殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  026 神奈川県産業組合館

   
 
タテの通し柱のイメージで、開口部の大きいタテヨコのマス目の意匠がユニークだ。
裏にくっついてできたビルの意匠は、この前の意匠にあわせてデザインされたものだろう。


   横浜税関の本館の裏、神奈川県庁舎の隣という海岸通りの絶好の地に立つのが、神奈川県信用農業共同組合連合会が新しく作ったJAグループ神奈川ビル。もともとこの場所には、昭和13(1938)年に建てられた「神奈川県中央農業会館別館」として使われてきた神奈川県産業組合館というビルがあった。
 その神奈川県産業組合館と、駐車場を含め隣にあった、神奈川県中央農業会館が一緒になって平成26(2014)年に完成した地上9階、地下1階、鉄骨造り(一部鉄骨鉄筋コンクリート造り)の建物がJAグループ神奈川ビルである。ここに神奈川県信用農業共同組合連合会、一言でいえば、農協系の信金の関係会社が一緒に集まった。
 その際に、旧神奈川県産業組合館のファサードを生かし、ちょうどそのビルがあった位置に旧ビルの部分を復元した。外から見るとそのままだが、形としては、ファサード部分だけを残して、若干の空間を内側に作り、新しいビルの一部に組み入れられた。

 
 
公開スペースに展示されている信用金庫で使われていた金庫。高い天井と太い梁が見える。


 ■生糸輸出港――横浜港の危機地元
 横浜港は開港以来、日本が輸出する生糸の大半を担ってきた。少し遅れて開港した神戸港は綿織物や綿糸などの輸入を中心に扱ってきたが、必ずしも生糸・絹の輸出をあきらめたわけではなかった。
 最大の危機は関東大震災後だった。
 交通網が壊滅したことで、保管中の大量の生糸が焼失し、さらには港だけでなく交通路が壊滅したことで、横浜に生糸が集まらなくなることが危惧された。横浜の生糸商人たちにとっては一大事だった。
 一方、横浜の街や港が壊滅したという情報を得て、神戸港の事業者たちは、もともと大阪を本拠とする三井物産や日本綿花なども加えて、国に生糸輸出の神戸港への受け入れを働きかけた。しかし、横浜の生糸商人たちは、壊滅した鉄道・道路に代わって、船便で全国から生糸を集めるという奇策をもって応じる。
 産地や関係団体に働きかけて、
 ・東北・上州の生糸は船便、川舟で東京−横浜へ、
 ・甲信越の生糸は、中山道を経て名古屋に持ち込み、そこから船便で横浜に運んだ
 こうして、何とか横浜に生糸を集めることに成功し、生糸輸出が神戸港に移行する危機を乗り切った。生糸輸出港としての横浜港のトップの位置は揺るがなかった。
 
 
新しいビルにデザイン的にもスムーズにつながっている。建物の入り口に扉はないので誰でも入れるが、
事務所への入り口はきちんと管理されている。



   ■横浜港のおひざ元――神奈川の養蚕
 そこで気になるのは、こんな輸出港を地元に持った横浜・神奈川の養蚕・製糸・絹織物はどうだったのだろうか、ということである。
 「日本蚕糸業史」によると、寛文年間(1861-73)信州小県郡の蚕種を相模の国で販売したという記録があり、神奈川県でも古くから養蚕は行われていたようだ。渡辺華山(1793-1841)が相州を旅して著した「游相日記」に「およそ蚕、汐風を厭う。・・・ゆえに八王子は織を専らとし、長蔦(長津田)、鶴間は養蚕を専らとす」という記述がある(緑区史通史編)。養蚕を導入したのは大半が農家で、ほとんどの地方では養蚕が農家の副業として行われた。神奈川県でも例外ではなかったようだが、それほど普及していたという情報はない。
 養蚕が神奈川で、本格的になるのはやはり、明治に入ってから。地元に輸出の港ができて、全国から生糸が集まり活況を呈している、ということになれば、当然地元でも乗り遅れまい、生産しようという動きが生まれる。
 こうして神奈川でも養蚕が盛んに行われるようになり、特に、津久井、愛川・厚木・相模原・高座・足柄などの地域で養蚕が盛んにおこなわれるようになったようだ。しかし、全国からみると、神奈川の生産量は1-2%(図表)を占める程度で、決定的な量ではなかった(「蚕糸業史−蚕糸王国日本と神奈川の顛末」小泉勝夫)。
 とはいえ、全国の生産量は、世界一の輸出量を支えている数字だから半端なく多い。
 神奈川県は少ないといっても、それなりの量だ。昭和の初めで、神奈川県のコメの生産量が全国の1%に満たない状態からすれば、大いに検討しているといってもいいのではないか。
 

 神奈川県/全国の収繭量の推移(「養蚕王国日本と神奈川の顛末」より)


 八王子と東神奈川を結ぶJR横浜線が開通したのが、明治41(1908)年で、これは生糸商人・原善三郎らの働きかけによるもので、当初は貨物専用線で人を運ぶものではなかった。つまり、主役は生糸なのだ。神奈川の人たちには、この生糸をめぐる喧騒と変化は、静観するには賑やかすぎたのではないかと思う。
 養蚕にはカイコのえさになる桑の栽培が必要になるため、土地を保有している農家が副業で養蚕を行う。そんな繭農家を支えてきたのが、農協である。

   ■旧神奈川産業組合館
 まえおきが長くなったが、このJAグループ神奈川ビルは、「JAバンク神奈川」と言われる、神奈川県信用農業共同組合連合会が建築したビル。神奈川県の農協系の金融機関である。敷地面積が1873平方メートルに地上9階建てが立つが、もともとの旧神奈川産業組合館は、鉄筋コンクリート造りの3階建てだった。
 建て替えは2012年に計画され、その際に、横浜市から歴史的建造物として「旧神奈川県産業組合館」を保存・復元するように要請があり、2013(平成25)年1月に横浜市の定める歴史的建造物として認定された。
 旧神奈川県産業組合館の名は、当初はこのビル名が最上階のコーニスに記されていたが、神奈川県中央農業会館別館になった時に外された。
 外観は、角柱の列柱のような古典主義的なイメージを表に出して、タテヨコの柱と梁を生かしたマス目の意匠が、いまでも違和感がない。このモダンさは、当時としては話題になっただろうと思う。

 
 
元の正面入り口。ざっくりした外観のマス目に合わせたドアが印象的。


 正面玄関は当時のものが使われていて、太い幅のサッシは、建物の意匠にあって堂々としている。この扉は、いまは閉め切られていて使えない。その代わり、すぐ横に新しいビルと共通の入り口が作られていて、こちらは締め切る扉がない。つまり、出入り自由で、歴史的建造物に認定された部分については誰でも入れるようにオープンにして公開しているということだろう。
 中に入ると、かつて使われていた金庫のドアなどが置かれ、高い天井、太い梁など、かつての建物の内側を体験することができる。このスペースをまっすぐ入っていくと、裏に抜けて、外に出ることができる。
 ビルそのものはこぢんまりしたものだが、こうした公開スペースに、歴史的建造物の保存、公開という一つの姿勢を見ることができる。

 
       
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