横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第4章
八王子往還・浜街道――八王子と横浜をつなぐ最短の道


横浜市瀬谷区の長屋門公園にある大岡家の長屋門

甲州街道から八日町で分かれて
片倉−鑓水−相原−原町田−川井−白根−芝生−野毛−関内−横浜港
と続く八王子往還・浜街道は多くの商人が通った絹の道である。
もともと八王子往還は、起伏に富んだ難路として知られた脇街道だが、
それゆえに路程を熟知した鑓水商人の役割が大いに重要でもあった。
絹の道とはどんな道だったのか、往時をしのびながらたどってみる。



  (1)多摩丘陵を抜けて横浜へ

■シルクロードは「桑の里」
八王子と横浜を結ぶ「絹の道」のルートはいろいろ考えられるが、なかでももっとも有力なのが、八王子を発して、片倉−鑓水を通り、町田市相原・橋本−原町田−鶴間−川井−横浜市旭区今宿―松原商店街で、東海道と合流し、浅間下を南に折れて平沼−野毛−関内を経て横浜港へと向かうルートである。

いまこのルート周辺は首都圏のベッドタウンであり、大きく様変わりして、かつての面影はあまり残っていない。

1859年に横浜、函館などの港を開いたことで、多くの外国商人が横浜にやって来た。
そうした外国人は居留地に住むことを求められ、旅券なしで旅行できるのは、多摩川以南の10里四方と定められた。

居留地に住んだイギリス人たちが居留地から出て乗馬や遠出を楽しんだコースなどを記した地図「横浜周辺外国人遊歩区域図」がある。
慶応3年〜明治元年に作成されたもので、八王子(Hatchoge)、橋本(Ashomoto)、木曽、原町田(Haramatchoda)、保土ヶ谷(Hodogaya)、横浜(yokohama)などが記されている。

この一帯には、地図のあちこちに「Mulberry District」の文字が見える。桑の里である。
言い換えれば、この地域で桑が大量に栽培され、養蚕が行なわれていたということになる。

右下の横浜から左上にある八王子、あるいは、厚木に向う道の周辺はMulberry(桑)の文字が書かれている。(横浜周辺外国人遊歩区域図(ベアト「横浜の近代遺産」より)


■カイコの成長力−−子だね(蚕種)石伝説
このルートのところどころに「こだね(蚕種)石」と呼ばれる石がある。リニア新幹線の駅候補地として話題になっているJR横浜線橋本駅近くには、蚕種石と名付けられた地区もある。

八王子から御殿峠を南下して相原坂下を東に入ったあたり、南から来れば町田街道の相原三叉路を北に入ったあたりの一角が、蚕種石と呼ばれる地域だ。
今では字名は使われないが、しばらく前ならば、さしずめ「相原町字蚕種石」とでも呼ばれたのだろう。いまでも「相原蚕種石児童公園」などの名に残されている。

この住宅街にある民家の一角に、120cm×80cmほどの俵型の「蚕種石」が祀られている。こだねいしの呼び名は、「天種子命(あめのたねこのみこと)」からつけられたもので、石は古くから養蚕繁栄の象徴のように信仰されてきたという。

さらに、町田街道を東に進み、京王相模原線の下をくぐって北に曲がると多摩境駅の裏手に札次神社がある。
鳥居を抜けると、すぐ右手の一角に蚕種石と名付けられた石が祀られている。神社の案内によれば「子孫繁栄」への信仰が書かれている。

どちらの石も、養蚕との関連はないようだ。
カイコは、小さく生んで(孵化した稚蚕は2〜3ミリ)、大きく育つ(成虫になると、体重は1万倍になる)ことから安産と子育ての無事を願う願望をこれらの石に込めて信仰されたようだ。
 

町田市相原地区にある蚕種石。120cm×80cmくらいの俵型。



「天の種子」から、蚕の種子、蚕種とつながったのだろう。カイコが持っていた、子宝、成長のイメージが、「子育て信仰」に結びついたと思われる。

置かれているのは民家の一角。


札次神社


鳥居をくぐって境内に入った過ぎ右手に、別に鳥居が設置され、蚕種石が祀られている。

札次神社にある神社と蚕種石由来。「子孫繁栄と養蚕信仰」と書かれている。
   

(2)桑の里の養蚕農家

■養蚕農家の様子を残す――長屋門公園
イギリス人たちが乗馬でと腕を楽しんだ上記の地図にある横浜市瀬谷区のあたりでも明治の中頃には周辺では養蚕が多く営まれていたようだ。その養蚕の姿を伝えるのが、横浜市瀬谷区の長屋門公園にある大岡家の長屋門である。
門の前には製糸工場があり、合名会社として多くの出資者によって運営されていたという。
繭は周辺の養蚕農家から購入し、生糸取引の盛衰にもまれながら昭和初期まで続けられていた。建物の形は、中2階のような高さで屋根に越屋根が付けられており、上州の高山社などで開発され広められた養蚕ノウハウが取り入れられているのが分かる。

どっしり構えた門の右手の住居は後に隠居部屋として使われた。つづく左は土間に続いて穀倉として使用されていた土蔵がある。

母屋は、横浜市泉区和泉町にあった安西家の主屋を移築したもの。
養蚕は行なわれてはいなかったようだが、泉区あたりには、たくさんの製糸工場があり、天王森泉公園の和泉館は、明治に創業された、製糸工場の本館である。
 

明治20年(1887年)に建てられた旧大岡家の長屋門。長屋門は、住居用の部屋が付いた門で、2階などで養蚕が行なわれていた。

もともと和泉村の名主を務めた安西家の住宅主屋。建てられた時期は天保年間頃と推定されている。平成4年に移築された。
   


■大きな高低差と蛇行する難路――絹の道
先に紹介した地図の八王子から横浜に向けて伸びるルートは、ほぼ絹の道と重なるが、この道を、当時の英国人たちは、大山登山の帰りに通っている。

このルートが難路だったことを示す碑がいくつか残されている。国道16号線(八王子街道)の、一つは下白根、もう一つは和田にある道橋改修碑である。
下の下白根にある改修碑のように、今は道路が整備されて平たんな幹線が貫いているいるが、元は急勾配である。

この辺では、国道16号線に沿って帷子川が流れ、相鉄線がその南側を走るが、鶴ヶ峰と西谷の中間、下白根のあたりで帷子川が国道16号線に近づく。
横浜から行くと、北側の丘陵が国道に迫り、南に帷子川が10メートルほどの落差で流れる。

いまは4車線の道路が走るので急峻さは感じないが、当時、ここを行くとすれば、帷子川を渡った後、数十メートルの落差の崖を登りながら横にトラバースすることになる。

牛馬と荷駄で越えるのも難儀しそうだ。和田村道橋改修碑の地形も同様で、絹の道は背後に迫る丘陵と帷子川の間のニッチなロケーションにある。

この2つの改修碑は、江戸時代の1700年代中頃に建てられたもので、勧進元は江戸に住む個人である。
財を成した人が、功徳のために私費を投じて社会に還元する、江戸時代とはそうしたボランティ発想がしぜんに行われた社会でもあったのである。
  

下白根の道路改修碑。前を旧八王子往還が走っていた。手前を帷子川が流れる。

碑のまえを右に上っていくのが旧「絹の道」

道路の手前を帷子川が流れる。谷は深く、急勾配で登る道との落差は大きい。

碑の説明看板。碑は1739年11月に建てられた。

和田村道橋改修碑。1737年11月に碑が建てられた。


碑は歩道橋の下にあるが、裏の丘陵から道路の反対を流れる帷子川に一気に落ちる落差のある道だったようだ。川にはしっかりした橋も渡されていなかったのだろう。
   


(3)突貫工事で作った「よこはまみち」

■東海道を外した港の整備――よこはま道
1858年に結んだ通商条約で、幕府は函館、長崎、下田と神奈川を開港する約束をしたが、困ったのは神奈川の港の場所である。
神奈川の湊を外国人に開放するには問題が多すぎた。

和親条約・通商条約を結んで開国をしたが、世情は、勤王と佐幕派が国論を二分して激しく争う中にあり、どちらも開国を拒否して夷敵と戦うべしと開港政策に反対だった。

そんな中で、東海道の宿場の一つで江戸に近く、往来の激しい神奈川宿に異国人を迎えれば、血気盛んな士族から彼等を守ることができない。

さらに、ここを開けば、夷敵がここにやってくる。神奈川から江戸へは20里。ここに大型船で武器を持ち込んで攻撃を受けたら江戸が危険にさらされる危険がある。神奈川に港をつくるわけにはいかないのである。

開国を進めた井伊直弼が、安政7年に江戸城桜田門外で襲撃されたり、文久2年(1862年)には生麦でイギリス人が襲われるなど、政府の心配はもっともだった。

こうしたなかで苦肉の策として生まれてきたのが、神奈川の対岸に広がる横浜の砂州に港をつくるというアイデアであった。
東海道からひと山越え、水深も十分にある。

問題は、アクセス道がないことだった。
そこで、幕府は急きょ、東海道の芝生(しぼう)村から岡野−平沼−野毛を経て開港場に至る1里弱の道を普請した。

それが「よこはま道」である。起点は今の国道1号東海道の浅間下交差点。絹の道の終着地は、この先、開港場に渡る吉田橋である。

東海道から開港場に向けてつくられた「よこはま道」の分岐点。国道1号東海道の浅間下交差点からみると、まっすぐ前に横浜港・ランドマークタワーが遠望できる。
 

■よこはま道――3kmの道路工事をわずか3か月で完了
芝生村から開港場に向う道は、いまのJRの関内駅に向かう。
岡野から平沼あたりは湿地だったために、整備して新田間橋(新田間川)、平沼橋(帷子川)、石崎橋(石崎川)の3つの橋を渡して戸部村までつなげた。

さらに、南にある伊勢山を開いて切り通しを作り、野毛浦と吉田新田の間を野毛橋(都橋:大岡川)でつなぎ、さらに太田橋(吉田橋)を建設して開港場につなげた。

芝生から吉田橋まで1里弱(約3km)。
開港をまじかに控えて、わずか3か月の突貫工事であった。

ルートは沼地である。しかも建設重機はない。3kmの難しい道路工事を、人力だけで3か月で完了するそのプロジェクト推進力は、世界的に見ても、類がないレベルの高さと思う。

これだけの期間で資材を調達し、計画し、実施する、江戸末期の日本人の土木工事とプロジェクト推進能力の高さは、驚くほどだ。
  

新田間橋手前から戸部方向を見る。
平沼橋の先に、戸部の町並みが見える。
 

いま、左の絵と同じ新田間橋に立って同じ方向を見てみると、正面にランドマークタワーが見える。前に見える橋が平沼橋である。


野毛の切り通しの東に掃部山がある。掃部山には
開港をリードした大老・井伊掃部頭の像が
建てられている。

開港場に店を構えた商人たちは、生糸ブームに乗って事業が大きくなると、「別荘」と称して私宅を近くに造った。明治の初めに建てられた横浜の豪商・平沼専蔵別荘の擁壁が野毛交差点に今でも残っている。六角に切った石を積んだ亀甲積で、関東大震災などにも崩れずに今に伝わっている、美しい石組みの技術は見事だ。
   


■横浜港への関門……カネの橋「吉田橋」
安政6年(1859年)によこはま道を作った際に、大きな課題は、最後の開港場のつなぎだった。
砂州を埋め立てて開港場を作ったが、その手前、伊勢山下・野毛との接点が内海として残っていたのである。

当初は仮りの橋が作られたが、安政7年(1860年)になると、太田新田が開港場として整備されるとともに、本橋がかけられ、新田を太田町と名前を付け、新しい橋を吉田橋と呼んだ。

そして、攘夷を狙う暴漢から異人を守るため、吉田橋に開港場への通行を取り締まる関門を設け、ここから港寄りの地区を関門の内側、つまり「関内」と呼んだ。
JRの関内駅の名は、関門があった当時の名残である。

この吉田橋は当初は、木製の橋だったが、生糸貿易が盛んになるにしたがって人通りが増え、明治2年(1869年)10月にイギリス人の土木技師R・H・ブラントンに設計を依頼して、鋼鉄製の橋を完成させた。

素材の鉄はイギリスからの輸入である。
橋と言えば木製の時代に、「鉄(カネ)の橋」の愛称で人気になり、これを渡るために訪れる見学者も多かったという。
同じ明治2年に造られた長崎の中島川にかかる銕橋(くろがねばし)とともに、わが国最古の鉄橋である。
  

よこはま道。 

開港場となった太田新田が埋め立てられたばかりで、活用されていない。海岸に近い半分が当初商店などが建てられて使用された。(横浜市立中央図書館所蔵)

鉄製の橋は文明のあかし。幅6メートル、長さ24メートル。鉄材を交叉させて三角形に組んだトラス構造。新しいもの好きのもの見高いやじ馬で混雑したという。(横浜市立中央図書館所蔵)

復元された現在の吉田橋。下を流れる大岡川は暗渠になり、いまは橋になっていない。


JR関内駅近くに立つ吉田橋関門跡の碑。

吉田橋から逆に吉田町・都橋方向を見る。左に分かれていく道が、野毛を経て浅間下に向かうよこはま道である。


   


   


 
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