富岡製糸場と絹産業遺産

<ものづくり強国日本の原点を訪ねる>
富岡製糸場と絹産業遺産




上信電鉄・上州富岡駅から南へ数分、
町の交差点を右に折れて門前町の参道のような通りを進むと
目の前に巨大な赤煉瓦の建物が見えてくる。
江戸幕府から明治新政府に変わったばかりの明治5年、
上州富岡の地に作られた官営の富岡製糸場だ。
高さ14メートル、長さ100メートルを超える煉瓦造り。
この空前絶後のスケールから、
圧倒的な周回遅れで列強との産業近代化レースに参加した日本が、
ものづくり強国へとすすむ、その出発点の意気込みを知ることができる。


北関東の絹産業遺産マップ
  <目 次>
  • 第1章 富岡製糸場――近代化を急いだ日本のものづくりの模範工場

    時代を超えたスケールと、その作りの見事さ、フランス式を採用しながら、日本に合わせた独自の工夫の数々。隅々まで細やかな神経が注がれた設計・施工は、140年を経た現代でも十分に使えるほどの質の高さを誇っている。ものづくり強国日本を育む端緒となった工場のみごとさを見てみよう。

  • 第2章 荒船風穴と西上州の養蚕――かぶらの里は近代産業発祥の宝庫

    富岡のある西上州はもともと、養蚕業の盛んな地域だ。富岡市、下仁田町、南牧村、甘楽町をかぶらの里と呼んでいることからも分かるように、この地域は、鏑(かぶら)川の流域に広がる地域である。絹産業というだけでなく、近代産業の発祥の地という点でも、興味深い地域である。周辺地域の産業遺産をご紹介しよう。

  • 第3章 田島弥平旧宅と高山社跡――養蚕技術改善と生産性向上への試み

    旧田島弥平宅と高山社跡は2014年6月にユネスコに登録された富岡製糸場と絹産業遺産群の中の2つの遺産である。生糸は繭から作り出される。いかに良質の繭を効率よく作るかは、絹繊維産業の成否を決める基本的な課題だ。幕末から明治にかけて、蚕種の育成と養蚕の技術は飛躍的に向上したが、それらの開発に貢献したのが田島弥平と高山長五郎だった。

  • 第4章 富岡製糸場の赤煉瓦――煉瓦造りに見るものづくり強国職人の底力

    富岡製糸場の代名詞となっている赤煉瓦倉庫。木造・漆喰建築しかなかった時代に、どうやって煉瓦を調達したのか。土を探してたどり着いたのが上州福島。初めて煉瓦造りに挑んだのは伝統の瓦職人だった。伝統的な「だるま窯」で挑んだ煉瓦造りにものづくり強国に発展する技術の底力がみえる。

  • 第5章 桐生のノコギリ屋根と織物工場――糸から繊維産業への発展

    徳川家康の直轄領だったこともあり、早くから京都西陣の機織り技術を導入してきた桐生。絹市が開かれるなど織物業が成長し、明治維新とともに新しい機械なども導入されて繁栄する。昔のままの木造三角屋根の工場から近代的に改装されたモダン店舗まで、ノコギリ屋根が街のシンボルとなっている。

  • 第6章 足利の赤煉瓦・石造り織物工場――絹から木綿、羊毛産業へ

    日本最古の学校、足利学校などで知られる足利は古くから栄えた街で、隣接する桐生に刺激されて繊維産業が発達してきた。大谷石を積んだノコギリ屋根の工場など、独特の雰囲気を醸し出し、絹から木綿、羊毛へと繊維が変わる時代を映している。

      








第1章
「富岡製糸場――近代化を急いだ日本ものづくりの模範工場



富岡製糸場案内図


■富岡製糸場
富岡製糸場を訪問するならば、ぜひ、仲町の角からゆっくり歩いて、製糸場に向かってほしい。
それが一番自然なルートだけれど、理由はふたつ。ひとつはこの寺社の参道のような道をたどっていくことで、次第に目の前に現れてくる製糸場の赤煉瓦倉庫の巨大さが実感されるということ。
そして、ややタイムスリップした感のあるこのアプローチを通って近づくことで、やがて目の前に現れる建造物の大きさが、当時近づいた人間の実感としても感じられるようになるからだ。

最初に感じるのは、目の前に見えてくる建物の大きさである。
そして、中に入って驚くのが保存状態の良さ。この2つを実感として味わうことから、富岡製糸場の見学を始めたい。

南を鏑(かぶら)川に面し、西北東の3方向を煉瓦塀に囲まれた約1万5600坪の敷地内が、ほぼ当時の姿で保存されている。
1939年以来、製糸工場として事業を展開しながら、保存を心掛けてきた片倉工業株式会社の努力に負うところが大きい。


■世界でも最大規模の製糸工場
構造は、木で骨組みを作りその間に煉瓦を積んだ木骨煉瓦造。
煉瓦の長い面と短い面を交互につなげたフランス積みと呼ばれる積み方が採用されている。
1870年(明治3年)秋に工場建設が計画され、1972年(明治5年)7月に工場が完成。工期は2年弱、横須賀製鉄所を設計したフランス人のオーギュスト・バスチャンがわずか50日で描き上げたという。
設備はフランシスから特注で輸入、煉瓦も作ったことがない瓦職人を深谷から集めて試作から、という状況の中で、東西の倉庫合わせて450立方メートルの繭を貯蔵、蒸気窯6座を擁した蒸気窯所、鉄製の繰糸器械300台を備えた繰糸工場、女工用の宿舎、鉄水槽など、当時でも世界最大規模の製糸工場である(煉瓦造りの物語は「(4)富岡製糸場の赤煉瓦――煉瓦造りに見るものづくり強国職人の底力」でご紹介する)。

スエズ運河はまだできていないから、フランスから器械を輸送するのも南アフリカ喜望峰回りの船便である。
そんな時代に、わずか2年間で作るそのスピードは、いま考えても驚異的だ。なぜそんなに急いだのか。実は急がざるを得ない理由があったのである。


●東繭倉庫、西繭倉庫
正門を入ると、正面にあるのが、東繭倉庫である。赤煉瓦造りで高さ14.8メートル、幅12.3長さ104.4メートル、当時としては破天荒な大きさである。
全体を見るには、首を左右に振らなければならない。まずはその大きさをじっくりと実感していただくのがいいと思う。

工女としてここで働いた信州松代藩の家老の娘・和田英は、到着して工場を始めて目の当たりにしたときの印象を次のように記している。

「富岡製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思い舛程驚きました。生れまして煉瓦造りの建物など、まれに、にしき絵位で見る斗り、それを自前に見舛る事で有舛から、無理もなき事かと存舛。」(富岡日記・上毛新聞社)。初めて見る煉瓦造りの大きな建物に度肝を抜かれた当時の人々の様子が分かる。
正面アーチ上の「明治五年」のキーストーン
倉庫入口の正面アーチ上部に「明治五年」のキーストーンがある。この煉瓦のアーチを支えるために、左右の柱にわざわざ添柱が付けられている。これはこのアーチ部分が建設当時に設置されたものではなく、建物が建設された後に、わざわざ象徴的にキーストーンとして設置されたものだということであろう。

東繭倉庫は、1階が事務所、2階が繭倉庫として使用されていた。現在、1階は公開され、当時の様子を紹介する資料が展示されている。この巨大さは、西繭倉庫とともに、当初は5-10月とされていた養蚕期に繭を集めて、年間を通じて製糸事業を展開するために必要だったとされている。
東繭倉庫内部


■横浜の開港で生糸ブームが沸騰
  時代の背景を簡単におさらいしてみよう。
江戸時代、世界史の舞台からひっそりと隠れていた日本は、ペリーの来航をきっかけに1859年(安政6年)、横浜・長崎・函館を開港して外国貿易を開始する。

当時、幕府にとって最重要課題は、欧米諸国の侵略を防ぐために産業を興し、富国強兵を進めることにあった。
そのための資金源である外貨を獲得する目玉として考えられたのが生糸である。
開国とともにやってきた外国人商人たちが求めたのが生糸と繭種だったのだ。

江戸末期の日本は、養蚕も盛んで生糸が多く作られていた。
そのころ、フランス・イタリアで蚕の微粒子病が蔓延し、和親条約が結ばれて貿易が行われるようになると、多くの商人が生糸とともに種繭の買い付けに日本にやってきた。

養蚕が盛んだった上州を中心に、多くの商人が横浜に集まり、生糸の取引が沸騰し、一大ブームとなった。
しかし、好況は長く続かない。ブームにあぐらをかいた粗悪品も作られるようになり、市場に流れて、買いたたかれて生糸の値が崩れていく。
これでは外貨の獲得もままならない。政府にとって高品質の生糸生産は焦眉の急となっていた。


■国内産業を守れ
  そんなとき、外国商社員から日本で器械式の製糸工場を造らせてほしいとの要請が出される。
これを許可すれば、やがて国内の製糸業は外国資本に駆逐される。
そんな危機感のなかで、幕府は、1870年(明治3年)自前で器械製糸工場の設立を決める。大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、指導者としてフランス人のブリューナを製糸場建設・運営の責任者として契約する。

ブリューナは、横須賀造船所を設計したバスチャンに工場の設計を依頼し、フランスに製糸器械を発注、突貫工事で建設を行って、明治5年10月に創業をはじめた。

この時に造られた製糸機械は蒸気機関を利用したもので、機械を利用した機構は繰糸を巻き取る作業だけで、現代の自動機と区別するために「器械製糸」と呼ばれている。

東繭倉庫(右)と繰糸場(中央建物)
東西繭倉庫と隣接してコの字のタテの部分に繰糸工場がある。現在は外されているが、創業当時は、右の東繭倉庫から貯蔵してある繭を搬入できるように2階でつながっていた。

内部はトラス構造という屋根を支える木組法を用いて、幅12.3メートルの間には柱がない。広い空間が保たれているために、本格的な自動機の時代になっても十分に工場として使うことができた。当時は、照明がないので、窓を大きくとり、外光を取り入れて、その明るさで操業していた。


■フランス製の輸入器械を横浜からどうやって運んだ?
  こう書いてくると、工場の建設は簡単に進められたように思えてくるが、実は大変なことである。
私たちの中には、建設資材や設備の輸送は鉄道でという前提があるが、実は、上野から高崎までの線路が開通するのは12年後の1884年(明治17年)のことである。電車・汽車はまだない。当然、自動車もない。

そんな状況で、フランス輸入の繰糸器械をどうやって運び込んだのか。

江戸から富岡への道は、基本的に中山道が通じている。中山道は、熊谷を過ぎた後、深谷−本庄−新町−倉賀野を経て高崎に到達する。
ここまで日本橋から105km。高崎から上信電鉄で高崎から富岡まで20km。これをすべて荷駄で運搬するのは大変である。

そこで使用されたのが水運である。もともとは江戸湾に流れ込んでいた利根川・荒川をさかのぼり、支流・烏川を利用して倉賀野、平塚(現・伊勢崎市境平塚)まで運河が切り開かれていた。

横浜に入港した荷物は、船からはしけに積み替えて倉賀野まで運ばれ、そこから荷駄にして牛馬の背で富岡まで運ばれた。


■江戸と上信越を結んだ倉賀野河岸
  倉賀野(高崎市)は、いまではあまり名前は聞かれないが、幕末には、中山道と日光例幣使街道の分岐点として、本陣1、脇本陣2、旅籠が六十数軒ある交通の要衝だった。

そして何よりも、明治17年に高崎線が開通するまでは、利根川-烏川水運は江戸と上信越方面を結んで上信越のコメを江戸に運ぶ輸送の大動脈だったのである。

倉賀野は、その最北にある河岸として舟運搬の一大拠点となっていたのであった。
倉賀野に河岸が作られたのは1561年に、地元民10人ほどが回船業を開始したのが始まりといわれている。利根川水運の最上流地点で、江戸時代には上信越地方の物産を江戸へ運び栄えた。

最盛期には、旅籠屋71軒、茶屋9軒、商家34件、造り酒屋2軒があり、倉賀野のにぎやかさは大変なものだったという。

明治17年の高崎線の開通以来、舟運は役割を終え、倉賀野河岸は次第に忘れられていくことになった。
かつて河岸があったあたりには、かつての栄華を思わせるものはほとんどない。

製糸場というと、生糸の生産や煉瓦造りの製糸場の建設に目が行きがちだが、それらの前後に不可欠な物資の運搬だけをみても、全国どこでも翌日配達という現代からは考えられない難事業だったことがよくわかる。

すべて人出で行うしかなかった時代に、こうした事業を短期間に完成させた、先人の偉大さを改めて知る思いがする。
倉賀野は江戸時代には隆盛を誇った、歴史的にも興味深い街であり、旧家も少なくない。
  

メインストリートに中山道(江戸道)
と日光例幣使街道(日光道)の分岐点があり、
閻魔堂と立派な常夜灯、道しるべがある。
 

道しるべ。
左(日光道) ⇔ 右(江戸道)
と書かれている。

かつて河岸があったあたりは、いまは
何もない。烏川にはかなりの水が流れていて、
それだけがかつての水運の隆盛をしのばせる。

倉賀野は江戸時代には隆盛を誇った。歴史的にも
興味深い街であり、旧家も少なくない。
そんな中に、養蚕農家もいくつかある。
2つの櫓が設けられている清塚家。
敷地内には土蔵も残されている。
   


■富岡が初の官営製糸場の地に選らばれたわけ
そんな江戸から離れた富岡になぜこんな大きな工場を建てたのか、疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。
富岡が官営製糸場の建設地に選ばれたのにはいくつかの理由がある。

●上州・信越地方には養蚕農家が多くあり良質の繭が集めやすい
●蒸気機関を使うために燃料が必要だが、近くの高崎で亜炭が産出されていた
●前を流れる鏑川から良質の水が得られた、などに加えてもう一つ、
●製糸場を建設するための広大な用地が用意されていた

ことも大きな要因になっている。つまり、整地の必要がなかったのだ。

製糸場の立地を巡って、ポール・ブリューナら関係者が信州、上州などを視察して回っている。その際に、この地にスペースがあることがわかり、ここが建設地として選ばれた。

工場を早く作りたい国としても、これから新田開発(開墾・整地)をしていたのでは間に合わないという事情もあったと想像される。

もともとこの土地、江戸初期に代官だった中野七蔵が、南牧・砥沢で採掘されていた上野砥石の輸送のための中継地・在庫調整地、代官陣屋として新田開発(整地)をした。

しかし、人事異動により中野代官が他へ転出してしまったために、建屋は着工されることなく、予定地のみが周辺住民の入会地として残されていたそうだ。

江戸時代を通じて、刀剣を加工するために砥石は欠かせない。南牧で採掘された砥石は、仕上げの一歩手前で使われる中砥だという。武士の”命”を仕上げる貴重な資材であったはずだ。掘り出した砥石は、倉賀野まで荷駄で運ばれ、そこから水運で江戸に運ばれた。

南牧・砥沢と倉賀野までの輸送の中継デポとして富岡の地が選ばれていたところに、明治3年、官営の富岡製糸場が建設されることになったというわけである。


■日本人が製糸工場を運営
  こうして作られた富岡製糸場が、当時どのくらいの生糸を生産したのか、明確な資料はない。
しかし以後、日本各地に動力を使用した器械式の製糸場が建設され、日本の近代化資金として生糸は世界に輸出されていく。官営富岡製糸場は、国内での製糸業を広めるための模範工場として先駆的な役割を果たしたが、製糸工場としての経営には苦しみ続けた。コストが高いのである。

高コストの要因のひとつはフランス人工女たち。そこで彼女たちを1年で帰し、4年目の明治9年には、ブリューナも契約を解消して帰し、創業4年目には日本人だけで操業が行われるようになった。

日本人による事業化は一つの目標ではあったが、繭の買い取り、生糸の販売、どちらも世界をしてにした投機的な要素を持った取引であり、生き馬の目を抜く世界の商人たちを相手に後進国の官僚たちの思惑が功を奏するとは思えなかった。なかなか高コスト体質を脱することができなかったようだ。

この結果、明治26年には製糸工場は三井家に払い下げられ、その後、原合資会社をへて、昭和14年片倉工業の所有になった。同社は、設備・技術を更新しながら操業を続けたが、昭和62年には、とうとう製糸工場として115年の歴史を閉じることになった。

日本の生糸の輸出は昭和5年をピークに減少するが、代わって増えてくるのが化学繊維製品である。
桐生・足利の繊維産業が勢いを増し、一大集積地へと成長していく。素材の輸出から加工された製品の輸出へ、その流れは開発途上国の自立への道でもあった。


■初の近代建築――製糸場のその他の施設
  首長のポール・ブリューナ夫妻が住居として利用していたのがブリューナ館。地下室には、明治9年にブリューナがフランスに帰国してからは、工女たちへの講習室などに改造され、利用された。

ブリューナとともに、日本人工女に器械による繰糸の操作方法を教えるために、フランスから何人かの女性技術者が招かれていた。彼女たちが住んだ館が女工館。女工館は検査人館と独立していたが、後に2階に渡り廊下(右)が作られた。

  

ブリューナ館。煉瓦造りのワインセラーがある。 

フランス人工女たちが居住した女工館

検査人館からみた女工館

検査人館の2階は周囲にベランダがつくられ、
天井が井桁組になっている。

検査人館はコロニアル風の建築

2階には応接室の貴賓室がある
国策工場として皇族・士族などの視察も多かった
   


●全体に施された細やかな神経
繰糸用の水を蓄えるために明治8年に作られた鉄製の水槽(直径15m、深さ2.4m)。南を流れる鏑(かぶら)川の水をくみ上げて繭をゆでるのに使用した。その水を溜めておく水槽である。使用後は回収してすぐ横の池にためておいた。
当時は、日本に製鉄技術がなかったので、鉄材はフランスなどから輸入した。

これを加工したのは、横浜製鉄所(後に横須賀に造船所を建設するために、必要な機械などを作る工場として建設された。横須賀への輸送する船の修復と造船機械を作っていた。のちに石川島播磨造船所に払い下げされた。現在のJP根岸線石川町駅付近にあった)である。

フランスから輸入した鋼材をで加工し、鉄板を持ち込んで組み立てた。そのために、接合部には、艦船に使われるリベット接合が用いられている。
その接合部のリベット間隔も、水圧を考慮して上段が広く、下段は狭くなっている。細かい神経が注がれているのが分かる。また、鉄水槽の内側は傷みもほとんどなく、素材と加工・処理、メンテナンスの良さがうかがえる。

全体が土台に積まれた石に支えられているが、石との接着部ではリベットが当たる位置は、リベットが直接土台に当たらないように石が穿たれており、細かな神経が全体に注がれていることがよく分かる。
なかなか”いい仕事”がなされていて、今日のものづくりに注がれている細やかな神経を感じさせる
  

繰糸工場の手前にある鉄水槽。
すぐ横を流れる鏑川の水をくみ上げた。

鉄水槽の内側。傷みもほとんどない。
素材と加工・処理の良さがうかがえる。

接合部のリベット間隔。水圧を考慮して
上段が広く、下段は狭く打たれている

土台に積まれた石。リベットがあたる部分は
当たらないように石が穿たれている
   


■富岡の隠れた主役:伝習工女
  新しい時代を切り開いた武士の娘
富岡製糸場の設立のねらいは高品質で安定した生糸を生産し、外貨を獲得することにあったのだが、それを官営で始めたのは、版籍奉還・廃藩置県で主家と家禄を失った士族、つまり武士たちの新しい事業として、全国に器械製糸事業を展開する、その模範にしようという意図があった。

そのため、工女として全国から集められたのは士族の娘たちで、富岡製糸場で器械式の繰糸法を学び、各藩にノウハウを伝授する研修生という意味で伝習工女と呼ばれた。
創業にあたって、全国の藩に13歳〜25歳の工女募集の告知を送ったが、なかなか集まらなかった。
その理由は・・・赤ワインを飲むフランス人の姿から、富岡の工女になると血を飲まれ、油を搾られるなどのうわさが広まり、しり込みされてしまったのだ。
そのため、製糸場の初代工場長尾高惇忠は自分の娘・尾高勇(ゆう)を工女として送り込むことで無害をアピールせざるを得なかった。
後に『富岡日記』を著し、工女の鑑といわれた旧松代藩から応募した横田英も、松代で家老職にあり、工女募集の担当となった父親・横田数馬が、自らの娘を派遣することで、工女の応募を促した苦肉の策でもあった。


女工としての自負と誇り
−−女工哀史とは無縁の週休制、定時労働、医務室完備の近代工場−−

製糸場の女工というと、女工哀史を思い浮かべて、富岡製糸場をマイナスのイメージで理解している人もいるようだが、それはまったく違う。

伝習工女たちの処遇は、日曜定休、定時労働、病院(診療所)にはフランス人医師がいて入院施設もあり、花見や盆踊りなども行われ、極めて近代的は勤務制度だったのである。

これは、首長のブリューナが、先行するヴェルニーの横須賀製鉄所にならって、フランス式の管理法を導入した結果である。
給料も、技術の等級に従って決められ、明治6年には1等工女1円75銭、2等工女1円50銭、3等工女1円、中回り(班長)2円だった。

工女たちは、金額はともかく、故郷の期待を背に受けて、最先端の官営の工場で学ぶ選ばれた存在として自負と誇りを持っていた。
なによりも、国を外国の侵略から守るために、生糸を販売して外貨を獲得すると教えられており、製糸場で働くということ自体が誇りでもあった。
  

松代藩家老の娘・横田英。

工女勉強の図.jpg
   

伝習工女の墓
とはいえ、工女の年齢は13歳〜25歳、平均で16,7歳と若い。
家を離れて初めての寄宿舎での集団生活、しかも慣れぬ製糸作業ということもあり、病に倒れる工女もいた。

死亡の原因で大きいのはチフスの流行で、1880年(同13年)には、病院での治療のかいもなく15人が亡くなっている。
製糸場の正門を出て北に行き、国道254号を西に曲がって数十メートル、右手に浄土宗の龍光寺がある。山門を入ると、本堂の左手に、明治7年〜33年に製糸場で亡くなった工女たちの墓がある。

墓は何か所かに分散されており、名前も明記されている。なかには工女たちがお金を出し合って埋葬したという例もあるようだ。

墓参りをした後は、表に戻って、山門もゆっくり拝見してみよう。戦後になって再建されたものだが、彫刻や造りに手が込んでいて、一見の価値がある。

 
  

龍光寺山門。比較的新しく再建されたものだが、
細工や造作に手が込んでおり、一見の価値がある。

山門の細工

龍光寺の本堂横にある工女の墓の案内板

工女の墓はしっかり管理されている
   


「繰婦勝兵隊」――伝習工女のその後
地元の期待を担って全国から富岡に派遣されてきた女工たちのその後はどうなったのだろうか。
松代藩から入場していた和田英ら16名の伝習工女のその後を見てみよう。
松代では、士族が金を出し合って、明治7年7月西条村に六工社という器械製糸工場を設立した。
それを機に、工女たち富岡から引き取った。

富岡を去るに際して、工場長尾高惇忠は、「繰婦勝兵隊」と揮ごうし、持たせている。繰糸工女は外貨獲得に貢献し、働きは兵に勝るという意味であろうか。そんな時代だった。

最後までいた14名の工女は、3人の迎えとともに北国街道をたどり、最終日は矢代宿の本陣で湯を沸かして入浴し、付添いとともに17台の人力車を連ねて松代に入った。
17台の人力車は前代未聞、松代では足りずに坂城、矢代からも集めたという。それだけ鳴り物入りの帰郷だった。

国策でやむを得ぬとはいえ、乳母日傘で花よ蝶よと育てられた武家のお姫様が、人身御供のように送り込まれた工場で、見事に役目を果たしての帰国である。いま今でいえば、オリンピックの凱旋パレードか。

  

六工舎があったところに立てられた案内板

六工社-絹一筋 六工舎の繰糸場の様子。
(「絹ひとすじの青春」より)
   


松代で高く評価された富岡直伝の技
六工社も、器械繰糸機で事業化するため、数人の男子を3、4か月富岡製糸場に送って蒸気機関などを学ばせている。

最新の設備を導入したとはいえ資金量は政府とは雲泥の差である。器械繰糸機といいながら、鉄の部分を木造で製作するなど、苦心惨憺してなんとか設置した。

しかも、使う繭は富岡製糸場では屑として外していたような質の低いものが多く、何とか製糸しても、富岡で作るような純白とはいかない。

工女たちは、それでも富岡直伝の繰糸技術を駆使して何とか糸を繰り、それを、横浜に持ち込んで外国商人に見せると驚くほどの高値で売れたという。

他の商人が持参した純白の生糸は購入を控えても、六工舎の黒ずんだ生糸はいくらでも買うといい、しかも買値はほぼ同じ。富岡帰りの工女たちの腕である

六工舎の器械製糸による生糸の評価の高さは、なみいる生糸商人達を驚かせた。

これで富岡直伝の繰糸技術の評価が一気に上がり、以後、六工舎の西条生糸が高い評価をうけるようになった。

富岡製糸場で学んだ伝習工女たちは、器械製糸技術を故郷に持ち帰って民間の技術として受け継いだ。
その後、富岡製糸場は民間に払い下がられるが、伝習工女たちの技術が、明治、大正時代を通じて日本の殖産興業・富国強兵を支えてきたといっていい。









第2章
荒船風穴と西上州の養蚕
――かぶらの里は近代産業発祥の宝庫


富岡のある西上州はもともと、養蚕業の盛んな地域だ。富岡市、下仁田町、南牧村、甘楽町をかぶらの里と呼んでいることからも分かるように、この地域は、鏑(かぶら)川の流域に広がる地域である。絹産業というだけでなく、近代産業の発祥の地という点でも、興味深い地域である。周辺地域の産業遺産をご紹介しよう。


旧甘楽社小幡組倉庫(現甘楽町歴史民俗資料館)


■荒船風穴――養蚕に革命をもたらした日本の工夫(下仁田町)
2014年6月ユネスコが世界文化遺産として登録した「富岡製糸場と絹産業遺産群」には、富岡製糸場の他に3つの遺産が含まれている。そのひとつが荒船風穴である。

風穴とは、山中などにあって風が通り抜ける洞穴を指すが、養蚕業で言う風穴は、冬期に山中の風穴内に雪や氷が入り込み、年間を通してそれらに触れた空気が、地中の冷気とともに風穴内から吹き出てくるものをいう。
この冷気を天然の冷蔵庫として、蚕種(カイコの種を産み付けた種紙)の保存に利用したものである。

なぜ冷やすかといえば、蚕種はそのまま置いておけば、春から秋の間は勝手に孵化して産卵を始めてしまう。
低温下においておくことで孵化することを防ぎ、蚕種を適切な時機に孵化させることができるからである。天然の風穴を利用して蚕種の保存を行ったのは、冷蔵庫のない時代に実用化した、世界にも珍しい、日本独自の貯蔵法だ。

春から秋までの間は、蚕の卵は勝手に孵化してしまうため、養蚕時期が限られていたが、冷気で貯蔵することで孵化時期を管理できるようになった。

これで繭の生産が年に複数回可能になり、生糸の生産量は飛躍的に増大した。その意味で風穴は絹産業の生産性向上と外貨の獲得に革命的な変革をもたらした。富岡製糸場の東西の繭倉庫は、年間に使用する繭を貯蔵できる大きさだったが、風穴の利用で繭倉庫は小さくても済むようになった。

●冷蔵庫の普及で役目を終える
国道254号、西上州やまびこ街道を西に進んで下仁田町南牧野の山中、神津牧場近くにあるのが荒船風穴である。
1905(明治38)年に1号風穴が作られ、09年に2号、14年に3号が完成した。標高840メートルの山中にあるが、蚕種の貯蔵能力が110万枚と国内でも最大の規模だったために、全国から委託を受けて蚕種を保存した。

冷気の吹き出る風穴部分を3-4メートル掘り、タテ×ヨコを6-7メートルの大きさで石垣に囲い、木製の棚を作って小屋にしたもので、吹き出る冷気は3℃と冷蔵能力は十分にあった。1964(昭和39)年まで、稼働していたが、冷蔵庫の普及によって委託が減少し操業を停止した。

荒船風穴へのアクセスは、神津牧場近くの駐車場から約800メートルの急坂を下る。坂道を往復した後では、近くの神津牧場の濃厚なソフトクリームがおいしい。

駐車場から坂道を下って20分。荒船山の山間部にある2号風穴。上から1号、2号、3号風穴と、5メートルほどの間隔で並んでいる。

  

荒船山の山間部にある風穴の案内板
クマよけの鈴も置かれている

冷たい風が吹き出してくる


真夏でも冷機でひんやりする

外気温は17.3℃でも、風穴の中は3.2℃と冷たい。

風穴は近くに並んで3つある

穴の部分は小屋が作られ、3室に分けられていた(群馬県)
   
■富国強兵への期待をになった中小坂鉄山跡(下仁田町)
荒船風穴から富岡へ、信州姫街道(下仁田道:国道254号)を東に向かって下仁田町に出る手前、下仁田町中小坂(なかおさか)の左手に中小坂鉄山跡がある。
下仁田街道から北に1本通りを入らないと看板が見えないので見逃しそうだが、幕末−明治の産業近代化の苦闘の歴史を語るときには欠かせない施設なので、見ておきたい。

日本では、古くから砂鉄を利用したたたら製鉄が行われてきた。
これは一刀両断の刀剣用の鋼づくりには向くが、たわんでも折れない強靭さがないために構造物には向かない。

ペリーの来航以来、政府にとって大きな課題は、富国強兵のための軍艦や大砲づくりであり、構造物にあった強靭な構造物用の鉄づくりであった。
そのためには、鉄鉱石から高温で精錬しなければならない。そこで目をつけられたのが、中小坂鉄山の鉄鉱石だった。


●大砲づくりに挑んだ“つわものたちの夢の跡”
幕末、水戸藩は独自に鉄づくりめざした。そのため、那珂湊に反射炉を建設したのだが、その那珂湊の反射炉の資料に、

「安政三年(1856年)、上野国小坂村祖山(又は始山とも言う)より産出の磁石性鉄鉱を準備しおいたのを使用して、まず五六十貫目くらいの小型「モルチール」砲より鋳込みを開始した。
鋳込みにあたっては、並々ならぬ苦心を要した。そして出来上がった銃棒を柳澤の水車場に運んで錐入れを成し、その大砲をば祝町海岸の渚に於いて試射をしたのであった。」

と書かれている。

1974(明治7)年には、ここに洋式の高炉を備え、蒸気機関を利用した近代的な製鉄所を作り、製鉄に成功している。

その後、中小坂鉄山は民間に払い下げられたりしながら事業を続けたが、1909(明治42)年には操業を停止。埋蔵量に限界があったのだろう。戦時中は、鉄鉱石の採掘のみが行われた。坑口やトロッコ道跡の一部があり、殖産興業をめざして大砲づくりに苦闘した兵どもが夢の跡をしのぶことができる。
  

中小坂鉄山跡の案内看板

かつての中小坂鉄山風景
   


■南牧村:武士のいのちを研ぐ砥石−―天領南牧の砥石
製糸場のある地は、もともと奥にある満目村で算出する砥石のデポとして整地された土地であったことはご紹介した。

富岡から信州姫街道(下仁田道)と呼ばれた国道254号、西上州やまびこ街道を西に進むと、ネギとこんにゃくで知られる下仁田町にでる。

上州電鉄の下仁田駅付近を左に折れて県道45号線を進むと南牧村に至る。
南牧村は養蚕も盛んだったが、同時に砥石が採掘されたことから徳川の時代になると幕府直轄の天領とされ、南牧で採掘される砥石が幕府の御用砥とされた。

逆に言えば、その占有権を持ちたいがために幕府が直轄地としたわけだ。
刀剣が、武器としてだけでなく工芸としても高度に洗練されていく中で、砥石がいかになくてはならないものであったかを物語るものだ。

採掘された砥石の一部は、旧尾沢小学校の校舎を利用した南牧村の民俗資料館に展示されている。農具や養蚕器具などの資料も展示されており、ぜひ見ておきたい。

また、同館に至る南牧川沿いの県道45号線は、両側に木造2階建て家屋が連なるかつての面影を残す数少ない街道だ。このたたずまいもぜひ保存しておきたいものだ。
  

江戸時代には露天で掘られていた砥石。
質としては中砥といわれている。

南牧村の民俗資料館。江戸時代以降の
養蚕から製糸・機織りに使われた道具類が
しっかりと保存・展示されている
   

■星尾風穴
南牧村民俗資料館前を右折し、南牧川から分かれて星尾川を約15分ほどさかのぼると、星尾大橋の手前・左手に星尾風穴がある。

規模的には荒船風穴に比べると小さいが、1905年(明治38)1月の創業で、産業遺産として登録された荒船風穴、東谷風穴よりも早くから利用されていた貴重な施設である。

掘って石で囲った風穴(間口2間(約3.6m)、奥行3間(約5.5m)、高さ10尺(約3m))に貯蔵庫を造り、蚕種約2万枚を貯蔵した。

貯蔵温度は、4.4℃〜7.8℃で、貯蔵小屋がなくなって風穴がむき出しになったいま、流れ出てくる冷気がひやっとする。
まさに天然の冷蔵庫である。
風穴の右並びに管理事務所があったがそれもいまはない。文化財の指定はないようで、できればしっかりと保存したいところだ。
  

星尾大橋の手前、Y字の道の真ん中に立っている案内の看板。ここで車を左に寄せて止める。説明図の位置が分かりにくいので、よく確認したい。


風穴の中。地中に四角く掘られた中に木組みで倉庫が作られていた。

星尾風穴。間口2間、奥行3間と小ぶりだが、貯蔵2万枚。入り口手前に直径10センチほどの風穴があり、冷たい風が噴き出ている。

石垣が組まれた風穴内の山側の隙間から、ひんやりした冷気が流れ出てくる。温度は4-5℃。夏でも寒くなるほどの冷たさだ。
   


■養蚕農家群――甘楽町小幡地区
富岡から国道254号線を下仁田と逆に東に進む。
上州富岡駅から上州電鉄で高崎に向って2駅目が上州福島駅である。

駅を出て南に数キロほど下ったところが甘楽町小幡地区だ。ひなびた中にも、典雅な雰囲気が漂うこの町は、織田信長の二男信雄からつながる織田家の城下町である。こんなところに信長の弟が、と思うが、弟を送り込むほどだから、もともと悪い土地柄ではないのだろう。

町の中を雄川から堰を作って引いた雄川堰が縦横に走り、国の名勝に指定されている「
楽山園」、織田氏七代の墓のある崇福寺など、藩政時代の歴史的な建造物も残されている。

小幡地区の中心部、雄川堰に沿って植えられた桜並木が美しい一角は、流れる堰の両側に街道が走っていて、街道と直角に明治中期に建てられた養蚕農家群が並ぶ。

養蚕農家と言っても、門構えの大きな建物だ。門の内側には、大きな家がいくつか並び、中庭を挟んで一つの屋敷群を形成しているかのようだ。

こうした門構えの構造がいくつか並んでいる。かつては裕福な町だったのだろうことが想像される風景である。


  

雄川積・道路をはさんで両側に養蚕農家群が並ぶ。

桜並木が美しい遊歩道になっている

古いしっかりした養蚕農家が静かなたたずまいにある

雄川積が日常生活の中に溶け込んでいる
   
■雄川堰の洗い場
雄川堰の幅はわずか2,3メートルだが、豊かな水量が流れ、あちこちに石を積んだ洗い場が設けられている。

明治中頃から40年ころまで、養蚕が盛んだった時代、41か所の洗い場があり、この水を利用して生活用具とともに養蚕器具の洗浄なども行われていたという。

蚕を飼育する竹製の「蚕かご」(1.5×0.9m)は、小規模養蚕農家でも約100枚、大規模養蚕農家は数百枚もの数を洗わなくてはならず、さらに最盛期には年5〜6回の養蚕が行われ、洗浄は大変な重労働であったという。

雄川堰があったお陰で、近くで洗浄が可能だったため、養蚕が衰退するまで、長年にわたって利用されてきた。
現在でも、日常的な農作物の食材洗い場として雄川堰は利用さている。

雄川堰のある街道は、きれいに整備されており、城下町の町屋らしい雰囲気を残したたたずまいがどこか懐かしい気持ちにさせてくれる。

豊かな水量に心も和む。この地域は車を降りて、ぜひ散歩を楽しみたい。
小幡地区の雄川堰に面した養蚕農家群近くにあるお休み処「信州屋」は無料休憩所。もともと薬屋だったようだ。きれいに改築され、2階も見られる。

信州屋は元々は薬屋さんだったようで、その時代に扱っていた商品や薬やタバコなどの看板もたくさんあって、それを眺めるのも楽しい。


  

雄川堰。洗い場が所々に設けられている。その間隔から、雄川堰が日常的にもよく使用されていたことがうかがわれる。

明治時代中期の作られた古民家で2階も見られるように改造されている。


信州屋の隣は自転車屋さんで「宮田製堅牢車」の文字が
   
■旧甘楽社小幡組の繭倉庫
この道の先に、赤煉瓦造りの甘楽町歴史民俗資料館がある。
かつて西上州では、養蚕農家が集まって組合を作り、繭を集めて運営する製糸工場がたくさんあった。

組合製糸工場と呼ばれるものだが、そうした製糸工場の面倒を見ながら、養蚕農家に蚕種を販売したり、作られた生糸を撚糸工場に販売したり、また、養蚕道具などを扱ったりする組織が作られていた。
その代表的な一つが、甘楽社である。

いま、甘楽町の歴史民俗資料館として使われている赤煉瓦の建物は、2階建ての瓦葺きで床面積289平方メートル、大正15年に作られた旧甘楽社小幡組の繭倉庫である。

しばらく前までは、養蚕作業も行われていて、1階には、その時の資料等を中心に、養蚕のプロセスを示す資料が展示されている。

繭玉なども置かれており、蚕から繭−生糸に至る流れがよく分かる。建物は平成19年には「近代化産業遺産」として認定され、「群馬絹遺産」にも認定されている。
奥の部屋には、笹森稲荷神社に奉納されていた韮塚直次郎が奉納した絵馬が展示されている。
資料館にあるポスター「蚕の大敵 蛆(うじ)を絶やせ 一匹の蠅を逃がせば 桑葉三千に産卵し 繭約六円分の損をする」がある。戦時中のものだろうか。
  

赤レンガの旧甘楽社小幡組倉庫(現甘楽町歴史民俗資料館)。
養蚕道具も展示されている。

資料館には、養蚕の様子が展示され、繭玉などをみることができる

韮塚直次郎によって笹森稲荷神社に奉納された絵馬(甘楽町歴史資料館)。

生糸の輸出が国の大黒柱だった当時のものだろう。
   







第3章
田島弥平旧宅と高山社跡――養蚕技術改善と生産性向上への試み




旧田島弥平宅と高山社跡の2か所は、2014年6月にユネスコに登録された富岡製糸場と絹産業遺産群の中に含まれる。生糸は繭から作り出される。いかに良質の繭を効率よく作るかは、絹繊維産業の成否を決める基本的な課題だ。幕末から明治にかけて、蚕種の育成と養蚕の技術は飛躍的に向上したが、それらの開発に貢献したのが田島弥平と高山長五郎だった。


■4つの遺産は品質・生産性向上の歴史証人
2014年6月にユネスコの世界文化遺産として登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」には、4つの遺産が含まれている。
これまでご紹介した富岡製糸場と荒船風穴、それに、今回ご紹介する田島弥平旧宅と高山社跡である。これらの4つの遺産の関係は図のようになる。
明治期に日本の絹産業は、世界的にも高い評価を得て、輸出の花形産業になり、それによって大量の外貨を獲得してきた。
その基本には、日本の養蚕・製糸業界の高品質化と生大量生産を実現する工夫と努力があったが、その先駆けとなったのが、今回、産業遺産として登録された4つの施設であった。
  
(1)荒船風穴は、冷房技術がない時代に、自然の冷却力を発見し活用することで蚕の孵化時期をコントロールすることを可能にし、5月から10月の期間に限定されていた養蚕を、年間を通して可能な事業とする画期的な仕組みを生み出した。
(2)富岡製糸場は、良質な生糸を生産するための器械製糸技術を確立し、さらには、良質な繭を生産するための蚕種の開発・改良と、養蚕農家の支援を行ってきた。
(3)田島弥平は、ヨーロッパに蚕種を販売しながら顕微鏡を購入して蚕の病気の検査と蚕種の改革に取り組み、その結果、画期的な自然通気を重視した屋根上のヤグラを備えた構造と蚕の育成法「清涼育」を考案。
(4高山社は、高山五郎によって田島弥平の育成法が受け継がれ、清涼育にヒントを得て温度管理を緻密に行う「清温育」で新しい養蚕法を生みだし、その普及のために高山社を興して、アジアンワイドで研修生を募り、技術の普及につとめた。
   
この結果、これらの遺跡が、単に日本国内の絹産業遺跡というだけでなく世界的に見ても貴重な絹産業発展の遺跡として国際的にも認められたのである。


■蚕から絹製品までの流れ
 蚕が繭を作り、そこから糸をつむいで繊維製品になるまでには、いくつもの工程を経る。おおよその流れは、図のようになっている。
(1)蚕の卵を育成し、種紙に植え付けて販売する蚕種製造業
(2)そこから蚕の種を購入して繭を作らせる養蚕業
(3)できた繭の品質を検査する検定機関
(4)繭を購入して糸を紡ぐ製糸業
(5)作られた生糸の品質をチェックする検査機関
(6)生糸を購入して撚糸業者に販売する生糸商社
(7)繊維に織るために糸に撚りをかけて、指定の太さの糸を作る撚糸業
(8)完成した糸をつかって、繊維を織る機織業
(9)織られた繊維を染めて色を付ける染色業
(10)完成した繊維を販売する繊維商社
(11)繊維を購入して繊維製品・衣料品を製造するアパレル企画・縫製業
(12)完成した繊維製品・衣料品などを販売する小売店
この間に周辺では、蚕の種苗を研究開発する業者や機関、繭の検定を行う機関、生糸を鑑定する機関、桑苗を扱う業者、養蚕道具を製造する業者、製糸・撚糸・機織・染色・デザイン・裁断・縫製機器などを開発・製造する業者など、さまざまな人々が携わって一大産業となり、繊維・アパレル業界を形成している。
図で見ると、
・荒船風穴・星見風穴−−は蚕種製造業から委託を受けて蚕種の保存を行う会社
・田島弥平−−は蚕種の開発と養蚕業、
・高山社−−は養蚕法を研究する教育機関と養蚕業
・富岡製糸場−−は製糸業者
ということになる。


■絹生産に合わせて品種改良
ここで簡単に、蚕が絹糸を吐き出すまでの養蚕の流れをおさらいしておこう。
蚕=カイコは、学術的に言えば、チョウ目、カイコガ科の昆虫で、和名は「カイコガ」。桑の葉を食べて成長する。最近は人工飼料も開発されているが、少し前までは資料として桑の葉だけが使用されていた。
カイコガは成長が早く、卵から孵化した後、3-4日で脱皮を繰り返し、5回の脱皮を経て(5齢という)、3週間ほどで口から糸を吐き出して繭を作り始め、2週間弱で脱皮・羽化して産卵する(右図)。卵は、そのまま置くと気温の状態によって9-14日ほどで孵化するために、冷たい環境で保存し、養蚕時期に合わせて孵化させるという方法が行われている。
かつては、孵化したカイコを入手して養蚕を始めたが、近年では、3度めの脱皮(3齢)までは病気にかかりやすいことから、3齢までは養蚕共同飼育所で飼育し、その後養蚕農家で行うのが一般的になっている。
絹糸を作るためにカイコを飼育することは古い時代から行われており、高品質の絹糸生産のために蚕種の品種改良が行われてきた。

そのため、カイコは自立能力を失っていて、自然界では生育できない。幼虫は草を掴むことができず、羽化して羽はあっても筋力がないので飛べないのである。
人間の助けがあって初めて生きのびることが可能な昆虫なのである。カイコが家蚕(かさん)と呼ばれるのはそのためである。


■田島弥平旧宅――蚕種の品質向上と育成法の研究
群馬県内を流れてきた利根川が埼玉県に流れ込むあたり、伊勢崎市で利根川の南に県境が移る。
この利根川南岸の細長いあたりに広がるのが境島村である。

1822(文政5)年田島弥平はここ(旧島村)で田島弥兵衛の長男として生まれる。このあたりでは早くから養蚕がおこなわれており、弥兵衛は養蚕で財を成したという。

このあたりでは一般に、火力をつかって蚕室の温度管理を重視する温暖育が行われていた。
しかしこの方法は適温管理が難しいなどの問題があった。

その家を継いだ弥平は蚕種の育成に関心を持ち、さまざまな養蚕法を試行錯誤しながら最適な養蚕法を求めて研究した。

そして、紆余曲折の後、最終的に、湿度の管理を重視し、蚕室の換気に重点を置いた「清涼育」に辿りつき、屋根の上に通気用の櫓をつくる独特の育成法を完成させた。
この方法を、1872(明治5)年『養蚕新論』としてまとめ、実践的な養蚕の技術や桑の栽培法を紹介している。
  

田島弥平。蚕種の輸出にも取り組み、養蚕法の研究で屋根の上の櫓構造を開発するなど、養蚕業の近代化に大きな足跡を残した。

「続養蚕新論」に描かれている新蚕室。2階建てだが、櫓が高く3階建てのように見える。今はない
   

●「清涼育」−−換気を重視した越屋根構造
田島弥平旧宅は、間口13.5間(25.4m)、梁間5間(9.4m)の大きさ。
換気を重視した構造で、東南を向いた2階建瓦葺の屋根に作った櫓(越屋根)は、以後の養蚕農家住宅の原型として全国に普及している。

構造は、1階が住居、2階は屋根裏まで吹き抜けになった一部屋の蚕室で、広さは240平方メートルある。2階には、ヨーロッパから購入した顕微鏡が据えられた部屋があり、そこで蚕の病気の研究などを行っていた。

この主屋から東に少し離れて新蚕室があった。母屋の手前に井戸があり、井戸に面した2階の東側から新蚕室につながる渡り廊下があった。弥平が考案した新蚕室(カイコの蚕種を育成する部屋)は、換気を重視して「続養蚕新論」に描かれたように主屋の東にあり主屋と2階でつながっていた。2階建てだが、櫓が高く3階建てのように見える。今はない

母屋と向き合うように、蚕室と桑の葉の収納と加工を行った桑場がある。
桑場は桑の葉の収納と加工を行った建物。屋根には2つ櫓があるが、養蚕は行われていない。2階で作業を行い、床に設けられた開口から1階に落とし、主屋や蚕室に運んだ。

近くに見学者用の駐車場があるが、近くに、案内所と島村見本桑園がある。見本園にはさまざまな品種の桑が植えられている。かつてはあちこちにあった桑畑も最近は見かけなくなった。これも見ておきたい。
  

田島弥平旧宅主屋。2階の蚕室は屋根裏まで吹き抜けの一部屋になっている

井戸。主屋の東側(右上)に新蚕室につながる渡り廊下の一部が見える。

桑場。桑場は桑の葉の収納と加工を行った建物。屋根には2つ櫓があるが、養蚕は行われていない。2階で作業を行い、床に設けられた開口から1階に落とし、主屋や蚕室に運んだ。

左の建物が種蔵。蚕種を保管した。右は桑場。
   


■高山社跡――アジアワイドで貢献した養蚕技術の普及教室
田島弥平の清涼育を学んだ後、長年の養蚕研究と飼育記録を基に、高山長五郎が開発したのが「清温育」である。
換気を重視しながらも、蚕の成長に合わせた湿度・温度の調整とその飼育管理を行うことが、良質な繭を作ることにつながるという考え方である。

高山長五郎は、1830(天保1)年、高山社の土地で生まれた。
祖母が営む養蚕で一家を支えていたが、当時の養蚕は、コシャリという白カビが蚕に付着する被害が大きく、養蚕は天候に左右され、農家の収入は非常に不安定だった。

そこで、高山は祖母の養蚕を助けようと養蚕に挑戦したがうまくいかず、失敗を重ねた結果、良質の繭を安定的に生産するためには気温だけでなく湿度の管理も重要であることを発見し、「清温育」を確立した。
養蚕法「清温育」の開発・普及活動で国の賞勲局から発明賞を受賞している(国立公文書館)。

こうした温度と湿度の管理を緻密に行うため、蚕室はいずれも小さく、大部屋にはしていない。
天井から抜ける屋根には3つの越屋根が付けられており、この窓を開閉することで、蚕の状態に合わせて温湿度のコントロールを行うようになっている。

この方法は、画期的な近代養蚕法として近郷の農家から教えを乞う人間も多く出てくるようになった。
そこで、1870(明治3)年、自宅に養蚕指導所「高山組」を設立し、その後、1883年に事業を拡大して1884(明治17)年「養蚕改良高山社」と改名した。

この新しい「清温育」の考え方は瞬く間に全国に広まり、翌年には、伝習所を藤岡に建設し、長五郎の死後(明治19年)に移転。その後、二代目社長だった町田菊次郎が受け継いで高山社の活動を展開、巡回指導者による実践的な指導の導入で、ピーク時の明治40年代には、高山社は国内のみならず、台湾などを含めて40,000人の社員を数えるほどの規模になったという。
  

高山長五郎。養蚕法「清温育」を開発し、人材育成に努める

高山社跡。屋根には3つの櫓が組まれ、天窓が付けられている。

高山社跡長屋門。江戸時代後期の建築で、もともと屋根は板葺。

高山長五郎の死後、明治25年清温育の発明で功績を追賞し、賞勲局から金5円が下賜された。その文書。
   

●高山社の蚕室
高山社がこれほど普及したのは、「清温育」の適切さとともに、蚕室の温湿度は、「秋から春先にかけて着る裏地付の袷(あわせ)一枚くらいでちょうどよいくらい」といった分かりやすい具体的な例をつかって指導したことなどが言われている。

ここでは、近代的なものづくりの管理に通じる、緻密に作られた蚕室を見てみよう。
  

1階天井2階の火鉢の底裏が1階の天井に出ている。温度管理を厳密に行うため、12回にも火鉢が設置されている。

2回養蚕室。蚕を置く棚の部分は1回から開口部で開閉できるようになっている。1回で温められた空気が2階に上がってくるように設計されているのである。

町田菊次郎。高山長五郎の後を受けて2代目社長として、高山社の事業を受け継ぎ、全国で指導を展開し発展させた。

町田菊次郎旧宅。高山社跡から車で15分ほど。2階に蚕室があり、屋根には3つの越屋根がある。「清温育」がそのまま行われていた。
   


■カイコの食餌「桑」
かつて養蚕農家の庭には、桑畑があった。
カイコは、孵化してから25日余りで繭を作るが、その間に体積で75倍、体重で約1万倍にも成長する。

食べる桑の量も、1頭のカイコは幼虫の間に20〜25グラム(桑の葉で約20枚)と半端ではないので、養蚕期になると、桑の葉を刻んで給餌する作業が大仕事になる。

一般に、100kgの繭をつくるためには6,000頭のカイコが必要で、エサに年間2トンの桑の葉がいり、そのためには10aの桑畑が必要だとされている。

蚕には600種とも言われるほどたくさんの種類があり、種類に合わせた桑の葉の研究もされていて、さまざまな桑の種類が開発され、利用されている。

その一部が、田島弥平旧宅近くの島村見本園で栽培されている。
桑の木は、そのまま放置しておくと10〜15メートルも成長するが、一般には栽培に際しては、刈取りに適した形で、樹形を低く保つ「仕立て」が行われている。

かつては全国各地に桑畑があって、最盛期には全畑面積の1/4ほどが桑畑だったと言われているが、今では少なくなってしまった。
すくなくなってしまった理由は、空気汚染である。カイコは人が管理することでしか生きられない極めて小さな、繊細な生き物で、桑の葉が排ガス等で汚染されていると、その影響を受けやすく、生育が困難なのである。

近年、研究が進んで、桑の葉に変わる人口えさも開発されており、桑の需要も減少している。
写真は田島弥平旧宅近くにある島村見本桑園。高さ1〜1.5メートルくらいで栽培されている。
  
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■カイコの糸の構造
カイコは孵化直後から高タンパクの桑の葉を大量に摂取するため、アミノ酸過多になる。
体液中の余剰なアミノ酸は、主にグリシンとアラニンに変えられて、絹糸腺に蓄積されるが、それをうまく処理する機能がない。そこで、これを繭のかたちで排出していると考えられている。

絹糸腺は、細い吐糸管を通してカイコの口元にある吐糸口につながっており、蓄積された水あめのような液(絹糸絹)が細く吐き出されて繭になる。
カイコは2日間繭を吐き、その長さは1300メートルから1500メートルにも及ぶ。

カイコが吐く糸は0.02mmという細さで、2本のフィブロインを中心にして、それを4層のセリシンが覆っている。
フィブリルが束になって糸の本体フィブロインを形成している。セリシンはいわば接着剤である。

繭から糸を取り出すにあたって、最外側のセリシン1は水に溶けやすいため、煮沸してセリシン1を溶かす。

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第4章
富岡製糸場の赤煉瓦
――煉瓦造りに見るものづくり強国職人の底力





富岡製糸場の代名詞となっている赤煉瓦倉庫。木造・漆喰建築しかなかった時代に、どうやって煉瓦を調達したのか。土を探してたどり着いたのが上州福島。初めて煉瓦造りに挑んだのは伝統の瓦職人だった。伝統的な「だるま窯」で挑んだ煉瓦造りにものづくり強国に発展する技術の底力がみえる。


■煉瓦と瓦造り――笹森稲荷神社と瓦造りの町
上州電鉄で上州富岡から高崎方向に向かって2つ目の駅が上州福島。
駅を出て南西の方向へ15分ほど、瓦工場が集積する一帯にこんもりと茂った森が見えてくる。笹森稲荷神社である。

富岡製糸場の建設にあたって、資材の調達を担当した韮塚直次郎らが煉瓦造りに適した粘土を探してここにたどり着き、1971(明治4)年、「だるま窯」を近くに作って、煉瓦と瓦を焼いた。富岡製糸場から直線距離にして数キロメートル。輸送にも便利な近さだった。

もともとこの地域は織田家の城下町として、江戸時代末期から武家屋敷の屋根を葺くために瓦造りが行われてきた。
笹森稲荷神社はそうした瓦工場が集積した地域にあり、職人たちから火入れの儀式の神としてあがめられてきた神社だ。

そんなこともあってか、笹森稲荷神社には、富岡製糸場の完成後、韮塚直次郎が感謝して明治8年に奉納したという絵馬が伝えられている。絵馬は、いま、近くの甘楽町歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡組の繭倉庫)で公開・展示されている。

落ちついたたたずまいの神社のすぐ向いに、瓦の里ギャラリー「瓦窯」が見える。富岡製糸場の完成後、何人かの職人がここで瓦の製作を受け継ぎ、上州福島瓦として技術を伝承してきたが、このギャラリー「瓦窯」は、そうした福島瓦の伝統と技を伝え、瓦文化を発展させようと設置したものだ。

ギャラリーには、煉瓦造りのトンネル窯の一部が保存・展示されていて、土曜日には公開されているので、トンネル窯の中を台車に乗って体験してみたい。
  

笹森稲荷神社。この近くで窯を造り、富岡製糸場の煉瓦や瓦を焼いた。

瓦の里ギャラリー「瓦窯」

工場の一角に瓦の里ギャラリーがある

トンネル式の煉瓦製作用の窯。連続窯だ。
   


■富岡製糸場の赤煉瓦を焼いただるま窯
明治4年、笹森稲荷神社に近くにだるま窯が作られ、富岡製糸場の煉瓦と瓦が焼かれた。
書いてしまえは簡単に見えるが、実はこれは大変なことだ。

なんといっても使う量が半端ではない。富岡製糸場の建物を作るために、必要な赤煉瓦が117万丁(建物と煉瓦塀)、屋根瓦40万枚(総屋根坪数2950坪)という膨大な量である。

「だるま窯」は、16世紀の初めころから使われていた土をこねて盛った窯で、その形がだるま大師が座禅をくんでいる姿に似ていることから名付けられた。

当時のだるま窯は残されていないが、2006年、甘楽町を拠点に活動する「新屋根開拓集団 屋根舞台」によって、近くの甘楽町ふるさと館にだるま窯が復元された。
太めのユーモラスな形は江戸時代らしい雰囲気をつたえてなかなかいい。これも一見の価値がある。
  

だるま窯。常時公開されている、炉内も見ることができる。

甘楽町ふるさと館に2007年に復元された「だるま窯」。手前と裏に火を入れる焚口がある。
   

だるま窯で瓦を焼くと、1回の焼成に数日かかり、1回で焼ける瓦が約1,000枚、というのが一般的である。

富岡製糸場に必要な煉瓦・瓦が合計で160万枚ということになれば、1,600回の焼成が必要になり、1回の焼成に5日かかるとして、合計日数はその5倍の8,000日。

それを工期わずか2年=365日×2=730日で作るとなれば、休日なしの突貫工事でも11窯がないと、納期に間に合わない。余裕を見て、15窯ほどが容易されたはずだ。

15窯が昼夜兼行で火を入れた煉瓦と瓦を焼くとしたら、どれだけの人数が必要なのか。
付近一帯は、不夜城のごとき光景が展開されたの違いない。考えただけでも気の遠くなるような光景である。

しかも、建設重機はまだない。粘土の掘り出しから輸送、全てが人手作業である。どうやって納期を間に合わせるか、現代の私たちが考えても、かなり難しいプロジェクト管理である。

・2943、140901 甘楽町ふるさと館に2007年に復元された「だるま窯」。手前と裏に火を入れる焚口がある。 ・2933 だるま窯の炉内。瓦・煉瓦は1,000枚ほどしか入らない。量産はできないが、最近では、手のかけ方でさまざまな変化が出せる。 ・2964 だるま窯。常時公開されている、炉内も見ることができる。 ・2989 ふるさと館にあるだるま窯の看板。 ・2982 復元されただるま窯のテスト制作で焼かれた煉瓦が看板に使われている。 ・3004 だるま窯がある甘楽町ふるさと館。宿泊施設もあり、瓦の手形づくり、こんにゃく作りなどの体験もできる。
  

だるま窯の炉内。瓦・煉瓦は1,000枚ほどしか入らない。量産はできないが、最近では、手のかけ方でさまざまな変化が出せる。

だるま窯の構造。3日間火を燃やし続けて1000枚が完成する

ふるさと館にあるだるま窯の看板。

だるま窯がある甘楽町ふるさと館。宿泊施設もあり、瓦の手形づくり、こんにゃく作りなどの体験もできる。
   
■瓦職人の高い技術・応用力の勝利
こんな大変な作業、いったい引き受け手があるのかと心配になるが、この煉瓦や瓦造りを担当したのが前掲の韮塚直次郎であった。なぜ韮塚直次郎が選ばれたのか、弱冠の説明が必要かもしれない。

政府の側で富岡製糸場の建設をすすめたのは、大蔵省で租税を担当していた渋沢栄一である。
渋沢栄一は1840年生まれ。一ツ橋慶喜につかえ、版籍奉還とともに新政府の大蔵省に仕官する。

農家出身で蚕桑に詳しかったことから富岡製糸場の計画を担当。直後に体感して、以後実業界で大きな足跡を残す。「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれる。

深谷出身の渋沢は、責任者としてフランス人のポール・ブリューナを選定すると同時に、初代の工場長に深谷出身で渋沢の学問の師である十歳年長の尾高惇忠を選定した。

  

渋沢栄一。富岡製糸場の計画を担当。「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれる。

尾高惇忠。漢学者。1830年生まれ。富岡製糸場の初代工場長として、特に女工の地位向上、教育などにも力を入れ、官営製糸場の評価を高めた。
   
その尾高が、建設用の資材の調達責任者(賄い方取締役)として指名したのが同郷の韮塚直次郎だった。
無理を頼める相手が他にいなかったというのが実情かも知れない。

煉瓦と瓦を焼くために、韮塚の郷里の深谷・明戸村の瓦職人たちが招集され、地元の職人とともに、だるま窯を作った。

それまで煉瓦は、反射炉を作るために下田奉行の江川太郎左衛門や水戸藩によって、さらには、長崎製鉄所を作るために長崎で焼かれたりしてはいたが、幕藩体制の下では煉瓦造りのノウハウは共有されてはいない。

そのため、ブリューナなどの指導を受けて、瓦職人たちは試行錯誤しながら煉瓦造りのノウハウを身に付けていった。

専門家がよく見ると、富岡製糸場の煉瓦は、初期のものからだんだん経験を積んでうまくなっているのが分かるという。
煉瓦の接着に漆喰を改良して使用するなど、そこここに独自の工夫も生み出された。

瓦から煉瓦へ、短期間に未知の技を学び、吸収して、百数十年ものあいだ揺らがない煉瓦を作り上げる。江戸時代の職人の技の確かさを物語るものと言えよう。

笹森稲荷神社近く、窯が設けられた場所の発掘・研究が行われれば、煉瓦の残骸なども発見され、技術習得のプロセスも明らかにされるのではないか。
そこから、当時の日本人のものづくりに携わる思いや、新しい技術への取り組み姿勢なども明確になってくるはずである。発掘調査を行い、産業遺産として残されることを期待したい。
  

韮塚直次郎 深谷や地元の瓦職人を束ねて煉瓦や瓦を製作し、また、石材の輸送などにも力を発揮した。今でいえば、優秀な現場監督という所か。

煉瓦の接着に、和の建材である漆喰が改良されて利用された。左官職人の工夫である。百数十年を経過してもびくともしないその堅牢さは、技術の確かさを証明している。
   


■現代に生きるだるま窯
富岡製糸場の煉瓦や瓦を焼いただるま窯は、現在では営業を続けているのは全国でわずか3基になってしまった。

そのうちの2基が藤岡市の共和建材有限会社にある。

「いったん火を入れると、監視しながら2日間炊き続け、その後、火を止め、煙突を閉じて密閉し、お湯を注いで、数日間、いぶしながら冷えるのを待つ。ちょっとしたことで、瓦が変化するので、気が抜けません。大変な重労働です」

と代表の五十嵐清さん。

だるま窯で火を巧みに操って質の高い工芸作品を生むことから、人呼んで「炎の匠」。

一度に焼ける瓦は約1千枚。1週間かかるので、焼いている間に次の型を取り、天日乾燥させて、準備作業を行う。
2基を回転させて瓦を生産するが、休む間もない。かつては3基の窯を回転させてフル操業だったが、今では2基を回転させるのが精いっぱい、それでも生産が追い付かず、受注残がたくさんあるという。

だるま窯は50年ほど前までは、どこでも使われていた窯だが、1回の生産量が少ないために、連続生産できる窯に変わられて、一つ二つと消えていった。

しかし、連続的に焼成がおこなえる窯と違って、手の加え方で仕上がりに変化がもたらせるだるま窯は、瓦だけでなくタイルなどにも利用される。

量産品というよりも、顧客の要求に応じた仕様にあわせて作る、タイルやプレートなど工芸品としての価値が見直されている。工芸的な味が出せると、五十嵐さんの瓦のファンも多い。

瓦は型をつかって成形するが、焼成による瓦の曲りや形を仕上げるために、一つずつ専用の台をつかって整形処理をする。仕上がりに影響するだけに重要な工程である。手で支える型の下部は、握る作業ですり減っている。
富岡製糸場の煉瓦を焼いた技術を伝えるだるま窯、いつまでも現役でいることを祈りたい。

  

中央が瓦を炉内に入れ、取り出す戸口。盛られた土の左右に焚口がある。を入れる手前と向こうに火入れ口がある。

窯の中。蓋を開けて、戸口から中を覗いたところ。

代表の五十嵐清さん。背後にあるのは、だるま窯の手作りの良さを生かして五十嵐さんが手がける作品。量産品というよりも、顧客の要求に応じた仕様にあわせて作る

だるま窯で焼かれた瓦は、水に浸けてもすぐに乾く。瓦が濡れないから苔がつかない。

プレスされて型取りされた瓦が一つずつ切断される。

窯で焼く前に、陰干し、天日干しが行われる。こうした前工程も、仕上がりに重要な影響を持っていて、一つ一つのていねいな作業が瓦に命を吹き込む。
   


■煉瓦の摘み方
富岡製糸場の塀に使われている煉瓦の平均サイズは、220×106×58mmほど。日本標準規格が制定される前に製造されたもので、現代の煉瓦よりもサイズが大きい。つなぎはセメントではなく漆喰である。

煉瓦の建築物を造る際に、煉瓦の摘み方にはさまざまな方法がある。
(1)フランス積み
 一段に煉瓦の長手と小口を交互に積む方式。それを中心を合わせて一段ごとに交互に積むもの。正式にはフランドル積みと呼ぶようだ。富岡製糸場の積み方がこれになっているのは、指導したブリューネやバスチアンがフランジ夫人だったからだろう。
 短い面と長い面で焼き色を変化させると、独特な模様が出てくる。
(2)イギリス積み
 煉瓦を並べる際に長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式。フランス式に比べると強度が強いと言われているが、強度的にかかわらないという意見もある。土木の構造物や鉄道の橋梁などに利用されることが多い。
(3)長手積み
 煉瓦の長手のみを一段ごとにずらして積む方式。これだと2枚を並べて使わない限り奥行き(壁厚)が半分になるので、強度的には弱いと言われる。 (4)小口積み
 長手積みと逆に煉瓦の小口だけを一段ごとに交互に積んだもので、通称ドイツ積みとも呼ばれる。東京駅の煉瓦がこの積み方をしている。小口積みは一辺が短いので局面などをつくるにも向いていて、井戸や煙突などの円筒形の構造物などによく使われる。








第5章
桐生−−東の西陣と呼ばれたノコギリ屋根織物工場の町




桐生の街は早くから京都西陣の機織り技術を導入してきた。江戸時代には絹市が開かれて繁栄し、明治時代になると新しい機械が導入されて、機織りの街として産地を形成する。
街を歩けば、明治から昭和の初めにかけて作られた機織工場のノコギリ屋根が目に入る。工場としてそのまま稼働していたり、モダンな店舗に改装されていたり、街のシンボルとして独特の景観を生み出している。


■1300年を超える絹生産の歴史
桐生・足利の歴史をひも解けば、奈良時代(710−794年)には上野の国から朝廷に、「あしぎぬ(絹布)」が献上されたという記録がある。

また、十世紀初めに編纂された「延喜式」にも、上野・下野などの国に生糸や絹布が税(租庸調の「調」)として課せられたと記されている。こうしたことから、江戸時代から近代にかけて、北関東では桐生を核に地域ごとに大きな特徴を持った産地が形成されてきた。

たとえば、北西部の山沿いの碓氷・六合・下仁田・南牧・前橋・高崎・富岡・藤岡などの地域では養蚕・製糸業が盛んになり、その東にあたる、伊勢崎・桐生・足利・佐野・館林などの地域では撚糸、染色、機織業が発達した。
特に桐生、足利を中心とした地域は、江戸時代から機織を行う家が多く、繊維産業の集積地となっていた。

この両地域が発達した一つの要因は、直接江戸とつながる水運があったことである。
倉賀野(高崎)が上信越の物資を江戸に運ぶ水運の拠点だったことは第1回目にご紹介したが、東の桐生(古戸河岸)・足利(猿田河岸)もまた、渡良瀬川−利根川−江戸川と経由して、東北からの物資を江戸に運ぶ輸送の拠点になっていたのである。


■「西の西陣、東の桐生」
桐生の絹織物の評判については、こんなエピソードもある。
ひとつは、この地の出身者である新田義貞が鎌倉幕府を倒した際に、旗揚げに桐生の織物旗を使用したことから、桐生の織物が縁起が良いとされたこと。

さらに新田義貞の末裔と言われた徳川家康が関ヶ原の合戦に際して掲げた2410枚の旗は、桐生が一晩で作り上げて献上したもので、関ヶ原の戦いに家康軍が勝利したことから、以後、家康の覚えがめでたくなったという。

そして、江戸時代に桐生の町は、徳川家の直轄領となり、以後、京の西陣から最新技術を導入して「西の西陣、東の桐生」と言われるようになってくる。

家康との故事は絵に画いたような成功譚だが、一夜で納品する短納期がカギだったとは、技術が発達しても、客の要求は変わっていないのかもしれない。

この地域を結んでいるのはJR両毛線、国道50号線、北関東自動車道。懐かしい風景を味わいながら産業遺産を訪ねてみるのに、どれを利用しても悪くない。


■桐生市の産業遺産をたずねるには・・・
桐生市では市街中心部の「近代化遺産」の位置を記した散策マップなどを準備している。
観光案内所などでマップを入手してから町中の散策に出かけることをお勧めする。

桐生の町を歩いていると、雰囲気のある建物が多いことに気付く。桐生は、第二次大戦中に戦災に遭わなかったために、戦前の建物が多く残されていて、街の景観を落ち着いたものに演出しているのだ。
遺産も歩いて回れる一帯に多い。車で行かれた方も、ぜひ車を降りて街歩きをお勧めしたい。
 古い商店がそのまま使われていたり、ちょっとした横道に戦前のままの工場や民家があったりする。

新興住宅地の画一性がないだけに、歩くたびに、「へえ」「ほう」「なるほど」「ふむふむ」の連続で、街歩き派には堪えられないにちがいない。


■桐生町重要伝統的建築物群保存地域
桐生の町は、天正19(1591)年に、天満宮を起点として作られた桐生新町がベースだ。

町の中心を南北に向かって走るのが本町通り。北の突き当りに天満宮が座し、そこから南に、本町通りに沿って東側に細長く伸びるのが本町1丁目、西が本町2丁目。この天満宮と本町1丁目、2丁目に囲まれた全域が、天正19年に造られた桐生新町で、2012年に文科省が定める「桐生町重要伝統的建築物群保存地域」に指定された。

桐生の絹織物業は明治・大正・昭和の時代を通じて、日本の基幹産業として外貨獲得に大きく寄与してきた。

この間に、多くのノコギリ屋根の機織工場が作られ、いまでも200棟を超える建物が残されている。ちなみに、地図で工場を表すアイコンはノコギリ屋根である。日本人の記憶にノコギリ屋根は深く刻まれている。


■旧桐生高等染織学校関連施設(現:群馬大学工学部同窓記念会館)
桐生の産業遺産の旅、町の北から南に下ってくることにしよう。

天満宮から、道なりに北に進むと、すぐに群馬大学工学部の入り口がある。かわいらしい守衛所があり、守衛さんがいるので、「同窓記念会館を拝見させてください」と断って入ろう。

同窓会記念会館は、大正4年に建造、5年に開校された旧桐生高等染織学校の本館と講堂で、1972(昭和47)年に現在の場所に移転・復元されたものだ。

大正5年に建造された旧桐生高等染織学校の本館・講堂。左右シンメトリーで軽快ながら重厚な雰囲気を出している。国登録有形文化財

正門、赤煉瓦と鉄の組み合わせが権威を感じさせ、重厚さを出している。
   


 同校は、色染化学、紡織、応用科学の3学科を持った県内唯一の実業専門学校として開校した。その後、昭和9年に機械科と電気科を増設して桐生高等工業学校と改称し、戦後、群馬大学工学部となった。

 構内を入って2、30メートルの所に群馬大学工学部同窓記念会館があるが、その前に守衛所を見ておこう。こじんまりとした木造平屋建てだが、侮ってはいけない。この建物も、大正5年に作られた旧桐生高等染織学校の門衛所で、構造は本館と同じ。小さいだけに、メルヘンタッチで学生や市民にもなかなかの人気なのだ。

本館と講堂は、木造総2階建て、下見板張りペンキ塗で木骨を外に出している。中には当時の椅子や机も残り、大正時代の雰囲気を残している。

天井は壁から出た梁の上にさらに梁が乗るハンマービームと呼ばれる左右対称の構造で教会のような雰囲気をかもし出している。

建物は保存もよく、映画などのロケにも使われている。最近では「花子とアン」でも、花子が入学した学校のシーンなどに使われていて、その重厚な雰囲気は、明治時代にタイムスリップさせてくれる。

講堂の正門は、煉瓦造りの門柱上部四面にゴシック風の柱頭飾りがあり、歴史を感じさせる。

日本の特徴は、産業が発達すると学校を作る点にある。ねらいは研究開発と後進の育成だ。産業人が、好況を享受するだけでなく、次の世代の育成を心掛ける。教育をいかに重視しているかは、重厚な学校の作りを見ても分かる。守るべき伝統のひとつだ。

講堂の内部。落ち着いた雰囲気で、使われていた時代がしのばれる。

門衛所。小さいけれどいい雰囲気を出している。
   


■旧金谷レース工業(現・ベーカリー&カフェ「レンガ」)
天満宮の交差点を東の桐生川の方に行くと見えるのが煉瓦づくりのノコギリ屋根工場。金谷芳次郎が金芳織物工場として1919年(大正8年)に始めた工場だ。

かつて市内にたくさんあった煉瓦造り+ノコギリ屋根工場も多くが解体され、いまではここ1軒になってしまった。工場は木造平屋建・鉄板葺・外壁は煉瓦積。

当初は、5連の工場だったが、2008(平成20年)に北側の1連を撤去し、残りの4連をベーカリー&カフェ「レンガ」として再生した。

通りに面して低くテラスが作られている。工場の外壁は、煉瓦の長手と小口を1段ごとに積んだイギリス積みで、煉瓦は東京駅に使われているのと同じ、埼玉県深谷市の日本煉瓦製造株式会社製。

事務所棟は昭和初期に増築された。こちらの外壁はスクラッチタイル貼りである。鋸屋根工場と事務所がそれぞれ国の登録有形文化財に登録されている。

煉瓦造りとノコギリ屋根を中から眺められる数少ない場所だ。拝見しながらコーヒーで一休みするのも良い。セルフサービスなので使いやすく、広いカフェは落ち着く。営業時間は、平日8:00−18:00、土日祭7:00−18:00 年中無休。駐車場有。
  

レンガ壁のベーカリー&カフェ。違和感なく景観にも溶け込んでいる。表に面して低いウォークイン・テラスが設けられていて、これがレンガ壁の雰囲気を盛り上げている。

4連のノコギリ屋根が見える。

事務所棟の内部。嵌められているガラスも細工が細かい。

ノコギリ屋根の構造が分かる。ノコギリ屋根は、英語で別名、north lightshed(北明かり屋根)。北向きの部分が天窓になっていて、終日、均一な明かりを取り込める。

店内の内装も、煉瓦がうまく生かされている。
   


■有鄰館
天満宮の交差点に戻って、本町通りを下って行くと、左に煉瓦の建物と、土蔵、古い商店が見えてくる。
かつての豪商、矢野家の建物で、表に古い酒屋の構えがあり、裏に味噌などを醸造してきた土蔵、煉瓦蔵、塩蔵など8つの蔵がある。

表にある店舗はいまでも酒や乾物を扱い営業中だ。蔵やお店は公開されている。店舗内の一部は、喫茶コーナーにもなっているので、お店の様子を眺め、話を聞きながらの一休みもおすすめ。
近江商人だった初代が1749(寛延2)年にここに店舗を構えて以来の建物群で、煉瓦造りや木造、土蔵など1890(明治23)年以前に建てられたものもある。

店の内部は思ったより天井が高くて広い。明治時代の看板や商品のエンブレムなどがあり、東京・馬喰町、竹内製造「改造第四号」と書かれた珍しい金庫も置かれている。

見学者を受け入れてくれているが、営業中なので、邪魔にならないように拝見させていただこう。
  

本町通りに面した矢野本店の店舗と土蔵、煉瓦のビール蔵。店舗では営業している。

レンガ倉庫のビール蔵。コンサートなどにも使われている。

竹内製造の金庫。明治28年製。

ダイヤルは色は数字ではなく、イロハニホヘト・・・である。

もとは表の看板に付けられていたキリンビールのエンブレム。取り外して新しいものをつけた。

矢野義商店謹製の最上醤油「有隣」。かつてここで醸造し販売していたものであろう。
   


■(資)後藤織物
戦後、切妻造の工場に、新たに木造4連のノコギリ屋根工場を増築した。

他にも、明治前期、大正14年、昭和の戦前、戦後に建てられた多くの建物が現在も使われている。天井が高く、北向き屋根にある天窓から柔らかい光が差し込み、染色にはうってつけ。
撚糸・製織も手掛けて、桐生における機業の戦後復興を物語る貴重な施設の一つである。

創業は1870 (明治3) 年、紋織物の老舗で、いち早く洋式染色技術の導入をはかった。いまでも「七五三帯」を中心に丸帯や袋帯を生産している。

別に、大正14年に住居から事務所兼作業場へ転換するために増築された主屋もあり、奥座敷は接客用に使われた。

ほかに、木造二階建の東蔵と西倉、木造平屋建の旧釜場などもそのまま残されている。
平屋建ての倉庫は絹糸の保管庫、物置の南半分は食料庫、北半分は薪炭置き場として利用されてきた。

表門とその両側の板塀が独特の景観を生んでいる。建造物は、桐生織物の歩みを示す、歴史的にも貴重な建造物群である。
  

レンガ倉庫のビール蔵。コンサートなどにも使われている。

本町通りに面した矢野本店の店舗と土蔵、煉瓦のビール蔵。店舗では営業している。
   


■森秀織物(織物参考館“紫”(ゆかり))
本町通りを下って4丁目交差点を東に曲がり、中通りを過ぎると、右手に森秀織物株式会社が運営する「織物参考館”紫”」がある。

同社の敷地内の一部を利用して、1981年に織物の歴史を学ぶ施設としてつくったもので、明治から昭和にかけて使用された織機や道具等の貴重な資料約1,200点が展示されている。

特に明治15年頃に米国輸出用の羽二重を織った巨大な高機(幅3.3m奥行き6m)などが、展示されており、織物の歴史を知る上で貴重である。

製糸から製布までの工程が一貫して展示されているほかに、機織、染色、手染めなどの体験もできるようになっているので、ぜひ織機も体験してみることをお勧めする。取材時にはちょうど、近くの高校生たちが取材に来て、織機を体験していた。

 展示館の他にも、敷地内にいくつかの工場があるが、それらもぜひ見ておきたい。ただ、ここは現役の稼働中なので、手を出すことは厳禁。

木造鉄板葺きの3連のノコギリ屋根工場では、高級織物であるお召しの技術を活かして、文楽人形の衣装や歌舞伎の装束などを手掛けており、ジャガード織機での織物カレンダー作りなどもみられる。

建物は、ほとんどが大正末期に建てられた貴重なもので、工場、旧撚糸場、旧土蔵、旧整経場、旧現場事務所(経糸整経場)が国の登録文化財に指定されている。
  

織物参考館「紫」の受付。この建物も文化財に登録されている。

ノコギリ屋根の工場が連なる。

天井に動力を伝えるシャフトが走り、時代ごとの織り機が展示されている。ノコギリ屋根の大きな天窓から十分な光が差し込んでいる。

稼働中の工場では、コンピュータ化されたジャガード織り機を利用してカレンダー作りが行われている。
   


■旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟(現:桐生市近代化遺産絹撚記念館)
明治35年(1902年)、農商務省は殖産興業施策により全国6カ所に模範工場を造ることになった。
桐生に造られたのが旧模範工場・桐生撚糸合資会社である。

撚糸とは、繭から糸を紡いだ後、繊維づくりに必要な太さの糸をつくる(撚る)工程をいう。
完成したのは14,315坪の広さにフランス式の撚糸機を備えた、ノコギリ屋根の大工場だった。

この会社は、明治41年(1911年)に模範工場桐生撚糸株式会社と改組し、大正7年(1918年)に日本絹撚株式会社となる。昭和19年(1944)に軍需工場となったが、戦後は再建されることはなく、そのまま廃止された。

いまでは、明治末から大正初期に建築された事務所棟(木骨大谷石造りの洋風2階建て約113坪)だけが残っている。
屋根は鉄板葺だが建築当初はスレート瓦であった。「桐生市近代化遺産絹撚記念館」として一般公開されている。公開は9:00-17:00。

絹撚記念館:当時は広大なスペースを持った日本絹撚株式会社。桐生市教育委員会 桐生市巴町2-1832-13 0277-44-2399

事務所棟。群馬県最古の石造り建造物と言われている。

石造り木骨の洋風2階建てで、外壁はセメント漆喰。4面に柱が出るような形で、上部に装飾が施されているのが特徴。
  

旧日本絹撚株式会社(同館資料より)。
   


■彦部家住宅――中世の武家屋敷

市内から足利に向かう国道50号線の広沢町交番の角を入った奥にある中世の武家屋敷がそのままのかたちで残る彦部家住宅。
同家の祖は、第40代天武天皇(671-688年)の長男で壬申の乱の英雄、高市親王。現当主は49代目に当たる。1560 (永禄3) 年に、関東に下向した関白近衛前嗣親子に従って桐生入りし、当地で17代目を数える。

彦部家屋敷は、山麓に位置して土塁に囲まれた典型的な中世の武家屋敷の形態をしている。
広さ20,600平方メートルの敷地に、主屋、冬休み(隠居屋)、長屋門、文庫蔵、穀蔵などを配置し、西南には池泉回遊式の室町風庭園がある。主屋は17世紀前半に作られた入母屋造り茅葺きで、邸内施設はイベントなどにも貸し出しされている。

同家は、江戸時代の後期から織物業を営み、近年まで事業を続けて来たために、建物や古文書が数多く残されている。
なかでも、将軍足利義輝の侍女・小侍從から受けた絹織物の注文書「仁田山紬注文書」(1548 (天文17) 年6月)などは、すでに当時、桐生産の絹織物が京でも珍重されていたことを示す資料として貴重である。

46代当主が「彦部織物」として織物業を復活し、大正時代には、事務所の他に5連のノコギリ屋根工場を建設。
人絹交織の「文化帯地」を手掛けた。戦時中に工場は解体され、戦後に新工場を復活するが、1984年に操業を停止。

邸内には1913年の従業員宿舎が残る。1995-2000年に環境保全工事で整備されて現在の姿になる。群馬県指定史跡で、国指定重要文化財になっている。開館日:土日祝、10:00-16:00。


■旧飯塚織物工場(現:MAEHARA20th/桐生自動車博物館)

大谷石を12段積んだ重厚な作り、8連のノコギリ屋根工場は、桐生市内でも現存する同種工場でも他の類を見ない大きさである。

旧飯塚織物工場は現在、MAEHARA20thとしてクラシックカーの展示場(桐生自動車博物館)として使われていて、彦部家住宅の近くにある。

建物は1933(昭和7)年に合名会社飯塚織物工場として建設されたもので、同工場は桐生における個人経営の工場で先進的な機械設備を導入して輸出向けの高級織物を手掛けたとされている。

外壁は大谷石を12段積み上げた重厚な作りで、木骨石造平屋建て。木骨で支えた北向きのノコギリ屋根はで8連でスレート瓦葺。初期洋風建築の様式を良く伝える。

外観は北側の基礎が低くなっていることを利用して、北東側からの視野を意識するように遠近法で奥行きが強調され、北側の両端の柱も半円形に造りだされて石造の重厚さを一層感じるようになっている。デザインの一環としてのこの工夫も洗練されている。

桐生市の織物産業の隆盛を物語る建造物であり、2005年以来、クラシックカーの私設博物館として活用されている。公開日が少ないので内部を見るには確認が必要。ただ、外面だけでも一見の価値がある。
  

前の写真とこちらから見る写真の印象が大きく違う。これ土地が低い北側の土台を高くしていることで、北側から見たときに遠近法で遠くが小さく見える=奥行きがあるように見えるためだ。

重厚な雰囲気と、窓上部のアーチ等、外装は当時の洋風建築へ思いが伝わってくる。
   

■桐生織物観光センター「夢おりもの」
桐生に行くならば、ぜひ桐生の製品を買いたい……という方には、国道50号沿いで、桐生と足利の間にある、桐生織物観光センターが便利だ。

彦部家住宅、旧飯塚織物工場からも近い。桐生の生産者がたくさん出品しており、広いスペースに洋服から和服までさまざまなものが置かれているので便利だ。

織り機に興味がある方は、奥の工房に、ジャガード織り機も置かれていて、パンチカードで模様が織られていく様子を直接見ることが出来る。

 ・2088 桐生と足利の間、広い駐車場がある。  ・2112 店内にも桐生で作られた製品がたくさん並べられている。  ・2089 ジャガード織り機。パンチカードで複雑な模様が織られていく様子が見られる。  ・2099、2100 きれいな帯の織物の表と裏。
  

桐生と足利の間、広い駐車場がある。

店内にも桐生で作られた製品がたくさん並べられている。

ジャガード織り機。パンチカードで複雑な模様が織られていく様子が見られる。

きれいな帯の織物の表と裏。
   







第6章
足利の赤レンガ・石造り織物工場――絹から木綿、羊毛産業へ



足利は歴史と織物で知られた街である。隣接する桐生の影響を受けて機織技術を早くから導入し、織物産業を育ててきた。足利の特徴は、桐生との差別化をめざして絹から木綿、その交織へと広げ、普段着用織物の量産を目指したことにある。
必然的に工業化をすすめることになり、ジャガード織り機などもいち早く導入、大正時代には大型工場がいくつも作られ、屈指の織物産地に成長した。
数は少なくなってしまったが、大谷石や煉瓦を積んだノコギリ屋根の工場なども、独特の景観を生み出している。


■桐生から最新技術を導入
足利の織物の歴史は古い。東大寺の大仏開眼(752年)に際して献上されたという記録があり、徒然草第216段にも足利の織物が登場する。
当時すでに足利の織物がそれなりの評価を得ていたことがうかがえる。

足利の織物のルーツをたどれば、隣の桐生に源を発する。
京都から東山道を通って桐生に伝えられた織物技術は、郊外へ広がるなかで足利に伝えられた。足利は栃木県でありながら、群馬県の桐生や太田などの自治体と関係が深いのは、そのためである。

足利の織物産業の一つの特徴は量産に強いこと。江戸時代の中頃に、西陣から桐生に高機が伝えられた。

座織りに比べて生産性の高いこの技術を、桐生は足利に伝えることをためらったが、隠すことは不可能。やがて足利にも知られるようになり、高機は瞬く間に足利に広がり、足利の生産量は一気に増えた。


■高級品からボリュームゾーンへの転換を目指し工業化
織りの技術を桐生から導入しながら、足利は、絹一辺倒で高級品を目指していた桐生と差別化を図り、より需要の多い、いわば大衆向けのボリュームゾーンを指向した。

そこには、技術や質の面で桐生との競合を避けたい、増えた生産量を支えるために、需要を大きく掘り起こしたいという、産地の生き残りをかけた課題もあったと思われる。

こうした足利の<高級品から量産品へ>の転換は、明治以降の近代化=工業化という時代背景を受けて、足利を有数の機織産地として成長させることにつながった。

明治時代になると、明治10年にいち早くジャガード織機を導入したり、さらに撚糸機の自動化に取り組んで、明治11年には初めて民間の機械系撚糸工場を立ち上げるなど、その本領を発揮し、工業化への道に先鞭をつけてきた。


■時代とともに変わる足利の生産品
量産化とともに足利のもう一つの特徴が、扱う素材の多様性である。
足利の機織業者が扱う素材は、時代によって大きく変化する。

江戸時代には絹織物を扱ってきたが、明治から大正時代にはそれに綿が加わって、絹と綿・交織織物へと変わり、手作業から機械化へ。

昭和になると絹の国内向け<足利銘仙>、輸出向けの人絹・絹シャツ地へ、そして戦後は、トリコット、合成繊維へと変化する。

こうした変遷は、大きな影響を及ぼす。素材・加工に合わせた古い設備を新しい設備に更新するために、旧来の設備が残りにくいのである。

古くから日本を代表する織物の産地でありながら、繊維関連の遺産が少ないのはそうしたことにも一因があろう。

そんな独特の歴史を持つ繊維の街・足利の産業遺産見学は、歴史に敬意を表して、足利氏の本拠だった鑁阿寺、最古の学校と言われる足利学校から始めてみよう。


■日本最古の学校・足利学校
足利学校はJR足利駅から徒歩10分弱、東武足利駅から歩いても15分の所だ。鑁阿寺は足利学校のすぐ裏にある。車の場合は、隣接する太平記館に駐車場がある。

足利学校は、日本で最も古い学校といわれ、大正10年に国の史跡に指定されている。

だれがいつ始めたかについては、奈良、平安、鎌倉時代と諸説あるようだが、以後、学問の灯を絶やさずに、1549(天文18)年には、学徒三千人といわれ、宣教師フランシスコ・ザビエルによって、『坂東の大学』と紹介されほどに隆盛を極める。

江戸時代になると、学校としてよりも貴重な古典籍を所蔵する図書館として利用されたようだ。

維新後、一部が小学校などに使われていたが、1980年に廃校になるのをきっかけに建物などの復元工事が行われ、平成2年に完成した。入徳門、学校門、杏壇門、孔子廟、方丈、書院などがあり、よく整備されている。


■足利氏の居館・鑁阿寺
すぐ裏にある鑁阿寺は、鎌倉幕府の要職にいた足利氏の根拠地となった中世の武家の館の跡である。
平安時代末期から鎌倉時代初期に足利義兼により居館として築かれたもので、本堂は室町幕府初代将軍足利尊氏の父・貞氏が正安元年(1299)に再建した。

建造物は、鎌倉時代に禅宗とともに伝わった最新の寺院建築様式が取り入れられており、傾斜がきつく反りの強い屋根、柱の間に組み物を入れて柱間が広くとられている構造上の工夫など、興味深い。鐘楼、経堂なども国の史跡に指定されている。

じっくり見たいところだが、今回の主題は産業遺跡、次に向かうのは、足利を繊維輸出の町に成長させる原動力となった木村繊維輸出工場の跡である。

足利は蕎麦の街で、おいしい手打ちそば屋さんがたくさんある。近くの織姫神社にも、そば屋さんがあるので、昼においしい手打ちそばいただくのもいい。


■旧木村輸出織物工場
足利の街は渡良瀬川が東西に貫き、流れを挟んで、北にJR両毛線、南に東武伊勢崎線が走る。
JR足利駅から東に車で10分ほど、県道67号が助戸で少し左に曲がる所を曲がらずに直進すると助戸公民館がある。

ここが木村輸出工場の跡地である。少し先を渡良瀬川の方に下りると、水運の拠点・猿田河岸(やえんだかし)があったあたりに出る。輸送を考えた工場立地としても悪くない。

木村家の織物事業は、江戸時代後期に始まった。明治時代後期から大正・昭和にかけて、輸出織物の生産を先駆けるなど、足利で先駆的な役割を果たしてきた。

明治時代末になると、国内向けの絹織物から綿織物へ、そして輸出へと転換。ボリュームゾーンをターゲットに、明治40年に渡良瀬水力電気会社の大間々発電所が完成した後は電気の供給を受けて、いち早く力織機を導入する。

現在ある工場は、1892(明治25)年に造られたものを1986(昭和61)年に復元したもので、昭和初期には、敷地、162坪、力織機64台、従業員140名という全国でも有数の規模だった。

工場は、煉瓦積みの基礎に木造平屋建寄棟桟瓦葺の土蔵造り。天井は洋風の小屋組みで、現在はさまざまなイベントに利用されている。
  

旧木村輸出織物工場の事務所棟.右の白い建物が工場。しっくいが新しく塗られてきれいになっている

木村輸出織物工場跡の標識
   


■木村輸出織物工場・事務棟跡(現:足利織物記念館)
――ハンカチの輸出で一時代を築く

事務所棟は、1911(明治44)年に造られたものを1987(昭和62)年に復元した。木骨石造2階建て、石綿スレート葺の洋風建築である。

階段と手すりなどの細部の細工に小さな意匠が施された本格的な洋風建築である。現在は足利織物記念館として中には当時の取引記録や戦時中の資料等が展示されている。

当時、同社の取引先は国内のみならず世界に広がり、ここでつくられた織物製品は、主にインドやイランなど中東方面に売られた。

支店網は輸出の本拠地だった横浜・神戸をはじめ、中国大陸の各地やアメリカなど世界に広がっていた。
絹に刺繍を入れたマフラーやハンカチなど、細かなデザインがアメリカで大人気で、それで一時代を画した。

隣に、木村家住宅があるが、塀に使われている赤煉瓦は、近くの助戸村にあった須長藤吉の工場で明治20年代に焼かれたもの。
足利の渡良瀬川北岸、助戸村の東には、当時いくつかの煉瓦工場があったようで、そうした会社は施工も行っていたようである。

ここから次に、少し戻って東武足利駅近くの旧足利模範撚糸工場を見に行こう。
  

手すりの細工

階段の細工

アメリカ向けの輸出品の見本。絹地に細かな刺繍が入れられたハンカチやマフラーが中心だった。

工場の隣にある木村家。塀の赤煉瓦は、足利の煉瓦工場で作られたものだ。
   


■旧足利模範撚糸工場跡(アンタレススポーツクラブ)
駅の方に県道67号線を戻り、通り2丁目の交差点を左折して南に行くと両毛線をくぐり、渡良瀬川を渡る。
さらに直進して、東武伊勢崎線「足利市」駅の下をくぐり、駅前の信号を西に曲がって200メートルも行くと、右に「アンタレススポーツクラブ」の看板と、石造りの建物が見える。これが、旧足利模範撚糸の工場跡だ。

1901(明治35)年、政府は外貨を獲得する絹織物の生産を奨励して、国の資金を費やし全国6か所に模範工場を開かせた。足利に誕生したのが、足利模範撚糸合資会社である。

政府から、資本金4万円の他に、アメリカ製の撚糸機械一式2万円が貸し下げられ、7,200坪の土地に大谷石造り木造トラス構造の平屋建てノコギリ屋根の208坪の工場が建てられた。

ノコギリ屋根の北側には採光窓がついていて、雨樋は控え壁や軒蛇腹をくりぬいて外部に見せないような工夫がなされている。

当初は石炭動力だったが、大間々発電所ができた明治40年からは電気に変わった。いわば、鳴り物入りでスタートした最先端の工場だった。

大正中頃に両野(りょうや)工業となり、第二次大戦中に機械など主要な設備が鉄材として供出されたため、戦後は絹織物工場として再建され、昭和51年まで操業した。

廃業後は、市や関係者の努力によって再生が図られ、現在は、建物を活かしたスポーツ施設として活用されている。
大谷石の外壁が街の景観にマッチして、落ち着いた雰囲気を出している。日本産業考古学会が指定する日本の近代産業遺産第2号である。

  

広い駐車場を持つアンタレススポーツクラブ入口。

2連のノコギリ屋根工場がいまでも使われている。雨樋が、くりぬいた柱の中に隠されているのがが分かる。

外壁には半円アーチ付の縦長窓が連なっている。

外から見えないが、ノコギリ屋根とのジョイント部には、ほぼ等間隔に独立した柱が並び、屋根の小屋組を受けている。
   


■トリコット通り
−−呼び名が模範的な工業団地の栄華を残す

来た道を戻り、国道293号線、通称トリコット通りを南に右折し、東武線「福居」駅へ。

徒歩なら東武足利市駅から電車に乗り、館林の方向に向かって2駅目「福居」をめざそう。

戦後の一時期、足利の街はトリコットの生産で活況を呈した。トリコット通りの名は、この周辺にトリコットを扱う工場が集積してトリコット工場団地を形成したことからこう呼ばれるようになった。

トリコットとは合成繊維を使った衣料製品で、なによりも扱いやすく、生産しやすいことから爆発的に市場を伸ばした。加工内容も、織物からニットのタテ編みに変えて成功し、トリコット団地は工業団地づくりの模範とも言われた。

足利の特筆すべきところは、こうした活況が、地元企業によってもたらされたという点にある。足利の変わり身の速さがうまく発揮された結果だったが、その活況もいまは、ショッピングモールに変わった。

電車で「福居」駅をめざすなら、駅に着く直前に、進行方向右側の車窓に注目しよう。赤い煉瓦の工場が見えるはずだ。

旧明治紡績工場跡(現:トチセン)である。
煉瓦に何やら黒で描かれているが、これは戦時中に、中島飛行機の工場をめがけて飛んでくる爆撃機の空襲をそらすために施された迷彩がそのまま残されているのだ。


■旧明治紡績工場跡(現:トチセン)
――市内唯一の赤煉瓦づくり大型工場

織物輸出の全盛期の大正時代に大量生産を目的に造られた大型の近代的な工場で、赤煉瓦造りの工場としては、野州山辺駅前にあった旧足利紡績工場が解体されてしまった現在、市内では唯一のものになってしまった。

いま潟gチセン(栃木整染)として知られるここは、1913(大正2)年に造られた足利織物の工場跡である。
その後、1919(大正8)年に明治紡織となり、長い間「明紡」として市民にも親しまれてきた会社である。現在も繊維関連の業務を継続する。

赤煉瓦の工場としては、サラン工場、捺染工場、汽罐室(ボイラー室)の3つの建物が残され、登録有形文化財に指定されている。
どれも平屋建てで煉瓦はイギリス積み、埼玉県深谷市上敷免の日本煉瓦製造で作られたものだ。

電車から見えた赤煉瓦の建物は、工場の東側に建つ南北に長いサラン工場で、切り妻の洋瓦葺き。窓枠は石材で作られている。
窓が上下2列あって2階建てのように見えるが、平屋建てである。
外壁に迷彩が施されたままの煉瓦造りサラン工場。屋根が少し出ているのが面白い。


■ベルトかけ旋盤が動く機械室
正門を入ると正面に6連のノコギリ屋根の工場が見える。かつては捺染工場として使われていた。
ノコギリ屋根の破風にある軒蛇腹や外壁側に突き出した付柱、さらには出入り口や窓の上の横に渡した柱などがユニークで、こうした外観や意匠は国内ではあまり例を見ない。

入り口の横に安全を祈願して小さな祠が祭られている。現在は倉庫として使われている。ノコギリ屋根の採光窓は北向きで、天井は小屋組である。

捺染工場の西側端に、機械室があり、ベルトかけの旋盤などが、稼働する状態で保存されている。スイッチを入れると機械が動く。この状態で保存されていることに感動する。

ボイラー室はこの後ろにある。切り妻のスレート葺き。内部は3室に分けられて、3基のボイラーが置かれている。これまで使われてきた横置き多管式ボイラーなど歴代のボイラーが3代にわたって残されているのだ。

中央にあるのが、中心を抜く炉に石炭をくべて燃やし、蒸気を作り出すランカシャボイラー。昭和16年に設置され、長く使われた。足利地区の紡織工場・撚糸工場でも多く使われていたという。

外壁の煉瓦のそのまま残る戦時中の迷彩、機械室のベルトかけ旋盤、また、古いボイラーが3基、これらがそのまま置かれていたりするところに、保存する工場の意図がしっかりと読み取れる。

そのまま置いておくというのではなく、「ある状態を保存する」という強い思いが感じられるのだ。
営利を求める企業でありながら、そうした努力を長い間継続されていることに、頭が下がる思いがする。
  

捺染工場は6連のノコギリ屋根。外壁に突き出た柱のデザインがユニーク。安全を祈願して小さな祠が祭られている。

かつての捺染工場はいまは、倉庫として使われている。

天井を支える様式の小屋組と採光部の天窓。

ベルト掛けで動く旋盤。今でもスイッチを入れると、ブーンと動く。動態で保存されているのはうれしい。

天井をベルトの動力を伝えるシャフトが走っているのがよく分かる。ほかにも、古い設備が残されていて、機械室の構造そのものもが貴重だ。

ランカシャボイラー。円筒形の胴内に2本の炉筒をもつもの。足利地区の紡織工場・撚糸工場などに使われていた。他にも、横置き多管式ボイラーなど2基が残されている。
   


■旧上毛モスリン事務所(館林)――羊毛工場
足利から東武伊勢崎線に乗って館林へ。
ここに、1908〜10年(明治41-43年)にかけて作られた上毛モスリンの事務所棟があるので、これもついでに見て行こう。

東武館林駅を東に出てまっすぐ進むと、市役所のある城町に出る。そのまま市役所を左に見ながら道なりにぐるっと回ると、左手に第二資料館がある。

その庭に、上毛モスリンの事務所棟が移築されている。木造2階建て入り母屋造り。1階255u、2階208u。館林城の二の丸にあったものを1980(昭和55)年に現在地に移築した。

デザインは左右対称を基調とし、窓は上下開閉式、洋風建築でありながら、基本は尺貫法の寸法で作られているという明治期の洋風建築の特徴を持つ。

モスリンとはまたの名をメリンスといい、羊毛の細い糸で平織した薄手の生地をいう。木綿糸を平織りした場合は区別して綿モスリンと呼んだりする。

薄地で柔らかく暖かいために着物や襦袢に用いられた。明治以降、絹に変わってさまざまな素材が使われるようになったが、その触感の良さと暖かさからモスリンは大人気となった。

最盛期の大正中頃には従業員2,000人の大工場として町の発展を支えたが、大正末期に倒産し、共立モスリン、日本毛織、中島飛行機などに変わり、工場の増改築が行われた。

残された写真をみると、当時の工場は、赤煉瓦の10,000uにわたるノコギリ屋根構造で、群馬県内でも有数のノコギリ屋根工場であったようだ。

上毛モスリン事務所棟。左右対称ですっきりとした品の良いデザインである。

工場は赤煉瓦造りでノコギリ屋根を持つ10,000平方メートルの大工場だった。(展示パネル写真を撮影)
   


■ノコギリ屋根いろいろ
ノコギリ屋根とは、屋根の一形式で、三角の屋根が片流れでノコギリの歯の形に似てぎざぎざになっているものを言う。
三角屋根の垂直の部分が、光を取り入れる天窓になっていて、主として紡績・撚糸・綿布・織物・染色などの工場建築に用いられる。

ルーツは、1827年に作られたイギリス最古の紡績工場、MOSCOW MILLといわれる。
同工場はいま、当時の姿で資料館・生活雑貨のショッピングセンターに改装されていて、ノコギリ屋根の天窓から差し込む自然光で、爽やかな空間が演出されているという。

日本では、1883(明治16)年の大阪紡績工場が最初とされ、その後、各地の繊維関係工場で利用されてきた。

桐生にはいまも200棟を超える工場が残されており、愛知県知多半島の東浦周辺、山梨県富士吉田市、新潟県五泉市などにも見られる。

もともと、ノコギリ屋根が利用された理由は、採光である。
イギリスの最古の紡績工場が操業したのは、エジソンが1879年に白熱電球の実験に成功する50年も前のことだから、作業をするための採光用天窓として考えられた。

桐生のノコギリ屋根は北向きが多い。染色などの微妙な色を判別するためには、終日均一な北からの光が有効で、そのために採光面を北に向けているのだそうだ。

では、どこでも窓は北向きかと言えば、中には三河木綿の工場のように、南向きで陽光を取り込んでいる工場もある。仕上がり面の色は問題にならないのだろう。

ひと口にノコギリ屋根と言っても、壁:木造、石造、煉瓦、鉄骨、素材:瓦、スレート、鉄葺き、さらには屋根の傾き、方向とさまざま。地域による変化もあり、旅する先でそうしたものを確認するのも楽しい。

写真は桐生市内で見つけたノコギリ屋根のいくつか。あなたはどれだけバリエーションを見つけられますか?

ちなみに、このノコギリ屋根、英語では、saw-tooth roof とまんまですが、これは建築学会が建築語彙編纂委員会で検討を重ね、「建築雑誌」1911年8月号で発表したもの。

ノコギリ屋根の工場はnorth-light shed、つまり北明かり工場ともいう。形で呼ぶか、用途で呼ぶか、それによって変える、合理的ですねえ。

  
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