横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第3章
歴史に一瞬の光を刻んだ鑓水商人――生糸輸出を支えた「絹の道」


鑓水・絹の道

生糸の輸出をめざして商人たちが通った
八王子−横浜を結ぶ日本版のシルクロード「絹の道」。
その道が歴史の中で輝いたのは、幕末から明治にかけてのわずか数十年間。
そこで活躍したのが「鑓水商人」である。
八王子近く、多摩丘陵にある小さな村に過ぎない鑓水地区の商人が、
石垣大尽、異人館と称されるほどの繁栄を見せた理由は?
外国商人も足しげく通ったという鑓水地区の「絹の道」を訪ねる。



(1)生糸輸出を支えた鑓水商人と八王子往還

■江戸鑓水−−生糸商としての鑓水商人
横浜の開港で生糸輸出が一気に沸騰するが、そんな中で活躍したのが「鑓水商人」である。
八王子の南、多摩丘陵に埋もれるような小村「鑓水」出身の生糸商人たちだ。

八王子はもともと、信州や甲州と江戸を結ぶ、重要な物資の中継点であった。信州・甲州の商人たちは産地で仕入れた生糸を八王子に持ち込んで売り払い、交換に江戸から届いた物資を購って持ち帰る。八王子は、地方の物資と江戸の物資が集まり交換する交易地になっていたのである。

鑓水の商人たちは、当初は、八王子の市で生糸を買い付けて江戸などに運んでいたが、そのうち生糸を求めて産地へ出向き、買い付けるようになる。
こうして、鑓水商人は次第に力をつけていき、幕末から明治初期にかけては、生糸売買で成功した屋敷が小さな集落に溢れていて、「江戸鑓水」として知られるほど繁栄していたという。

天保14年(1843年)の幕府の調査では、八王子周辺にある34の農村に47人の生糸商人がいたが、そのうち鑓水村の出身者が18名に達していたという。
八王子から南に数キロ、わずか百戸に満たない集落の鑓水から、なぜそんなにたくさんの商人が輩出したのか、そして、なぜ消えたのか、その真相はいまだに謎だ。

現在の鑓水風景。静かな村で、かつて鑓水商人が活躍した面影はあまり感じられない。

 

■鑓水商人−−臨機応変で機を見るに敏
生糸の売買は投機である。
繊細なカイコから取れる繭の量は環境に影響され、取引価格は需要の変化に大きく影響される。いかに、機を見て売買するかが商人としての腕の見せ所である。

そのため、市場の変化にも敏感である。幕府が欧米諸国と結んだ通商条約の写しなどが、当時の多摩地区の家々から発見されているのも不思議ではない。
鑓水商人たちが、横浜の開港とともに沸騰した生糸ブームを敏感に察知し、江戸や京に運んでいた生糸を横浜に運ぶようにしたのは、自然の成り行きだった。

幕末から明治にかけて活躍した商人としてあげられるのは、大塚五郎吉、八木下要右衛門、大塚徳左衛門らである。
リーダー格は名主の家柄だった大塚五郎吉。彼は、当初は、八王子や甲州産の生糸を購入し江戸に販売していた。

そのうち、売買だけでは限界があると考え、繭を買ってきて農家に支給して糸を取らせ、それを引き取って八王子の市で販売するようになる。
そして、横浜が開港すると、今度は八王子で生糸を買い付けて、横浜に運んで販売する。機を見るに敏というべきだろう。

記録によれば、大塚五郎吉は慶応3年(1867年)、横浜の有力な生糸売込み問屋である亀屋・原善三郎商店に17回にわたって合計736貫の生糸を出荷したとある。1貫目は3.75kgだから、合計2,760kgである。

八王子市場で生糸を販売する側だった五郎吉は、横浜開港とともに、逆に生糸を購入して横浜に運んで販売するという立場に変わっている。こうした臨機応変な変わり身の早さこそ、鑓水商人を一大勢力にした要因かもしれない。
  

明治11年に再建された鑓水に唯一残る小泉家の主屋。木造平屋建てで、田の字型四間取りの、当時の典型的な民家。 

敷地内に、納屋、たい肥小屋、稲荷社などがあり、上は母屋の横にある納屋。
   


(2)ウォーキングの聖地「絹の道」

■絹の道――鑓水峠越えの難路
横浜に向かう八王子往還の起点は甲州街道(国道20号線)の八日町交差点である。
厚木に向かう道を片倉で東に折れて鑓水峠を越え、原町田、川井を経て横浜に向かう。

片倉で曲がらずに御殿峠を越えてゆく道もあるが、鑓水峠を越える道の方が短い。
いまの国道16号線・町田街道に沿って多摩丘陵を横断するこの道は、起伏が激しく、人馬が越えることも困難な道だった。

幕末までは、もう少し北の鶴見川に沿って神奈川宿に抜ける道が利用されていたが、その神奈川道に代わってこのルートが利用されるようになったのは、ひとえに、それが最短距離だったためである。

いま、鑓水峠に行く場合、片倉からの登り道は階段になっている。
車で行く場合は、先回りして、南側(鑓水)の出口に行き、そこから戻って峠を目指すことになる。

この一帯は、いまは大塚山公園として整備されている。
うっそうと木々が茂り、峠の上には、礎石しかないが、当時は立派な道了堂があった。
鑓水商人たちによって、江戸・浅草の花川戸から移し建てられたもので、横浜に向かう道は危険もあり、商人たちは出発前にここに寄って、旅の安全や取引の成功を祈願していったという。

当時は茶店も3軒ほどあって、ここにお参りに来て、お茶を飲むというのが、八王子・鑓水の庶民の楽しみになっていた。鑓水商人の繁栄ぶりを物語る遺跡でもある。
  

かつて道了堂があったことを物語る礎石。賑わいの面影はない。 

大栗川にかかる御殿橋に掲げられた道了堂の銅板図。


道了堂へ上がる階段。



階段の横にある明治13年に八王子駅糸商が寄贈した築礎碑。道了堂が建てられるまでの成り行きが記されている。糸商人が一大勢力になっていたことを物語る碑である。
   


■絹の道――横浜への最短のアクセス道
片倉から大塚山公園に入ってしばらく登ると、左に石段が見える。上がるとそこはかつて道了堂があった境内である。

この道了堂から、鑓水村への入り口までの1.5kmは、平成8年(1996年)に文化庁が選定した歴史の道・百選の「27 浜街道―鑓水峠越」として登録されている。

この道が「絹の道」と呼ばれるようになったのは、昭和32年(1957年)地元の橋本義夫氏が鑓水商人の功績を記念して、道了堂への上り口に「絹の道碑」を建てたことによる。
その後、昭和60年(1985年)、道了堂から鑓水峠下までの区間を、八王子が「絹の道」として史跡に指定した。

両側に木が迫る細い道は、いまも舗装されずに昔の面影を伝えている。狭いところでは、道幅2-3メートル、大きな石が転がり、雨水の流れでくぼんで、2人が並んで歩くのもやっとである。

当時はこの道を、人が生糸を背負い、荷駄で運んだ。とても馬車を引かせられる道ではない。横浜まで十里と少し(約40キロメートル)。早い人は一日で歩いたと言うが、150年以上さかのぼる当時に、重い荷を背負った旅は困難だったろうと想像できる。

八王子、町田、横浜と都会に近いわりに、豊富な自然が残されているこの道は、休日ともなれば、ウォーキングや歴史探訪のグループでにぎわう。
舗装もされていない山道、しばしの時代劇の旅人気分に浸るのも悪くない。

細く、デコボコで大きな石が転がる峠道。馬と行くのも一苦労。都会の喧騒を忘れる
  

「絹の道」碑。幕末から明治にかけてこの道を通ったであろう鑓水商人の功績をしのんで昭和32年(1957年)に橋本義夫氏が立てた。このルートが絹の道と呼ばれるようになった先駆的な碑である。礎石に「繭・糸枠・桑の葉」の絵が浮き彫りにされている。

大塚山公園(右の道)から鑓水村に入る三叉路。石塔が並んでいるのは、さまざまな物語があってことを忍ばせる。右の道が鑓水峠を通って、八王子に抜ける道。左に行くと御殿峠道を抜ける国道16号線に出る。道はここから村に向けて舗装されている。
   


(3)「絹の道資料館」


■異人も通った石垣大尽の屋敷
鑓水峠を下ると御殿峠からの道と出会う三叉路に出る。
いくつかの石塔があり、ここが当時からの交通の要衝だったことが分かる。
ここからは、道は舗装されている。

石塔の中の左手後ろの方に、「道路改修記念」と書かれた碑がある。
昭和59(1984)年に、御殿峠に通じる道を補修した改修工事の完成を記念して建てたもので、ここから下の道はこの時の改修工事で舗装された。

絹の道を御殿橋の方に5分ほど下っていくと、左手に「絹の道資料館」がある。鑓水の代表的な生糸商人の一人で石垣大尽と称された八木下要右衛門の屋敷の跡地である。

石垣の石は相模川から馬の背に乗せて運んだと言われる。八木下要右衛門の屋敷は、異国人がしばしば訪れたために「異人館」と呼ばれた入り母屋風の屋根をもつ家で、記念館はその母屋を復元するように作られたものだ。

中に入ってみよう。
ここには、絹の道や鑓水商人の活躍の跡、さらには当時の養蚕の様子などの資料が、パネルなどで展示されている。見学は無料なので、ここでざっと絹の道について勉強させていただこう。
  

絹の道資料館。平成2(1990)年に整備された。入館料無料。月曜日休館。開館時間は9:00〜17:00(11-2月は16:30まで) 

入り母屋風の豪壮な建物だったことが想像される。


館内の様子。


馬の背に乗せて荷駄を積んだ鞍も展示されている。この鞍の左右に、1個9貫(33.75kg)の生糸を4個(135kg)積んで山道を運んだ。
   


■鑓水商人の繁栄ぶりをしのばせる諏訪神社・永泉寺
絹の道をさらに下ると、5分ほどで、右から道が合流する。
このあたりが、谷戸が入り組んだ鑓水の村の谷が収れんする、鑓水村の中心地である。
ここを右に折れて少し行くと、右に小さな階段と、その上に鳥居が見える。諏訪神社である。

階段を上がると、鳥居、神楽殿、拝殿・本殿と3段になり、境内のあちこちに石灯籠がある。これらはすべて鑓水商人の寄進になるもの。年代は文政〜嘉永年間(1820-50年代)のものだが、台石に寄進者の名前が彫られている。

江戸末期の鑓水商人の隆盛ぶりがしのばれる。
一番上段の奥にある本殿は、実は本殿ではなく、本殿を納めた覆屋とでもいうべきもの。ここには諏訪神社、子の神神社、八幡神社の3つが祀られており、それぞれの本社がこの覆屋の中におさめられているのだ。

さて階段を下りて、道を戻ると大栗川にかかる御殿橋に出る。八王子市の史跡「絹の道」の終点、御殿橋である。

当時は近くに公民館がありその前に建てられていた道標が橋のたもとにある。正面に「此方 八王子道」左に「此方 はら町田・神奈川・ふじさわ」右に「此方 はし本・津久井・大山」と書かれているのがわかる。

道標を右に見ながら左に進むと永泉寺だ。ここの本堂は、明治17(1884)年の火事で焼失してしまったために、八木下要右衛門の屋敷が移築されたものだ。お寺の本堂には珍しく破風造りの玄関があるのはそのためだ。

戻って橋を渡り、道を南に進むと右手に小泉家の屋敷(写真は前出)が建っている。個人宅なので、外から静かに拝見しよう。

エアポケットのように残された牧歌的な鑓水の村と絹の道。この区間はぜひ、往時をしのびながら散策をしてみたい。
・_DSC3476.jpg 諏訪神社の拝殿。後ろに、覆屋が見える。 ・_DSC3488.jpg 中を覗いてみると、3つの本社がある。 ・_DSC3486.jpg 境内に置かれている石灯篭。鑓水商人たちの寄進になるものだ。 ・CIMG1413.jpg 諏訪神社の由来がよく分かる。 ・CIMG1430.jpg 道を降りて大栗川に出ると御殿橋がある。 ・CIMG1427.jpg 御殿橋のすぐ横にある道標。「はし本・津久井・大山」の文字が見える。反対側は「はら町田・神奈川・ふじさわ」 ・_DSC3499.jpg 永泉寺本堂。祭礼での花火から引火して本堂を焼いてしまい、八木要右衛門の母屋を移築した。破風づくりの屋根をもつ本堂の玄関。
  

諏訪神社の拝殿。後ろに、覆屋が見える。 

中を覗いてみると、3つの本社がある。

境内に置かれている石灯篭。鑓水商人たちの寄進になるものだ。

諏訪神社の由来がよく分かる。

御殿橋のすぐ横にある道標。(右)はし本、(中)津久井、(左)大 山」の文字が見える。ここが交通の要衝であったことがうかがえる。反対側は「はら町田・神奈川・ふじさわ」。

永泉寺本堂。祭礼での花火から引火して本堂を焼いてしまい、八木要右衛門の母屋を移築した。破風づくりの屋根をもつ本堂の玄関。



道を降りて大栗川に出ると御殿橋がある。




   


■環境の変化に取り残された鑓水商人
さすがの隆盛を誇った鑓水商人も、明治時代の後半になると生糸取引の舞台から消え、歴史の表舞台からフェードアウトしてゆく。
鑓水商人が外国商人を相手に直接生糸取引を行うわけではなく、彼等の相手は、異国商人と渡り合う横浜商人である。

さしもの鑓水商人も、異国商人と交渉をこなす横浜商人との交渉では常に後塵を拝し、取引が進むにつれて次第に劣勢になってゆく。
自ら養蚕事業へ乗り出して産業資本家への変身を図ったりするが、さらに大きな環境の変化が鑓水商人に襲いかかる。

開港のころは、荷駄で輸送した。それが明治22(1889)年、新宿-立川間27.2kmに甲武鉄道が開通し、半年後には八王子まで9.7kmに鉄道が伸びる。

1日がかりで運んだ距離が、わずか1時間で行けるようになってしまい、さらに、明治36(1903)年には八王子-甲府間が、41年(1908)には八王子-東神奈川の42.49kmが開通し、八王子を素通りして横浜に生糸が運ばれるようになる。

絹の道の先導役でもあった鑓水商人の出番がなくなってしまったのである。

洋の東西を結んだシルクロードが、鉄道・飛行機の発達によって命脈が絶たれたように、鑓水商人によって開拓された絹の道も、鉄道によってその役割を終えることになった。
絹の道、日本版シルクロードが、歴史上輝いたのは、幕末から明治中頃にかけてのわずか数十年間のことだった。


   


 
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