横浜開港と絹の道

<ものづくり日本の源流を訪ねる>
横浜開港と絹の道



太平の眠りをむさぼっていた日本は、
ペリーが率いてやってきた4杯のジョーキセンによって目を覚ました。
こうして、世界史の舞台に引っ張り出された「横浜港」に多くの外国商人が押し寄せ、
横浜は貿易の中心になっていく。彼らが求めたのが、上質の生糸だった。
こうして、横浜は空前の生糸貿易ブームにわき、
東北・上越・信州・甲州など、各地から横浜めざして生糸が運ばれてくる。
大きな役割を果たしたのが日本版シルクロードだった。
「絹の道」と開港横浜の遺産を訪ねてみる。



       <目 次>
  • 第1章 生糸を金貨に変えた道――近代化を支えた日本版「シルクロード」

    各国と通商条約を結んだ日本は、安政6年に横浜・長崎・函館を開港した。これ を機に多くの商人が横浜にやって来たが、彼らが求めたのが生糸だった。外貨獲 得をめざす明治政府の生糸輸出奨励策とあいまって、各地で生糸の生産が爆発的 に増大し、横浜は輸出ブームに沸く。東北、甲信越、北関東などから多くの商人 が横浜めざして生糸を運び、日本版シルクロードが生まれた。

  • 第2章 「繊細な飼育が、良質の繭をつくる」――桑都・八王子で養蚕の文化を今に伝える長田誠一さん

    日本版シルクロード「絹の道」の起点になったのは、桑都と呼ばれた八王子である。その八王子自身もまた、養蚕と織物の盛んな町でもあった。周辺が開発されて住宅・農地が広がるなかで、いまでも無農薬で桑を栽培し、年に2回、春蚕と晩秋蚕を続けている養蚕農家の長田誠一さん。養蚕を始めて5代目、これからもこの伝統を守っていきたいという長田さんを、晩秋蚕の繭の出荷前に訪ねた。

  • 第3章 歴史に一瞬の光を刻んだ鑓水商人――生糸輸出を支えた「絹の道」

    生糸の輸出をめざして商人たちが通った八王子−横浜を結ぶ日本版のシルクロード「絹の道」。その道が歴史の中で輝いたのは、幕末から明治にかけてのわずか数十年間。そこで活躍したのが「鑓水商人」である。八王子近く、多摩丘陵にある小さな村に過ぎない鑓水地区の商人が、石垣大尽、異人館と称されるほどの繁栄を見せた理由は? 外国商人も足しげく通ったという鑓水地区の「絹の道」を訪ねる。

  • 第4章 八王子往還・浜街道――八王子と横浜をつなぐ最短の道

    甲州街道から八日町で分かれて片倉−鑓水−相原−原町田−川井−白根−芝生−野毛−関内と続く八王子往還・浜街道は多くの商人が通った絹の道である。もともと八王子往還は、起伏に富んだ難路として知られた脇街道だが、それゆえに路程を熟知した鑓水商人の役割が大いに重要でもあった。絹の道とはどんな道だったのか、往時をしのびながらたどってみる。

  • 第5章 生糸を金貨に変えた横浜開港――輸出ブームに沸く横浜開港場と生糸商人

    戸数わずか50ほどの寒村だった横浜に突然降ってわいたように港が作られ、外国商人がやってきた。生糸が高値で売れると一攫千金をめざして、各地の商人が横浜に生糸を持ち込む。そのために、東海道から横浜港へのアクセス道として整備された浜街道。シルクロードの最終区間は、東海道から開かれた横浜の港への道である。取引の舞台となった横浜の当時の状況をしのびながら訪ねてみる。

  • 第6章 横浜の生糸貿易建築遺産――日本経済を支えた横浜の洋館たち

    開港をきっかけに生糸商人が店舗を構え、外国人もやってきて、横浜では新しい事業が次々と展開される。町や港が整備され、郵便が事業化され、銀行が作られ、横浜の顔となった赤レンガ倉庫が作られ、生糸貿易を核に横浜は一大貿易都市へと発展を続ける。明治以来百数十年、日本経済を支えてきた生糸輸出にまつわる横浜の近代化と近代建築の遺産を訪ねてみる。

      





●全文を通して読む場合は こちら にあります。


■以下の記事もお目通しいただけるとうれしいです。

「ものづくり日本の心」
 私たちは、なぜこんなものづくりをするようになったのだろうか?

「ものづくり日本の源流を訪ねる」
 富岡製糸場と絹産業遺産
 横須賀製鉄所「造船王国日本の源流」
  




アクセスカウンターアクセスカウンターアクセスカウンター


Copyright(C)  2018, Fumihiko KAJI. Japan