殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  039 インド水塔

   
 
山下公園の西北端にあるインド水塔。関東大震災で亡くなったインド人同胞への鎮魂の供養との横浜市民への感謝を記して寄付された。


 インド水塔と聞いても、ほとんどの人が、「なにそれ?」状態ではないかと思う。
 横浜に住んでいて、市内の観光地に出かけてことがある人なら、一度は目にしているはずなのだが、そんな人に聞いても、記憶にないという。これを見て語れば、それだけでマニアックな横浜通と自慢できそう。そんな建造物がこのインド水塔。

   ■建造物に日-イ親善の歴史あり
 いまは象の鼻パークから山下公園に抜けるテラスの遊歩道ができているので、多くの人がこれを通るようだが、遊歩道の終点が山下公園の西端、テラスウォークを降りると目の前に売店があるが、その先、北橋というか、海の岸壁の手前に小さな建造物が立っている。
 それが中東のモスクの中庭にでもありそうな小さな泉亭、インド水塔である。先を急いで、どんどん公園内に進んでしまうと見逃すことになるのだ。そこに何かがあることさえ、気づかずに行ってしまう。残念だ。
 
 
飾りだけでなく、水塔だが、いまは水は飲めない。


 これが作られた経緯は、こんなことだ。
 1923年、大正12年9月1日に起こった関東大震災によって多くの市民の命が失われた。同時に、横浜にいた多くの外国人も命を失った。同じようにインド人も百数十名が被災して家を追い出され、20数名が命をなくしたという。その際に、横浜市民が救援活動や飲料水を提供し、また家を失ったインド人たちが横浜に戻ってこられるように家を提供したりするなど、インドの人たちを救助したことを感謝して、インド商組合が昭和12年に、これを建てた。
 
 
関東大震災で亡くなったインド人同胞への鎮魂のメモリー



   ■関東大震災の遺構の上にできた追悼の水塔
 日本にとってインドは、明治以来、綿花や更紗などの布地を輸入する重要な国であり、多くのインド人商人が横浜に住んでいた。意味としては横浜市民への感謝もあるが、どちらかといえば亡くなった同胞への鎮魂と供養の思いが強いのではないかと思う。
 「えっ綿花?生糸じゃなくて?」という人も多いかもしれない。もちろん日本でも綿花は栽培されていて、製糸、機織り、染色、衣料品づくりは行われていたが、日本産の綿花は毛が短く繊維づくりにはあまり適しているとは言えなかった。
 開港以来横浜港は生糸で一色だったから、綿花は自然と神戸港へと行くことになる。とはいえ、横浜港で綿花を扱う商人も多くいて、彼らの家族も含めると大正末にはかなりのインド人が居留地に住んでいた。彼らが被災したのである。
 大正時代まで山下公園はなかった。山下公園が作られたのは、関東大震災で崩壊した家屋などのがれきの捨て場所に困り、海を埋め立て、公園にして生まれたのが山下公園である。言い換えれば、インド水塔が立つこの場所は、関東大震災の遺構が埋め立てられた土地であり、山下公園に供養と鎮魂の水塔が立っているのは、正しく意味があるのである。  鉄筋コンクリート製で、設計は、横浜市の建築課長で、同潤会アパートにも携わった鴬巣昌、清水建設が施工した。
 これは何風かといわれれば、うーんとうならざるを得ないが、寺院のドームをかたどり、屋根から尖塔を突き出して、亡くなった人たちにここに帰ってこいと誘う目印にしているように思える。
 
 
細かな装飾がきれいだ。


 イスラム風、インド風、日本風・・・などが混在した独特のデザインというしかない。平成17(2005)年に横浜市の歴史的建造物に認定されている。
 細部の装飾も特徴的で、細かく見るととてもきれいだ。ぜひ一度訪ねてみてください。

 
       
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