殖産興業・富国強兵――<br> 日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物                                              
                     
                   
日本の近代化を支えた――
横浜の洋館・建造物・産業遺構
   
   
   
         
     
 
  002 鉄道の開通、本営業前に横浜−品川で仮営業

   
 
横浜異人館ヨリ蒸気車鉄道図(横浜市立図書館)。図のように、利用者は正装した上流階級の人ばかりだった。


   明治5年10月に新橋−横浜間が開通したと伝えたが、その少し前、明治5(1872)年6月12日(旧暦5月7日)に鉄道は開通していた。品川-新橋の工事が間に合わなかったために、一足早く横浜−品川間で、仮営業を始めていたのである。
 1日2往復の直通運転で、
 
 横浜発8字−→新橋着8字35分  新橋発9字−→横浜着9字35分
  午後4字−→   4字35分   午後5字−→  5字35分
             (当時の時刻表には「字」が使われていた)
で運転された。
 敷設されたレールは1組2本で単線。横浜−品川の所要時間は35分。運転手や運行管理はイギリス人頼りでのスタートだった。
 そして、6月5日、神奈川、川崎駅が出来上がり、陸蒸気は両駅にも停車するようになった。新橋が完成して本営業をしてからは、すべて各駅停車で、横浜−新橋の所要時間が53分、1日9往復で運転された。
 横浜毎日新聞は「あたかも空天を翔るに似たり」と報道したという。
 理系の人間の悪い癖だが、どうしても、どのくらいのスピードで走ったのか?と気になってしまう。まあ、ざっと暗算でもわかることだが、横浜−品川22.2kmを35分で走っているから、おおよそ時速40kmの速さ。新橋が開通してからは横浜−新橋26.9kmを53分で走っているから、途中、神奈川・川崎・品川の停車時間を13分ほどとして、およそ時速40kmほどと考えていいだろう。
 今年2019ねんのダービー馬ロジャーバローズは時速60kmで走り勝利したが、日本の木曽駒などは、せいぜい時速20−30km。長距離を時速40kmで疲れも見せずに走るおか蒸気に目を丸くしただろうことは、想像に難くない。
 
 
鉄道博物館に展示されている、英国のヴァルカン・ファウンドリー製蒸気機関車第1号。
イギリス製で新橋-横浜間を走ったおか蒸気である。


 ちなみに、横浜−品川間の切手代(運賃)は当初は、
 ・上等車:1円50銭  ・中等車:1円  ・下等車:50銭
だったが、定期運航するようになって、
 ・上等車:1円12銭5厘 ・中等車:75銭 ・下等車:37銭5厘
に値下げされたようだ。

 庶民には、「たんす・ながもち質屋に入れて、乗ってみたいな陸蒸気」とうたわれたというが、米一升(≒1.5kg)が6-7.5銭の時代だから、上等車はおよそ米20kgほどの価格。いまでいえば、上等車4万5千円、中等車3万円。下等車1万5千円というところか。

この頃の金銭感覚は、現代の、仕事をしていて収入があるのが当たり前で、最低賃金が時給千円などという状況からは想像できないくらい、貯蓄を持っていることが貴重だった時代だから、想像以上に浮世離れした乗り物で、庶民にとっては、ロールスロイスのタクシーに乗るに似た、夢の乗り物で、役人や外人、商人以外にはなかなか乗れなかったので、「たんす・ながもち…」云々のような唄もうたわれたのだろう。

 桜木町の駅近くに「鉄道創業の地 記念碑」がたてられていて、そこには当時の時刻表なども紹介されている。
 面白いのは、乗車案内。

 「乗車せむと欲するものは・・・十五分前までにステイションに来り切手買入れ・・・」
と要求しながら、
 「但し発車並びに着車とも必ず時刻を違わさるやうには請合かね・・・」
と、時間を正確に守って運行できるかどうかは請け合わない・・・と突き放している。

 いかにも上から目線。当時の官僚の威張った様子がうかがえる。
 開業当時、政府にとっては大政奉還・廃藩置県で職を失った武士の生計をどうするかが最大の課題だったから、これ幸いと、新しく始まった鉄道の従業員に優先的に士族出身者を採用した。だから、目線はどうしても武士の商法、この告知の文にその上から目線が表れていて、興味深い。「載せてやる」感が満載である。
 4歳以下の子供は無料、12歳までは半額で、これはおそらくイギリスのやり方をそのまま入れたものだろう。
 
 
「鉄道創業の地」碑に表示されている。時刻表や案内。読んでみると、時代背景を感じさせてなかなか面白い。


 この鉄道のレールの敷設工事は、桜木町までの最後の2kmほどが海だったので、ここをどう進むかが難題だったが、イギリス人技師、エドモンド・モレルと組んだ高島嘉右衛門が、海の中に突貫工事で土手を設けて線路を敷いた。のちに「神宮館・高島暦」でおなじみの高島易断を創設したあの高島嘉右衛門であることは、以前にもここでご紹介した。
 いま、みなとみらい線で横浜−みなとみらい駅の間に「新高島」が、横浜市営地下鉄ブルーラインで横浜−桜木町の間に「高島町」の駅名があるが、これは土手をつくった高島嘉右衛門にちなんで、開拓した土地を高島町と名付けた名残である。
 
 
横浜までの最後の区間は内海に土手を築いて線路を敷いた。横浜駅は土手の先の左奥。手前の橋が青木橋。


 かつての横浜の駅は、いまはわずかな絵や写真でしか見られない。公開されているものとしては、桜木町駅南口を出て左、みなとみらい側に行くと、すぐ右手に、当時の横浜駅の大きな写真が掲示されている。近くに行った際には、ぜひ一見をお勧めしたい。
 新橋駅も何度かの移動・改修を経て残されてはいないが、当時駅のあった汐留にある旧新橋停車場鉄道歴史展示室(http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/)に、一部が再現され、展示されている。お時間のある方は、訪ねてみるのもよいだろう。
 

       
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