殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  021 居留地48番館「モリソン商会」

   
 
 KAAT(神奈川芸術劇場)/NHKの左側を、山下公園の方に向った次の右角に外人商館の遺構が残されている。通りを挟んで向かいにはホテル・ハイアット・リージェンシーが2020オリンピックを目指して建設中だ。完成すれば、新旧の対比も面白い。


  ■外国商館の遺構
  ここは、明治期、紅茶やダイナマイトなどを扱っていた商人J.P.モリソン(Jmaes P mollison)の事務所兼住宅として建てられた建物の遺構である。関東大震災で崩壊した家の1階の外壁が一部残されている。
 横浜には、1858年の修好通商条約の締結とともに、多くの外国人がやってきて、西洋の文物が一気に入ってきた。しかもそれは、長崎の隔離された出島と違って、居留地とはいえ、一般の市民が生活する隣に、西洋の市民の生活がそのまま入ってきたのだ。
 幕府は、あわてて外国人が住むための地区、居留地を設定し整備を始めた。それが横浜中心部の日本大通りから東側、山手までの間である。居留地には、居住空間だけでなく、店舗、商品を並べるショールームが建ち、活発な取引が繰り広げられた。

 こうして建てられた建造物は、それまで日本人が経験したことがないような構造のものだったから、多くの外人設計技師が呼ばれて、母国のデザイン、構造・洋式の家が作られた。しかし、残念ながらこれらはすべて、関東大震災で倒壊してしまった。
 そんななかで、レンガや石造りの家があり、倒壊は免れなかったが、一部が、遺構として残った。そんな遺構が見られるのが、本町通りのKAAT(神奈川芸術劇)/NHKの裏にある居留地48番地の建物である。
 
 
案内板。建物の平面図が描かれている。当時の外人による洋館の構造が分かる。


 場所は、本町通りと山下公園の間、KAAT神奈川芸術劇場の手前を入ったすぐ裏。通りを隔てた向かいでは、高級外資系ホテル、ハイアット リージェンシー 横浜が2020年の完成を目指して工事中だ。
 ここにあったのは、英国人で最も早く、横浜に来た外国人のひとり、J.P.モリソンの自宅兼事務所であった。

■お茶からダイナマイトまで多様な事業を展開
 モリソンは、1844年に、スコッドランドに生まれ、早くから製茶の販売業をするごとを希望し、上海に渡った時は20歳であったという。そこで開港間もない横浜が製茶の産出が多いことにいち早く目をつけ、横浜で製茶検査人を兼ねて製茶貿易を始めた。
 モリソンが、この48番にJ.C.フレーザーと製茶販売の店を開いたのは慶応3年(1867)のことだった。
 その後グラスゴーのノーベル社製ダイナマイトやその雷管・導火線類を取り扱うようになり、我が国に最初にダイナマイトを輸入したのがモリソンで、我が国の鉱山業の発展に大きな貢献をしたとされている人物である。
 当時は、外国人商人の最古参の一人として信望も厚く、外人商業会議所長や、現在も横浜に続いているクリケッドクラプの部長、横浜文学及び音楽協会長などを歴任していたとか。

 案内板に描かれたモリソン商会は、向かって右側に開放的な明るいベランダを持つ事務所と、左側には高い煉瓦壁にかこまれたモリソン邸と思われる4本のイオニア風の柱頭飾りのある円柱を甚調とした重厚なバルコニーを持つ二階建ての西洋館が見える。窓に櫛型のペディメントを飾り、鎧戸を備えたコロニアル様式を示す建物である(「日本絵入商人録」より)。
 遺構の窓からのぞくと、壁は長手/長手/小口/小口の繰り返しという独特なレンガの積み方が見え、日本式家屋の屋根の小屋組みと違った西洋式の小屋組み=トラス構造の木組みが置かれている。
 
 
遺構は保護されているが、窓から中を眺められる。屋根の小屋組みトラスの構造が見られる。



■禁止の武器輸入に、「転売」の抜け道あり
 こうした遺構は、本町通りを挟んだ向かいのシルク通りなどにもあり、日本人が建てた洋館と違って、生活の様子を想像させる西洋人による洋館の遺構も興味深い。
 また、外国人が盛んに幕府に売り込んだ大砲などが掘り起こされ、近くに展示されている。
ダイナマイトも鉱山に利用されただけでなく当然武器としても利用される。自分の出身国の敵になるかもしれない国に武器を販売する商人たち。

 横浜が開港した1859年から明治維新までの10年間は、幕藩体制が崩壊して、新しい薩長を中心とした明治政府に移行しようとする期である。
 京都では薩長と佐幕派が覇権を争い、薩英戦争、下関戦争、長州戦争、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争、箱館戦争、西南戦争まで、争いが続いた。当然、諸大名は武器を欲しがり、銃や大砲の輸入が続く。
 この間に横浜港で輸入された武器は、銃とともに、大砲も輸入され、特に慶応3年から箱館戦争が終わる1871年まで100砲近くが販売されている『明治維新と横浜居留地』(石塚裕道 吉川弘文館 2011)。

 もともと、1958年に締結された日米修好通商条約では、幕府のみが軍用品の輸入を独占・管理するとされていたが、一度外国人の手を経てから転売されれば輸入ではなく、単なる転売にすぎない、という抜け道を見つけて、日本駐在の外国商人がいったん購入して日本人に売るという取引が行われるようになった(同上)。
 「上に法律あれば、下に対策在り」という中国のことわざそのままである。通訳を担当していた中国人買弁の知恵だろうか。
 商売、取引というものの両面性がうかがえる。明治維新に際しての開港が、単に友好だけで行われたものではなく、一触即発の戦争危機を含んだ状態での取引だったということをこのことが示している。

       
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