殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  047 旧横浜港税関遺構

   
 
旧新港地区に設けられた横浜税関右突堤中央事務所(出展:大蔵省「横浜税関新設備写真帖」)。
いまは礎石部分が掘り出され、赤レンガ倉庫裏に展示されている。


 ■埠頭に鉄道――最新の港湾施設が完成
 開港以来、生糸をはじめ輸出入の需要が増えて荷扱いが膨大になり、鉄桟橋=大桟橋を作ったが、1本の桟橋では荷扱い量に限度があり、H.S.パーマーにより港湾の整備計画が作られ、その結果、新港が作られることになった。
 新港計画は、明治32(1899)年に工事が着工され、赤レンガ倉庫のある地区が埋め立てられ、明治38(1905)年、新港埠頭の第一期工事が完成した。

   赤レンガ倉庫は明治44年(1911)年に完成し、埠頭に乗り入れる鉄道路線が敷かれて、明治43(1910)年8月に使用を開始し、翌明治44年(1911)年に営業が開始された。前回提示した新港鉄道路線の地図をここで再度掲載しておく。1号ドックから右に海の中を伸びた先が、埋め立てられた新港地区である。

 これまで埠頭近くにほとんど倉庫がなかったので、貴重品用の倉庫として耐震・防火機能を備えた赤レンガ倉庫を作り、12の直接接岸できる埠頭と、14の倉庫のほかに、クレーン、引き込み線などが設けられた最新の港湾施設だった。
 なによりも、埠頭に鉄道が乗り入れる港は、これからの港湾のあるべき姿としてその有効性が国際的にも喧伝されながら、伝統的な港湾ほど新たに鉄道を敷設することが難しく、ヨーロッパでも1,2しか作られなかった世界にも数少ない画期的な港湾だった。

   この新港では、輸入貨物がここで鉄道に積み込まれて、仕向地に向けて発送されたほか、外国航路の便もここから出港していった。岡晴夫の「憧れのハワイ航路」は昭和23年の歌だが、ハワイ航路というのは存在しない。イメージ上のものだが、ホノルル経由でサンフランシスコ行きは、日本郵船の浅間丸、香取丸、氷川丸(ブラジル)などが出ていて、新港埠頭を利用していた。
 この新港施設は、第二次大戦後米軍に接収され、10年ほどの間、米軍の物資の輸送に使われていた。解除されたのが昭和31(1956)年、その時期になると、大型化している船舶に対応できず、あまり利用されることはなかった。
 
 
旧横浜税関遺構。向こうに赤レンガ倉庫が見える。屋根に出ているビルは神奈川県警。


   ■旧横浜港税関跡−−完備された旅客ターミナル
 新港ができた明治末は、この港を利用する貨物も多く、赤レンガ倉庫の裏は、輸出入の貨物の荷捌き所だった。しかし、輸出入が増えると通関業務も徐々に増加することになり、大正3 (1914)年になると、ここに横浜税関右突堤中央事務所として、横浜税関の支所が作られるようになった。突堤(とってい)なんて懐かしい言葉ですね。海岸に突き出た堤ということだが、二つある新港の埠頭の右側にあるということだろう。
 残された写真などを見ると、レンガ造りスレート葺き、3階建のゴシック様式の立派な建物のようだが、残念ながら大正12年の関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋め戻されて、ここは荷さばき用の場所として使われた。

   大正3年の完成時、1階には「硝子張天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務室や応接室、外航船や荷役のための貸事務所があり、税関やイミグレーションの空間も別天地、ガス暖房や電気照明も完備されていた近代的な税関だった。
 その遺構が「赤れんがパーク整備」工事を行っていた際に発見され、2002年以来、一部が掘り起こされ、整備されて、花壇として利用されるようになった。
 赤レンガ倉庫2号館の裏50メートルほどのところに、ロープで囲われた一角がある。これが遺構だが、地上部がないために見逃されがちだ。横に、説明看板が立てられているので、船舶による大量輸送が最先端産業として最盛期だった当時の栄華の状況を想像しながら見ていただくといいと思う。

       
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