殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  044 横浜船渠2号ドック(ドックヤードガーデン)

   
 
2号ドックはドックヤードガーデンとして活用されている。その全景。


   横浜船渠で作られたドックに、1号ドック、2号ドックとあれば、1、2・・・の順にご紹介するのが筋だが、作られた順序が逆なので、ここでは先に作られた第2号ドックからご紹介する。
 2号ドックの設計者は、恒川柳作。1865年にできた横須賀製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)の学校「黌舎(こうしゃ)」でフランス人から造船、築港などを学び、海軍に仕官して横須賀ドックや浦賀ドックで経験を積んだ日本人技師である。

 そもそも日本で最初にドックが作られたのは、明治4(1871)年のこと。いまも残る横須賀製鉄所第1号ドック(122.5m)である。
 1853年のペリー来航以来、日本の周囲に外国船が徘徊するようになって危険を感じた幕府は、対抗するためには軍艦が必要だとの方針で、軍艦製造を目指した。そして、当面イギリスなどから軍艦を購入せざるを得ないが、その修理を行う施設づくりが求められ、ドライドックづくりが急がれた。戦艦づくりのためだけでなく、外国船の修船を行うものとしても、外国商人たちから求められていた。
 ドライドックとは、海水に面して溝を掘り、そこに水を満たして船を引き入れ、入り口を閉じて水を抜き、船底などを露出させて付着したカキを外したり、はがれた塗料を塗りなおしたり、主として船舶の修繕を行う施設をいう。
 
 
中に入ると広々とした空間が広がる。奥が渠口で、海水を遮蔽する扉船は開けて船を中に入れるため全面にあるが、ドックヤードガーデンとして利用するために、小さくされている。プロジェクトマッピングなど、さまざまなイベントに使われている。ドックの底から見上げるランドマークタワーなどの光景は、別世界を思わせる。



   ■ドックとしての経済性を求めて
 ここまで、国内には横須賀、長崎、大阪、呉、佐世保などで、計10基のドックが作られていた。外国船が多く来る横浜港の近くに修船用のドックがないのは、横浜にとって大きなマイナス点だった。
 そのため、横浜に港湾施設を整備したいという要望が地元商人たちからもあり、国の港湾整備の基本計画がH.S.パーマーによって作られ、横浜船渠株式会社の修船施設として、当初は4基を作る計画が決められた。
 ところが、設計したパーマーが、腸チフスが原因でドック着工を前に亡くなってしまい、財政難を理由に予算が削られてドックは2基に変わった。長さ100m級の船舶を収容する2号ドック(明治30年完成)と、150m級の1号ドック(明治32年完成)だ。
 設計はパーマーが担当したが、建造を始める前に亡くなってしまったため、改めて海軍技師恒川柳作に委託され、恒川がパーマーの設計をもとに改訂設計し、牛島辰五郎らの監督で工事が行われた。

 
 
ドックの渠口。階段と踊り場が作られているが、これは後から利用するために設けたもの。扉船がつけられており、船の船腹のように見える。


 恒川は、ドックの改定設計に1年間を費やしている。長くかかった理由は、当時、船型が大きく変わろうとしていたからだ。それまでの船舶は、鋼鉄船になって強度があったため、水の抵抗を極力少なくするために細長いものが良いとされていた。
 しかし、近代造船学の父といわれるウィリアム・フルードの水槽による実験などを経て、いたずらに細長い船型は摩擦抵抗上不利であることかわかり、次第に船の横幅が大きくなっていった。ドック建設は、長大化/幅広型、のどちらに合わせるべきか、が問われる、ちょうどそんな時期だったのである。
 日本が保有する船舶は、約140隻、ほとんどがイギリス製の細い中古船であったが、新造船としては幅広の新型船が作られ始めていた。新旧の船型を加味した、効率的なドックの形はどうあるべきか、民間ドックであれば経済性が問題になる。そんなことで悩んでいたのではないかと専門家は評価する。その後の、このドックの稼働を見てみると、高い稼働率をみせており、恒川の選択が非常に正しかったことが分かる。

 ■ドックヤードガーデン
 明治30年に作られた2号ドックは、長さ107m、幅(船渠下部)14.0m、水深(渠口満潮時)8.3m、海軍関係のドックをのぞいて、石造りの民間の商用ドックとしては、わが国最初のものであった。
 ドックの用途はいくつかあるが、その中心になるのが船舶の修理。長い航海を終えると、船体にはカキが付き、船体を損傷する原因になり、スピードが遅くなる。そうしたカキなどによる汚れを落とし、サイト塗装をするために、船をドックに入れ、入り口を締めて海水を抜き出し、船体を露出して修理を行う。終了後は、最後海水を注入し、トpビラを開けて出ていく。
 
 
船舶を入渠させせるためにどんな操作が行われるのは、図で説明されている。


 使われた石は真鶴産の小松石。小松石にはいくつか種類があって、陸地側産(本小松石)、半島部産(新小松石)、その他周辺産(六ヶ村石)などが使用されている。
  石の積み方はブラフ積み。石の長手と小口を交互に見せながら積み上げていく方法がとられている。現在のドックヤードガーデンでもこれが復元されている。
 解体の際の調査で分かったことだが、内部には、地下水による浮き上がり現象を防ぐため煉瓦(れんが)製排水暗渠(あんきょ)を縦横に敷くなど、現代にも通用する高度な土木技術が施されていたという。
 
 
ドックの壁面。真鶴産の小松石が使われている。しっかり積まれた石は、いったん解体されて再度復元されたものだが、解体時の調査では、完成時の図面と比較しても、ほとんど狂いはなかったという。右に併設されている飲食店への出入り口が見える。


 またそのときの調査によれば、設計図と比較して、渠底の位置は1ミリと狂っていなかったという。さらに、1人の石工が1日に積める石は7、8個が限度だが、1万7000もの石を重機もない明治中ごろに9カ月で積み上げたのも驚異的だ。明治中頃の日本の土木工事力、恐るべしである。

   隣に、長さ142mの第1号ドックが明治32(1899)年に完成したが、船舶の大型化とともに、のちに少し長く改造され、最終的には2号ドックは、長さ128m、幅18.5m、深さ8.3mに広げられた。さすがに深さを変えるのは難しかったようだ。
 明治、大正、昭和と横浜船渠から三菱重工横浜造船所と変わる中で、ハマのドックとして長い間親しまれてきたが、商船・タンカーの大型化に伴って狭い敷地では拡大することもできず、昭和48(1973)年、2号ドックが閉鎖された。
 昭和57(1982)年には造船所が閉鎖、本牧、金沢地区に移転。いったん、保全のため解体・発掘され学術調査後、最初の位置からわずかにずらし、長さも少し短くすることで、ほぼ元のまま再現され、国の重要文化財に指定された。
 その作業の最中、ドックの底から鉛に覆われた桐箱が発掘され中から純銀製のプレートが出てきた。そのプレートは着工を記念して埋められたもので、現在、横浜ランドマークタワーの3階のドックヤードガーデンを見おろすフロアに展示されている。
 
 
ところどころに出入口が作られ、隣のランドマークプラザ地下へ繋がっている。入口を入ったところの光景。


 現在は、隣接する日本丸メモリアルパークや多目的広場といった周囲の施設とともに演劇、音楽フェスティバル、ファッションショーなど各種のイベントに利用されており、時折行われるプロジェクションマッピングは人気のイベントとなっている。

   
       
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