横浜開港と絹の道


ものづくり日本の源流を訪ねる
横浜開港と絹の道





第1章
生糸を金貨に変えた道――近代化を支えた日本版「シルクロード」



神奈川県庁舎


■横浜が生糸の輸出港として
現在の横浜港大さんばし
2014年、富岡製糸場がユネスコの世界文化遺産として登録されたが、その時に同時に世界文化遺産に登録されたのが「シルクロード:長安=天山回廊の交易路網」である。

ユーラシア大陸を横切って洋の東西を結ぶ数千キロの壮大なスケールには及びもつかないが、戦後になって、かつて日本にも同じように生糸を輸送した「絹の道」があったと、日本版シルクロードが見直されるようになった。

ペリーの来航以来、日本は、米英露蘭仏と通商条約を結び、1859年に横浜、長崎、函館の3港を開港した。
これを機に、海外から多くの商人が押し寄せたが、彼等が日本で競うように買い求めたのが、お茶と生糸だった。

ちょうどそのころ、フランス、イタリアでは、蚕が微粒子病に侵されて減少し、供給不足に陥っていたため、蚕種と生糸の確保は重要な課題だったのである。

横浜で生糸が売れるとの情報で、国内生産が一気に活気づいた。
生糸の輸出が唯一の外貨獲得策ということもあって、政府は、養蚕・製糸業を奨励する。

各地で増産された生糸が、滝つぼに水が吸い込まれるように横浜に集まり、横浜は生糸輸出港としての地位を不動のものにする。

以後、80年間にわたって生糸が日本の輸出品目のトップを占め、その80パーセント以上が、横浜港からの輸出で(表1)、横浜は長い間、生糸輸出のほぼ100パーセントを占めていた。
  
表1 横浜港からの生糸輸出量(kg)
年 別全国輸出高(A)横浜輸出高(B)(B/A)比率
明治4年800,150.40757,209.694.60
  5年541,296,00534,038.498.60
  6年726,969.00638,668.887.90
  7年592,099.20590,889.699.70
  8年714,268.80714,268.8100.0
  9年1,127,347.201,113,436.898.80
 10年1,042,070.401,042,070.4100.0
 11年877,564.80877,564.8100.0
 12年990,057.60990,057.6100.0
 13年883,612.80883,612.8100.0
 14年1,089,244.801,089,244.8100.0
 15年1,744,243.201,744,243.2100.0
 16年1,887,580.801,887,580.8100.0
 17年1,268,870.401,268,870.4100.0
 18年1,485,993.601,485,993.6100.0
 19年1,593,648.001,593,648100.0
 20年1,876,694.401,876,694.4100.0
 21年2,828,649.402,826,835.2100.0
 22年2,495,404.802,469,398.498.90
 23年1,276,128.001,261,00898.80
 24年3,220,560.003,199,996.899.10
 25年3,269,548.803,269,548.8100.0
  

七福人-種紙会社より海岸鉄道眺望の図。蚕紙とは、蚕種を販売するために紙にカイコの種を植え付けたもの。蚕種を販売する会社から海岸を走る鉄道を見た様子を描いたものだが、店員を七福神になぞらえているところは、いかに商売が好調であるかを物語っている(横浜市立中央図書館所蔵)

1962年に来日し、慶応元(1865) 年に居留地76番に店舗を構えたスイス人の生糸商バビエル商会。屑糸の取扱高は外国商館中第一位を誇っていたという。居留地76番は、現在はローズホテルや、横浜ユーロタワーが建っているあたりである(有隣堂刊『横浜銅版画』より)
   


■横浜に集まる生糸商人たち
もともと民家がわずかに数十軒あるだけの山手から横に飛び出した寒村の砂州(横浜)を整備し、内海を埋め立てて地ならしして、そこに政府が声をかけて、江戸や地元の商人に店舗を構えさせた。

しかし、商人たちも異人相手に何を売ったらよいの分からない。
困って、手あたりしだい店先に品物を置いたところ、生糸が売れた。

いくらでも買うからもっと見せろと言う。半信半疑で店を構えた商人たちは色めきたった。

最初の生糸取引が行われたのは、地元出身の芝屋清三郎の店だったという。
安政6年(1859年)6月28日に英人イソリキが、甲州産島田造生糸六俵を高値で買ったという。

これで、どうやら外国人は生糸に興味があるらしいことが分かり、以後、怒涛のように横浜に生糸が集まることになる。

こうして、中居屋重兵衛、亀屋・原善三郎、野沢屋・茂木惣兵衛、甲州出身の若尾幾造など生糸で財を成す商人が台頭してくる。


開港とともに外国人商人、国内商人がやってきて、店舗ができる。港からはしけで本船に荷物を運んだ(横浜市立図書館所蔵)

■ロジスティックスが市場を制する
明治初めの国内の生糸生産量をみると(表2)、東北、北関東、山梨、長野が多い。

岩代は、福島市・二本松市あたり、羽前は山形県の酒田・飽海郡を除いた部分である。
江戸時代初期には養蚕家が繰糸・糸づくりをしていたが、中期になると地域の繭を集めて製糸する人が独立し、後期になると繊維に合わせて糸を撚る撚糸業が独立する。

ここで養蚕、製糸、撚糸の分業ができる。生糸商人が活躍するのは、製糸された生糸を繊維にするために撚糸業者に販売する、その間のつなぎ役であった。

幕末から明治にかけて、日本の養蚕地帯として、大きく3つの地域、
@福島を中心とした東北、
A上州、上信越、埼玉、
B長野県南・山梨など
・・・があり、産地から生糸を江戸・横浜に運ぶルートはいくつか使われていた。

江戸時代には江戸・日本橋を起点として5街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)が整備されていた。
参勤交代はこうした街道を利用して行われた。しかし5街道はどちらかと言えば公用道で、駅ごとに荷を積み替えねばならないなどの制約が多く、一般には街道を避けて脇往還や舟運などが活用されていたようだ。

日数がコストにつながり、相場取引が基本の生糸は時間が勝負で、ロジスティクスは成否を決めるポイントになっていた。


表2国別生糸生産高の変遷。当時の養蚕は、上野、武蔵、信濃、岩代、甲斐、羽前などがさかんで、開港後もこれらの産地から横浜に出荷された


■絹の通った道
生糸が江戸・横浜に運ばれたルートはいくつかある。
東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用された。元東大教授で横浜開港資料館館長を務めた高村直助はこの水運を利用した生糸輸送のルートを「水上のシルクロード」と呼んでいる。
@東北地方(出羽や陸奥・南部・会津など)からの輸送ルート
江戸への参勤交代は、基本的に奥州街道を使うルートだが、鬼怒川(阿久津河岸や板戸河岸:栃木県)で舟に積んで久保田河岸まで運び、境河岸まで陸送して、利根川−江戸川と経て江戸湾に出て、日本橋界隈の問屋へというルートが多く使われた。

A上州・北信州・武蔵を中心とした北関東・北信地方からの輸送ルート
基本的に中山道に沿ったルートだが、荷駄で運ぶより水運が利用された。利根川支流の烏川の倉賀野河岸や平塚河岸で舟に積み、利根川-江戸川と経由して日本橋まで。江戸時代、倉賀野は上信越からの物資輸道の一大拠点であった。また、高崎-本庄-熊谷-桶川-蕨-板橋というルートも用いられており、明治5年には陸運会社が設置されて、人馬でも生糸を運んだ。

B飛騨・美濃・南信濃・甲斐地方からのルート
飛騨・美濃からは名古屋に出て舟運も利用されたが、一般的には、甲州街道に沿って松本や塩尻、あるいは木曽から岡谷−甲府を経由して八王子−江戸へ、あるいは、八王子往還を経て横浜に抜けるというルートが利用されている。

これらのルートの最終区間、東京-横浜は、1870年(明治3年)に蒸気船の弘明丸が就航しており、1872年(明治5年)には蒸気機関車が通っている。横浜での生糸取引価格の変動をにらみながら、こうしたものも利用されている。

明治3年には、東京−横浜間を横須賀製鉄所で建造した外輪型の蒸気船「弘明丸」が運航している。毎日、朝9時に東京(永代橋下)を、午後2時に横浜を出発する。船賃は、一等3分、並2分、12歳以下1分。現在に換算して大雑把に一等1500円、並1000円、子供500円という所か(横浜市立中央図書館所蔵)。
  

生糸が江戸・横浜に届くルート。東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用された。 

倉賀野河岸由来。江戸時代、倉賀野は上信越からの物資輸道の一大拠点であった

明治はじめに東京-横浜間を就航した横須賀製鉄所で建造した外輪型の蒸気船「弘明丸」(横浜市立中央図書館所蔵)。
   


■八王子から横浜に向かう「絹の道」
こうした中で、八王子−横浜のルートが絹の道と呼ばれるようになったについては、鑓水商人と呼ばれる生糸商の存在が大きい。

幕末まで、生糸取引の中心は京都・西陣であった。
多摩地区には早くから生糸商人が多数存在し、特に八王子には鑓水商人と呼ばれる集団がいて、大きな勢力を誇っていた。

東北から上州に出て生糸を買い付け、それらを京都・西陣へ運んでいたのである。これを「登せ糸」という。

1859年に横浜が開港すると、永い間、京都へと流れていた生糸が、横浜へと流れるようになる。その時に中心になったのが、東北や上州、さらに甲州街道沿いの村々で生糸を購入し、生産者と強い関係を築いてきた鑓水商人であった。

彼らは、幕末から明治にかけて、上州や南信州、甲州産の生糸を買い集め、横浜に運んだ。
小さな集落の鑓水村は、外国商人も訪れるほどの隆盛を誇ったという。

もともと、八王子から鑓水−原町田−川井と経由して東海道に出る道は、八王子往還として利用されていた。
そして、幕府が開港に合わせて、東海道から横浜港へと向かうアクセス道「よこはま道」を整備したことで、八王子往還−浜街道と結ぶ「絹の交易路」が生まれることになった。


■日本版シルクロードの盛衰−−郵便事業を促した生糸商人の往来
多摩、横浜の丘陵地帯を通るこのルートは起伏の激しい難路とされていたが、それでも八王子から横浜に生糸を運ぶにはもっとも早いルートとして利用された。

この道を通って生糸が運ばれたことを示す一つの例として、郵便制度の開通を見たのが牧野正久である(牧野正久「日本シルク・ロードの究明」「郵和」no.72)。

明治5年7月、政府は、それまでの駅伝馬制度に代えて、東京−横浜間の郵便物受付を始め、

「東京を除くの外、横浜より各地への仕立便緩急により賃銀高下有るべく候え共、先規に基き一里六〇〇文の定額を以て請取り、夜行は倍増其余時宜に寄るべきこと」

の太政官布告を出している。つまり、東京−横浜間だけでなく、いくつかの町への郵便と現金送金も受け付け、各地別仕立賃銀表を附記しているのである。

代表的な地として、五里武州長津田、六里同原町田、七里半相州横須賀、九里同浦賀、十二里武州八王子、二十里同川越、三十六里上州高崎、三十六里八丁同富岡、三十三里同桐生、五十七里信州上田……の10地名が、距離とともにあげられている。

横浜−長津田−原町田−八王子……はまさに、絹の道であり、川越−高崎−富岡……はその延長である。

現金送金を可能にしたこの郵便制度は、横浜に生糸を売りに来た商人への便宜を優先した施策である。
八王子−横浜を結ぶ絹の道が、いかに生糸商人にとってなくてはならないルートだったということができる。

鑓水から大栗川に下りてくると、御殿橋があり、そのたもとに、古い「八王子道道標」の様子が掲げられている。


東北や上越方面からの水運を利用したルート、八王子からの絹の道は、幕末から明治の初めに我が国の生糸貿易を支えた大動脈でもあったが、大量に輸送できる鉄道の登場で、時代とともに歴史の表から消えてしまった。

1872年(明治5年)に、イギリス人技師モレルの尽力で新橋-横浜間に鉄道が開通。最初は途中駅が未完成で汽車は新橋−横浜間をノンストップで走った。新橋横浜の前に、品川−横浜間が開通しており、まず、この間で仮営業された。明治5年5月7日(新暦1872年6月12日)のことである。

初日は往復2便だったが、翌日には6往復になった。4か月後には新橋まで開通している。品川発は午前9時、10時、11時、午後3時、4時、5時の1日6便、横浜発は午前8時、9時、10時、午後2時、3時、4時。
このダイヤからもわかるように、起点は横浜だった。横浜を早く出て遅く帰るという横浜を優先したダイヤ編成になっている。運賃が上等1円50銭、中等1円、下等50銭であった。

新橋-横浜間の前に、明治5年5月7日(新暦1872年6月12日)品川-横浜で仮営業で鉄道が開通した。横浜を優先したダイヤ編成になっている。(横浜市立中央図書館所蔵)

荷駄で運べばほぼ1日かかる25kmほどの距離が、わずか35分に短縮されてしまったのである。前年には、東京-横浜間を蒸気船便が開通している。荷駄で運ぶ時代は、終りはじめていたのである。
その後鉄道は、1883年(明治16年)には上野−熊谷間、翌年には熊谷−前橋が開通し、上野−前橋がつながった。
新宿−立川間の27.2kmに甲武鉄道が開通したのは1889年(明治22年)。新宿−立川間を1時間で走った。
平均時速30km、1日の徒歩分の距離が1時間で行ける。圧倒的な便利さに、荷駄や水運は駆逐されていった。

そして、1908年(明治41年)東神奈川−八王子間の横浜鉄道が開通。
これらの路線からも分かるように、日本の鉄道整備は、生糸輸送を目的に行われたのである。

1872年、イギリス人技師モレルによって横浜−新橋に初の鉄道が開通が、当初、横浜駅は海の中であった。現在の青木橋から桜木町への道は、高島嘉右衛門によって開設された、海中の土手道だったのである。この話は、後程詳しくご紹介したい。
いま、桜木町駅の裏にモレルを顕彰してひっそりと鉄道創業の地碑がある。
  

1872年、イギリス人技師モレルによって横浜−新橋に初の鉄道が開通。横浜はいまの桜木町駅あたりにあった。

桜木町駅から関内よりに鉄道創業の地碑がある。すぐ横の高架を根岸線が走っている。
   


   


 
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