殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                 
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  048 横浜港駅とボート・トレイン・転車台

   
 
赤レンガ倉庫の裏に横浜港駅ホームが復元されている。休日には多くの人がここに腰かけて休んでいる。

■旧横浜港(よこはまみなと)駅−−ボート・トレイン
 新港はもともと貨物の輸出入が増えて埠頭が足らず、それを処理する総合的な港として整備されたものだったが、貨物輸送用の鉄道路線が敷かれていることから客船・貨客船の発着にも利用されるようになった。
 ここが乗客の乗降駅として利用されたのは、明治43(1910)年に台風で東海道線の鉄道が不通になってしまったため、代替輸送として、名古屋・静岡から船で横浜に輸送されたのが最初とか。その後、大正9(1920)年7月23日付で正式に「横浜港駅」となった。地図を再掲する。

 
桜木町と汽車道、新港地区の状況。転車台はここに設置されておらず、線路がループにもなっていないことが分かる。汽車道から入ってきた蒸気機関車は、反転できず、バックで戻るしかないことが分かる。


   この際に新港埠頭4号岸壁の脇に旅客用のプラットホームが設置され、駅の構造は、島式のプラットホームが1つ。これが復元されている。日本郵船および東洋汽船のサンフランシスコ航路(ハワイ経由もあり)出航日に合わせて乗船客と見送り客を輸送するために、ボート・トレインが東京駅から下って、鶴見で当時設けられていた貨物路線用の高島線に入り、横浜港駅まで1往復運転されるようになった。
現代でいえばNEX(成田エクスプレス)のようなものだが、列車は2・3等車の7両編成。蒸気機関車がけん引するボート・トレインは、独特の風情があって人気だったようだ。出迎えや見送りだけでなく、これだけに乗る乗客もあったという。
 ただ、昨今の気軽に行けるNEX−成田−海外旅行と違って、外国航路は勤め人の年収ほどの費用が必要な高価な旅だったから、はるかな夢の憧れの旅だったに違いない。
 戦後、この地区は米軍に接収され、解除されたのが昭和36(1960)年。もう、そろそろ航空便が一般化しはじめていて、船便が貨物以外に活躍できる場面は減少しつつあった。臨港線自体と、貨物駅としての横浜港駅はその後も残っていたが、昭和57(1982)年に駅は廃止され、新港地区もわずかに倉庫が使われる程度になった。そして、平成5(1993)年に地域再開発で保存をめざして工事が始められ、現在の姿になった。

■蒸気機関車がバックで走る?
 という状況を調べながら、この駅、終着駅=行き止まりの駅なのにどうやって折り返していたのだろう、線路がループにもなっていない。この臨港線は最終的には山下埠頭まで伸延されていたから、横浜駅から来る時はいいが、戻るときは客車はともかく機関車を反転させなければならないがその場所がない。どうしていたのだろうと、気になった。

   調べると『土木学会誌』大正7年6月号に「横浜税関海陸連絡設備」という記事がある。なかに転車台などの設備計画と予算が説明されているが、転車台の内径が15フィート(4.572m)。1872年に走った陸蒸気なら何とか載せてギリギリ転車できるが、大正〜昭和にかけて走った蒸気機関車などはいずれも大型化していて車輪間の長さは7メートルを超える。長さ4.572mの転車台では乗せられないのだ。

 と思っていたら、『横浜の鉄道物語』(長谷川弘和 JTBキャンブックス)によると、「ボート・トレインをけん引した機関車は新港ふ頭に転車台が無いために、高島機関庫まで単機(バック運転)で帰って方向転換をして横浜港駅まで(バック運転で)戻っていた」と書かれている。(バック運転)はどちらも私の注記だ。どちらもバック運転でないと方向が合わない。わざわざバック運転で往復するならそのままでもいいではないかと思うが、乗客を乗せた客車をけん引しては、バック運転はさせられないということだろう。

 蒸気機関車は、運転席の後ろに石炭車をつないでいるので、バックするときは、窓から首を出さないと前(後ろ?)が見えない。横浜駅から来る時はいいが、帰るときはバックしていたのか?さぞかし運転手さんは見にくかったろうとその光景を想像する。

 どうやら前にご紹介した2代目横浜駅近くに設けられた貨物用の高島町駅に操車場があり、そこに転車台と扇形庫があり、そこで反転させていたらしい。それでも山下埠頭−横浜港駅−高島駅間を蒸気機関車が戻るときはバックで走っていたということになる。
 

 高島駅に設置された扇形庫・転車台。大正2(1913)年に初代横浜駅から高島町駅に移転してきた
わが国最古のものだったと言われているが、その後、扇形庫は昭和63(1988)年には解体されてしまい、
転車台のみが本牧市民公園に移され、D51516とともに展示されている。(神奈川新聞、1987年2月28日)


 ■転車台は、D51とともに横浜・本牧市民公園で公開
蒸気機関車をどこで転車させていたのか。『神奈川の鉄道 1872−1996』野田正穂ほか(日本経済評論社)によると、この新港の鉄道は、前回ご紹介したように、1910(明治43)年8月に使用を開始したが、営業するまでに1年余かかったという。
 使用開始から営業まで1年を要した理由について、『配車の調整がつかなかったためであるが、なにより操車設備の不完全さがネックであった。「埋立地地内ニ於テ(構内経由ノ輸出入貨物ニ対シ操車線全部を設クルノ除地ナキヲ以テ貨車仕分ケ列車組立等「横浜停車場ニ於テ施行」とされたが、横浜停車場とても十分な操車場拡張の余地があるわけでもなく・・・表高島町埋立地に一大貨車操車場を設けることによって海陸連絡を図ることにした』と『神奈川の鉄道』は紹介し、 高島駅に操車場のほかに11戦収容の鉄筋コンクリート造り扇形機関車庫も建設された、と書かれている。

 この辺りの事情がよく分からない。もともと初代横浜駅に、蒸気機関車が折り返すための転車台があったはずだから、それを流用すればよいと思うが、どうしてできなかったのだろうか、不明。

 私は「てつ」ファンではないが、山下公園や汽車道をバックで走る蒸気機関車!は私も見たかったと思う。昭和35年8月までボート・トレインが走っていたそうだからその気になれば見られたはずだ。まあ、そういう興味がなかったのだから仕方がないが、近くにいながら見損なったのが残念でならない。私には、初耳の情報ばかりだが、「てつ」ファンの方々には先刻ご承知の情報なのかもしれません。
 
 
横浜・本牧市民公園に移されている、高島駅に設置されていた転車台。
右奥に見えるのは同時に移されたD51516蒸気機関車。


 この転車台は、いまは、横浜・本牧市民公園で見ることができる。枕木などが朽ち始めていて、柵で囲われているが、まじかに見られる。近くに自由に乗れるD51516蒸気機関車も展示されているので、ご興味のある方はぜひどうぞ。
 
       
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