横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第5章
生糸を金貨に変えた横浜開港――輸出ブームに沸く横浜開港場と生糸商人


横浜開港地にあった原善三郎商店

戸数わずか50ほどの寒村だった横浜に
突然降ってわいたように港が作られ、外国商人がやってきた。
生糸が高値で売れると一攫千金をめざして、各地の商人が横浜に生糸を持ち込む。
そのために、東海道から横浜港へのアクセス道として整備された浜街道。
シルクロードの最終区間は、東海道から開かれた横浜の港への道である。
取引の舞台となった横浜の当時の状況をしのびながら訪ねてみる。



(1) 通商条約の締結と横浜開港

■開港3か月後には木曽から売り込みに

「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政六年の十月を迎えた頃である。・・・」

木曽路はすべて山の中である・・・で始まる島崎藤村「夜明け前」の第4章の書き出しである。

『夜明け前』は、幕末から明治にかけての動乱期に生きた、木曽・馬籠本陣の跡継ぎ青木半蔵の半生を歴史とともに描いたものだが、第4章は、中津川の商人が物見高い老医者宮川寛齋らを伴って横浜の生糸売買の様子を見に行くところから始まる。

これを読んで驚くのは、木曽の山の中・馬籠の商人でさえ、なんと、安政6(1859)年7月1日の開港後、わずか3か月という時期に、横浜に生糸を売り込みに行こうとしていることである。この情報伝達の速さ、行動の速さ、生糸が売れるなら私も売り込みに行きたい、と出かけてしまう野次馬精神、機動力。これこそ、日本人の特性であり、近代化を急速に進めたエンジンといってもいい。 中津川から江戸に行くには、馬籠峠を越えて木曽路に入り、中山道を通って塩尻−軽井沢−高崎−板橋と経て江戸に入る。距離は85里(約340km)、山道で10日を越える行程である。

その意欲たるや尋常ではない。
藤村も、「中津川から神奈川まで百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということは容易ではない」と書いている。

この時代にはまだ、塩尻から甲府へと出て八王子に回り「絹の道」を行くという選択肢はない。
いったん江戸の定宿に入り、その宿の主人の案内で横浜の牡丹屋なる宿に止宿する。まだ横浜に居留地も宿もない開港直後のことである。

中津川から江戸に至る中山道のルート。江戸まで約85里、340kmの距離を、10日くらいで歩いた。


■神奈川宿と横浜
当時の横浜がどんな状況だったのか、もう少し『夜明け前』で見てみよう。
通商条約の締結によって、幕府は、神奈川の対岸にある山手から突き出た戸数わずか50戸ほどの砂州「横浜」に港を作ることにして、開港に合わせてあわてて整備した。

「あるところは半農半漁の村民を移住させた街であり、ある所は運上所を中心に掘っ建て小屋の並んだ新開の一区画であり、あるところは埋め立てと縄張りの始まったばかりのような畑と田圃の中である」。

横浜港を開くと、江戸に近い便利さから、外国の領事館員や商人たちが押し寄せてきた。しかし、十分に住む場所が確保されているとは言い難かった。

下田から移った各国の領事館員たちは「さみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓を定めた神奈川台町近くの本覚寺や他の寺から動こうとしない」。

「神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。・・・二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区画が神奈川台の上にある」。

まだ、港に居留地が作られていないために、外国人たちは神奈川宿の中で料理屋などが並ぶ神奈川台町に住んでいた。

「黒い関門の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山の下に出るには、内浦に沿うて岸を一廻りせねばならぬ。程ヶ谷からの道がそこに続いてきている。野毛には奉行の屋敷があり、越前の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り。土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内に入った」。

港を作って外国人が入国してくると、攘夷を武士や暴漢から外国人を守るために関門が設けられた。
開港場に外人用の居留地を作る予定だったが間に合わないので、外国人を集めて神奈川台町の一角に住まわせた。そして、暴漢が入れないように東西に関門を作った。
それが「黒い関門の木戸」であり、番所を置いて見張りが付いた。
  

1865年当時の横浜地図。黄色が外国人居留地、ピンクが日本人街、白は湿地で、まだ完全に埋め立てられていなかった。中にあるのは遊女屋(『絹と光−知られざる日仏文化交流100年の歴史(アシェット婦人画報社』より)。

広重描くところに神奈川台町。道は東海道である。中ほどに、「さくらや」の字が見えるが、ここは「さくらや→下田屋→田中家」と名前が変わり、現在は「田中屋」。当時は、すぐ裏は袖ヶ浦と呼ばれる海、海の向こうに元町の先の山手地区が見える。


広重の浮世絵を逆に向こうから見た神奈川台町の関門。

西と東にあった関門の西関門。右に見える「下田屋」が広重の絵にある「さくらや」で、現在の「田中屋」(横浜市立図書館所蔵)。


現在の神奈川台町の「田中屋」付近の風景。
   


■ジャーディンに仰天価格で直接販売
59年の横浜開港と同時に、いち早く日本にやってきた商人たちの中に、後に、ジャーディン・マセソン商会の日本支社を開設するウイリアム・ケズウィックがいた。
『夜明け前』で藤村がケウスキイと書いているその人である。

「(神奈川台町)に住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居するという貿易商であった。・・・(中津川から様子見に来た萬屋)安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本はケウスキイを驚かした。これほど立派な品なら何程でも買うと言うらしいが・・・糸目百匁あれば、一両で引き取ろう」

というと聞いて、今度は安兵衛らが驚ろいた。

見本のつもりで持ってきた生糸は、1個(9貫33.75kg)につき130両で売れた。約70匁で1両、1斤(160匁=600g)が2.29両である。

当時、諏訪の取引相場は1斤が1.45両で、1個売っても82両にしかならない。1個が130両で売れるとは破格の値段である。

これを知った安兵衛らはあわてて国元に帰り、生糸を買い集める。
そして、翌年の4月、萬屋安兵衛が手代の嘉吉を連れてやってくる。

神奈川台の異人屋敷で商談を行い、糸目64匁につき、金1両で取引はまとまった。
1斤で換算すると2.50両。1個で140両と取引価格はさらに値上がりしていた。

横浜の開港で、国内の生糸相場も高騰した。
こうして、生糸はあちこちから横浜に集まり、生糸輸出を独占していた横浜港は大きく発展することになる。


(2)生糸商人が集まった横浜開港場

■居留地に「英一番館」
こうして生糸取引が話題になると、多くの商人が、国内外から横浜を目指してやって来る。
翌年、1860年になると居留地が完成し、東の山下地区は外国人用に、西の半分が日本人用に販売される。

外国人用の居留地には、港から順番に1番、2番と番号を振ったが、1番地を買ったのがジャーディン・マセソン商会のケズウィックで、ここに入母屋根の木造2階建ての商館を立て「英一番館」と名付けた。

外観は、決して立派なモノとは言い難かったようだが、しかし、商品の展示会が行われるなど、珍しさも手伝って、商館として大いに流行ったという。

この和洋折衷の建設を請け負ったのが鹿島建設の創業者鹿島岩吉という。

この初代「英一番館」は1866年に起こった豚屋火事で焼け出され、その後、立派な白亜の2代目が建てられた。跡地には、いま、シルクセンターが建っている。

ケズウィックに続いて早くに来日したのが1862年バビエル、63年ブレンワルドらのスイス人。それぞれ居留地に店舗を構えた。

バビエルは居留地56-58番で生糸などを扱う商社を経営、自ら品質検査なども行っていた。
また、ブレンワルドは、居留地90番に店を構え、生糸などの輸出の他に繊維や兵器の輸入なども行っている。
  

1860年になると居留地も整備され、沢山の商社がたてられた。

ケズウィックが建てた英一番館。

シルクセンター前に立つ、英一番館跡の碑。


バビエル商会 粗悪品や量目違いなどに悩まされてきた商社が、自ら生糸検査室を設けて購入品を厳密に検査していたことが分かる(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)。

米和親条約が締結された開港資料館前広場に展示されている、居留地90番のシーベル・ブレンワルド商会の跡から堀り出された大砲。
   


(3)日本人生糸商の台頭

■生糸取引の先駆者−−中居屋重兵衛
横浜の生糸商と言えば、原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛、小野光景、若尾幾三、平沼専蔵・・・等の名前があげられるが、先駆者としての貢献度で中居屋重兵衛をあげないわけにはいかない。

単に生糸輸出で財をなした横浜開港時の立役者というだけでなく、幕末から明治への動乱期を駆け抜けた風雲児とでもいう人材だ。

中居屋重兵衛は、群馬県嬬恋村出身で、幼名を武之助、成人して撰之助という。
家伝の火薬製造を身をつけ、江戸の書店に寄宿。書店で独立を機に中居屋重兵衛を名乗る。
おりから沿岸防備に火薬が求められ、そこで見込まれて、火薬の製造に乗り出す。


1857年、38歳の時に、たまたま知り合った米国領事館員と生糸の取引を行うようになる。
幕府が、横浜開港を決めたさい、御用商人である三井物産や中居屋重兵衛に出店を要請、そこで重兵衛は本町4丁目に店舗を構える。

その後、横浜での生糸取引がブームとなり、中居屋は信州・甲州・上州と精力的に取引を伸ばし、店は繁盛して財を成す。
本町に構えた店舗は2階建てで屋根を銅葺きにしたもので、あかがね御殿と呼ばれる豪壮なモノだったという。

重兵衛の好況を見て、後の続くものが増え、横浜が生糸取引の中心地となって日本中の生糸が横浜にくるようになった。
横浜で生糸取引商を事業化した先駆者だったが、その後、火薬製造などで井伊直弼との関係などを疑われて失脚。

重兵衛が生糸商として活躍したのはわずか3年ほどのことだが、まさに台風のごとく通り過ぎた風雲児であった。
  

本町2丁目の角に設置されている中居屋重兵衛店跡の碑。中居屋重兵衛は群馬県の嬬恋村出身で、幕末から明治初めにかけて、火薬の製造で財を成し、開港時には貿易商として店舗を構え、生糸取引の半分を扱ったという。隆盛を誇ったが、間もなく歴史の舞台から消える。横浜貿易の黎明期に台風のごとく通りぬけた傑物である。現在は、日本生命横浜本町ビルが建っている。

上の碑の部分を拡大したもの。赤くひときわ鮮やかに描かれているのがあかがね御殿と呼ばれる銅葺きの中居屋店舗。その右に「三ツ井」とあるのが、三井物産の店舗。




図で「三ツ井」と書かれているのが本町4丁目に店を構える三井物産。政府からの依頼で、横浜に店舗を構えた。いまは、昭和4年に安田銀行横浜支店として建てられたビルがあり、東京芸大大学院映像研究科馬車道校舎として使われている(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)。

武州児玉郡渡瀬村に生糸商の子として生まれる。地方の屑糸や提糸を集めて横浜に運び、後の弁天通りに亀屋を構えて財を成す。銀行の創設などに尽力し、横浜蚕糸貿易商組合長、横浜蚕糸外四品取引所理事長、横浜商業会議所会頭などを務めた横浜を代表する生糸商人。(神奈川県立博物館編『横濱銅版畫』有隣堂刊より)
   


■横濱-新橋に鉄道が敷設される
こうして横浜に生糸が集まるようになると、絹の道が大いに利用されるようになる。

近代化に生糸の輸出が不可欠との理解のもと、いかに生糸を横浜に集めるかが重要になり、大量輸送を可能にする船便の定期便が江戸と横浜に間に始まる。

同時に、かねてから検討していた鉄道敷設の話が持ち上がり、計画が立てられる。

線路を敷く必要があるが、問題は神奈川から先だった。広重の下のあるのが当時の地図だ。現在横浜駅のあるあたり、神奈川から先、平沼・桜木町までは海の中だったのである。

江戸から東海道を下ってくると、新しい開港場まで行くには、鶴見−神奈川ときて、東海道を浅間下(芝生:しぼう)まで行き、そこで南下して、平沼−野毛−吉田橋と大きく迂回することになる。
広重の絵や古い地図を見れば一目瞭然だが、神奈川の向かいに海を隔てて横浜がある。鉄道を敷設するには、海の中を堤防をつくって渡すしかない。イギリス人鉄道技師のモレルの設計・監督でスタートした工事で、神奈川から横浜までの鉄道敷設を請け負ったのが高島嘉右衛門だった。

高島は、青木橋で東海道と別れて、真っ直ぐ海の中に堤防道を築き、堤の上に線路を敷いて、野毛山下に横濱停車場(現桜木町)を作った。

高島が請け負った契約は、晴天140日以内で工事を終えるという難しいものだったが、これを見事に完成させ、海を突っ切って弧を描いて走る堤防の上野土地に高島町と名付けた。

線路、道路以外は高島が自由に使ってよいという条件で、自らの名をつけたのである。
埋め立ての土は、現在の青木橋の近く、海側にあった権現山を切り崩して使った。

鉄道の敷設で生糸搬送の便が良くなった横浜港は、ほぼ独占のかたちで国内の生糸を集め、輸出をほぼ独占し、港湾施設を拡充させて急速に発展していく。

この間、八王子からの絹の道は生糸輸送の最短ルートとして大いに活用されるが、明治41年、横浜線が開通すると、長い間利用されてきた「絹の道」は役目を終える。
横浜開港から約半世紀、一本の細い道が、歴史に輝いたのはわずか数十年のことだった。
  

慶応4年(明治元年)の横浜地図。手前に描かれている陸が左方・神奈川宿からの東海道で、中央右下に海の中に点線で描かれているのが、海の中を渡す鉄道の計画線である。下方で点線が陸につながるところが、右の写真の青木橋。

鉄道が敷設された時の青木橋(横浜駅のすぐ北、京急神奈川駅にある橋)から横浜方向を見る。今の横浜駅周辺がまだ海の中だったことがよく分かる。

現在の青木橋。すぐ先が横浜駅だが、海が埋め立てられて、横浜駅がつくられた。 

左の中央から伸びた線路が2棟並ぶ横浜駅(桜木町駅)につながっている。駅は新橋駅と同じデザインの木骨石造りで明治4(1871)年に完成した。周辺は海だった。(横浜市立図書館所蔵
   


   


 
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