横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第2章
「繊細な飼育が、良質の繭をつくる」――桑都・八王子で養蚕を今に伝える長田誠一さん



蚕が紡いだ純白の繭


日本版シルクロード「絹の道」の起点になったのは、桑都と呼ばれた八王子である。
その八王子自身もまた、養蚕と織物の盛んな町でもあった。
周辺が開発されて住宅・農地が広がるなかで、いまでも無農薬で桑を栽培し、年に2回、春蚕と晩秋蚕を続けている養蚕農家の長田誠一さん。

養蚕を始めて5代目、これからもこの伝統を守っていきたいという長田さんを、晩秋蚕の繭の出荷前に訪ねた。


(1)交通の要衝として物資が集積した八王子

■桑の都・八王子
横浜に生糸を運ぶ起点となったのは八王子である。
八王子は江戸と甲州・信州を結ぶ甲州街道(国道20号線)、横浜と川越・上州を結ぶ川越街道(国道16号線)、青梅を経て甲州に通じる滝山街道(国道411号線)が交叉する、交通の要衝であり、江戸時代には宿場町として栄えていた。

このため、4日市(横山宿)、8日市(八日市宿)などが早くから開かれ、東西の物資の集散地となっていた。

地勢的には、関東平野の西端に位置し、山地・丘陵が三方を占めて、東にへと浅川が流れて半盆地の扇状地を形成している。こうした地形から米作がむずかしく、かつては桑が栽培され、養蚕が盛んに行われていた。

八王子は別名「桑都(そうと)」と呼ばれたという。「浅川を渡れば富士の影清く、桑の都に晴嵐吹く」と西行が詠んだと伝えらるこの歌の真偽は不明だが、かつて、桑の木が栽培され、養蚕も行われて桑都と呼ばれていたことは間違いないようだ。

  

JR八王子駅を北口に出ると、ロータリーの2階がテラスになっている。このテラスは「マルベリーブリッジ」(桑の橋)と命名され、織物の町の伝統を伝えるために、かつてあった八王子城を模した塔「絹の舞」が飾られている。 

市の取引の無事を守る守護神を祀った市守神社。現在でも毎年2月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる祭礼がおこなわれている。

   


■桑の並木通り
八王子の養蚕、機織は、文政年間(1820年頃)にはすでに知られていたようだ。
横浜が開国すると、機織業はさらに繁栄し、特に生糸・絹織物については、横浜につながる八王子往還(神奈川道)があったことから、群馬や信州、甲州、秩父などからも生糸が集まり、横浜港への中継拠点として重要な役割を果たしていた。

JR八王子駅北口から浅川大橋に伸びる大通りは、桑の並木通りと名付けられている。
駅から300メートルほど離れた甲州街道との交差点(八王子駅入口)までは両側にマロニエが植えられているが、そこから先、浅川大橋までの400メートルは桑の木が植えられている。

桑が街路樹として使われているのは全国でも珍しい。
甲州街道の交差点から少し先の西側に「桑並木の由来」の碑がある。

1954年(昭和29年)、地元に工場をもつ片倉工業鰍ゥら桑の木50数本の寄贈を受け、織物の街の象徴として市や養蚕・製糸・機織り関係者らによって植栽されたものだという。

市内で桑が街路樹として植えられているのはここだけだが、小宮、片倉城跡、鑓水などの公園にも桑の木が植えられていて、養蚕・機織りの街の伝統を伝えている。
  

駅北口のテラス歩道マルベリーブリッジから見た桑の並木通り。手前の駅近くの街路樹はマロニエで、桑は少し先に行くと見える。 

両側に手入れされた桑の街路樹が並んでいる。柔らかな緑が目に安らぎをあたえてくれる。


50数本植えられた桑の木は、現在36本が残されていて、排気ガスなどをものともせずに道行く人に緑を提供している。植えられてから60年、欠けているところもあるが、この樹勢をみる限り、街路樹としての適性もあるのではないかと思える。せっかく桑都と称するならば、駅近くのマロニエも、桑に代えてはどうだろうか。
   


(2)養蚕の伝統を現代に生かす――長田養蚕
そんな八王子も、いまでは養蚕を行う家はわずか3軒。そのうちの1軒、加住町の長田誠一さん(44)のお宅にうかがった。
養蚕農家が高齢化するなかで、40代で、養蚕の伝統を何とか守っていきたいと奮闘する八王子農協の若手養蚕家である。

八王子駅から滝山街道を下って車で20分ほど、このあたりは1500年頃には高月城、滝山城などの城下町として栄えたという。
樹齢400年で、市の指定天然記念物の山桑「高月のクワ」も近くにある(長田さんのお宅は個人宅で公開はされていません)。

養蚕の様子については、東小金井にある東京農工大学の「科学博物館」をごらんください。東京農工大学の前身は明治19年(1886年)に造られた農商務省蚕病試験場で、その「 参考品陳列場」が、昭和27年(1952年)に博物館法に基づく「博物館相当施設」に指定され、平成20年度に、「東京農工大学科学博物館」になっている。
  

「東京農工大学科学博物館」に養蚕に関するさまざまな資料・道具が収集され、展示されている。

各地区、各国で作られている繭が収集・展示されている。世界でも大きさや形に違いがあることに驚く

養蚕から製糸機、機織まで、さまざまな道具や機械もかなりの数だ。
   


■春と秋、年に2回の養蚕
「私の家はもともとは小作農家で、養蚕を始めたのは明治30年頃、祖父の父の五右衛門の代からで、祖父喜兵衛の3人の姉たちが家で機を織っていたそうです。

長田家としては私で12代目、養蚕農家としては5代目です。この母屋も五右衛門が建てたもので、昭和36,7年までは茅葺でした。
その五右衛門は農業の傍ら生糸商人をはじめて、稼いだ資金で少しずつ畑を購入し、桑を栽培。10年ほど続けて桑を確保できるようになったところで、自分で養蚕・生糸づくりを始めたと聞いています」。

横浜が開国して生糸輸出がブームになっていたころのことである。
地元や甲州から集まる生糸を買い付けて「絹の道」を通って横浜に運んでいたそうで、八王子から自宅に帰る道では、「途中で襲われるなんて言う危ない経験もしたようです」と長田さん。

100年の歴史を経て、養蚕は長田家の家業だが、いまは兼業という。
かつてこの地域には桑畑もたくさんあった。
長田さん宅でも、父親の代に「年に5回の養蚕で、1トンも出荷したこともあったようですが、いまでは春蚕(5月〜6月)と晩秋蚕(8月旬〜9月)の2回だけで、他に、道の駅などに出荷する分も含めて年間飼育するのは10分の1の6万頭くらいになってしまいました」という。
  

「八王子市内で養蚕をやっている農家は今では3軒。最盛期には年間1トンを生産したようです。いまはとてもそんな状況ではありませんが、気持ち的には近づけるように頑張っていきたい」と長田誠一さん。 

浅川の支流・谷地川に面して建つ長田さん宅。2階は作業部屋で1室。母屋の左に、別に建てた大小2つの蚕室がある。


繭は毛羽や汚れが落とされてきれいにされる。純白できれいな出荷前の状態。
   


■むずかしくなった無農薬の桑栽培
養蚕する回数が少なくなってしまったのにはいくつか理由があるが、大きなのは桑の栽培の問題と、そしてカイコを飼う蚕室の問題。

カイコは、ほぼ30日間桑の葉を食べ、途中、3-10日ごとに脱皮を繰り返して成長する。
そして、4回の脱皮を経て成虫(ガ)になる前にサナギになるが、このサナギの期間を安全に過ごすために、自分の身体を包むように周囲に糸を吐きだして繭をつくる。
カイコは成長をサナギで止めて繭を製糸工場に送って、生糸に紡ぐ。

「カイコは人間が繭を取るために改良を重ねた生き物で、カイコ自身の力ではエサも探せず、生きてゆくことができません。
桑の葉を食べて大きくなり、脱皮を繰り返して体重は1万倍に成長しますが、桑の葉もカイコの状態に合わせて、稚蚕の頃は細かく刻んで与えます。
人間の手助けがないと生きられないほど繊細なのです」。

カイコは卵から孵化した当初は、大きさも2〜3ミリと小さく、それが桑の葉を摂取して3-10日で脱皮するが、体重は脱皮するたびに、当初の20倍、120倍、720倍・・・と級数的に大きくなり、さなぎになる寸前には体重は約1万倍に増える。

1頭のカイコは、約20〜25グラムの桑の葉を食べる。枚数にして約20枚。
カイコが60,000頭とすれば、桑の量は全部で1,500kg=1.5トン、葉の数にして120万枚にも及ぶ。
その量の桑の葉を確保するためにはおよそ10アール(100m×10m)近い桑畑を必要とする。

しかも、「カイコは特に脱皮直後はちょっとした変化にも傷つきやすくて、農薬が付着している桑の葉を食べれば、それで死んでしまいます。虫よけスプレーも使えません。このあたりも宅地化が進み、周辺で家庭菜園やガーデニングなど農薬を使うケースも増えて、桑を栽培することが難しくなっています」
と長田さん。無農薬が条件で、殺虫スプレーもダメとなれば、八王子で栽培を続けるのは容易ではない。

表3 カイコが作る繊維と桑の量
絹織物1反(着物1着)20.4反
生糸900g18.5kg
作られる繭の量4.9kg(2,600粒)100kg
桑畑の面積4.9u10アール(100u)
桑葉の量90kg2,000kg
蚕種2,700頭62,000頭
カイコは孵化してから成熟するまでに体重が1万倍に増える。食べるクワの量は、想像以上に大量である。

  

家の前、浅川の土手にある桑畑。晩秋蚕がおわった頃なので、桑はほとんど食べつくされている。 

母屋の2階。ここは、蚕が繭づくり「まぶし」を行う部屋でもある。

長田さんは、2階の作業室で出荷前の最後の作業である、繭についた毛羽や汚れを落とす「ケバ取り」作業中だった。「自動で毛羽を取ってくれる機械の調子が悪く、手作業でやっています」(長田さん)。かつてはこうした機械を販売・修理してくれる会社もたくさんあったが、いまでは数えるほどしかなくなってしまったという。

   


■繁忙期には常連のボランティアが支援
カイコの飼育は、とくに孵化した直後はデリケートで難しい。
長田さんでは、3回脱皮した後の4齢のカイコを稚蚕小屋からスーパー飼育台小屋へと移動し、広げて育てる。

その後も脱皮を繰り返し、成熟したところで、母屋の2階にある作業場に移し、「回転まぶしと呼ばれるマス目の繭づくり用の場所に移す。

2階への階段は手すりもなく、外にむき出しになっています。
大きな蚕座を手で運び上げる時にぶつかるので、手すりをつけなかったんです」(長田さん)。

この時期は忙しく、通常は長田さん、お母さんの百々代さん、奥さんの晶さんの3人で行う作業も「養蚕期の一番忙しい時期には、常連で来てくれるボランティアさんに支えられています」と長田さん。
長田さんを支援するファンがたくさんいるのだ。

長田さんが作った繭は、碓氷製糸場に送られて生糸にされるほかに、地元の道の駅「八王子滝山」でも繭の加工品として販売されている。

純白の繭に彩色してかわいらしい人形に仕上げられているのだが、これがかわいらしいと評判の人気商品になっている。
これは、奥さんの晶さんの作品。晶さんは繭を使った手作りの講習会なども依頼され、人気のプログラムになっている。
  

お母さんの百々代さん。養蚕暦45年、いざというときに頼りになる経験豊富な生き字引である。

 

大きな養蚕室。ここで、3齢から成熟するまでの2週間ほど飼育される。脱皮するごとに大きくなるカイコにはそれなりのスペースが必要になり、適宜、新しい蚕座にカイコは移される。移動と、清掃、蚕の状態に合わせて桑の葉をあたえる作業がここで行われる。

温度管理のできる稚蚕室。孵化から3齢までのカイコの飼育に使われる。

道の駅「八王子滝山」では長田さんや奥さんが作った、繭を使ったアクセサリーや人形も販売されている。“養蚕の街八王子”を市民が実感できる場所でもある。


繭を使った商品は、道の駅「八王子滝山」ならではの地元の特徴ある商品として人気も高い。そばを通るお客さんの目も引く。同道の駅の定番になっている。
   


■人間のために命をいただく――小学校で「養蚕授業」
今では少なくなってしまった養蚕を地域の人に知ってもらうおうと、長田さん夫妻は、小学校で生徒たちに養蚕の授業を行っている。

「3年生20数名の2クラスが対象で、孵化したカイコを先生が3齢まで育成し、それを生徒に10頭ずつ配って、桑やりからやってもらいます。
毎日の作業なので大変ですが、それをやって、8個の繭を作った人の中から、きれいな繭ができた人、飼育記録をしっかりつけた人を、全員の投票で表彰します」と長田さん。

言うのは簡単だが、カイコを細かく観察し、適切な世話をしないと繭を作らせるのは難しい。
手を抜けばカイコはすぐに死んでしまい、繭の出来も悪くなる。しかし、長田さんは8個の繭を完成することを表彰の条件にしている。

「そこまで厳しくしなくても、という声もありますが、やってもらう以上、命を扱うのですから、しっかりやってもらうべきだと思います。
さなぎは繭を作った後、20日ほどで蛾になり、繭を破って出てきます。
そうなると繭が汚れてしまうので、その前に乾燥させたり、冷凍したりしてさなぎを死なせます。

最後は、人間のために、命をいただくことで養蚕が成り立っています。カイコは家畜です。ありがたい生き物です。そのことを子供たちに体験してもらい、命の大切さを知ってほしい」と長田さん。

繭は純白できれいだが、こうした繭をつくるためにはしっかりした管理が必要だ。
世話をされることが当たり前になっている子供たちにとって、世話をするカイコの飼育体験は、実践的な教育の一環としても、面白い試みだ。

繭は純白できれいだが、こうした繭をづくるためにはしっかりした管理が必要だ。世話をされることが当たり前になっている子供たちにとって、世話をするカイコの飼育体験は、実践的な教育の一環としても、面白い試みだ。 

■環境の変化の変化がものづくりを変えていく
表彰の賞品に自作のプラモデルや奥さん手作りの繭で作った人形などをプレゼントしたりして、子供たちの学校生活では記憶に残る思い出の授業になっている。

熱血指導は学校や保護者からの評価も高く、放課後教室などにも参加している。
この中から将来、養蚕に興味を持ってくれる人が出てくれれば、養蚕家としてもうれしい。

「いまは、畑が減ってしまって、年に2回しか養蚕ができません。私は、年間1トンを取った時代を経験していませんが、気持ち的にはそういう時代に少しでも近づけるように、養蚕農家を続けていきたいと思っています」

かつて八王子の街を支え、日本経済を支えた養蚕がいまでも続けられているのはうれしい。
しかし、桑畑の問題は象徴的だ。伝統的なものづくりが少なくなっていくのは、ものづくりに従事する人たちに原因があるのではなく、ものづくりを継続することを拒むように環境が変化しているのだということなのである。

伝統的なものづくりを守れるかどうかは、社会の問題でもあるということだろう。


   


 
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