殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  040 旧イギリス7番館 (旧バターフィールド&スワイヤ商会/戸田平和祈念館)

   
 
山下公園に面して建つビルは、赤いレンガが周囲の緑に映えてとても美しい。
冬の間は木々の葉がないのでよく見えるが、夏になると少し見づらいのが残念だ。


   横浜開港以来多くの外国人商人が日本にやってきて事業を始め、店を構えた。どんな店だったのか、当時はまだ写真が一般的ではなかったので、ほとんど残されていない。
 写真が撮られていたとしても、最大のネックは、大正12年に襲った関東大震災で、家が倒壊しただけでなく、火災もあって、記録・資料が全く残されていないのだ。
 もちろんその後にも、横浜の中心部が、第二次大戦中の昭和20年に何度かB29による爆撃で、街がほぼ全壊・全焼してしまったことにより、記録が灰燼に帰している。v  なので、居留地に店を構えた外国人たちがどんな店舗、事務所を構えていたのか、ほとんど記録がない。彼らは、自分たちの生活様式に合わせるために、設計を、多くの場合に日本人ではなく母国の設計者に依頼していて、母国での生活を守りながら日本での生活や仕事にあわせて、どのような店構えでどのような仕事の仕方をし、日常を送っていたのか、その様子を知るすべがないのだ。
 そのことが知れる数少ない遺構が、山下公園に面して建つ赤いレンガ造りの2階建てのこの建物なのである。
 
 
横の面もデザインがしっかり踏襲されている。


 ■山下町/山手町――150年間住所表記が変わらない町
 ここは、1867年に横浜に支社を設けて以来、1971年までこの事務所を使って営業を続けた、イギリスの貿易会社バターフィールド&スワイヤ商会のビルとして建設された。そして、奇跡的に関東大震災で倒壊を免れ、唯一残った居留地の外国人商人の建造物である。
 というよりも、後のことを考えると、意図的に空襲を免れたといえるかもしれない。マッカーサー元帥が終戦後に訪れることを想定して、ホテル ニューグランドを残したのではないか、と考えられるのだ。この建物は、ホテル ニューグランドの隣にある。その理由は、次回のホテル ニューグランドところで紹介したい。

   開港時に設定した番地が居留地7番地だったことから、イギリス7番館と呼ばれた。家の前に建てられている標識にも、「No.7 旧イギリス7番館」と書かれているのが分かる。
 
 
家の前にある標識ポスト。「No.7  旧イギリス7番館」と書かれている。


 実は、この居留地7番地という住所表記、これはいまでもそのまま通じる、「居留地7番地」は、そのまま「山下町7番地」なのだ。このシリーズ、少し前に、「居留地48番地」に、外国人J.P.モルガンの商館の遺構が残されているとご紹介したが、その所在地も、いまは、居留地48番地ならぬ、「山下町48番地」なのだ。だから、昔の居留地の地図を見ながら、「あ、ここにローマ字表記のヘボン式を生み出したあのヘボンが住んでいたところか」と居留地の表記を山下町に代えて、尋ね歩くことができる。
 横浜市さん、なんとしゃれたことをするではないか。
 
 
レンガは長手と小口が一段ずつのイギリス積み。


 ■関東大震災・空襲を免れた外国商館
 英国のバターフィールド&スワイヤ商会は、1816年 ジョン・スワイヤーがイギリス・リバプールで創業したスワイヤ商会が母体で、中国に進出。
 1866年にR. S. バターフィールドとの共同経営で上海租界に「バターフィールド&スワイヤー社(Butterfield & Swire(B&S))」を設立し、1867年(慶応3年)に 横浜支店開業。
 現在はスワイヤー・グループとして、海運や商社として手広く事業を営み、香港証券取引所に上場している。
 この建物は、大正11年(1922年)に作られた鉄筋コンクリート2階建てで、翌年に関東大震災にあって全焼したが、建物の構造・外装が無事だったために修復・再建、現在残っている建物の構造・外壁はその当時再建されたものである。
 建設当時の写真が、建物前に飾られていて、それを見ると、奥行きがもう少し深かったようで、左側面に車寄せと玄関がある。建物も現在のものよりもずっと大きかったようだ。
 
 
建設当時の様子。規模はずっと大きく、左の側面に車寄せが見える。


 居留地にあったたくさんの外国商社・住宅の建物が全滅した中で、建設して日が浅かったためか倒壊を免れた。

 外壁の煉瓦は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みで、たぶん設計施工はイギリス系の人間が当たったのではないか。2001年に横浜市の歴史的建造物に認定されている。
 昭和46(1971)年に、撤退した後、空き家になっていたが、昭和54(1979)年に創価学会が取得し、改装して核兵器反対、平和をアピールする戸田平和記念館として開館し、青年部が管理しながら展示室として利用している。入場は無料。
 外観は、当時の状況をよく復元しているが、内装は階段が鉄製になるなど、歴史的建造物とは異なった展示室になっており、当時の内装を期待している人にはがっかりすることになる。それでも、取り壊しという話があった中での復元で、ファサードだけでも残して復元してくれていることに感謝したい。
 山下公園から見ると、赤いレンガの色が周囲の緑に映えてとても美しい。外から見る限りは、フォトジェニックな建物である。

 
       
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