殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  031 神奈川県庁舎(旧運上所跡)

   
 
昭和3年(1928年)公開コンペで採用され建てられた県庁舎。開港時、テラコッタなどを使った和風の装飾で
帝冠様式と名付けられ、県庁舎等のモデルになった。


   横浜の3塔として、神奈川県庁本庁舎=キング、横浜市開港記念会館=ジャック、横浜税関=「クイーン」の愛称で親しまれているキングを擁する建物である。
 洋風建築に和風建築の屋根を組み合わせた、帝冠様式と呼ばれる建物の1つである。この時代に流行った様式で、また、この建物の場合は外壁の色遣いにも独特な特徴がある。
 
 
塔は、4階建てで、今でも事務室として使われている。塔の先端までの高さは48.60m。
タテヨコを基本とした意匠の中で、屋根だけが斜めの線を出している。


 和親条約締結後、幕府は安政5年(1858年)、井伊直弼の独断で日米修好通商条約を締結し、続いて英露蘭仏とも修好通商条約を締結する。
 日米修好通商条約で、1年後(1859年)に神奈川をはじめとした長崎・新潟・神戸などの港を段階的に開港するとの約束を5カ国としたために、急遽、1年後に神奈川の港として横浜を開港することになった。
 アメリカからは、交通に便利な東海道の神奈川宿に港を開く約束ではないかと異議を唱える声が出たが、幕府は、
 ・神奈川宿は江戸に近いために幕府が攻撃を受ける危険があること、
・街道からのアクセスが良いと攘夷(外敵を撃退せよ)を目指す暴漢からの襲撃が予想されること
・・・などから神奈川宿への港設置を拒否し、当時寒村だった横浜も神奈川宿の一部であると主張して、現在地に港を作った。

 これに反発したアメリカは、あくまでも神奈川の開港を要求し、イギリスなどが港近くの居留地の一等地に領事館を置いたのに、アメリカは横浜ではなく神奈川におく。横浜の北、青木橋そばの本覚寺を領事館としたのである。
 のちに港近くに領事館を作ったが、この開港場への出遅れが災いして、後で苦労することになり、開港後しばらくは、貿易が英仏のようには盛り上がらなかった。
 これにはもう一つ理由があった。ペリー以来アメリカ外交の基本はこわもてで、幕府から見たら、容易に打ち解ける雰囲気ではなかった。ここに付け込んだのがイギリスで、こわもてのアメリカ対策をアドバイスするという役回りで、さらにアメリカ・イギリスへの傾向と対策をアドバイスするという役回りで幕府の要人に近づいていったのがフランスだった。
 外国領事たちは、対日本という点で結束して、お互いの利益を確保することに力を入れながら、それぞれの国は、裏では他国を出し抜いていかに利益を自分たちの国に持ってくるか、虚々実々の駆け引きを展開していたのである。
 
 
県庁舎の南角にある神奈川運上所(税関)跡の碑。ここが開港時代に港への入り口だった。



   ■神奈川奉行と運上所
 安政6(1859)年6月の横浜開港に合わせて、幕府は神奈川奉行所を、いまの県立図書館のある紅葉ヶ丘におき、外国奉行に、前年から通商条約の交渉に携わってきた水野筑後守らを引き続きあたらせた。
 そして、貿易にまつわる管理業務行うために、専門の役所として港の入口・県庁舎がある所に神奈川運上所(税関)を設けて、税関業務や外交業務などを行った。
 現在、紅葉ヶ丘の県立青少年センターまえに神奈川奉行所跡の碑があり、また、県庁舎の南東角に、運上所跡の碑が建てられている。
 
 
車寄せのある玄関部分。華麗な装飾に流されず、アール・デコの様式を取り入れながら、和風のイメージを出している。


 現在の県庁舎が建てられたのは関東大震災で県庁舎が倒壊したためで、大正15年(1928年)に一般公募で設計が公開コンペに付され、398案の中から選ばれた小尾嘉郎の案をもとに、県庁建築事務所が実施設計を作り、大林組が施工して昭和3年(1928年)に完成した。
 鉄筋コンクリート造りで5階建て、地下1階。屋上に4階建ての塔屋がある。建物の形としては、日の字型をしており、中に2つの中庭がある。
 屋上に塔があるのは、設計コンペの際に、「船舶出入ノ際港外ヨリノ遠望ヲ考慮シ成ル可ク県庁舎ノ所在ヲ容易ニ認識シ得ル意匠タルコトヲ望ム」とした「設計心得」にこたえて設計したからである。横浜市の歴史的建造物に指定されている。
 
 
外壁は全面スクラッチタイルだが、さまざまなタイルが使われている。


 当然のことに、応募作すべてが塔のある設計案だったという。塔の実施設計にあたっては、日本郵船横浜支社(現郵船歴史博物館)を設計した和田順顕も参加している。
 このデザインを何スタイルと評するべきか、小尾は「穏健質実且つ厳然として侵し難き我が国風」と表現し、日本趣味を基調とした近世式で、「装飾 貴賓室、正庁、議場、会議室、その他の設備と装飾は日本風を基調とし様式も古代の建築に範を採り、・・・日本固有の様式を強調するするの務めたり」と記している。
 
 
貴賓室は、昭和天皇陛下も臨席されたことがあるが、華麗な装飾が施されている。


 日本趣味を基本に、帝冠様式と呼ばれ、この意匠がモデルとなって、名古屋市庁舎、愛知県庁舎、九段会館などに波及していく。
 外壁のほぼ全面にスクラッチタイルが張られ、テラコッタや石材の装飾が外装、内装に用いられている。この時期のアール・デコ建築の典型と言われている。


       
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