殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  042 2代目横浜駅遺構

   
 
遺構の一部。マンションの1階にあり、公開されている。


 ■生糸貿易優先の鉄道敷設
 大政を奉還してできた明治新政府は、英国公使パークスらのアドバイスで、日本の近代化に鉄道を敷設することが重要である、と判断したが、いざ、具体的な鉄道計画を作るにあたって、当時の明治の首脳たちは、試行錯誤、右往左往した。大きな問題は、財政がひっ迫していて、その資金がないことだった。

 明治新政府にとって、まずは、近代化=殖産興業・富国強兵を進めるための資金源を得ることが焦眉の急だった。偶然から「生糸」が売れることを発見した明治政府にとっては、生糸輸出で資金を得ることが近代化への唯一の道だった。
 こうして、明治政府は、横浜へのアクセスを優先して、新橋−横浜間の鉄道敷設を最初に進め、明治5(1872)年5月7日横浜駅舎が完成し、9月12日、新暦で10月14日、横浜−新橋間に日本初の鉄道が開業した。距離は29kmだった。
 新橋−横浜間に鉄道を敷設するにあたって、本来は、日本国内の鉄道網をどのように敷設するか、その計画の一環としての新橋−横浜間であったはずなのだが、とりあえず、生糸貿易のことしか頭にない明治政府が、急いで横浜へのアクセスだけを考えて、新橋−横浜の線路を敷設した。続いて敷かれた鉄道は上州の生糸を東京に運ぶ高崎線である。
 
 
マンション建設に義務付けられている、公共空間の一部として遺構が残されている。建設にあたって
遺構が見つかると工事が停滞することになるが、こうした地域貢献も、保存の一つの方法かもしれない。


 ■さまよえる“横浜駅”
 こうして急遽、敷設された鉄道の、最初の横浜駅があったところが、いま桜木町と呼ばれているところだ。ところがこれが、その後、何度か線路を敷き替え、横浜駅の場所を変えざるを得ない羽目になった問題の多い路線だった。
 現在の横浜駅は場所から言えば3代目、駅舎から言えば4代目にあたる。失礼、これは正確ではない。実はいまの駅舎(駅舎があるとすればだが)、つまり4代目駅舎はまだない。
 横浜駅は、地元に人たちから、現代のサグラダファミリア駅と称されるほど、いつ完成するともしれない長い工事が続いている。2019年夏、工事が急がれているようだが、2020年にはオリンピックが予定されているから、それまでには何とか完成させたい、ということかもしれない。それ以前に、駅ビルの間に埋もれた駅舎に意味があるのか、駅舎とはなにをもっていうのか、という議論はあるが、ここではその問題はとりあえず置いておく。

   横浜駅の場所が移動していまの場所が3代目と書いたが、どうしてそんなに場所を移すことになったのか、結論をひとことで言えば、計画性のなさ、につきる。
 鉄道を敷設するにあたっては、全国の鉄道網を念頭に、個々の路線を検討しなければならないが、いろいろと問題が出てきて、計画がなかなか進まない。若い明治政府は右往左往して、全体の大きな絵を描くという機能が欠けていた。新橋―横浜間は、その行き当たりばったりの結果である。
 参考にしたアメリカ、イギリスはどちらかといえば平坦な土地、せいぜいなだらかな丘陵があるくらいで、どこに鉄道を敷設しても問題はない。しかし、日本を見てみると、急峻な山岳地帯が中央にそびえ、鉄道を敷設するのはなかなか難しい。地形が違うのである。

 
 
マンションのまえを道路をはさんで、京浜東北線の高架が走っている。


   ■わずか8年間の命
 例えば、2大都市、東京−大阪をどう結ぶか、でも2つに意見が割れた。常識的に言えば大動脈として東西の移動に利用されてきた東海道に沿って線路を敷設することになるが、これに反対したのが大村益次郎率いる陸軍だった。
 理由は「外国から侵略される危機が迫っている状態で、海岸線に命綱ともいうべき大動脈を敷設すれば、艦船からの攻撃を受けやすい。海岸から離れた中山道に敷設するべきだ云々・・・」。この議論で十数年が費やされた。最終的には、中山道ラインは、碓氷峠が越えられない、山岳地帯の工事が難しいとのことで東海道路線に決定した。
 完成を急ぐために、大阪、名古屋、静岡・・・とパートごとに並行して工事が進められ、最終的に残った区間が、保土ヶ谷−横浜間だった。
 当初、敷設された路線の横浜駅はターミナル駅で、行き止まりの終点である。東京から来た南東に向かう列車の先には新港場・居留地があり、その先は丘陵地が広がる。線路を敷設することが難しい。列車を南西の保土ヶ谷に向かわせるためには横浜駅で列車をスイッチバックさせるしかなかった。

   もともと機関車を入れ替える転車台はあったから問題はないが、東京−大阪間の便数が増えるといちいち列車をスイッチバックさせていては時間がかかる。そこで、途中に新たな駅を造り、そこから保土ヶ谷に向けて線路を敷いた。「2代目横浜駅」である。そして初代横浜駅を「桜木町駅」と変更した。「桜木町」の名は、近くを流れていた桜木川から付けられた。
 場所は、今の市営地下鉄ブルーライン高島町駅のあるあたり。大正4(1915)年のことだった。
 2代目横浜駅が生まれたことで、東京から来た列車はスイッチバックせずに保土ヶ谷に進むことができるようになったが、8年後の大正12(1923)年9月1日に襲われた関東大震災によって、耐震レンガ造りの駅舎は付属の建物を含めて全てを焼失してしまった。
 
 
レンガ壁の断面。外側だけでなく、しっかり中までレンガが積まれていることが分かる。外から見ると、
長手と小口が一段ごとに交互に並べられているイギリス積みだが、中は同じようになっている。


 震災後にこの駅を再建するという計画もあったが、時代は軍国へまっしぐら。この間に、日清・日露両戦争で大本営が置かれた広島・宇品への大量の軍事物資輸送、横須賀海軍基地へのアクセスの改善が求められ、横浜駅に寄らずに保土ヶ谷に直行する路線が敷かれた。スイッチバックがないために、急行列車は、横浜に寄らず、保土ヶ谷に直行するようになり、現在、相鉄線平沼橋駅があるあたりに、乗降用の駅として「平沼駅」が作られた。
 関東大震災の後、2代目横浜駅を再建するよりも、直行路線に駅を設けた方がいいのではないかという案が出て、横浜駅をその分岐点に作ることになった。それが現在の横浜駅(=3代目)である。完成したのは昭和3(1928)年。
 完成した3代目横浜駅駅舎は東洋一のモダンな駅舎といわれたが、駅舎のある東口は道路の向こうは海、裏側(西口)は畑。駅舎は戦争で被災せずに残ったが西口が米軍に接収されたため、横浜駅は乗降客のほとんどいない、いわば乗換駅だった。
   ■改札口が2階のモダンな赤レンガ――2代目横浜駅
 さて、その2代目横浜駅だが、わずか8年という短命の駅だった。あった位置は、いまは高島交番のすぐ裏。マンションの入り口奥に遺構が残されている。
 発掘調査を担当した東日本建設業保証(株)(Webページ「横浜駅の物語」)によると、東京駅に似た赤レンガの駅で、ルネッサンス様式のような幾何学模様が簡略化された、大正時代に多いセセッション様式という。
 
 
マンションの入り口の奥、遺構の前に掲示されている案内板。
図柄は2代目の駅舎。レンガ造りの東京駅に似たデザインだ。


 この駅は、スイッチバック線路時代に新橋−横浜の横浜行と東海道線が分岐する駅で、そのほかに鶴見からの貨物線がこの駅を利用していたため、3つの路線が交差する三角形の構造になっていたようだ。そして、改札口が2階に設けられ、跨線橋で互いの路線に行くという構造が取り入れられていて、新しいモダンな駅だったようだ。
 耐震強度を高めるために、石材、レンガ積みで、レンガ積みに金網が敷かれたという。外観は見られないが、破損したレンガ壁などがそのままあり、レンガ積みの内部がさらされていること。レンガ壁の中まで、しっかりとレンガがどのように積まれていたのかが分かる。

 
       
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