殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  043 旧横浜船渠(前三菱重工業・横浜造船所)

   
 
大正11年の横浜船渠の工場俯瞰写真(三菱ドック踏切のパネルより)。
みなとみらい21地区がほとんど海であったことが分かる。



  ■課題の多かった急造の横浜港
 桜木町の駅を東(みなとみらい側)に降りると、正面にあるバスロータリーの向こうに日本丸のマストが見える。「日本丸メモリアルパーク」のドックに係留されている日本丸のマストである。そして、向かいにあるランドマークタワーの足元にはドックヤードガーデンがある。どちらも、横浜観光の見逃せないポイントであり、多くの観客を集めている。
 この2つのドック、もともとは、三菱重工業横浜造船所、その前身は、明治24(1891)年に設立された横浜船渠株式会社のドックである。

   
 
今も残る。三菱ドックの名前。横浜船渠(三菱重工横浜造船所)への入り口にある貨物船路の踏切。
ロコサトシの落書きアートで有名になったJR・東横線のガード下をくぐると、貨物列車線路の踏切があり、
工場が広がっていた。


 横浜港、1859年の開港以来、外国船が大挙して訪れ、生糸貿易で大賑わいだったと書くと横浜港に何の問題もなく順調に発展してきたように思えるが、実は、開港以来、横浜港はいくつかの課題を抱えていた。
 貿易を前提とした日米修好通商条約に基づいて開港した横浜港には「象の鼻」と呼ばれた東波止場、西波止場(税関波止場)、さらにはフランス波止場など多くの埠頭が造られ、多くの外国船がやって来た。しかし、いずれも岸から海に突き出た小さな桟橋にすぎず、沖合に船舶が停泊し、はしけに荷を積み替えて波止場との間で人や荷物を運んでいたにすぎなかった。

   大型の船舶が接岸できるような埠頭はなかったのは、海洋の浚渫の技術がなかったこともあるが、「大量の人・貨物を短時間で処理できないようにしておく」という徳川幕府の、“国防”を重視した方針でもあったのだろう。
 遠路の外国航路を渡ってくれば、船底にはカキが付着してスピードは落ち、船は塗装もはがれて船体もいたむ。そんな船舶を係留して修理できる埠頭もなく、修繕・補修・建造する近代的な港湾設備も備わっていなかったのである。さらに言えば、大量の荷物を保管する倉庫すら満足なものはなかった。

 ■悲願のドライドックが完成
 こうした状態に、横浜の生糸商人たちは不安を感じていた。東京湾内の品川など、新しい港湾の建設計画もいくつかあげられていた。
 ・外国船が直接、接岸できない
 ・船舶の修理をする施設がない
 ・はしけで荷役をしなければならない
などから、港湾としての優位性が失われることを危惧したのである。
 こうした中で、横浜の商工会議所等を中心として原善三郎、渋沢栄一らは埠頭やドック建設の要望を再三提出、1893年に横浜船渠株式会社を設立し、1896年には日本郵船の船舶の修船などを行っていた日本郵船横浜鉄工所の全施設を譲り受けた。

   当時、神奈川県のアドバイザーなどをしていたイギリス人技師H.S.パ−マーらから横浜港埠堤築造計画意見書などが政府に出された。これは、湾内を実測した結果、将来的に外国航路の大型船が接岸できる埠頭を建造するだけでは立ちいかないこと、埠頭とともに、船渠(ドック)や倉庫の建設が必要で、それができれば民間事業として十分に採算がとれる見込みがある、と提案したもので、最終的にはこの意見書にしたがって、港湾計画が作られることになった。

   この計画の中に、桟橋やドックの建設があったが、パーマーがドック着工を前にして急死したことで計画は遅れ、念願の2号ドックに取り掛かったのは明治28年(1895)年、完成したのは明治30(1897)年4月のことだった。
 
 
イギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パ−マー。
日本の港湾施設や上水道の整備など大きな足跡を残した。野毛公園にある胸像。


 その後、1号ドック、3号ドック、4号ドックと建造され、主として日本郵船の船舶の修船から、依頼により各国の船舶の修船にも応じるようになっていった。このころの造船所の様子を示したのが、下の俯瞰写真である。
 ちなみにこの時代がどんな時代だったかと言えば、タイタニックが世界最大の客船(46,000トン)として就航し、処女航海で沈没したのが1912(明治45)年。いま、日本船籍で最大の飛鳥Uが50,000トンだから、100年前の技術力で、タイタニックがいかに大きな船だったか分かる。明治末から昭和の初めにかけて、客船が大型化し、華やかな脚光を浴びていた時代なのだ。
 
   ■みなとみらい21
 こんな環境の中、海運による貨物輸送の要求はますます増大し、新造船の需要も多くなってきたことから、横浜船渠は造船にも進出し、事業を拡大していった。いま、山下公園前に係留されている氷川丸は、ここで昭和5(1930)年に建造されたものだ。
 こうして事業は順調に進んだが、第一次大戦が終わると戦時バブルがはじけ、やがて世界恐慌が日本にも押し寄せて船舶建造の需要が激減、経営が苦しくなって、昭和10(1935)年に日本郵船の仲介で三菱重工業と合併、三菱重工横浜造船所となった。

   この後、幾多の船舶を建造し、造船ニッポンの中心的な存在として業界をリードしてきた造船所だったが、船舶の大型化が進み、事業所の敷地が手狭になったことから、昭和55(1980)年に工場は本牧地区、金沢地区に移動し、「ハマのドック」としての役割を終えた。造船所があった横浜駅東口から桜木町にかけての海側は、その後埋め立てられ、再開発がすすめられて、みなとみらい21地区となり、さまざまな施設が作られてビジネの中心となり、同時に人気の観光となって多くの人を呼んでいる。
                     
 
 
 
 
冗談の2つは工場で使われていたアメリカ製コンプレッサー、1918年製である。どちらも1号ドックの渠頭部の裏に置かれている。

横に説明用のパネルが掲示されている。広い工場で厚い船体などのリベット内などもこなしたものなので、かなりの出力だったのだろう。

   当時の造船所の遺構は、1号ドック、2号ドックのほかはほとんど残されていない。
 わずかにみられるものとしては、旧造船工場時代に使われていたエアコンプレッサーが2基、1号ドックの周辺に置かれている。
 造船所だった時の工場では、若き日の長谷川伸や、大佛次郎も働いたことがあり、2人はその経験をもとにいくつかの作品を発表している。帆船日本丸が保存されている1号ドックの渠頭の裏の植え込みに彼らの碑が建てられている。

    
       
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