の一番忙しい時期には、常連で来てくれるボランティアさんに支えられています」と長田さん。
長田さんを支援するファンがたくさんいるのだ。

長田さんが作った繭は、碓氷製糸場に送られて生糸にされるほかに、地元の道の駅「八王子滝山」でも繭の加工品として販売されている。

純白の繭に彩色してかわいらしい人形に仕上げられているのだが、これがかわいらしいと評判の人気商品になっている。
これは、奥さんの晶さんの作品。晶さんは繭を使った手作りの講習会なども依頼され、人気のプログラムになっている。
  

お母さんの百々代さん。養蚕暦45年、いざというときに頼りになる経験豊富な生き字引である。

 

大きな養蚕室。ここで、3齢から成熟するまでの2週間ほど飼育される。脱皮するごとに大きくなるカイコにはそれなりのスペースが必要になり、適宜、新しい蚕座にカイコは移される。移動と、清掃、蚕の状態に合わせて桑の葉をあたえる作業がここで行われる。

温度管理のできる稚蚕室。孵化から3齢までのカイコの飼育に使われる。

道の駅「八王子滝山」では長田さんや奥さんが作った、繭を使ったアクセサリーや人形も販売されている。“養蚕の街八王子”を市民が実感できる場所でもある。


繭を使った商品は、道の駅「八王子滝山」ならではの地元の特徴ある商品として人気も高い。そばを通るお客さんの目も引く。同道の駅の定番になっている。
   


■人間のために命をいただく――小学校で「養蚕授業」
今では少なくなってしまった養蚕を地域の人に知ってもらうおうと、長田さん夫妻は、小学校で生徒たちに養蚕の授業を行っている。

「3年生20数名の2クラスが対象で、孵化したカイコを先生が3齢まで育成し、それを生徒に10頭ずつ配って、桑やりからやってもらいます。
毎日の作業なので大変ですが、それをやって、8個の繭を作った人の中から、きれいな繭ができた人、飼育記録をしっかりつけた人を、全員の投票で表彰します」と長田さん。

言うのは簡単だが、カイコを細かく観察し、適切な世話をしないと繭を作らせるのは難しい。
手を抜けばカイコはすぐに死んでしまい、繭の出来も悪くなる。しかし、長田さんは8個の繭を完成することを表彰の条件にしている。

「そこまで厳しくしなくても、という声もありますが、やってもらう以上、命を扱うのですから、しっかりやってもらうべきだと思います。
さなぎは繭を作った後、20日ほどで蛾になり、繭を破って出てきます。
そうなると繭が汚れてしまうので、その前に乾燥させたり、冷凍したりしてさなぎを死なせます。

最後は、人間のために、命をいただくことで養蚕が成り立っています。カイコは家畜です。ありがたい生き物です。そのことを子供たちに体験してもらい、命の大切さを知ってほしい」と長田さん。

繭は純白できれいだが、こうした繭をつくるためにはしっかりした管理が必要だ。
世話をされることが当たり前になっている子供たちにとって、世話をするカイコの飼育体験は、実践的な教育の一環としても、面白い試みだ。

繭は純白できれいだが、こうした繭をづくるためにはしっかりした管理が必要だ。世話をされることが当たり前になっている子供たちにとって、世話をするカイコの飼育体験は、実践的な教育の一環としても、面白い試みだ。 

■環境の変化の変化がものづくりを変えていく
表彰の賞品に自作のプラモデルや奥さん手作りの繭で作った人形などをプレゼントしたりして、子供たちの学校生活では記憶に残る思い出の授業になっている。

熱血指導は学校や保護者からの評価も高く、放課後教室などにも参加している。
この中から将来、養蚕に興味を持ってくれる人が出てくれれば、養蚕家としてもうれしい。

「いまは、畑が減ってしまって、年に2回しか養蚕ができません。私は、年間1トンを取った時代を経験していませんが、気持ち的にはそういう時代に少しでも近づけるように、養蚕農家を続けていきたいと思っています」

かつて八王子の街を支え、日本経済を支えた養蚕がいまでも続けられているのはうれしい。
しかし、桑畑の問題は象徴的だ。伝統的なものづくりが少なくなっていくのは、ものづくりに従事する人たちに原因があるのではなく、ものづくりを継続することを拒むように環境が変化しているのだということなのである。

伝統的なものづくりを守れるかどうかは、社会の問題でもあるということだろう。






第3章
歴史に一瞬の光を刻んだ鑓水商人――生糸輸出を支えた「絹の道」


鑓水・絹の道

生糸の輸出をめざして商人たちが通った
八王子−横浜を結ぶ日本版のシルクロード「絹の道」。
その道が歴史の中で輝いたのは、幕末から明治にかけてのわずか数十年間。
そこで活躍したのが「鑓水商人」である。
八王子近く、多摩丘陵にある小さな村に過ぎない鑓水地区の商人が、
石垣大尽、異人館と称されるほどの繁栄を見せた理由は?
外国商人も足しげく通ったという鑓水地区の「絹の道」を訪ねる。



(1)生糸輸出を支えた鑓水商人と八王子往還

■江戸鑓水−−生糸商としての鑓水商人
横浜の開港で生糸輸出が一気に沸騰するが、そんな中で活躍したのが「鑓水商人」である。
八王子の南、多摩丘陵に埋もれるような小村「鑓水」出身の生糸商人たちだ。

八王子はもともと、信州や甲州と江戸を結ぶ、重要な物資の中継点であった。信州・甲州の商人たちは産地で仕入れた生糸を八王子に持ち込んで売り払い、交換に江戸から届いた物資を購って持ち帰る。八王子は、地方の物資と江戸の物資が集まり交換する交易地になっていたのである。

鑓水の商人たちは、当初は、八王子の市で生糸を買い付けて江戸などに運んでいたが、そのうち生糸を求めて産地へ出向き、買い付けるようになる。
こうして、鑓水商人は次第に力をつけていき、幕末から明治初期にかけては、生糸売買で成功した屋敷が小さな集落に溢れていて、「江戸鑓水」として知られるほど繁栄していたという。

天保14年(1843年)の幕府の調査では、八王子周辺にある34の農村に47人の生糸商人がいたが、そのうち鑓水村の出身者が18名に達していたという。
八王子から南に数キロ、わずか百戸に満たない集落の鑓水から、なぜそんなにたくさんの商人が輩出したのか、そして、なぜ消えたのか、その真相はいまだに謎だ。

現在の鑓水風景。静かな村で、かつて鑓水商人が活躍した面影はあまり感じられない。

 

■鑓水商人−−臨機応変で機を見るに敏
生糸の売買は投機である。
繊細なカイコから取れる繭の量は環境に影響され、取引価格は需要の変化に大きく影響される。いかに、機を見て売買するかが商人としての腕の見せ所である。

そのため、市場の変化にも敏感である。幕府が欧米諸国と結んだ通商条約の写しなどが、当時の多摩地区の家々から発見されているのも不思議ではない。
鑓水商人たちが、横浜の開港とともに沸騰した生糸ブームを敏感に察知し、江戸や京に運んでいた生糸を横浜に運ぶようにしたのは、自然の成り行きだった。

幕末から明治にかけて活躍した商人としてあげられるのは、大塚五郎吉、八木下要右衛門、大塚徳左衛門らである。
リーダー格は名主の家柄だった大塚五郎吉。彼は、当初は、八王子や甲州産の生糸を購入し江戸に販売していた。

そのうち、売買だけでは限界があると考え、繭を買ってきて農家に支給して糸を取らせ、それを引き取って八王子の市で販売するようになる。
そして、横浜が開港すると、今度は八王子で生糸を買い付けて、横浜に運んで販売する。機を見るに敏というべきだろう。

記録によれば、大塚五郎吉は慶応3年(1867年)、横浜の有力な生糸売込み問屋である亀屋・原善三郎商店に17回にわたって合計736貫の生糸を出荷したとある。1貫目は3.75kgだから、合計2,760kgである。

八王子市場で生糸を販売する側だった五郎吉は、横浜開港とともに、逆に生糸を購入して横浜に運んで販売するという立場に変わっている。こうした臨機応変な変わり身の早さこそ、鑓水商人を一大勢力にした要因かもしれない。
  

明治11年に再建された鑓水に唯一残る小泉家の主屋。木造平屋建てで、田の字型四間取りの、当時の典型的な民家。 

敷地内に、納屋、たい肥小屋、稲荷社などがあり、上は母屋の横にある納屋。
   


(2)ウォーキングの聖地「絹の道」

■絹の道――鑓水峠越えの難路
横浜に向かう八王子往還の起点は甲州街道(国道20号線)の八日町交差点である。
厚木に向かう道を片倉で東に折れて鑓水峠を越え、原町田、川井を経て横浜に向かう。

片倉で曲がらずに御殿峠を越えてゆく道もあるが、鑓水峠を越える道の方が短い。
いまの国道16号線・町田街道に沿って多摩丘陵を横断するこの道は、起伏が激しく、人馬が越えることも困難な道だった。

幕末までは、もう少し北の鶴見川に沿って神奈川宿に抜ける道が利用されていたが、その神奈川道に代わってこのルートが利用されるようになったのは、ひとえに、それが最短距離だったためである。

いま、鑓水峠に行く場合、片倉からの登り道は階段になっている。
車で行く場合は、先回りして、南側(鑓水)の出口に行き、そこから戻って峠を目指すことになる。

この一帯は、いまは大塚山公園として整備されている。
うっそうと木々が茂り、峠の上には、礎石しかないが、当時は立派な道了堂があった。
鑓水商人たちによって、江戸・浅草の花川戸から移し建てられたもので、横浜に向かう道は危険もあり、商人たちは出発前にここに寄って、旅の安全や取引の成功を祈願していったという。

当時は茶店も3軒ほどあって、ここにお参りに来て、お茶を飲むというのが、八王子・鑓水の庶民の楽しみになっていた。鑓水商人の繁栄ぶりを物語る遺跡でもある。
  

かつて道了堂があったことを物語る礎石。賑わいの面影はない。 

大栗川にかかる御殿橋に掲げられた道了堂の銅板図。


道了堂へ上がる階段。



階段の横にある明治13年に八王子駅糸商が寄贈した築礎碑。道了堂が建てられるまでの成り行きが記されている。糸商人が一大勢力になっていたことを物語る碑である。
   


■絹の道――横浜への最短のアクセス道
片倉から大塚山公園に入ってしばらく登ると、左に石段が見える。上がるとそこはかつて道了堂があった境内である。

この道了堂から、鑓水村への入り口までの1.5kmは、平成8年(1996年)に文化庁が選定した歴史の道・百選の「27 浜街道―鑓水峠越」として登録されている。

この道が「絹の道」と呼ばれるようになったのは、昭和32年(1957年)地元の橋本義夫氏が鑓水商人の功績を記念して、道了堂への上り口に「絹の道碑」を建てたことによる。
その後、昭和60年(1985年)、道了堂から鑓水峠下までの区間を、八王子が「絹の道」として史跡に指定した。

両側に木が迫る細い道は、いまも舗装されずに昔の面影を伝えている。狭いところでは、道幅2-3メートル、大きな石が転がり、雨水の流れでくぼんで、2人が並んで歩くのもやっとである。

当時はこの道を、人が生糸を背負い、荷駄で運んだ。とても馬車を引かせられる道ではない。横浜まで十里と少し(約40キロメートル)。早い人は一日で歩いたと言うが、150年以上さかのぼる当時に、重い荷を背負った旅は困難だったろうと想像できる。

八王子、町田、横浜と都会に近いわりに、豊富な自然が残されているこの道は、休日ともなれば、ウォーキングや歴史探訪のグループでにぎわう。
舗装もされていない山道、しばしの時代劇の旅人気分に浸るのも悪くない。

細く、デコボコで大きな石が転がる峠道。馬と行くのも一苦労。都会の喧騒を忘れる
  

「絹の道」碑。幕末から明治にかけてこの道を通ったであろう鑓水商人の功績をしのんで昭和32年(1957年)に橋本義夫氏が立てた。このルートが絹の道と呼ばれるようになった先駆的な碑である。礎石に「繭・糸枠・桑の葉」の絵が浮き彫りにされている。

大塚山公園(右の道)から鑓水村に入る三叉路。石塔が並んでいるのは、さまざまな物語があってことを忍ばせる。右の道が鑓水峠を通って、八王子に抜ける道。左に行くと御殿峠道を抜ける国道16号線に出る。道はここから村に向けて舗装されている。
   


(3)「絹の道資料館」


■異人も通った石垣大尽の屋敷
鑓水峠を下ると御殿峠からの道と出会う三叉路に出る。
いくつかの石塔があり、ここが当時からの交通の要衝だったことが分かる。
ここからは、道は舗装されている。

石塔の中の左手後ろの方に、「道路改修記念」と書かれた碑がある。
昭和59(1984)年に、御殿峠に通じる道を補修した改修工事の完成を記念して建てたもので、ここから下の道はこの時の改修工事で舗装された。

絹の道を御殿橋の方に5分ほど下っていくと、左手に「絹の道資料館」がある。鑓水の代表的な生糸商人の一人で石垣大尽と称された八木下要右衛門の屋敷の跡地である。

石垣の石は相模川から馬の背に乗せて運んだと言われる。八木下要右衛門の屋敷は、異国人がしばしば訪れたために「異人館」と呼ばれた入り母屋風の屋根をもつ家で、記念館はその母屋を復元するように作られたものだ。

中に入ってみよう。
ここには、絹の道や鑓水商人の活躍の跡、さらには当時の養蚕の様子などの資料が、パネルなどで展示されている。見学は無料なので、ここでざっと絹の道について勉強させていただこう。
  

絹の道資料館。平成2(1990)年に整備された。入館料無料。月曜日休館。開館時間は9:00〜17:00(11-2月は16:30まで) 

入り母屋風の豪壮な建物だったことが想像される。


館内の様子。


馬の背に乗せて荷駄を積んだ鞍も展示されている。この鞍の左右に、1個9貫(33.75kg)の生糸を4個(135kg)積んで山道を運んだ。
   


■鑓水商人の繁栄ぶりをしのばせる諏訪神社・永泉寺
絹の道をさらに下ると、5分ほどで、右から道が合流する。
このあたりが、谷戸が入り組んだ鑓水の村の谷が収れんする、鑓水村の中心地である。
ここを右に折れて少し行くと、右に小さな階段と、その上に鳥居が見える。諏訪神社である。

階段を上がると、鳥居、神楽殿、拝殿・本殿と3段になり、境内のあちこちに石灯籠がある。これらはすべて鑓水商人の寄進になるもの。年代は文政〜嘉永年間(1820-50年代)のものだが、台石に寄進者の名前が彫られている。

江戸末期の鑓水商人の隆盛ぶりがしのばれる。
一番上段の奥にある本殿は、実は本殿ではなく、本殿を納めた覆屋とでもいうべきもの。ここには諏訪神社、子の神神社、八幡神社の3つが祀られており、それぞれの本社がこの覆屋の中におさめられているのだ。

さて階段を下りて、道を戻ると大栗川にかかる御殿橋に出る。八王子市の史跡「絹の道」の終点、御殿橋である。

当時は近くに公民館がありその前に建てられていた道標が橋のたもとにある。正面に「此方 八王子道」左に「此方 はら町田・神奈川・ふじさわ」右に「此方 はし本・津久井・大山」と書かれているのがわかる。

道標を右に見ながら左に進むと永泉寺だ。ここの本堂は、明治17(1884)年の火事で焼失してしまったために、八木下要右衛門の屋敷が移築されたものだ。お寺の本堂には珍しく破風造りの玄関があるのはそのためだ。

戻って橋を渡り、道を南に進むと右手に小泉家の屋敷(写真は前出)が建っている。個人宅なので、外から静かに拝見しよう。

エアポケットのように残された牧歌的な鑓水の村と絹の道。この区間はぜひ、往時をしのびながら散策をしてみたい。
・_DSC3476.jpg 諏訪神社の拝殿。後ろに、覆屋が見える。 ・_DSC3488.jpg 中を覗いてみると、3つの本社がある。 ・_DSC3486.jpg 境内に置かれている石灯篭。鑓水商人たちの寄進になるものだ。 ・CIMG1413.jpg 諏訪神社の由来がよく分かる。 ・CIMG1430.jpg 道を降りて大栗川に出ると御殿橋がある。 ・CIMG1427.jpg 御殿橋のすぐ横にある道標。「はし本・津久井・大山」の文字が見える。反対側は「はら町田・神奈川・ふじさわ」 ・_DSC3499.jpg 永泉寺本堂。祭礼での花火から引火して本堂を焼いてしまい、八木要右衛門の母屋を移築した。破風づくりの屋根をもつ本堂の玄関。
  

諏訪神社の拝殿。後ろに、覆屋が見える。 

中を覗いてみると、3つの本社がある。

境内に置かれている石灯篭。鑓水商人たちの寄進になるものだ。

諏訪神社の由来がよく分かる。

御殿橋のすぐ横にある道標。(右)はし本、(中)津久井、(左)大 山」の文字が見える。ここが交通の要衝であったことがうかがえる。反対側は「はら町田・神奈川・ふじさわ」。

永泉寺本堂。祭礼での花火から引火して本堂を焼いてしまい、八木要右衛門の母屋を移築した。破風づくりの屋根をもつ本堂の玄関。



道を降りて大栗川に出ると御殿橋がある。




   


■環境の変化に取り残された鑓水商人
さすがの隆盛を誇った鑓水商人も、明治時代の後半になると生糸取引の舞台から消え、歴史の表舞台からフェードアウトしてゆく。
鑓水商人が外国商人を相手に直接生糸取引を行うわけではなく、彼等の相手は、異国商人と渡り合う横浜商人である。

さしもの鑓水商人も、異国商人と交渉をこなす横浜商人との交渉では常に後塵を拝し、取引が進むにつれて次第に劣勢になってゆく。
自ら養蚕事業へ乗り出して産業資本家への変身を図ったりするが、さらに大きな環境の変化が鑓水商人に襲いかかる。

開港のころは、荷駄で輸送した。それが明治22(1889)年、新宿-立川間27.2kmに甲武鉄道が開通し、半年後には八王子まで9.7kmに鉄道が伸びる。

1日がかりで運んだ距離が、わずか1時間で行けるようになってしまい、さらに、明治36(1903)年には八王子-甲府間が、41年(1908)には八王子-東神奈川の42.49kmが開通し、八王子を素通りして横浜に生糸が運ばれるようになる。

絹の道の先導役でもあった鑓水商人の出番がなくなってしまったのである。

洋の東西を結んだシルクロードが、鉄道・飛行機の発達によって命脈が絶たれたように、鑓水商人によって開拓された絹の道も、鉄道によってその役割を終えることになった。
絹の道、日本版シルクロードが、歴史上輝いたのは、幕末から明治中頃にかけてのわずか数十年間のことだった。






第4章
八王子往還・浜街道――八王子と横浜をつなぐ最短の道


横浜市瀬谷区の長屋門公園にある大岡家の長屋門

甲州街道から八日町で分かれて
片倉−鑓水−相原−原町田−川井−白根−芝生−野毛−関内−横浜港
と続く八王子往還・浜街道は多くの商人が通った絹の道である。
もともと八王子往還は、起伏に富んだ難路として知られた脇街道だが、
それゆえに路程を熟知した鑓水商人の役割が大いに重要でもあった。
絹の道とはどんな道だったのか、往時をしのびながらたどってみる。



  (1)多摩丘陵を抜けて横浜へ

■シルクロードは「桑の里」
八王子と横浜を結ぶ「絹の道」のルートはいろいろ考えられるが、なかでももっとも有力なのが、八王子を発して、片倉−鑓水を通り、町田市相原・橋本−原町田−鶴間−川井−横浜市旭区今宿―松原商店街で、東海道と合流し、浅間下を南に折れて平沼−野毛−関内を経て横浜港へと向かうルートである。

いまこのルート周辺は首都圏のベッドタウンであり、大きく様変わりして、かつての面影はあまり残っていない。

1859年に横浜、函館などの港を開いたことで、多くの外国商人が横浜にやって来た。
そうした外国人は居留地に住むことを求められ、旅券なしで旅行できるのは、多摩川以南の10里四方と定められた。

居留地に住んだイギリス人たちが居留地から出て乗馬や遠出を楽しんだコースなどを記した地図「横浜周辺外国人遊歩区域図」がある。
慶応3年〜明治元年に作成されたもので、八王子(Hatchoge)、橋本(Ashomoto)、木曽、原町田(Haramatchoda)、保土ヶ谷(Hodogaya)、横浜(yokohama)などが記されている。

この一帯には、地図のあちこちに「Mulberry District」の文字が見える。桑の里である。
言い換えれば、この地域で桑が大量に栽培され、養蚕が行なわれていたということになる。

右下の横浜から左上にある八王子、あるいは、厚木に向う道の周辺はMulberry(桑)の文字が書かれている。(横浜周辺外国人遊歩区域図(ベアト「横浜の近代遺産」より)


■カイコの成長力−−子だね(蚕種)石伝説
このルートのところどころに「こだね(蚕種)石」と呼ばれる石がある。リニア新幹線の駅候補地として話題になっているJR横浜線橋本駅近くには、蚕種石と名付けられた地区もある。

八王子から御殿峠を南下して相原坂下を東に入ったあたり、南から来れば町田街道の相原三叉路を北に入ったあたりの一角が、蚕種石と呼ばれる地域だ。
今では字名は使われないが、しばらく前ならば、さしずめ「相原町字蚕種石」とでも呼ばれたのだろう。いまでも「相原蚕種石児童公園」などの名に残されている。

この住宅街にある民家の一角に、120cm×80cmほどの俵型の「蚕種石」が祀られている。こだねいしの呼び名は、「天種子命(あめのたねこのみこと)」からつけられたもので、石は古くから養蚕繁栄の象徴のように信仰されてきたという。

さらに、町田街道を東に進み、京王相模原線の下をくぐって北に曲がると多摩境駅の裏手に札次神社がある。
鳥居を抜けると、すぐ右手の一角に蚕種石と名付けられた石が祀られている。神社の案内によれば「子孫繁栄」への信仰が書かれている。

どちらの石も、養蚕との関連はないようだ。
カイコは、小さく生んで(孵化した稚蚕は2〜3ミリ)、大きく育つ(成虫になると、体重は1万倍になる)ことから安産と子育ての無事を願う願望をこれらの石に込めて信仰されたようだ。
 

町田市相原地区にある蚕種石。120cm×80cmくらいの俵型。



「天の種子」から、蚕の種子、蚕種とつながったのだろう。カイコが持っていた、子宝、成長のイメージが、「子育て信仰」に結びついたと思われる。

置かれているのは民家の一角。


札次神社


鳥居をくぐって境内に入った過ぎ右手に、別に鳥居が設置され、蚕種石が祀られている。

札次神社にある神社と蚕種石由来。「子孫繁栄と養蚕信仰」と書かれている。
   

(2)桑の里の養蚕農家

■養蚕農家の様子を残す――長屋門公園
イギリス人たちが乗馬でと腕を楽しんだ上記の地図にある横浜市瀬谷区のあたりでも明治の中頃には周辺では養蚕が多く営まれていたようだ。その養蚕の姿を伝えるのが、横浜市瀬谷区の長屋門公園にある大岡家の長屋門である。
門の前には製糸工場があり、合名会社として多くの出資者によって運営されていたという。
繭は周辺の養蚕農家から購入し、生糸取引の盛衰にもまれながら昭和初期まで続けられていた。建物の形は、中2階のような高さで屋根に越屋根が付けられており、上州の高山社などで開発され広められた養蚕ノウハウが取り入れられているのが分かる。

どっしり構えた門の右手の住居は後に隠居部屋として使われた。つづく左は土間に続いて穀倉として使用されていた土蔵がある。

母屋は、横浜市泉区和泉町にあった安西家の主屋を移築したもの。
養蚕は行なわれてはいなかったようだが、泉区あたりには、たくさんの製糸工場があり、天王森泉公園の和泉館は、明治に創業された、製糸工場の本館である。
 

明治20年(1887年)に建てられた旧大岡家の長屋門。長屋門は、住居用の部屋が付いた門で、2階などで養蚕が行なわれていた。

もともと和泉村の名主を務めた安西家の住宅主屋。建てられた時期は天保年間頃と推定されている。平成4年に移築された。
   


■大きな高低差と蛇行する難路――絹の道
先に紹介した地図の八王子から横浜に向けて伸びるルートは、ほぼ絹の道と重なるが、この道を、当時の英国人たちは、大山登山の帰りに通っている。

このルートが難路だったことを示す碑がいくつか残されている。国道16号線(八王子街道)の、一つは下白根、もう一つは和田にある道橋改修碑である。
下の下白根にある改修碑のように、今は道路が整備されて平たんな幹線が貫いているいるが、元は急勾配である。

この辺では、国道16号線に沿って帷子川が流れ、相鉄線がその南側を走るが、鶴ヶ峰と西谷の中間、下白根のあたりで帷子川が国道16号線に近づく。
横浜から行くと、北側の丘陵が国道に迫り、南に帷子川が10メートルほどの落差で流れる。

いまは4車線の道路が走るので急峻さは感じないが、当時、ここを行くとすれば、帷子川を渡った後、数十メートルの落差の崖を登りながら横にトラバースすることになる。

牛馬と荷駄で越えるのも難儀しそうだ。和田村道橋改修碑の地形も同様で、絹の道は背後に迫る丘陵と帷子川の間のニッチなロケーションにある。

この2つの改修碑は、江戸時代の1700年代中頃に建てられたもので、勧進元は江戸に住む個人である。
財を成した人が、功徳のために私費を投じて社会に還元する、江戸時代とはそうしたボランティ発想がしぜんに行われた社会でもあったのである。
  

下白根の道路改修碑。前を旧八王子往還が走っていた。手前を帷子川が流れる。

碑のまえを右に上っていくのが旧「絹の道」

道路の手前を帷子川が流れる。谷は深く、急勾配で登る道との落差は大きい。

碑の説明看板。碑は1739年11月に建てられた。

和田村道橋改修碑。1737年11月に碑が建てられた。


碑は歩道橋の下にあるが、裏の丘陵から道路の反対を流れる帷子川に一気に落ちる落差のある道だったようだ。川にはしっかりした橋も渡されていなかったのだろう。
   


(3)突貫工事で作った「よこはまみち」

■東海道を外した港の整備――よこはま道
1858年に結んだ通商条約で、幕府は函館、長崎、下田と神奈川を開港する約束をしたが、困ったのは神奈川の港の場所である。
神奈川の湊を外国人に開放するには問題が多すぎた。

和親条約・通商条約を結んで開国をしたが、世情は、勤王と佐幕派が国論を二分して激しく争う中にあり、どちらも開国を拒否して夷敵と戦うべしと開港政策に反対だった。

そんな中で、東海道の宿場の一つで江戸に近く、往来の激しい神奈川宿に異国人を迎えれば、血気盛んな士族から彼等を守ることができない。

さらに、ここを開けば、夷敵がここにやってくる。神奈川から江戸へは20里。ここに大型船で武器を持ち込んで攻撃を受けたら江戸が危険にさらされる危険がある。神奈川に港をつくるわけにはいかないのである。

開国を進めた井伊直弼が、安政7年に江戸城桜田門外で襲撃されたり、文久2年(1862年)には生麦でイギリス人が襲われるなど、政府の心配はもっともだった。

こうしたなかで苦肉の策として生まれてきたのが、神奈川の対岸に広がる横浜の砂州に港をつくるというアイデアであった。
東海道からひと山越え、水深も十分にある。

問題は、アクセス道がないことだった。
そこで、幕府は急きょ、東海道の芝生(しぼう)村から岡野−平沼−野毛を経て開港場に至る1里弱の道を普請した。

それが「よこはま道」である。起点は今の国道1号東海道の浅間下交差点。絹の道の終着地は、この先、開港場に渡る吉田橋である。

東海道から開港場に向けてつくられた「よこはま道」の分岐点。国道1号東海道の浅間下交差点からみると、まっすぐ前に横浜港・ランドマークタワーが遠望できる。
 

■よこはま道――3kmの道路工事をわずか3か月で完了
芝生村から開港場に向う道は、いまのJRの関内駅に向かう。
岡野から平沼あたりは湿地だったために、整備して新田間橋(新田間川)、平沼橋(帷子川)、石崎橋(石崎川)の3つの橋を渡して戸部村までつなげた。

さらに、南にある伊勢山を開いて切り通しを作り、野毛浦と吉田新田の間を野毛橋(都橋:大岡川)でつなぎ、さらに太田橋(吉田橋)を建設して開港場につなげた。

芝生から吉田橋まで1里弱(約3km)。
開港をまじかに控えて、わずか3か月の突貫工事であった。

ルートは沼地である。しかも建設重機はない。3kmの難しい道路工事を、人力だけで3か月で完了するそのプロジェクト推進力は、世界的に見ても、類がないレベルの高さと思う。

これだけの期間で資材を調達し、計画し、実施する、江戸末期の日本人の土木工事とプロジェクト推進能力の高さは、驚くほどだ。
  

新田間橋手前から戸部方向を見る。
平沼橋の先に、戸部の町並みが見える。
 

いま、左の絵と同じ新田間橋に立って同じ方向を見てみると、正面にランドマークタワーが見える。前に見える橋が平沼橋である。


野毛の切り通しの東に掃部山がある。掃部山には
開港をリードした大老・井伊掃部頭の像が
建てられている。

開港場に店を構えた商人たちは、生糸ブームに乗って事業が大きくなると、「別荘」と称して私宅を近くに造った。明治の初めに建てられた横浜の豪商・平沼専蔵別荘の擁壁が野毛交差点に今でも残っている。六角に切った石を積んだ亀甲積で、関東大震災などにも崩れずに今に伝わっている、美しい石組みの技術は見事だ。
   


■横浜港への関門……カネの橋「吉田橋」
安政6年(1859年)によこはま道を作った際に、大きな課題は、最後の開港場のつなぎだった。
砂州を埋め立てて開港場を作ったが、その手前、伊勢山下・野毛との接点が内海として残っていたのである。

当初は仮りの橋が作られたが、安政7年(1860年)になると、太田新田が開港場として整備されるとともに、本橋がかけられ、新田を太田町と名前を付け、新しい橋を吉田橋と呼んだ。

そして、攘夷を狙う暴漢から異人を守るため、吉田橋に開港場への通行を取り締まる関門を設け、ここから港寄りの地区を関門の内側、つまり「関内」と呼んだ。
JRの関内駅の名は、関門があった当時の名残である。

この吉田橋は当初は、木製の橋だったが、生糸貿易が盛んになるにしたがって人通りが増え、明治2年(1869年)10月にイギリス人の土木技師R・H・ブラントンに設計を依頼して、鋼鉄製の橋を完成させた。

素材の鉄はイギリスからの輸入である。
橋と言えば木製の時代に、「鉄(カネ)の橋」の愛称で人気になり、これを渡るために訪れる見学者も多かったという。
同じ明治2年に造られた長崎の中島川にかかる銕橋(くろがねばし)とともに、わが国最古の鉄橋である。
  

よこはま道。 

開港場となった太田新田が埋め立てられたばかりで、活用されていない。海岸に近い半分が当初商店などが建てられて使用された。(横浜市立中央図書館所蔵)

鉄製の橋は文明のあかし。幅6メートル、長さ24メートル。鉄材を交叉させて三角形に組んだトラス構造。新しいもの好きのもの見高いやじ馬で混雑したという。(横浜市立中央図書館所蔵)

復元された現在の吉田橋。下を流れる大岡川は暗渠になり、いまは橋になっていない。


JR関内駅近くに立つ吉田橋関門跡の碑。

吉田橋から逆に吉田町・都橋方向を見る。左に分かれていく道が、野毛を経て浅間下に向かうよこはま道である。


   






第5章
生糸を金貨に変えた横浜開港――輸出ブームに沸く横浜開港場と生糸商人


横浜開港地にあった原善三郎商店

戸数わずか50ほどの寒村だった横浜に
突然降ってわいたように港が作られ、外国商人がやってきた。
生糸が高値で売れると一攫千金をめざして、各地の商人が横浜に生糸を持ち込む。
そのために、東海道から横浜港へのアクセス道として整備された浜街道。
シルクロードの最終区間は、東海道から開かれた横浜の港への道である。
取引の舞台となった横浜の当時の状況をしのびながら訪ねてみる。



(1) 通商条約の締結と横浜開港

■開港3か月後には木曽から売り込みに

「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政六年の十月を迎えた頃である。・・・」

木曽路はすべて山の中である・・・で始まる島崎藤村「夜明け前」の第4章の書き出しである。

『夜明け前』は、幕末から明治にかけての動乱期に生きた、木曽・馬籠本陣の跡継ぎ青木半蔵の半生を歴史とともに描いたものだが、第4章は、中津川の商人が物見高い老医者宮川寛齋らを伴って横浜の生糸売買の様子を見に行くところから始まる。

これを読んで驚くのは、木曽の山の中・馬籠の商人でさえ、なんと、安政6(1859)年7月1日の開港後、わずか3か月という時期に、横浜に生糸を売り込みに行こうとしていることである。この情報伝達の速さ、行動の速さ、生糸が売れるなら私も売り込みに行きたい、と出かけてしまう野次馬精神、機動力。これこそ、日本人の特性であり、近代化を急速に進めたエンジンといってもいい。 中津川から江戸に行くには、馬籠峠を越えて木曽路に入り、中山道を通って塩尻−軽井沢−高崎−板橋と経て江戸に入る。距離は85里(約340km)、山道で10日を越える行程である。

その意欲たるや尋常ではない。
藤村も、「中津川から神奈川まで百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということは容易ではない」と書いている。

この時代にはまだ、塩尻から甲府へと出て八王子に回り「絹の道」を行くという選択肢はない。
いったん江戸の定宿に入り、その宿の主人の案内で横浜の牡丹屋なる宿に止宿する。まだ横浜に居留地も宿もない開港直後のことである。

中津川から江戸に至る中山道のルート。江戸まで約85里、340kmの距離を、10日くらいで歩いた。


■神奈川宿と横浜
当時の横浜がどんな状況だったのか、もう少し『夜明け前』で見てみよう。
通商条約の締結によって、幕府は、神奈川の対岸にある山手から突き出た戸数わずか50戸ほどの砂州「横浜」に港を作ることにして、開港に合わせてあわてて整備した。

「あるところは半農半漁の村民を移住させた街であり、ある所は運上所を中心に掘っ建て小屋の並んだ新開の一区画であり、あるところは埋め立てと縄張りの始まったばかりのような畑と田圃の中である」。

横浜港を開くと、江戸に近い便利さから、外国の領事館員や商人たちが押し寄せてきた。しかし、十分に住む場所が確保されているとは言い難かった。

下田から移った各国の領事館員たちは「さみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓を定めた神奈川台町近くの本覚寺や他の寺から動こうとしない」。

「神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。・・・二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区画が神奈川台の上にある」。

まだ、港に居留地が作られていないために、外国人たちは神奈川宿の中で料理屋などが並ぶ神奈川台町に住んでいた。

「黒い関門の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山の下に出るには、内浦に沿うて岸を一廻りせねばならぬ。程ヶ谷からの道がそこに続いてきている。野毛には奉行の屋敷があり、越前の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り。土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内に入った」。

港を作って外国人が入国してくると、攘夷を武士や暴漢から外国人を守るために関門が設けられた。
開港場に外人用の居留地を作る予定だったが間に合わないので、外国人を集めて神奈川台町の一角に住まわせた。そして、暴漢が入れないように東西に関門を作った。
それが「黒い関門の木戸」であり、番所を置いて見張りが付いた。
・絹と光030横濱クリペ1865.jpg 1865年当時の横浜地図。黄色が外国人居留地、ピンクが日本人街、白は湿地で、まだ完全に埋め立てられていなかった。中にあるのは遊女屋(『絹と光−知られざる日仏文化交流100年の歴史(アシェット婦人画報社』より)。 ・神奈川台町.jpg 広重描くところに神奈川台。道は東海道である。中ほどに、「さくらや」の字が見えるが、ここは現在の「田中屋」。すぐ左は海、海の向こうに元町の先の山手地区が見える。 ・神奈川台町関門 広重の浮世絵を逆に向こうから見た神奈川台町の関門。右に見える「下田屋」は、広重の絵にある「さくらや」で現在の「田中屋」(横浜市立図書館所蔵)。 ・CIMG3477神奈川台町.jpg 現在の神奈川台町の風景。 ・CIMG3546 広重の絵にある「さくらや」は「さくらや→下田屋→田中家」と名前が変わり、田中屋になったのは1863年から。坂本竜馬の妻の「おりょう」が、勝海舟の紹介で明治7年ころから働いていたという。
  

1865年当時の横浜地図。黄色が外国人居留地、ピンクが日本人街、白は湿地で、まだ完全に埋め立てられていなかった。中にあるのは遊女屋(『絹と光−知られざる日仏文化交流100年の歴史(アシェット婦人画報社』より)。

広重描くところに神奈川台町。道は東海道である。中ほどに、「さくらや」の字が見えるが、ここは現在の「田中屋」。すぐ左は海、海の向こうに元町の先の山手地区が見える。


広重の浮世絵を逆に向こうから見た神奈川台町の関門。右に見える「下田屋」は、広重の絵にある「さくらや」で現在の「田中屋」(横浜市立図書館所蔵)。

現在の神奈川台町の風景。


広重の絵にある「さくらや」は「さくらや→下田屋→田中家」と名前が変わり、田中屋になったのは1863年から。坂本竜馬の妻の「おりょう」が、勝海舟の紹介で明治7年ころから働いていたという。
   


■ジャーディンに仰天価格で直接販売
59年の横浜開港と同時に、いち早く日本にやってきた商人たちの中に、後に、ジャーディン・マセソン商会の日本支社を開設するウイリアム・ケズウィックがいた。
『夜明け前』で藤村がケウスキイと書いているその人である。

「(神奈川台町)に住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居するという貿易商であった。・・・(中津川から様子見に来た萬屋)安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本はケウスキイを驚かした。これほど立派な品なら何程でも買うと言うらしいが・・・糸目百匁あれば、一両で引き取ろう」

というと聞いて、今度は安兵衛らが驚ろいた。

見本のつもりで持ってきた生糸は、1個(9貫33.75kg)につき130両で売れた。約70匁で1両、1斤(160匁=600g)が2.29両である。

当時、諏訪の取引相場は1斤が1.45両で、1個売っても82両にしかならない。1個が130両で売れるとは破格の値段である。

これを知った安兵衛らはあわてて国元に帰り、生糸を買い集める。
そして、翌年の4月、萬屋安兵衛が手代の嘉吉を連れてやってくる。

神奈川台の異人屋敷で商談を行い、糸目64匁につき、金1両で取引はまとまった。
1斤で換算すると2.50両。1個で140両と取引価格はさらに値上がりしていた。

横浜の開港で、国内の生糸相場も高騰した。
こうして、生糸はあちこちから横浜に集まり、生糸輸出を独占していた横浜港は大きく発展することになる。


(2)生糸商人が集まった横浜開港場

■居留地に「英一番館」
こうして生糸取引が話題になると、多くの商人が、国内外から横浜を目指してやって来る。
翌年、1860年になると居留地が完成し、東の山下地区は外国人用に、西の半分が日本人用に販売される。

外国人用の居留地には、港から順番に1番、2番と番号を振ったが、1番地を買ったのがジャーディン・マセソン商会のケズウィックで、ここに入母屋根の木造2階建ての商館を立て「英一番館」と名付けた。

外観は、決して立派なモノとは言い難かったようだが、しかし、商品の展示会が行われるなど、珍しさも手伝って、商館として大いに流行ったという。

この和洋折衷の建設を請け負ったのが鹿島建設の創業者鹿島岩吉という。

この初代「英一番館」は1866年に起こった豚屋火事で焼け出され、その後、立派な白亜の2代目が建てられた。跡地には、いま、シルクセンターが建っている。

ケズウィックに続いて早くに来日したのが1862年バビエル、63年ブレンワルドらのスイス人。それぞれ居留地に店舗を構えた。

バビエルは居留地56-58番で生糸などを扱う商社を経営、自ら品質検査なども行っていた。
また、ブレンワルドは、居留地90番に店を構え、生糸などの輸出の他に繊維や兵器の輸入なども行っている。
  

1860年になると居留地も整備され、沢山の商社がたてられた。

ケズウィックが建てた英一番館。

シルクセンター前に立つ、英一番館跡の碑。


バビエル商会 粗悪品や量目違いなどに悩まされてきた商社が、自ら生糸検査室を設けて購入品を厳密に検査していたことが分かる(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)。

米和親条約が締結された開港資料館前広場に展示されている、居留地90番のシーベル・ブレンワルド商会の跡から堀り出された大砲。
   


(3)日本人生糸商の台頭

■生糸取引の先駆者−−中居屋重兵衛
横浜の生糸商と言えば、原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛、小野光景、若尾幾三、平沼専蔵・・・等の名前があげられるが、先駆者としての貢献度で中居屋重兵衛をあげないわけにはいかない。

単に生糸輸出で財をなした横浜開港時の立役者というだけでなく、幕末から明治への動乱期を駆け抜けた風雲児とでもいう人材だ。

中居屋重兵衛は、群馬県嬬恋村出身で、幼名を武之助、成人して撰之助という。
家伝の火薬製造を身をつけ、江戸の書店に寄宿。書店で独立を機に中居屋重兵衛を名乗る。
おりから沿岸防備に火薬が求められ、そこで見込まれて、火薬の製造に乗り出す。


1857年、38歳の時に、たまたま知り合った米国領事館員と生糸の取引を行うようになる。
幕府が、横浜開港を決めたさい、御用商人である三井物産や中居屋重兵衛に出店を要請、そこで重兵衛は本町4丁目に店舗を構える。

その後、横浜での生糸取引がブームとなり、中居屋は信州・甲州・上州と精力的に取引を伸ばし、店は繁盛して財を成す。
本町に構えた店舗は2階建てで屋根を銅葺きにしたもので、あかがね御殿と呼ばれる豪壮なモノだったという。

重兵衛の好況を見て、後の続くものが増え、横浜が生糸取引の中心地となって日本中の生糸が横浜にくるようになった。
横浜で生糸取引商を事業化した先駆者だったが、その後、火薬製造などで井伊直弼との関係などを疑われて失脚。

重兵衛が生糸商として活躍したのはわずか3年ほどのことだが、まさに台風のごとく通り過ぎた風雲児であった。 ・CIMG2427-中居屋跡.jpg   ・CIMG2428 上の碑の部分を拡大したもの。赤くひときわ鮮やかに描かれているのがあかがね御殿と呼ばれる銅葺きの中居屋店舗。その右に「三ツ井」とあるのが、三井物産の店舗。 ・63.三井物産-1.jpg 図で「三ツ井」と書かれているのが本町4丁目に店を構える三井物産。政府からの依頼で、横浜に店舗を構えた。いまは、昭和4年に安田銀行横浜支店として建てられたビルがあり、東京芸大大学院映像研究科馬車道校舎として使われている(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)。  ・8-亀善-善三郎.jpg 武州児玉郡渡瀬村に生糸商の子として生まれる。地方の屑糸や提糸を集めて横浜に運び、後の弁天通りに亀屋を構えて財を成す。銀行の創設などに尽力し、横浜蚕糸貿易商組合長、横浜蚕糸外四品取引所理事長、横浜商業会議所会頭などを務めた横浜を代表する生糸商人。(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)
  

本町2丁目の角に設置されている中居屋重兵衛店跡の碑。中居屋重兵衛は群馬県の嬬恋村出身で、幕末から明治初めにかけて、火薬の製造で財を成し、開港時には貿易商として店舗を構え、生糸取引の半分を扱ったという。隆盛を誇ったが、間もなく歴史の舞台から消える。横浜貿易の黎明期に台風のごとく通りぬけた傑物である。現在は、日本生命横浜本町ビルが建っている。

上の碑の部分を拡大したもの。赤くひときわ鮮やかに描かれているのがあかがね御殿と呼ばれる銅葺きの中居屋店舗。その右に「三ツ井」とあるのが、三井物産の店舗。




図で「三ツ井」と書かれているのが本町4丁目に店を構える三井物産。政府からの依頼で、横浜に店舗を構えた。いまは、昭和4年に安田銀行横浜支店として建てられたビルがあり、東京芸大大学院映像研究科馬車道校舎として使われている(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)。

武州児玉郡渡瀬村に生糸商の子として生まれる。地方の屑糸や提糸を集めて横浜に運び、後の弁天通りに亀屋を構えて財を成す。銀行の創設などに尽力し、横浜蚕糸貿易商組合長、横浜蚕糸外四品取引所理事長、横浜商業会議所会頭などを務めた横浜を代表する生糸商人。(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)
   


■横濱-新橋に鉄道が敷設される
こうして横浜に生糸が集まるようになると、絹の道が大いに利用されるようになる。

近代化に生糸の輸出が不可欠との理解のもと、いかに生糸を横浜に集めるかが重要になり、大量輸送を可能にする船便の定期便が江戸と横浜に間に始まる。

同時に、かねてから検討していた鉄道敷設の話が持ち上がり、計画が立てられる。

線路を敷く必要があるが、問題は神奈川から先だった。当時、神奈川から先、桜木町までは海の中だったのである。

東海道を進むならば、鶴見−神奈川ときて、浅間下まで敷き、そこで南下して、平沼−野毛−吉田橋と大きく迂回することになる。
古い地図を見れば一目瞭然だが、神奈川の向かいに海を隔てて横浜がある。イギリス人鉄道技師のモレルの設計・監督でスタートした工事で、神奈川から横浜までの鉄道敷設を請け負ったのが高島嘉一郎だった。

高島は、青木橋で東海道と別れて、真っ直ぐ海の中に堤防道を築き、堤の上に線路を敷いて、野毛山下に横濱停車場(現桜木町)を作った。

高島が請け負った契約は、晴天140日以内で工事を終えるという難しいものだったが、これを見事に完成させ、海を突っ切って弧を描いて走る堤防の上野土地に高島町と名付けた。

線路、道路以外は高島が自由に使ってよいという条件で、自らの名をつけたのである。
埋め立ての土は、現在の青木橋の近く、海側にあった権現山を切り崩して使った。

鉄道の敷設で生糸搬送の便が良くなった横浜港は、ほぼ独占のかたちで国内の生糸を集め、輸出をほぼ独占し、港湾施設を拡充させて急速に発展していく。

この間、八王子からの絹の道は生糸輸送の最短ルートとして大いに活用されるが、明治41年、横浜線が開通すると、長い間利用されてきた「絹の道」は役目を終える。
横浜開港から約半世紀、一本の細い道が、歴史に輝いたのはわずか数十年のことだった。
  

鉄道が敷設された時の青木橋から横浜方向を見る。今の横浜駅周辺がまだ海の中で会ったことがよく分かる。

現在の青木橋。すぐ先が横浜駅だが、海が埋め立てられて、横浜駅がつくられた。 

左の中央から伸びた線路が2棟並ぶ横浜駅(桜木町駅)につながっている。駅は新橋駅と同じデザインの木骨石造りで明治4(1871)年に完成した。周辺は海だった。(横浜市立図書館所蔵
   






第6章
横浜の生糸貿易建築遺産――日本経済を支えた横浜の洋館たち


開港50周年を記念して建設された開港記念館

開港をきっかけに生糸商人が店舗を構え、外国人もやってきて、
横浜では新しい事業が次々と展開される。
町や港が整備され、郵便が事業化され、銀行が作られ、
横浜の顔となった赤レンガ倉庫が作られ、
生糸貿易を核に横浜は一大貿易都市へと発展を続ける。
明治以来百数十年、日本経済を支えてきた
生糸輸出にまつわる横浜の近代化と近代建築の遺産を訪ねてみる。



(1) 近代日本への出発点

■和親条約締結の地――横濱開港資料館(旧英国領事館)
横浜の開港は、嘉永7(1854)年に日米和親条約を締結したことに始まる。
前年の嘉永6(1853)年、ペリー一行がアメリカ大統領の親書を持参して「四杯のジョーキセン」でやってきて幕府に開国をせまる。

即答できない幕府に、1年後の回答を約束させてその場はいったん引き下がるが、翌年3月に再度やってきて、開国を迫る。
イヤなら攻撃をという脅しをちらつかせながらの再三の要請に、幕府はとうとう断りきれず、横浜の浜辺に陸を許して、和親条約の交渉を行うことにした。

日本側は急遽、横浜にあった水神社近くに応接所を設け、そこで交渉を行う。

会談は4度に及び、アメリカが下田に総領事をおくこと、アメリカ船の下田・箱館への入港を許可すること、薪・水・食料・石炭の補給を許すこと、互いに漂流民の救助を行うこと・・・などを定めた和親条約を締結した。

ペリー一行に同行した画家のハイネがその時の様子を絵にしている。
日米和親条約が締結された地の跡に横浜開港資料館が建てられている。もともとは昭和6(1931)年にここに英国領事館が建てられたが、戦後の昭和56(1981)年の開港記念日に横浜開港資料館として活用されるようになった。
  

ペルリ提督以下横浜村上陸図 1854年、ペリー一行が下船し、横浜に設けた応接所で、和親条約締結の交渉が行われた。左が応接所。右にミス神社と玉楠の木が見える


日米和親条約締結の碑 開国資料館前の広場にある。



   
図の左が応接所、右の玉楠(タブノキ)が立っているところが水神社。応接所の場所は、港を作る際に整備され英国領事館が建てられた。
その領事館は大正12年の関東大震災で倒壊・焼失。その後、昭和6年に再度、英国領事館が建設されたが、昭和47年には業務を終了し、横浜開港資料館として利用されるようになった。

関東大震災では玉楠も焼けてしまったが、根から若芽が伸び、大きく成長して、いま、横浜開港資料館の「玉楠の木」として中庭一杯に茂っている。
  


横浜開港資料館 日米和親条約締結の地の跡にたつ横浜開港資料館。昭和6(1931)年に英国領事館として建てられ、昭和56(1981)年の開港記念日に横浜開港資料館として活用されるようになった。

玉楠の木 水神社にあった玉楠の根から出た芽が大きく成長し、開港資料館の中庭一杯に枝を広げている。

   


■生糸貿易の税関――運上所跡(県庁)
和親条約締結後、アメリカは再三、通商条約締結を要求、幕府はこれを断りきれず、安政5(1858)年、井伊直弼の独断で日米修好通商条約を締結する。

続いて英露蘭仏からの要望もあって5か国と締結。日米修好通商条約で、1年後に神奈川・箱館・長崎・新潟・神戸を開港するとの約束を交わしたために横浜を神奈川の一部として港を開港。

安政6(1859)年6月の横浜開港に合わせて、前年から通商条約の交渉に携わってきた水野筑後守らの外国奉行が管轄する形で、神奈川奉行がいまの紅葉丘に設置された。

そして、貿易にまつわる管理業務を行うために、専門の役所として港の入口・県庁舎がある所に神奈川運上所(税関)を設けて、税関業務や外交業務を行った。

現在、紅葉丘の県立図書館、県立音楽堂近く、県立青少年センター前に神奈川奉行所跡の碑が、また、県庁舎の南西角に、運上所跡の碑が建てられている。
  

運上所跡 神奈川県庁舎の西南角に設置されている。


神奈川県本庁舎。昭和3(1928)年に設計を公募して建てられた。和風の作りで、軒先や内装などアルーデコ調のデザインが多用されている。壁面はひっかき傷のあるスクラッチタイル。塔はキングの名で親しまれている。

神奈川奉行所跡碑 紅葉丘の県立青少年センター前に立つ神奈川奉行所跡の碑。

   


■生糸商人たちの商工会議所――町会所・横浜市開港記念会館
横浜に商人たちが集まって一大問屋街が形成されるようになると、お互いの情報交流だけでなく利害関係の調整も必要になってくる。
今でいえば商工会議所だが、その集会所を町会所と呼んだ。ちなみに、発音は「まちがいしょ」である。

 慶応2(1865)年に、肉屋から出火した豚屋火事で日本人街とともに町会所も焼失、明治7(1874)年に新たに本町5丁目に町会所が新設された。
当時は、番地が今とは逆につけられていて、当時の本町5丁目は今の本町1丁目。

この場所、いま横浜市開港記念会館があるが、町会所ができる前は、福井藩が横浜に開いた商館「石川生糸店」。実は岡倉天心の誕生の地なのである。

岡倉天心の父親・岡倉勘右衛門は福井藩の下級藩士で、藩命で武士の身分を捨て、生糸問屋「石川生糸店」に仕向していた。
天心は、その店の角倉で文久2年(1863年)に生まれたことから、角蔵と名付けられたそうだ。

豪華な町会所だが、建築費は、明治6(1873)年に炎上した皇居の造営費にと横浜商人が献金したが却下された8万円を転用した。
石造亜鉛葺き2階建て、一部4階建て、延べ約765平方メートルの壮大な洋風建築だ。

時計塔の時計はイギリスから輸入したもので、時打装置が時を打ち、開港場のシンボルでもあった。
しかし、明治39(1906)年、老朽化して大修復を行う矢先、付近から起こった火事で類焼してしまった。

その後、明治42(1909)年、開港50周年を記念して市民の寄付により公会堂が建設されることになり、大正3(1914)年に起工、6年に完成された。

現在も横浜市の施設として、一般公開されており、各種の催し物に使われている。
道路に面した4つ角に塔があり、メインの時計塔はジャックの愛称で親しまれている。
デザインは、外壁は赤レンガを露出し、花崗岩を配する建築様式で、フリークラシック様式(通称「辰野式」)。
辰野式の由来は、東京駅の設計でも知られる辰野金吾が明治時代後半から大正期にかけて、この手法による建築物を百数十件建てたところから、呼ばれるようになったとか。
  

明治7(1874)年に建てられた町会所。明治39年に焼失してしまい、後に横浜開港記念会館がたてられた(神奈川県立歴史博物館編「横濱銅版畫」有隣堂刊)。

本町南横通り 本町5丁目、いまの本町1丁目にたつ石川県のパイロットショップ石川生糸店。岡倉天心はこの角倉で誕生したという(横浜市立図書館所蔵)。


町会所跡に建設された横浜市開港記念会館。市民から資金を調達し、大正6年の開港記念日にオープンした。1923年の関東大震災で内部を消失したが、昭和2年に一部が復元され、戦災にもあわずに、1988(昭和63)年に屋根が復元されて現在の姿になった。公会堂、会議室として一般に開放されている。

横浜開港記念会館ホール。一般に開放されているので誰でも使える





ガラスにはめ込まれているステンドグラス。重厚な雰囲気を醸し出している。
   


(2)生糸取引を支えた横浜のインフラ

■生糸品質の番人――生糸検査所と帝蚕倉庫
開港と同時に生糸が売れ出すと、全国から横浜に生糸が集まってくるようになる。
しかし、そのうちにブームに乗った粗悪品や、量目をごましたものなどが市場に出てくるようになり、金銭も絡んでトラブルが発生するようになる。

産地によって荷姿もまちまちで、品質や量目も均一さを欠いていたため、独自の検査を行う外国商社の言いなりに支払わざるを得ないなどの弊害もでてきた。

輸出を確保するためにも明確に保証することが求められるようになって、明治29(1896)年、フランスから生糸の検査法を学び検査機械を買い入れて、生糸検査所を設立した。

検査が義務付けられるのは昭和2年になってからだが、利用者も次第に増え、取引も健全化、これによって、生糸の品質向上が図られ、外国商社とも対等な取引ができるようになって輸出が増大していくことになった。

しかし、この建物も関東大震災で焼失したため、生糸輸出の拠点として大正15(1926)年、隣接する帝蚕倉庫とともに新しい生糸検査所がつくられた。
みなとみらい線の馬車道駅の上にある、いま合同庁舎に使われているのがそのビルだ。

設計は、遠藤於莵(おと)で、敷地は約5万u、庁舎は鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。屋上には噴水庭園があった。帝蚕倉庫ともども、煉瓦の重厚感がずっしりと量感を持って迫ってくる、県下最大規模の建設物で、生糸検査所、通称キイケンの名で親しまれた。

平成2年に再開発が行われ、一旦取り壊されたのち、低層部に旧庁舎の外壁が復元され、平成5(1993)年6月に国の横浜第二合同庁舎としてよみがえった。
現在は何棟かを残して帝蚕倉庫が再開発中だ。どんな姿になるのか楽しみだ。
 

旧生糸検査所。現在は改装されて第二合同庁舎として活用されている。


正面玄関上の屋上にある孵化したカイコのエンブレムが、生糸検査所の業務を示している。


旧帝蚕倉庫の事務棟。ほかに倉庫があったが、撤去されてしまった。レンガは、長手を交互に積んだイギリス積み。現在再開発中。

   


■生糸取引の為替銀行――正金銀行(県立歴史博物館)
みなとみらい線馬車道駅から馬車道に入ると、圧倒的な存在感で右に見えてくる建物が神奈川県立歴史博物館。明治37年に設立された旧横浜正金銀行本店である。

明治初期、生糸輸出が増えるのに伴って、取引の安定化をめざして為替取引を仲介する銀行として明治13(1880)年に、横浜正金銀行が設立された。

業務は、日本商社が海外に販売する際に、代金を外貨で取り立て、支払いの際には、保有する外貨で支払うこと。これによって、輸出入の財政政策を管理することにあった。

以後、ロンドン、リヨン、サンフランシスコ、ハワイ、香港、上海、北京などに支店を設け、明治時代末には世界3大為替銀行の一つと言われるまでに成長した。

明治37年、建物が老朽化したことで、現在の場所に2代目が建設された。
それが現在の神奈川県立歴史博物館である。
設計は妻木頼黄(よりなか)、工事総監督を遠藤於菟が担当した。

関東大震災で、2階以上の内部と屋上のドームを消失し、長い間放置されていたが、終戦後、業務は東京銀行に受け継がれ、その後、三菱東京銀行→三菱東京UFJ銀行と受け継がれている。

建物は昭和42年(1967年)に屋上のドームを含めて修復・増築され、翌43年から県立歴史博物館として使われるようになった。

明治37(1904)年に横浜正金銀行本店として建てられたもの。正面や左右の壁面にコリント式の角柱がならぶ重厚な作り。
震災で焼けたが、昭和42(1967)年に再建され、以後、神奈川県立歴史博物館として使われている。

正面にコリント式の角柱がならび、ネオバロック様式の構成は、装飾も豊かで見るものを圧倒する。
建物は4階建てで高さ16.5メートルだが、屋上にあるドームの塔の部分が19.2メートルある。堂々とした威風は、この塔の存在感も大きい。

横浜では、キング(県庁舎)、クイーン(税関)、ジャック(開港記念館)の3塔が知られるが、この県立歴史博物館の塔に「エースの塔」という名がつけられた。
4塔と言われるようになるのも近い気がする。
  

屋上のドームは高さ19メートルあり、本館16メートルより高い。エースの塔と呼ばれている。


塔の中を見ると、屋根は8角形だが、辺の幅は均一ではなく、長い辺と短い辺が交互につなげられていることが分かる。

   


(3)変遷をとげて成長した横浜港
■生糸輸出の世界への玄関
安政6(1859)年、幕府は横浜港を開港するにあたって、来航する外国の船のためにいまの山下公園のあるあたりに埠頭をつくり(東埠頭)、日本の船向けにいま大さん橋のあるあたりに埠頭をつくった(西埠頭)。

そして、貨物が増えるのに伴い、慶応3(1867)年、はしけへの積み込み、積み下ろしが安定してできるように防波堤を兼ねた湾曲した埠頭を外国船向けに建造した。
湾曲した形のこの埠頭は、その姿が象の鼻に似ていることから、「象の鼻」と呼ばれるようになった。

まだこのころは、船が直接、着岸できる深さを確保できず、はしけが使われた。
当時、すでに海外では増大する貿易量を効率的に処理するために、大きな船舶が直接接岸できる埠頭が作られだしていた。

横浜でも増大する生糸の扱いに対応して、本船が着岸できるようにしてほしいとの要望が寄せられるようになり、明治27(1894年)、海底を浚渫し、海の中に長い脚を下した桟橋をつくり、「大桟橋(おおさんばし)」と名付けた。

大桟橋は、平成14年(2002年)に埋め立てられて、岸壁としてつくり替えられた。その際に「おおさんばし」の名前は変えず、文字を「大さん橋」とした。かつては、メリケン波止場と呼ばれたのは、それは戦前から戦後の桟橋時代である。

象の鼻のすぐ向こうに赤レンガ倉庫やランドマークタワーが見える。


■横浜新港と「横浜港駅」跡
日本の近代化が進むにつれて、洋酒や繊維・時計、機械などの輸出入の需要が増えて荷扱いが膨大になり、大桟橋・象の鼻では間に合わなくなった。

そこで浮上したのが新港計画で、明治32(1899)年工事が着工され、赤レンガ倉庫のある地区が埋め立てられ、新港と倉庫、埠頭に乗り入れる鉄道路線が大正2(1913)年に完成した。

この新港は、12の直接接岸できる埠頭と、14の倉庫のほかに、クレーン、引き込み線などが設けられた最新の港湾施設だった。
なによりも、埠頭に鉄道が乗り入れる港は、世界に先駆ける画期的な試みだった。

この新港では、輸入貨物がここで鉄道に積み込まれて、仕向地に向けて発送されたほか、「横浜港」駅がつくられ、外国航路の便もここから出港していった。

岡晴夫の「憧れのハワイ航路」は昭和23年の歌だが、戦前に就航していた日本郵船などの航路は、この埠頭から出港した。

戦後、この地区は米軍に接収されていたが、昭和35年(1960年)に解除。一部が海上保安庁に使われ、残りの部分は、平成5年(1993年)に保存をめざして工事が始められ、赤レンガパークなど現在の姿になった。
  

旧横浜港駅。赤レンガ倉庫1号、2号のすぐ裏にJRの横浜港駅があった。税関にはイミグレーションもあり、いまのターミナルとして使用されていた。

赤レンガ倉庫2号館の裏、新横浜港駅との間にひっそりとある横浜税関の礎石跡


横浜港駅跡CIMG309 横浜港駅の跡にある説明版。


大正3年に新港の岸壁に設置されたイギリス製の50トンのハンマー・クレーンは、いまでもそのまま残されている。
   


■赤レンガ倉庫
いま、横浜港の顔となっている赤レンガ倉庫が作られたのは明治44(1911)年。
新港計画でたてられた14の倉庫は、11棟が鉄骨づくり、3棟が木造の平屋建てで、鉄骨造りのなかの2棟が赤レンガだった。

2棟を一緒に建てる予定だったが、計画途中に始めた日露戦争で戦費がかさんだことから中断され、2号倉庫だけが明治44(1911)年に建設され、1号倉庫は大正2(1919)年に完成した。

この倉庫は、横浜税関の施設として管理され、貿易業者にも貸出された。
レンガで2棟が建設されたのは、貴重品を保管するため。
洋酒、タバコ、羊毛、光学機械、食料品などの高級品の倉庫として使用された。生糸も保管されていた。

1号倉庫が半分なのは、西側が関東大震災で崩壊してしまったため。四角の塔の部分はエレベーターで、使用されていたオーチスのモーターが倉庫前に展示されている。

2号倉庫は、長さ148.17m、梁間22.09m、棟高16.80m。レンガは長手と小口を交互の段に積んだイギリス積みである。
床に鉄板が入れられた耐震・防火の倉庫で、関東大震災にも耐えた。

設計者は妻木頼黄(よりなか)率いる大蔵省(現財務省)臨時建設部。周辺の土地は整地されてしまっているが、一部2号棟の裏に当時の石畳が残されている。

現在は、1,2号館とも店舗や展示スペース、ホールなどに利用され、各種イベントで休日には多くの人でにぎわっている。
  

赤レンガ倉庫1号館。

1号館のエレベーターに使われていたオーチス製のモーター。

赤レンガ倉庫2号館。

2号館を裏から見たところ。





赤レンガ倉庫2号館の裏には、踏みしめられて黒光りする石畳がそのまま残されていて、しっとり落ち着いた雰囲気を醸している。
   


   





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