横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第6章
横浜の生糸貿易建築遺産――日本経済を支えた横浜の洋館たち


開港50周年を記念して建設された開港記念館

開港をきっかけに生糸商人が店舗を構え、外国人もやってきて、
横浜では新しい事業が次々と展開される。
町や港が整備され、郵便が事業化され、銀行が作られ、
横浜の顔となった赤レンガ倉庫が作られ、
生糸貿易を核に横浜は一大貿易都市へと発展を続ける。
明治以来百数十年、日本経済を支えてきた
生糸輸出にまつわる横浜の近代化と近代建築の遺産を訪ねてみる。



(1) 近代日本への出発点

■和親条約締結の地――横濱開港資料館(旧英国領事館)
横浜の開港は、嘉永7(1854)年に日米和親条約を締結したことに始まる。
前年の嘉永6(1853)年、ペリー一行がアメリカ大統領の親書を持参して「四杯のジョーキセン」でやってきて幕府に開国をせまる。

即答できない幕府に、1年後の回答を約束させてその場はいったん引き下がるが、翌年3月に再度やってきて、開国を迫る。
イヤなら攻撃をという脅しをちらつかせながらの再三の要請に、幕府はとうとう断りきれず、横浜の浜辺に陸を許して、和親条約の交渉を行うことにした。

日本側は急遽、横浜にあった水神社近くに応接所を設け、そこで交渉を行う。

会談は4度に及び、アメリカが下田に総領事をおくこと、アメリカ船の下田・箱館への入港を許可すること、薪・水・食料・石炭の補給を許すこと、互いに漂流民の救助を行うこと・・・などを定めた和親条約を締結した。

ペリー一行に同行した画家のハイネがその時の様子を絵にしている。
日米和親条約が締結された地の跡に横浜開港資料館が建てられている。もともとは昭和6(1931)年にここに英国領事館が建てられたが、戦後の昭和56(1981)年の開港記念日に横浜開港資料館として活用されるようになった。
  

ペルリ提督以下横浜村上陸図 1854年、ペリー一行が下船し、横浜に設けた応接所で、和親条約締結の交渉が行われた。左が応接所。右にミス神社と玉楠の木が見える


日米和親条約締結の碑 開国資料館前の広場にある。



   
図の左が応接所、右の玉楠(タブノキ)が立っているところが水神社。応接所の場所は、港を作る際に整備され英国領事館が建てられた。
その領事館は大正12年の関東大震災で倒壊・焼失。その後、昭和6年に再度、英国領事館が建設されたが、昭和47年には業務を終了し、横浜開港資料館として利用されるようになった。

関東大震災では玉楠も焼けてしまったが、根から若芽が伸び、大きく成長して、いま、横浜開港資料館の「玉楠の木」として中庭一杯に茂っている。
  


横浜開港資料館 日米和親条約締結の地の跡にたつ横浜開港資料館。昭和6(1931)年に英国領事館として建てられ、昭和56(1981)年の開港記念日に横浜開港資料館として活用されるようになった。

玉楠の木 水神社にあった玉楠の根から出た芽が大きく成長し、開港資料館の中庭一杯に枝を広げている。

   


■生糸貿易の税関――運上所跡(県庁)
和親条約締結後、アメリカは再三、通商条約締結を要求、幕府はこれを断りきれず、安政5(1858)年、井伊直弼の独断で日米修好通商条約を締結する。

続いて英露蘭仏からの要望もあって5か国と締結。日米修好通商条約で、1年後に神奈川・箱館・長崎・新潟・神戸を開港するとの約束を交わしたために横浜を神奈川の一部として港を開港。

安政6(1859)年6月の横浜開港に合わせて、前年から通商条約の交渉に携わってきた水野筑後守らの外国奉行が管轄する形で、神奈川奉行がいまの紅葉丘に設置された。

そして、貿易にまつわる管理業務を行うために、専門の役所として港の入口・県庁舎がある所に神奈川運上所(税関)を設けて、税関業務や外交業務を行った。

現在、紅葉丘の県立図書館、県立音楽堂近く、県立青少年センター前に神奈川奉行所跡の碑が、また、県庁舎の南西角に、運上所跡の碑が建てられている。
  

運上所跡 神奈川県庁舎の西南角に設置されている。


神奈川県本庁舎。昭和3(1928)年に設計を公募して建てられた。和風の作りで、軒先や内装などアルーデコ調のデザインが多用されている。壁面はひっかき傷のあるスクラッチタイル。塔はキングの名で親しまれている。

神奈川奉行所跡碑 紅葉丘の県立青少年センター前に立つ神奈川奉行所跡の碑。

   


■生糸商人たちの商工会議所――町会所・横浜市開港記念会館
横浜に商人たちが集まって一大問屋街が形成されるようになると、お互いの情報交流だけでなく利害関係の調整も必要になってくる。
今でいえば商工会議所だが、その集会所を町会所と呼んだ。ちなみに、発音は「まちがいしょ」である。

 慶応2(1865)年に、肉屋から出火した豚屋火事で日本人街とともに町会所も焼失、明治7(1874)年に新たに本町5丁目に町会所が新設された。
当時は、番地が今とは逆につけられていて、当時の本町5丁目は今の本町1丁目。

この場所、いま横浜市開港記念会館があるが、町会所ができる前は、福井藩が横浜に開いた商館「石川生糸店」。実は岡倉天心の誕生の地なのである。

岡倉天心の父親・岡倉勘右衛門は福井藩の下級藩士で、藩命で武士の身分を捨て、生糸問屋「石川生糸店」に仕向していた。
天心は、その店の角倉で文久2年(1863年)に生まれたことから、角蔵と名付けられたそうだ。

豪華な町会所だが、建築費は、明治6(1873)年に炎上した皇居の造営費にと横浜商人が献金したが却下された8万円を転用した。
石造亜鉛葺き2階建て、一部4階建て、延べ約765平方メートルの壮大な洋風建築だ。

時計塔の時計はイギリスから輸入したもので、時打装置が時を打ち、開港場のシンボルでもあった。
しかし、明治39(1906)年、老朽化して大修復を行う矢先、付近から起こった火事で類焼してしまった。

その後、明治42(1909)年、開港50周年を記念して市民の寄付により公会堂が建設されることになり、大正3(1914)年に起工、6年に完成された。

現在も横浜市の施設として、一般公開されており、各種の催し物に使われている。
道路に面した4つ角に塔があり、メインの時計塔はジャックの愛称で親しまれている。
デザインは、外壁は赤レンガを露出し、花崗岩を配する建築様式で、フリークラシック様式(通称「辰野式」)。
辰野式の由来は、東京駅の設計でも知られる辰野金吾が明治時代後半から大正期にかけて、この手法による建築物を百数十件建てたところから、呼ばれるようになったとか。
  

明治7(1874)年に建てられた町会所。明治39年に焼失してしまい、後に横浜開港記念会館がたてられた(神奈川県立歴史博物館編「横濱銅版畫」有隣堂刊)。

本町南横通り 本町5丁目、いまの本町1丁目にたつ石川県のパイロットショップ石川生糸店。岡倉天心はこの角倉で誕生したという(横浜市立図書館所蔵)。


町会所跡に建設された横浜市開港記念会館。市民から資金を調達し、大正6年の開港記念日にオープンした。1923年の関東大震災で内部を消失したが、昭和2年に一部が復元され、戦災にもあわずに、1988(昭和63)年に屋根が復元されて現在の姿になった。公会堂、会議室として一般に開放されている。

横浜開港記念会館ホール。一般に開放されているので誰でも使える





ガラスにはめ込まれているステンドグラス。重厚な雰囲気を醸し出している。
   


(2)生糸取引を支えた横浜のインフラ

■生糸品質の番人――生糸検査所と帝蚕倉庫
開港と同時に生糸が売れ出すと、全国から横浜に生糸が集まってくるようになる。
しかし、そのうちにブームに乗った粗悪品や、量目をごましたものなどが市場に出てくるようになり、金銭も絡んでトラブルが発生するようになる。

産地によって荷姿もまちまちで、品質や量目も均一さを欠いていたため、独自の検査を行う外国商社の言いなりに支払わざるを得ないなどの弊害もでてきた。

輸出を確保するためにも明確に保証することが求められるようになって、明治29(1896)年、フランスから生糸の検査法を学び検査機械を買い入れて、生糸検査所を設立した。

検査が義務付けられるのは昭和2年になってからだが、利用者も次第に増え、取引も健全化、これによって、生糸の品質向上が図られ、外国商社とも対等な取引ができるようになって輸出が増大していくことになった。

しかし、この建物も関東大震災で焼失したため、生糸輸出の拠点として大正15(1926)年、隣接する帝蚕倉庫とともに新しい生糸検査所がつくられた。
みなとみらい線の馬車道駅の上にある、いま合同庁舎に使われているのがそのビルだ。

設計は、遠藤於莵(おと)で、敷地は約5万u、庁舎は鉄筋コンクリート造り地下1階地上4階。屋上には噴水庭園があった。帝蚕倉庫ともども、煉瓦の重厚感がずっしりと量感を持って迫ってくる、県下最大規模の建設物で、生糸検査所、通称キイケンの名で親しまれた。

平成2年に再開発が行われ、一旦取り壊されたのち、低層部に旧庁舎の外壁が復元され、平成5(1993)年6月に国の横浜第二合同庁舎としてよみがえった。
現在は何棟かを残して帝蚕倉庫が再開発中だ。どんな姿になるのか楽しみだ。
 

旧生糸検査所。現在は改装されて第二合同庁舎として活用されている。


正面玄関上の屋上にある孵化したカイコのエンブレムが、生糸検査所の業務を示している。


旧帝蚕倉庫の事務棟。ほかに倉庫があったが、撤去されてしまった。レンガは、長手を交互に積んだイギリス積み。現在再開発中。

   


■生糸取引の為替銀行――正金銀行(県立歴史博物館)
みなとみらい線馬車道駅から馬車道に入ると、圧倒的な存在感で右に見えてくる建物が神奈川県立歴史博物館。明治37年に設立された旧横浜正金銀行本店である。

明治初期、生糸輸出が増えるのに伴って、取引の安定化をめざして為替取引を仲介する銀行として明治13(1880)年に、横浜正金銀行が設立された。

業務は、日本商社が海外に販売する際に、代金を外貨で取り立て、支払いの際には、保有する外貨で支払うこと。これによって、輸出入の財政政策を管理することにあった。

以後、ロンドン、リヨン、サンフランシスコ、ハワイ、香港、上海、北京などに支店を設け、明治時代末には世界3大為替銀行の一つと言われるまでに成長した。

明治37年、建物が老朽化したことで、現在の場所に2代目が建設された。
それが現在の神奈川県立歴史博物館である。
設計は妻木頼黄(よりなか)、工事総監督を遠藤於菟が担当した。

関東大震災で、2階以上の内部と屋上のドームを消失し、長い間放置されていたが、終戦後、業務は東京銀行に受け継がれ、その後、三菱東京銀行→三菱東京UFJ銀行と受け継がれている。

建物は昭和42年(1967年)に屋上のドームを含めて修復・増築され、翌43年から県立歴史博物館として使われるようになった。

明治37(1904)年に横浜正金銀行本店として建てられたもの。正面や左右の壁面にコリント式の角柱がならぶ重厚な作り。
震災で焼けたが、昭和42(1967)年に再建され、以後、神奈川県立歴史博物館として使われている。

正面にコリント式の角柱がならび、ネオバロック様式の構成は、装飾も豊かで見るものを圧倒する。
建物は4階建てで高さ16.5メートルだが、屋上にあるドームの塔の部分が19.2メートルある。堂々とした威風は、この塔の存在感も大きい。

横浜では、キング(県庁舎)、クイーン(税関)、ジャック(開港記念館)の3塔が知られるが、この県立歴史博物館の塔に「エースの塔」という名がつけられた。
4塔と言われるようになるのも近い気がする。
  

屋上のドームは高さ19メートルあり、本館16メートルより高い。エースの塔と呼ばれている。


塔の中を見ると、屋根は8角形だが、辺の幅は均一ではなく、長い辺と短い辺が交互につなげられていることが分かる。

   


(3)変遷をとげて成長した横浜港
■生糸輸出の世界への玄関
安政6(1859)年、幕府は横浜港を開港するにあたって、来航する外国の船のためにいまの山下公園のあるあたりに埠頭をつくり(東埠頭)、日本の船向けにいま大さん橋のあるあたりに埠頭をつくった(西埠頭)。

そして、貨物が増えるのに伴い、慶応3(1867)年、はしけへの積み込み、積み下ろしが安定してできるように防波堤を兼ねた湾曲した埠頭を外国船向けに建造した。
湾曲した形のこの埠頭は、その姿が象の鼻に似ていることから、「象の鼻」と呼ばれるようになった。

まだこのころは、船が直接、着岸できる深さを確保できず、はしけが使われた。
当時、すでに海外では増大する貿易量を効率的に処理するために、大きな船舶が直接接岸できる埠頭が作られだしていた。

横浜でも増大する生糸の扱いに対応して、本船が着岸できるようにしてほしいとの要望が寄せられるようになり、明治27(1894年)、海底を浚渫し、海の中に長い脚を下した桟橋をつくり、「大桟橋(おおさんばし)」と名付けた。

大桟橋は、平成14年(2002年)に埋め立てられて、岸壁としてつくり替えられた。その際に「おおさんばし」の名前は変えず、文字を「大さん橋」とした。かつては、メリケン波止場と呼ばれたのは、それは戦前から戦後の桟橋時代である。

象の鼻のすぐ向こうに赤レンガ倉庫やランドマークタワーが見える。


■横浜新港と「横浜港駅」跡
日本の近代化が進むにつれて、洋酒や繊維・時計、機械などの輸出入の需要が増えて荷扱いが膨大になり、大桟橋・象の鼻では間に合わなくなった。

そこで浮上したのが新港計画で、明治32(1899)年工事が着工され、赤レンガ倉庫のある地区が埋め立てられ、新港と倉庫、埠頭に乗り入れる鉄道路線が大正2(1913)年に完成した。

この新港は、12の直接接岸できる埠頭と、14の倉庫のほかに、クレーン、引き込み線などが設けられた最新の港湾施設だった。
なによりも、埠頭に鉄道が乗り入れる港は、世界に先駆ける画期的な試みだった。

この新港では、輸入貨物がここで鉄道に積み込まれて、仕向地に向けて発送されたほか、「横浜港」駅がつくられ、外国航路の便もここから出港していった。

岡晴夫の「憧れのハワイ航路」は昭和23年の歌だが、戦前に就航していた日本郵船などの航路は、この埠頭から出港した。

戦後、この地区は米軍に接収されていたが、昭和35年(1960年)に解除。一部が海上保安庁に使われ、残りの部分は、平成5年(1993年)に保存をめざして工事が始められ、赤レンガパークなど現在の姿になった。
  

旧横浜港駅。赤レンガ倉庫1号、2号のすぐ裏にJRの横浜港駅があった。税関にはイミグレーションもあり、いまのターミナルとして使用されていた。

赤レンガ倉庫2号館の裏、新横浜港駅との間にひっそりとある横浜税関の礎石跡


横浜港駅跡CIMG309 横浜港駅の跡にある説明版。


大正3年に新港の岸壁に設置されたイギリス製の50トンのハンマー・クレーンは、いまでもそのまま残されている。
   


■赤レンガ倉庫
いま、横浜港の顔となっている赤レンガ倉庫が作られたのは明治44(1911)年。
新港計画でたてられた14の倉庫は、11棟が鉄骨づくり、3棟が木造の平屋建てで、鉄骨造りのなかの2棟が赤レンガだった。

2棟を一緒に建てる予定だったが、計画途中に始めた日露戦争で戦費がかさんだことから中断され、2号倉庫だけが明治44(1911)年に建設され、1号倉庫は大正2(1919)年に完成した。

この倉庫は、横浜税関の施設として管理され、貿易業者にも貸出された。
レンガで2棟が建設されたのは、貴重品を保管するため。
洋酒、タバコ、羊毛、光学機械、食料品などの高級品の倉庫として使用された。生糸も保管されていた。

1号倉庫が半分なのは、西側が関東大震災で崩壊してしまったため。四角の塔の部分はエレベーターで、使用されていたオーチスのモーターが倉庫前に展示されている。

2号倉庫は、長さ148.17m、梁間22.09m、棟高16.80m。レンガは長手と小口を交互の段に積んだイギリス積みである。
床に鉄板が入れられた耐震・防火の倉庫で、関東大震災にも耐えた。

設計者は妻木頼黄(よりなか)率いる大蔵省(現財務省)臨時建設部。周辺の土地は整地されてしまっているが、一部2号棟の裏に当時の石畳が残されている。

現在は、1,2号館とも店舗や展示スペース、ホールなどに利用され、各種イベントで休日には多くの人でにぎわっている。
  

赤レンガ倉庫1号館。

1号館のエレベーターに使われていたオーチス製のモーター。

赤レンガ倉庫2号館。

2号館を裏から見たところ。





赤レンガ倉庫2号館の裏には、踏みしめられて黒光りする石畳がそのまま残されていて、しっとり落ち着いた雰囲気を醸している。
   


   


 
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