ものづくり日本の心

<ものづくり 日本の心>




わたしたちはなぜ、こんなにコンパクトで、小ぎれいな
ものづくりをするようになったのでしょうか?
もったいない、おもてなし、控え目・・・そんなことばも
わたしたちに特有の性癖のように思われています。
世界から見ても、そんな独特な感性を持ったものづくりを
わたしたちは行っているように思えます。

わたしたちは、なぜ、いつからこんなものづくりをするようになったのでしょうか?
歴史的な経緯を含めて、わたしたちのこうしたものづくりの秘密を
探ってみたいと思います。



序 章 日本のものづくりは世界の財産である
(1)日本のものづくりは世界の財産である
富岡製糸場、八幡製鉄所、軍艦島・・・明治の産業遺産がユネスコの世界文化遺産に登録されて話題になっています。

明治維新以来、わたしたちは西洋の科学技術に学び、取り入れてものづくりを構築してきました。そうして生み出した私たちのものづくりは、加工の微細度がナノ(100万分の1ミリ)レベル、不良率は100万個に何個かという、究極の精度を実現しています。こと品質・精度に関して言えば、世界の市場ではほぼ他国の追随を許さない「勝負あった」状態にあります。

こうした高い精度のものづくりを実現してきた背景には、日本人の自然に対する思いや美意識、労働観、作ることへの強い関心など、独自の文化や価値観が私たちのベースに「通奏低音」のごとく流れていて、それが、小さな工夫と改善を続け、コンパクトで高品質、壊れないものを生み出す基盤になっているように思います。

その意味で、日本のものづくりは、日本の伝統文化に西洋の科学技術や合理性が融合されて生まれた、世界でもオンリーワンの文化といえるでしょう。
いま、情報技術の急速な発達を受けて、技術の高度化が加速度的に進み、最先端の製品を生み出すために、これまでなかった一ランクも二ランクも上の高い精度や安定性が求められています。そして、世界中の最先端のものづくりの現場で、私たちが構築してきた高度な技が使われています。

小型化・高機能化する携帯端末、IT製品、高い精度と緻密な加工技術が求められる宇宙・航空機、半導体など、日本の緻密な技術から生み出されたノウハウや高精度な機械・電子部品がなければ、新しい製品は成り立たなくなっています。日本が構築してきた高度なものづくりの力がなければ、高度な製品も生み出せなくなっているのです。
人は、自然界にある「もの」と、人が手を加えることで生み出した「もの」を利用することで、空間的、時間的、さらには精神的な広がりを持った活動を可能にしてきました。言い換えれば、「ものをつくる」という行為は、人間の尊厳と文明を支える基本的な要素なのです。人がホモ・ファーベル=ものつくる人といわれるゆえんです。

これまで産業技術の開発を進めてきた先進国の多くの人たちが興味を持たなくなってしまった“ものをつくる”という原初的な行為に、日本人はいまでも強い関心を持っています。そうしたものづくりの精神と技術は、未来に向けた貴重な「人類の資産」であり、「世界の財産」でもあります。
この先、まだまだ、作り出すものについて改革・改善・改良の努力が不可欠です。そのノウハウをさらに展開し、必要としている世界に広め、次の世代につないでゆくことは、私たちの役目といってもいいでしょう。


(2)日本人の底に流れるものづくりの通奏低音
19世紀中頃から第二次大戦後しばらくの間まで、圧倒的な力で豊富な物量を生み出し続けていたアメリカでは、ものづくりの多くは国外に移動し、製造業はGDPのわずか13パーセントを占めるにすぎなくなっています。アメリカ国内の産業としては、製造業は主役の座から去り、老兵は消えゆく運命にあるかのようです。

アメリカ経済のけん引役であるアップルは生産を自社で行っていませんし、アメリカものづくりの代名詞だった自動車産業さえ、国の支援なしでは一人歩きがおぼつかなくなっています。

こうした製造業の後退について、ラストベルトの人たちが工場を再開せよ、仕事を返せと主張しているだけで、多くのアメリカ人はあまりこだわりを持っていないようですが、日本人はいまでも「ものづくりを放棄して日本経済の発展はない」と異口同音に言います。
アメリカ人が興味を失った「ものをつくる」ということに、わたしたちはなぜこれほどこだわりを持っているのでしょうか。こんな国民は、歴史上、世界にも例はないのではないかと思います。
近年、日本でもサービス産業化が進み、製造業のGDPに占める比率はわずか22パーセントにすぎなくなっています。それでも多くの日本人は、やはり製造業が元気でなくては日本はダメといいます。なぜ、私たちはこれほどまでに、ものをつくる製造業にこだわるのでしょうか?

日本人のこうしたこだわりをみていると、ものをつくるという行為そのものに、日本人をひきつけてやまない何かがあるように思えてなりません。

江戸時代中期(1754年)に発行されて人気になり、何度か版を重ねて、パクリ本まで発行された書籍に「日本山海名物図会」というのがあります。
絵入りで諸国の山海名物を紹介するいわばカタログ本のはしりのような書籍ですが、紹介されているのは、諸国の山海名物といっても、名物そのものではなく、その名物を採集・加工する現場の様子であり、いまふうに言えば「現場拝見」といったメイキング本なのです。

山陰地方では、たたら製鉄が知られていましたが、イラスト入りで紹介されているのは、鉄鉱石や鉄がとられる自然環境や鉄製品そのものではなく、原料である砂鉄を集める様子やそれを溶かす炉と、ふんどし一つの裸姿でふいごを踏んで炉に風を送っている作業者たちの現場の姿なのです。

知らない土地の、知らない名産品がどのようなものなのか、どんな形・姿をしていて、どんな味がするのか、調理法は?と関心をもつのは分かります。でもこの本はそうではないのです。名産品そのものへの関心以上に、名産品を加工するプロセスに焦点があてられて紹介されているのです。読むのは、いったいどのような人たちなのでしょうか。
しかも、この本は、1754年に発行された後、43年後の1797年にも版が重ねられているだけでなく、類似の書名のパクリ本まで発行されているのです。

わたしたちは、ものをつくるという行為に、なぜ、こんなに関心をもつのでしょうか。業(ごう)と言ってもいいようなこうしたこだわりは、世界でも突出しています。

わたしたちがそうしたこだわりを持っていることを、普段はまったく意識していません。
しかし、もしかすると、ものをつくるプロセスへの強いこだわりは、あたかも遺伝子に組み込まれたDNAのように、通奏低音となって、私たちのなかを流れているのではないか。それが結果として、私たちにものづくりへのこだわりをもたせ、高品質なものを生み出させているのではないか、そう考える以外に、説明がつかないのです。


(3)ラーメン店主にみるものづくりの魂
日本人のものをつくるという行為へのこだわりは「業」だと書くと、それにしては最近の若者は、ものづくりにまるで関心を持たないではないか、と反論をいただきます。

たしかに、かつての高度成長時代のような、旋盤一台を持って軒下を借りて独立する、といった光景は姿を消しました。時代が変われば技術が変わり、それに合わせてものづくりも変化します。現在の経済環境ではそれは成り立ちません。

しかし、業である以上、どんなに時代が変わっても、やはり日本人のものづくりに対する関心は、不滅だと言っておきたいと思います。

たとえば、皆さんは、最近のラーメンブームをどのようにご覧になっているでしょうか。
 毎日のように新しいお店が誕生し、評判になれば開店前から長蛇の列ができます。マスコミでは、そうしたお店がいち早く名店として紹介されます。雑誌でもおいしいラーメン店を紹介する特集が花盛りです。しかも毎号新しいお店が何軒か登場しています。それだけ新陳代謝が行われているということです。

こうしたラーメンブームを支えているのは、もちろんラーメンを好んで食べる消費者ですが、それをけん引しているのは、独自のスープやラーメンをひっさげて、次々とラーメン業界に名乗りを上げてくる若者たちです。ブームは海外にも飛び火し、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ベルリン、ローマと小麦文化の世界に浸透して、いまやラーメンが食べられない都市はありません。しかも、各地で熱狂的なラーメンファンを生んでいます。

客としておいしいラーメンを味わうだけではもの足りずに、さらに上をめざして自ら作り出そうとする、やむにやまれぬ思いこそ、私たちの中に流れるものづくりの通奏低音、DNAの発露なのではないか、そう思わざるをえません。

私には、独自のスープを生み出そうと工夫を重ねている若きラーメン職人の姿が、かつて競うように旋盤にしがみついて切磋琢磨し、技を磨いた職人たちの姿に重なるのです。
レシピを考え、食材を探し、試作しては捨て、試作しては捨て、試行錯誤を繰り返して新しいスープを作り出そうと日夜励む、バンダナを頭に巻いた若き店主予備軍たち・・・。
私には、彼らの魂の奥底で、ロックのリズムで鳴り響くものづくりの通奏低音が聴こえるような気がするのです。

ラーメンは、小麦でつくった麺をゆでてスープをかける、スナックと言っていいようなシンプルな食べ物です。素材も、調理も単純だからこそ、麺やスープの違いは品質に大きな影響を及ぼし、そこに工夫と差別化の余地が生まれます。

これほど単純な食べ物であるにかかわらず、スープの出汁、素材、さらには麺の微妙な固さにこだわり、次々と新しい味、食べ方を求め、これに応えて作品を生み出していく日本人は、いったいどのような人間なのでしょうか。

元をたどればたどり着くであろう中国では、ラーメンは特別視されていません。というよりも、日本のラーメンは、中国の麺とは別に進化を遂げた日本独自の亜種と考えた方がいいと思います。

中国では昔も今も麺は単純な食べ物で、スープと麺だけの食べ物に、こだわりを持って工夫する店主もあまりいないようです。地方に行くと、麺が澄んだだし汁に入った状態で供され、テーブルにある醤油など調味料を使って自分でかってに味付けして食べてね……などというお店もまだあります。

日本流の出汁やトッピングに工夫を凝らして、自立した一食としての価値を持たせたラーメンが、高い評価を獲得しているのも納得します。麺のおいしさを「食の大国」を自認する中国人やフランス人、イタリア人に再評価させた功績は、日本人のものづくりの魂のなせる業と思います。

ラーメンの手軽さは、アメリカで言えば、ハンバーガーやホットドッグのような位置にあると思いますが、アメリカで若者が独自のハンバーガーやホットドッグを工夫して名乗りを上げる、ということはあまり聞きません。

最近はパンケーキのお店が日本に出店して話題になっていますが、それもどちらかと言えばトッピングの豪華さ、目新しさが売りで、パンケーキそのものの味の違いを競って、若者が起業するというものではないように思います。ラーメンの基本はスープと麺であり、トッピングの奇抜さで売るのは、ものづくりの本筋を外れた邪道にすぎません。

ラーメンを求める客に思いを寄せて、味の違いにこだわり、究極のスープ、麺、その仕上げとしてのラーメンを追求してやまない作り手の姿勢に、日本人が持っている「ものをつくりたい」というDNAが見えるのです。


(4)日本のものづくりの潜在力
これほどまでに、自ら作ることにこだわる民族を、私は寡聞にして知りません。
私たちは、小さい時から日本は加工貿易の国だと教えられてきました。国内に資源がないから、原材料を輸入して、それを巧みな技で加工し、付加価値の高いものにして輸出する、それが資源のない日本の生きる道だ。子供のころからそう教えられ、日本の産業界は、その教えの通りに事業を営んできました。

そうした教えは、しばらく前まで問題なく機能してきましたが、ここにきて、すこしあやしくなってきました。家電製品に代表されるように、新興国が安価な労働力をバネに台頭してきた結果、日本が手の内にあると思っていた市場がつぎつぎと奪われ、国内では製造業が立ちいかなくなってきたのです。

はたして、日本の産業界はグローバルな市場で生き残っていかれるのか、日本のものづくりは大丈夫なのか、危惧する議論が絶えません。

日本には高度なものづくりの技術があり、まだまだ大きな可能性を持っているという楽観論から、いや、日本の技術はガラパゴス化して行き詰っているので脱ものづくりを図らなければ将来はないという悲観論まで、さまざまな意見が言われています。はたたしてどうなのでしょうか。

ものづくりというのは、長い蓄積の結果行われるものです。イギリスの紡績・繊維、ドイツの機械、スイスの精密工業などの例を見ればそのことはよく分かります。その国の自然や歴史、伝統、文化、地政学、あるいは気候や国民の気質などによって、それぞれの国に独自のものづくりが行われ、その蓄積が花を咲かせて、世界市場でのシェアにつながってきます。
そうした歴史を前提にしてはじめて、その国のものづくりを語ることができるのではないかと思います。

では、私たちのものづくりとはどのようなものなのでしょうか。

 ●対価のためだけでなく、消費者の喜びを糧として、使う人の立場に立った
  ものづくりを志向する性向
 ●繊細な仕上がりを求めてより高い技能をめざそうとする姿勢
 ●仕事そのものの成果に関心を持ち、さらに良くしたいと不断に改良・改善
  を重ねる継続力

などについてはよく言われますが、もう一つ、

 ●ノーベル賞の自然科学系の受賞者数で、2000年以降2014年までに、
  日本はアメリカの43名に続いて2番目に多い12名を出し、イギリス9名、
  フランス・ドイツ各5名・・・を圧倒する科学技術力と創造力
  (複数国籍保持者を除く)

ということも、私たちの特徴と言っていいと思います。
消費者、使い手を思いやる心があり、世界中から高く評価される繊細で高度な技があり、労をいとわぬ勤勉さがあり、なおかつ、科学技術の領域で世界トップをいく創造力を有している国、そんな国がものづくりで将来がないとは、思えません。


(5)日本のものづくりはどこを目指すのか
 「日本のものづくりはダメ」そんなことが大きな活字で報道されたりしています。
過去にジャパン・アズ・ナンバーワンと言われ、自他ともに世界一と言われた電気製品は、いまや世界の市場でシェアを落とし、浮上する兆しも見えません。ITの発達によって技術ノウハウがソフト化されたことで、日本が強みとしてきた摺り合わせ技術の優位性が、ボリュームゾーンの製品で失われてしまった結果です。

こうしたことから、日本におけるものづくり技術はガラパゴス化していると言われたりしています。本当に日本のものづくりはダメなのでしょうか。私たちはそうは思いません。

 ものづくりの問題よりもむしろ、高度なものづくりや創造力がありながら、それを活かせないマネジメントの問題というべきでしょう。

アメリカの産業は、ものづくりから離れた代わりに、先端の技術開発、ソフトウエア、金融工学……に特化し、リーダーシップを保とうとしています。残念ながら、日本が同じ土俵で勝負できるとは思えません。実体のない、予測や将来の変動リスクを取引のタネにするという発想は、日本人からはなかなか生まれないのではないかと思います。

となると、日本独自に、将来の方向を見つけ出す必要があります。世界市場でそれなりの位置を確保し、将来に向けて、先端を走り続けるためには、日本の産業はどこをめざすべきなのでしょうか。

同じようにものづくりでの立国を目指しているドイツでは、第四次産業革命として、インダストリー4・0(Industrie4.0)を政府主導で進めています。自在なものづくりを構築することでドイツの強さを築き上げようとするもので、その基本は、サイバー・フィジカル・プロダクション・システム、つまり、ITとものづくりを統合して、国ぐるみで自在な生産を可能にしようという壮大な試みです。目標は2025年、産業界をあげてノウハウを蓄積しようと、そのための規格・標準づくりが始められています。

日本は明治以来、西欧科学技術を取り入れてものづくりを発展させてきました。
その始まりは、わずか150年ほど前のことにすぎませんが、前提となる「もの」を「つくる」という行為・意識に関して言えば、日本人の歴史、伝統、文化を前提に独自の発展を遂げたものだということができます。

日本の文化は、西欧の人々にとって、異なる価値観を持っています。
日本が西欧との交流の窓口を開いて一五〇年、お互いを理解するまでの多くの苦難の歴史と、交流の積み重ねを経て、西欧の人々に私たちが持つ文化が、少しずつ理解され、新しい刺激として受け入れられ始めています。

この刺激は、新たな価値観となって、西欧の人々に、日本発の異質の生活と文化を提案するようになっています。そして独自の価値観から生まれた商品が世界で受け入れられ始めています。一杯のどんぶりに独自の世界観を盛り込んだラーメン、手軽に清潔を演出する洗浄トイレ、バラエティに溢れたスナック菓子・・・などなど。

今後、日本から二つの文化のはざまで、さまざまな商品を提案する可能性があります。日本発のものづくりが本領を発揮するのは、むしろ、これからなのです。

最終的な製品が高度になればなるほど、同時に、それを支えるものづくりにも高度な技術が求められるようになります。そうしたときに、求められる高い精度の緻密な技術を保証する国は、現状では日本をおいて他に考えられません。

「未来は過去の中にある」――といわれます。
未来に向けて日本のものづくりはどうあるべきか、そして私たちは何をするべきか、それを考えるよすがとして、私たちのものづくりの歴史と伝統、そして強さの源泉を、もう一度確認してみようではありませんか。


第1章 「勤勉」は近代産業とともにやってきた

■アイスブレーク「この国はどこの国?」

わたしは製造業のコンサルティングと、マネジメント・技術領域を中心とした出版編集を行う事務所を運営しています。

そのため、ものづくりに携わるビジネスマンの方々を対象にした、講演やセミナーの講師をさせていただく機会も少なくありません。テーマが「ものづくり」に関するものである場合、アイスブレークを兼ねて、最初に皆さんに問題を出して、考えていただくということをよくやります。私自身が気に入って、かなり長い間使っていた問題の一つに、以下のようなものがあります。皆さんにもお考えいただきましょう。

最初は、「この国はどこの国?」です。
セミナーや講演会では、以下の四つのテキストを一枚のパワーポイントに表示し、これを読んでいただいて、ここに書かれている「この国」はいったいどこの国を指すのか、参加者の皆さんに答えを考えていただきます。

  (1)「この国ではヨーロッパの発明は巧みに実用化される。そして、ヨーロッパの
    発明はそこで完成された後、驚嘆されるほどに国の必要に応用される。そこ
    では人々は勤勉であるが、発明者たちはほとんどいない」。

  (2)「この国の人は生まれついての職人である。機械や道具を一つも考案したこと
    のない働き手は存在しない」。

  (3)「職業が喜びを構成し、勤労が楽しみをもたらしている点で、この国の住民に
    勝る人々はおそらく世界にいない」。

  (4)「この国の職人は自分の仕事を習ったと同じようにはやらない。常に改良を施
    す。仕事を達成するためと価格を下げるための両面で、いつも何か新しい工夫
    をこらしている。

以上の4つの問いはすべて同じ国を指しています。さて、「この国」とはどこの国でしょうか?

 参加者のなかから指名をして、パワーポイントに書かれた内容を読んでいただいた後、「この国とは、どこの国でしょうか?」と質問をすると、皆さんはしばらく黙ります。
しばらくしーんとして声もないので、「いかがですか? お分かりの方は手をあげてください」と催促しても、なかなか手があがりません。

受講者は、基本的に製造業で企画・開発、生産管理、生産技術、製造などを担当する中堅から部課長・役員クラスの方々です。見ているとよく分かるのですが、手が上がらないのは、分からなくて答えられないのではありません。どう対応したらよいのか、戸惑っているのです。


■答えは、しり上がりの半疑問形?
戸惑いの原因は、「答えは日本に決まっているが、そんな簡単な問題なのか? 他に何か意図はあるのではないか?」という迷いと、「こんなやさしい問題に、自慢げに手をあげて「日本」と答えるのは、恥ずかしい」という微妙な心理が働き、お互いへの牽制もあって、手を上げられないのです。

公開のセミナーや講演会ならば参加者は同業他社の競争相手です。ここで屈託なく「日本」などと答えるのは、無知をさらすようでメンツにかかわる……というところでしょう。これは、日本人に特有の、場の空気を読む心理から来る行動ですね。

海外ならば、この国はどこですか?と聞いた瞬間に、即座に「日本」という答えが出てきます。響きが軽い。正解かどうかよりも、質問されたらとりあえず手をあげて答える、正解や深い洞察よりも自己主張することが重視される世界での風景です。

手が上がりそうもないのを見て、「言いにくいでしょうが、あえて言っていただくとどこですか?」と催促をすると、パラパラと2、3人が不安そうに手をあげてくださるので、どうぞと指名すると、「日本?」と答えてくれます。

しり上がりの半疑問形。こんな答えでいいのかな?と逆に問いかけています。
自信がなさそうです。

「はい、ありがとうございます。どう見ても日本を指しているように見えますね。当たり前すぎて答えるのが恥ずかしい、と思っていらっしゃったと思いますが、思い切って口に出してくださってありがとうございます。勇気を持ってお答えくださったのですが、残念ですが、日本ではありません。さて、では、日本でないとすると、どこの国を指しているのでしょうか? これが第二問です」と続けます。

ここから、みなさん迷い始めます。頭の中に、ドイツ? スイス? 韓国? まさか中国?というわけはないよねえ? などの吹き出しがたくさん出ているような顔つきをされています。ですが、手が上がりません。どの国も、「ヨーロッパの発明はそこで完成され」、「生まれついての職人」「機械や道具を考案」「職業が喜びを構成し」……というフレーズが引っ掛かり、日本以外に、どの国も正答と思えなくて迷っているのです。

そのうち、ぱらぱらと手が上がり、答えをいただきますが、そのたびに、「はい、ありがとうございます。そうですよね。日本でなければ他にはそのあたりが考えられますよね。残念ですが、でも違うのです」などと答えながら、「他には?」と挙手を催促します。しかし、なかなか求める正解は出てきません。

ドイツ? スイス? 中国? 韓国? イタリア? ベトナム?……と、思いつく国名があらかた出尽くしたところで質問を切り上げ、答えを明かします。


■変わる「ものづくりの国」
正解は「アメリカ」です。
この問題を私が好んで使っていたのは、どんなに答えを要求しても、アメリカという正解はほぼ出てこないという秀逸さにあります。この設問には、ストーリー展開の極意、あっと驚くどんでん返しの妙があるのです。

後から受講生に聞くと、セミナーの内容よりも、この質問の方が圧倒的に記憶に残っていて、「あのセミナーでは、あのはなし面白かったです!」と嬉しそうに語り、講師をがっかりさせてくれます。中には、「あの話、ウチでもしてください」と講演依頼を受けることもあるのですが、「その後の私のセミナー内容は、記憶にないのかい?」と、つっこみどころを間違えていることに気づいてくれないのが残念です。

その意味では、前座で出て客席を大いに盛り上がらせ、後から出てくるメインイベンターの試合をかすませてしまった若いころのマイク・タイソンのように、この質問は、知らぬ間アイスブレークからにセミナーのメインイベンターに収まってしまいました。この質問の後でするセミナーそのものは、十分に母屋の中身と重さを備えている、と私は思っているのですが、負け惜しみに過ぎないかもしれません。

この質問は、私にとっては講話のイントロ部分の、次への食欲を誘う食前酒の役割を果たしてくれる鉄板ネタになっています。

さて、答えはアメリカと伝えると、みなさん一様に、「ええ? 勤勉だとか、発明者はいないとか、ヨーロッパの発明がこの国で実用化されるとか、設備や道具を考案するとか、職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている人たちとか・・・、アメリカという答えは、おかしいんじゃない? どういうこと?」と、狐につままれたような表情になります。無理もありません、だから正解が出なかったわけですから。

質問の答えに、正解が出ないのは、言い換えれば、それほど、製造業の社員に、「ものづくり」「生まれついての職人」ということばと、現在の「アメリカ」が結びつかないということです。このところ、ラストベルトを中心に、失業対策に、海外に出た製造業をアメリカに戻したい、と表明しているトランプ大統領がセミナーに参加していたら、果たして正解を答えられただろうか。「答えはアメリカ」に彼は「それは、フェイクだ!」と叫ぶ方にノリます。


■第一回ロンドン万博でのデビュー
答えはどうしてアメリカなのでしょうか? 正解のタネを明かせば、設問の背景が、現代ではなく、1800年代中頃のアメリカを舞台にしたものだからです(『アメリカ職人の仕事史』森杲、中公新書)。
それほど国は変化しているということなのですね。
当時の状況を少し説明しましょう。

1700年代のなかごろ、イギリスでは紡績機の改良から始まった機械化が、ワットの蒸気機関の改良で、動力源を得て急速に進展します。その結果、設備の開発競争が他の産業にもおよび、機械化に拍車がかかります。鉄の需要がふえて大規模な製鉄業がはじまり、のちに、産業革命とよばれる機械化、工業化の流れがいっきにすすみます。

イギリスではじまったこの波は、フランス、ドイツを経由してヨーロッパ全体に広がり、1700年代後半から1800年代中頃にかけては、多くの産業で設備の開発競争が繰り広げられました。

日本が幕末から明治維新をむかえた時代は、欧米では産業の機械化が非常ないきおいですすみ、第二次産業がさかんになって、職業としての技術者が誕生した時代です。
そして、ヨーロッパで生まれた最近技術が、移民した人たちを通して独立したばかりの若き新興国アメリカにもたらされます。

当時のアメリカはヨーロッパからみれば開発途上の後進国です。独立の気概に燃える若い技術者たちが、ひと旗あげようと青雲の志をいだいて移民し、ゼロから立ちあげた国でした。1776年に独立をはたすと、そのままのいきおいで産業も急速に力をつけていきます。

希望に燃えて新しい大陸に移ってきた若い技術者たちは、なにもない土地で、必要なものを自分たちでつくりはじめ、次第に技術力を身につけ、新しいものをどんどん生みだしていきます。何よりも、目の上のたんこぶになりがちな先輩や上司がいないという状況が、若い人たちにとって思い切って自由に行動できる楽園となります。

ハイドパーク・クリスタルパレス
そんな1851年、ロンドンのハイドパークで第一回の万国博覧会が開催されます。そのために作られたのがガラスの御殿、クリスタル・パレスでした。参加国は、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、それにアメリカなど35か国。141日間の会期に、なんとイギリス人口の三分の一にあたる604万人が訪れるほどの人気だったそうです。

イギリスは紡績産業の本拠地として、この産業革命に先鞭をつけ、先頭を切ってすすんでいた国です。当然、見物客の人気は、主催国で世界最先端の産業国イギリスの展示物に集まると予想していました。

アメリカにも参加を打診はしましたが、大西洋のはるか向こうの国でもあり、あくまでも添え物で員数外。関心はフランス、ドイツに比べイギリスがどこまで進んでいるか、それをロンドン子たちが自分の目で確かめて優越感を持つ、というのが当初のねらいでした。


■万博の華「錠前開けコンテスト」
そんななか、アメリカ産業界から、イギリスなみの広大な展示スペースの要求が届いたことで、事務局は驚かされます。はたして会場を埋める展示品があるのか、博覧会事務局の心配のタネでしたが、いざ、幕を開けてみると、予想に反して、アメリカの人気がしだいに高くなっていったのです。

アメリカ人気の原因は、展示品の新規さにありましたが、もう一つ、同国の人気を高めたのは、同時に開催されていた錠前開けのコンテストでした。
当時、各国の技術力を目にみえるようにして競わせるイベントとして、博覧会場で錠前開けのコンテストが行われていました。コンテストはこんな仕組みで行われました。

  (1) 各国は、自前の錠前を出品する
  (2) 同時に、錠前製作の技術力をもった最高の技術者を派遣する
  (3) 各国技術者は、他の国が出品した錠前の錠前開けにチャレンジする
  (4) 各国の技術者が、コンテストに出品された錠前開けにチャレンジして、最後まで
   開けられない錠前を作った国が技術力の高い国、出品されたどんな錠前をも開けた
   技術者が、最も技術力が高いエンジニアに選ばれる

というわけです。

競技は会期を通じて行われました。
毎日のように、今日は、どの国の錠前が開けられた、どこの技術者が○○の国の錠前を開けた、というニュースが話題になって来場者の人気をあおり、会期が進むにしたがって盛り上がったそうです。

この結果、アメリカ製の錠前が最後まで開けられずに残り、また、難攻不落を誇っていたイギリス製の錠前が、最後にアメリカの技術者に開けられてしまったことで、アメリカの技術がひときわ注目されるようになったのです。

「博覧会場では、イギリスが生んだ最も評判の高いプラマー錠を、鍵なしで開けた者に200ギニーの賞金がかけられた。これを『イギリスの錠ならどんなものでも2、3分で開けてみせる』と豪語して乗り込んだアメリカ人技術者G・ホップスが、さすがに2、3分というわけにいかなかったが、7月24日から取り掛かって8月23日についに開けてしまった。この大ニュースはただちにロンドン中に広まった。一方、彼が持参したニューヨークのデイ・アンド・ニューウェル社製の錠、および、やはりニューヨークのへリソグ社が展示した耐火金庫の錠のほうにも賞金がかけられたが、これは誰にも開けられないで終わった。ホップス錠(デイ・アンド・ニューウェル社製の錠:筆者注)が人の手で開けられるのは4年以上後のことである。」(『アメリカ職人の仕事史』)


これで一気にアメリカ・パビリオンの人気が沸騰し、万国博覧会は多くの観客を集めて大成功に終わったそうです。

ヨーロッパ諸国から後進国と思われていたアメリカ産業界が、こうして第一回万国博覧会で世界に向けて華々しいデビューを飾ったのでした。


■応用に長けた生まれついての職人たち
こんな万博の状態を見て、欧米の産業人やマスコミは驚きました。
開幕前には、イギリス・パビリオンの人気が高く、自国開催もあって観客が殺到するだろう、続いてフランス、ドイツなどのパビリオンに観客が集まり、アメリカは目新しいものはあっても質的にはイギリスには及ばないと予想されていました。

ところが、開けてみれば最初こそ低調だったものの、アメリカの人気が尻上がりに高くなっていきます。出品された機械類も、新しく開発された専用機などがたくさん出品されていて、目新しさ、新規性、開発意欲という点で観客の強い関心を集めたのです。

会期が進むにしたがってアメリカ人気は急上昇します。予想していなかった事態に、ヨーロッパ各国の産業人やマスコミはあわてますが、実は、こうした状況は、一部の専門家の間では予想されたことでもあったのです。

というのは、1776年の独立いらい、アメリカは活気のある新興国としてヨーロッパでも注目の的になっていて、多くの人たちがアメリカに派遣され、そのレポートがマスコミに登場していました。

技術力についても、すでに1800年ころからヨーロッパで知られるようになり、多くの新聞や雑誌がアメリカの産業事情をレポートしていました。冒頭でご紹介した4つは、そのころにヨーロッパで発表されたアメリカレポートや書籍から抜粋したものです。

「@アメリカではヨーロッパの発明は巧みに実用化される。そして、ヨーロッパの発明はそこでは完成された後、驚嘆されるほどに国の必要に応用される。そこでは人々は勤勉であるが、科学と産業とを研究しない。そこには優秀な労働者たちはみつかるが、発明者たちはほとんどいない」(『アメリカ職人の仕事史』)
これは、1835年に出版されたフランス人貴族のトクヴィルによる『アメリカの民主政治』の一節です。技能はあるが、技術はない。課題は研究開発にある、と書かれています。まるで、日本の産業界が一時期、世界から言われたことばそのものではありませんか。

「Aアメリカ人は生まれついての職人である。マサチューセッツやコネチカットで、機械や道具を一つも考案したことのない働き手は存在しない」(同)
というのは、フランス人で経済学者ミシェル・シュヴァリエが、1834,5年に政府から鉄道敷設の任を与えられてアメリカに滞在し、各地を回った後に書いたレポートです。庶民の生活水準がフランスよりずっと高く、すべての人が活気に満ちて働いていることに強い感銘を受けたようで、彼は技能者としてのアメリカ人を高く評価しました。

「B職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている点で、この国の住民に勝る人々はおそらく世界にいない」、

「Cアメリカの職人は自分の仕事を習ったと同じようにはやらない。常に改良をほどこす。仕事を達成するためと価格をさげるための両面で、いつも何か新しい工夫をこらしている」(同)。
この2つは、オーストリアからアメリカに移住して「『アメリカ人――道徳、社会、政治における諸関係』(1837年)を表したフランシス・J・グルントの文章です。

アメリカでは、この段階ですでにコストダウンを意識して生産、開発・改良が行われていたことも書かれています。

当時のアメリカは、習い覚えた技を持った多くの移民が、各国から手ぶらでやってきて、よーいドンで、開発競争を繰り広げた国だったわけです。


■職業が喜びを構成する国民
 産業の世界の趨勢などを知った現代の人たちが、冒頭でご紹介したような言葉を聞けば、多くの人は、これは日本のことだと思うはずです。
 受講者のみなさんが、「日本」と誤った最大の要素は、

 ●「この国ではヨーロッパの発明は巧みに実用化される」
 ●「そこでは人々は勤勉であるが、発明者たちはほとんどいない」
 ●「職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている」
 ●「常に改良を施す。いつも何か新しい工夫を凝らしている」

などでしょう。

 職業が喜びを構成し、勤勉であり、常に工夫をこらし改良を続けているということばが、頭の中で、日本人の姿とシンクロしてくるのだろうと思います。それほど、現代の私たちのイメージにそのままあてはまります。しかし、その当時、一八五〇年頃の日本人の働き方が、ここに書かれたようだったかと言えば、そうではありませんでした。

たしかにいまでは、日本のものづくりを語るときに、作業を効率化し、品質を安定させるために日常的に行われる小さな工夫や改善とともに、勤勉さ、働くことへの姿勢も欠かせない要素になっています。

かつて日本のサラリーマンの労働時間は、先進国の中でも際立って長いとされていました。最近では、祭日の増加、週休二日制、産休・育児休暇等の導入などで、だいぶ改善されてきていますが、それでも、日本人に対する第一印象として、「勤勉」をあげる人はまだ多いでしょう。

日本人にさえ、「日本人とは?」と問えば、時代は変わったといいながら、ランクの上位に、勤勉ということばがあげられるはずです。

あたかもDNAにしっかりと組みこまれているこうした日本人の「勤勉さ」ですが、この「勤勉さ」は、どこからきたものなのでしょうか。

ここで、もう一つ質問です。

■きままに働く職人たち
次に紹介するいくつかのことばは、ある国に出かけた人間が、その国の作業者を見て発したことばです。このことばは誰が発したものか、また、なかでいう「作業者」とはどこの国の人を指すのかを当ててください。

  (1)「作業者は、日常の糧を得るのに必要な仕事をあまり文句も言わずに果たしてい
   る。しかし彼の努力はそこで止まる。・・・必要なものはもつが、余計なものを
   得ようとは考えない。大きい利益のために疲れ果てるまで苦労しようと思わない
   し、一つの仕事を早く終えてもう一つの仕事に取りかかろうとは決してしない。」
  (2)「作業者は、言われたことはする、でもそれ以上に仕事をしようとはしない」
  (3)「忙しそうであるが、適度に働く」

これも厳密に国名を挙げるのは難しいとして、おおよその見当は付きそうです。
受講者の中には海外工場の勤務経験者もいますので、海外工場に勤務する日本人が、発したことばではないかという想像がつきます。

「言ったのは日本人で、作業者とは、中国人?」
という答えがだされますが、それはブーです。
「じゃ、タイ人作業者ですか?」
「ベトナム人?」
「インド人?」
インドネシア、ラオス、バングラデシュ、ミャンマー・・・と出されますが、どれもこたえは「ブー」。

相手先はともかくとして、言ったのは日本人……という点で、疑問の余地がないほど一致しています。問題は、どこの国かだ、ということで迷っているようです。自明の理に思える答えが違うと言われて、皆さんは迷い始めます。

確かに、これらのことばは、海外に派遣されている日本人担当者から、現地の作業者についてよく聞かされることばです。そのニュアンスは、嘆くというよりも、「もっと仕事をすれば会社の業績もよくなり、収入も増えて、暮らしも楽になるし、仕事も覚えられて力がつくのにどうしてしないのだろう」という、自分たちの思いが伝わらないもどかしさを訴えているように受け取れます。

最近は、こうした現地の人たちの仕事ぶりを理解して、教育の仕組みをうまく作り、彼らにモチベーションを持たせて高い生産性を実現している日系の工場もいくつか出てきています。
とはいえ、働くことに金銭の対価以上の意味を見つけて、仕事に積極的に取り組む人たちは、全体から見れば、まだ一握りといっていいでしょう。

確かに、日本人が海外で嘆くことも多いことばですが、でも、引用したことばは、日本人のものではなく、言われた作業者も、それらの国の人たちではありません。いずれも、「ブー」なのです。


■海外に出て初めて知る日本人の勤勉さ
このあたりで、受講生の頭から「?」マークが吹き出しで見えるようです。多分、日系工場の現地作業者以外に思いつかないでしょう。
もう一つ、こういうのはいかがでしょうか?

「給料日は各人ごとに別の日にしなければならない。というのは、彼らは給料を受け取るとしばしばまる2、3日は姿を見せず・・・有り金を全部使い果たすまで戻ってこない」。


これもまた、特にメキシコなど中南米や南米に進出している工場の幹部から、よく聞かされた意見です。最近は改善されてきたとはいえ、しばらく前までは、給料日の翌日は欠勤率が2ケタ台になるので、それを見込んで配置計画を作っておかなければならない、というのが駐在員の集まりで定番のボヤキになっていました。

海外に出て初めて日本の作業者の質の高さに驚いた、と感想を述べる人もいました。日本人には当たり前の勤勉さが、決してグローバル標準ではないことを実感として知ったという驚きがそこにありました。
このことは、日系の工場だけでなく、韓国系の工場などでも同様の状態であったようです。

しかし、紹介したものが海外工場に勤務する日本人駐在員のことばか、と問われれば、やはり「ブー」なのです。

受講生たちが首をかしげていると、ここでふと気づいて「日本!」という、確信に満ちた声を発する受講者が出てきます。手を挙げません。顔をみると、見るからに「分かった」というドヤ顔をしています。

「なぜ日本?」
「だって、絶対にアメリカじゃない問題の正解がアメリカなら、絶対に日本じゃない問題の正解は日本しかない」
「なるほど、では、そのこころは?」
「いまじゃなくて、むかしのことじゃないの?」

やられました。ピン、ポーン、正解です。

正解が1、2、3と続いて、つぎが4でなければ、2に戻る。知識がなくても正解が出せる、出題者の意図を読んで裏をかくマークシート世代のビジネスマンです。
日本のビジネスマンもやるではありませんか。これだけの柔軟な思考ができれば、将来は楽しみです。

わたしの側から言えば、柳の下にドジョウはいても、2匹目も狙えばケガをするというよい例で、2問続けると、鉄板ネタも、穴だらけのざるになってしまうという教訓です。

たしかに、引用したことばは、日本人が発したものではなく、逆に、外国人が日本に来て、日本人の勤務ぶりに対して発したことばだからです。
しかも、歴史をさかのぼった昔の話、というのも正解です。


■非能率的習性
タネ明かしをすれば、これも時代はさかのぼり、明治維新から明治時代中頃にかけてのことです。
産業だけでなく、司法・立法・行政の各方面で急速な近代化を進める方針を打ち出した政府は、明治維新直後から、指導を仰ぐために大量のお雇い外国人を採用しました。

雇われてきた外国人たちは、日本にやってきて、各職場で指導を始めるのですが、一緒に働く日本人の仕事ぶりにあきれ、発したことばが前記のことばなのです。「勤勉」とはほど遠い姿です。

日本人の「勤勉」というイメージは、戦後の高度成長期以後、日本人ビジネスマンの勤務時間の長さ、欠勤率の低さ、休暇取得率の低さ、残業の多さ、組織を優先させて自己を犠牲にして集団や企業に奉仕する姿などからさかんに言われました。

このイメージの定着には、滅私奉公というかつての封建時代に言われた主従関係や、主君への忠に命さえ捨てて殉じる「武士道」が、会社と社員の関係に重ねあわせてみられたことも影響しているかもしれません。
しかし、お雇い外国人のことばに見るように、幕末から明治にかけての時代には、日本人は決して勤勉だったわけではなかったようです。

明治六年に来日し、海軍兵学寮の英学教師を歴任後、
東京帝国大学文科大学教師となったバジル・ホール
・チェンバレンは著書『日本事物誌』(平凡社東洋
文庫)で、日本でしばらく住んだ外国人たちの意見
を総合すればといって、

 ●貸し方の側(長所)として清潔さ、親切さ、
  洗練された芸術的趣味をあげ、
 ●借り方の側(短所)として、国家的虚栄心、
  非能率的習性、抽象概念を理解する能力の
  欠如
などをあげています。

ご紹介した、「彼らは、日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わずに果たしている。しかし彼の努力はそこで止まる・・・」、言われた以上にしようとしないという意見は、1872年法律顧問としてフランスから来日し、以後76年までの四年間、民法草案の策定や司法省法学校で法学教育に力をそそいだジョルジュ・ブスケが記した日本の作業者、職人の仕事ぶりです(『日本見聞記』みすず書房)。

海外から来日したお雇い外国人たちは日本の各地で専門家として指導に当たり、たくさんの記録を残しています。それらの中に、官庁や学校、民間企業などでの職人や作業者、官僚などの仕事ぶりを紹介したものがありますが、前掲のチェンバレンが書いたように、多く人が日本人の「怠惰な仕事ぶり」を嘆いているのです。

「忙しそうであるが、適度に働く」


と書いたのはイギリスの初代駐日公使だったラザフォード・オールコック(『大君の都』上・中・下、岩波文庫)です。同様に、

「給料日は各人ごとに別の日にしなければならない。・・・有り金を全部使い果たすまで戻ってこないからだ。」


の文章も、1860年にドイツからオイレンブルク遠征隊に参加して来日した画家のアルベルト・ベルクが書いた文章です(『オイレンブルク日本遠征記』雄松堂書店・異国叢書)。

こうした、働かない日本人労働者については、ほかにも多くの外国人が書いています。
これだけ多くの人が書いているということは、よほど怠惰さが目立ったのでしょう。


■工員の欠勤率21パーセント
幕末から明治初期の日本人の働きぶりは、怠惰で仕事をしなかっただけでなく、勤務の形態そのものに慣れていなかったという面もあったようです。

慶応元年(1865年)に建設が始められた横須賀製鉄所は、小栗上野介の発案で、フランス人技術者レオンス・ヴェルニーの指導を得てつくられた官営の造船所で、フランスにならって、一日八時間労働、日曜日休業の週休制、病欠の場合一〇〇日は有給、天引き預金・・・などが取り入れられた画期的な工場であり、後に造船大国、ものづくり大国日本をつくる出発点になる工場です。

そこで、操業後数年たった明治5年、造船所職工規則が公布されています。就業規則はそれまでなかったのですが、稼働してみて必要だということになったのでしょう。
内容をみると、第二項に、

「職工及人夫毎朝入場後直チニ工場ヲ脱出シ、午餐停業ノ頃混雑二紛レテ帰場スル者」(『横須賀海軍船廠史』横須賀海軍工廠編、原書房明治百年史叢書)


を問題とし、これに対する措置を定めています。つまり、朝、出社していったん工場に入ったあと、工場を脱出し、昼食の休み時間を見計らって戻る職人職工が、少なからず存在していたのです。

「厳密ノ尋問ヲ経テ、午後三時間改札場ノ木杭二縛置シ、其側二犯罪者ノ姓名及附属工場ノ名ヲ記シテ之ラ懲罰スベキノミナラズ、脱出中ノ時間ニ応ジテ、一日若クハ数日間ノ給料ヲ減ズベシ」(『同書)


と懲罰を課したことで、違反者は減少したようですが、それでもこれが日本人職工の当時の勤務の実態でした。

江戸時代に培われた気ままな勤労ペースが、時間で管理された勤務実態に馴染めなかったということもありますが、”男子は腕一本で生きるべし、雇われ仕事は女子供のやること”という風潮がハバをきかせている中で、時間で雇われるというのは男子たる者の仕事ではないと、勤務という形態が軽視されていたということもあると思います。

それにしても、木杭に縛るとは、凄い刑罰ですね。たしかに犯罪と言えば犯罪ですが、まだそういう時代だったということでしょう。世の中は、旧時代のまま、横須賀製鉄所だけがフランスの指導を受けて近代化された運営だったことがこれで分かります。

1859年、61年と来日し、64年にはスイス領事
として3度目の来日を果たしたリンダウは著書の中で

「仕事に対する愛情は日本人にあっては、だれにでも見られる美徳ではない。かれらのうちの多くは、いまだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほど不精者で」、「矯正不可能な怠惰」と書いています(『スイス領事の見た幕末日本』リンダウ、新人物往来社)。


多くの外国人が書いているように、過去にわたしたちが怠惰であったとすれば、いまの私たちの勤勉さは、いつ身につけたものなのでしょうか? 「勤勉こそ古くから日本人に備わったDNA」という、私たちの勤勉さに対する誇りは、もしかすると、私たちの勝手な思い込み、世界に広げた風評伝聞かもしれません。
実際はどんなだったのでしょうか。

たとえば明治時代の日本人労働者はこんな具合でした。

明治政府の農商務省の調査報告『明治政府の農商務省の調査報告』職工事情、明治36年)によると、明治30〜40年ころの職工の半数以上は、勤続3年未満の未熟練者で、年にほぼ半数が退職したといいます。
殖産興業・富国強兵を目指して国が鳴り物入りでスタートさせた日本産業のけん引役である三菱長崎造船所でも

「月当り離職率は6パーセント(1898年)、
 欠勤率は21パーセント(1908年)」


という状況でした。

欠勤率は冬の11月〜1月は低いが、暑い7、8月に高くなり、月のうちでも、賃金支払日の5日は出勤しますが、6〜9日はふところが暖かくなったことから遊興のために欠勤し、賃金をほとんど使い果たした9日以後に、ふたたび真面目に働いて、賃金計算のための帳締め日である20日は出勤率が最も高いという「気まぐれな出勤態度」(「日本人の経済観念」武田晴人、岩波現代文庫)であったそうです。


■勤勉は近代産業とともにやってきた
時代からいえば、日本は1905年に日露戦争に勝利して意気軒昂、まっしぐらに殖産興業、富国強兵で工業化・軍事力増強にまい進し、自前で軍艦の建造に力を入れていた時代です。長崎に造船所、横須賀に製鉄所(後の造船所)を開設し、呉に海軍工廠を整備し、国をあげて軍艦づくりを目指していた、まさにその時代の勤務実態がこれです。

挙国一致で増産を目指しているさなかの、その中核ともいうべき長崎造船所での職工の勤務実態が、欠勤率21パーセントです。「勤勉」とは程遠い働きぶりです。

欠勤率が高い理由として、低学歴で、腕を持った職人と違って「職工は女こどものやること」という風潮が強く、まじめにやる対象と思われていなかったと書かれています。

こうした姿勢は、大正期に入ると、徐々に改善がみられるようになるのですが、少なくとも、明治時代には、生活習慣とともに、月―土で定時に勤務する工場労働の近代的な勤務形態に、労働者の意識が追い付いていないということができます。

また、離職率も同様で、

「1898−1902年には、長崎造船所では、在籍する労働者の60〜80パーセントに当たる数の労働者が一年間に雇用され、退職していた。1901年に行われた芝浦製作所、大阪鉄工所など全国10工場の勤続年数調査でも、一年未満しか在籍していない労働者の数が60〜70パーセントであった。・・・この状態は第一次大戦期まで続き、1919年の全国調査でも同じように60〜80パーセントという高い移動率が記録されている。大工場の労働移動率が年間10パーセント程度に低下するのは1920年代の後半になってからのことである」(『日本人の経済観念』)

と言うのが日本人の勤務実態でした。
1900年ころの長崎造船所と第一ドック
前掲の総合研究開発機構(NIRA)の報告書は、「明治、大正期においては、一部の基幹労働者を除き・・・自分の勤める会社に対する帰属意識も希薄で高い離職率と低い定着率」を示し、「勤勉性が本格的に形成、発揮されるに至ったのは第二次世界大戦後の1950〜55年以降である」(『産業労働における勤勉性の研究』総合研究開発機構NIRA)としていますが、日本人が勤勉になったのは、どうやら戦後しばらくたってからのようです。

つまり、DNAのように思われていた日本人の勤勉さは、たかだかここ5、60年間に身に着けた習性にすぎないらしいということです。

「思春期は蒸気機関とともに発明された」
といったのは、イギリスの社会心理学者マスグローブです。そのひそみにならえば、「勤勉」は近代産業とともにやってきたのです。
1800年代、産業の進んだ欧米からきた外国人たちの目に、産業の発達していない日本では、勤務が怠惰に見えたのはしかたありません。


■スイスの時計職人の働き方
 明治の初めに来日したお雇い外国人のなかには、このような怠惰で気ままな働き方は必ずしも日本だけではなかったという人もいます。

スイスの遣日使節団長として1863年に来日したエメ・アンベール・ドロズは、スイスの時計生産者組合の会長を務めた人で、来日中に集めた資料を基に『幕末日本図絵上下』(雄松堂出版)を書いています。その中にこんな文章があります。

「私は幼年時代の終わりころに・・・概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きてきたのを見ている。労働それ自体が、もっと純粋で激しい情熱をかきたてる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分の作るものに情熱を傾けた。彼らにはその仕事にどれくらい日数を要したかは問題ではない。作品が、かなり満足ができる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるのである。疲れがはなはだしくなると仕事場を出て、・・・どこか楽しいところへ友人と出かけて行って、勝手気儘に休息をとるのであった」。


アンベールが近くで見てきたスイスの時計職人の姿です。日本の職人の仕事ぶりを見て、思わず故郷の先人たちを思い出したというのです。
いまでも、スイス人技能者は技能五輪で上位に名を連ねてきますが、かつては、日本人とスイス人がメダル獲得の常連で、第二次大戦後もしばらくは、熟達した技能者と言えば、第一にスイスの職人があげられたものでした。

アンベールは、スイスの職人の情熱を傾けた働き方、つまり、”質の高い、中身の濃い”働き方があり、それは日本の職人にも同じように見られたと書いています。

工場が近代化されて大量生産が求められるようになると、チームで作業が行われるようになります。その結果として始業時間や終業時間が明確に決められて一斉に時間管理が行われます。
機械化されてペースが決められ、集団で働くことが当たり前になる近代化以前の人たちは、そうした管理された労働に、慣れていなかったということでしょう。


■どこへゆく「ものづくりの国」日本
章の冒頭、セミナーのアイスブレークとして「この国はどこの国?」と問題を出すと紹介しましたが、セミナーではこの話の結論は、こんな風に結びます。

ひとつは、国が持つ技術力は、時代とともに変わっていくということです。高い技術力と旺盛な改善・改良意欲を誇ったかつてのアメリカと同様に、やがて何年か先、日本からも技術力が失われていくのではないかということを考えてほしいということです。

ものづくりでこれだけ急成長を遂げたアメリカは、1950年ころを境に、安価な労働力を求めて国内でのものづくりを放棄して、次つぎと海外に工場を展開し、隆盛を誇っていたものづくりの場は、少しずつアメリカ国内から消えていきました。

ものを作る喜びに増して、それによって利益を上げること、裕福になることを求めた結果です。そして現在では、受講者からまったくその名が出されなかったように、ものをつくるという面で、アメリカという国名が聞かれることが、ほとんどなくなってしまいました。
アメリカ文化を象徴しているアップルも、製造業と言いながら、自社では企画・設計だけを行い、ものづくりは海外のホンハイなど、EMSと呼ばれる製造専門会社に依存しています。

かつてアメリカは、
 ●1908年(明治41年)T型フォード自動車の量産を開始し
 ●1931年(昭和6年)102階の超高層エンパイアステートビルを完成し
 ●1937年(昭和12年)全長2830メートル、 塔間1280メートルもある巨大
  なゴールデンゲートブリッジを完成する

という輝かしい技術力を誇った国でした。その集大成としての圧倒的な生産力が豊富な物量を生みだし、第二次大戦を勝利に導いたといえます。

しかし、ものづくりが国内から海外に移ってしまった結果、航空機など最先端の製品さえ、メインパーツを外国に頼らないと製造できないという状況に陥っています。その結果、国内では雇用も確保できず、失業率は高止まりの状態で、オバマ大統領は、雇用を確保するために、海外に進出した工場を国内に回帰させようとしています。
いま日本の製造業で働くみなさんは「日本こそものづくりの国」と自負を持っているようです。

しかし、グローバル化の名のもとに、多くの工場が海外に移転し、国内からものづくりが消えようとしています。日本の産業界も、何年か先に、アメリカのように、海外に工場を展開してものづくりを放棄し、国内には工場さえなくなってしまうということにはならないでしょうか。

もしそうなったとき、私たちは何を頼りに雇用を維持しているのでしょうか。長期を見据えた戦略を考え、いま、わたしたちは何をするべきか、この課題をしっかりと考える必要があるように思います。

アイスブレークのまとめの二つ目は、勤勉さもまた時代とともに変化していくということです。

かつて怠惰で自由気ままな仕事ぶりで先進諸国から来日した人たちを呆れさせていた日本人が、近代産業の導入とともに徐々に働き方を変え、やがて時間に合わせて働く先進国だった欧米の人たちからもあきれられるほどの類を見ない勤勉さを発揮するようになりました。

そして、現在は、経済の成熟化とともに生まれた新しい世代が、勤勉とは一線を画す価値観で、独自の新しい働き方を始めているように思えます。

そうした日本の状況と対照的に、金銭的な豊かさを求めてアジアの各地で、産業の近代化が進められ、日本で進められてきた勤勉とはイコールではないにしても、新しい仕事熱心な働き手が誕生しています。

日本人が勤勉さを失っていく中で、そうしたアジア圏の国々の中から新しい勤勉な国民が誕生するのではないかと思います。いま、私たちがアジアの人たちの怠惰さを嘆いて口にする言葉は、まさに、明治初期に欧米人が日本人を前に嘆いたことばのように、何年か先に、彼らによって、「かつてそんなに言われていた時代があった」と振り返られるときがくるようになるかもしれません。



第2章 日の丸演説――日本のものづくりの出発点

■発端は四ハイのジョーキセン
黒船の1隻・蒸気船のサスケハナ(所蔵:船の科学館)

日本の産業の近代化は、黒船の来航がきっかけで始まりました。
後に鎖国と呼ばれることになる、江戸時代の二百数十年間、私たちは出島を通じてオランダと、さらに対馬や琉球を経由して支那や朝鮮とわずかに交易を行うだけで、実態は、ほぼ、世界史の舞台から隠れて、ひっそりと泰平の眠りを味わっていました。

その間、西欧では自然科学が学術的にも実践面でも大きく進歩を遂げていましたが、日本国内では相変わらず豊かな自然の恵みを受けて、四書五経を素読みで学ぶ世界にありました。

そんな状況の中、黒船がやってきて、門をたたきます。
ペリー率いる、四ハイの蒸気船が浦賀に姿を見せたのは、1853年6月です。ペリーは和親条約の締結と開港を幕府に迫り、1年後に回答するとの約束を引き出していったん日本を離れます。その対応は、やさしく「コン、コン」とノックしたなどというヤワなものではなく、英語で何というかわかりませんが、訳せば「いつまで寝とるんじゃ。早よ、門を開けんかい!」という脅しまがいの催促です。

当時の日本は、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「五百石積以上の軍船は建造してはならない」という「大型船建造禁止令」のもとにありました。大型の船を持つことは、兵站に大きな機動力を持ち、幕府転覆を狙う基になるとして、諸大名の反乱を恐れた幕府が大型帆船や軍船の建造を禁止していたのです。

そのため、せいぜい五百〜七百石(積載量70〜80トン)から千石ほどの大きさの、「朱印船」と呼ばれるジャンク型1本マストの「弁才船」が建造され、北前船などの内運に使われているにすぎませんでした。外国貿易が制限されていた状況では、大型の外航船の必要がなかったのです。

そんなところへ、突然、東京湾の入り口に、積載量2,450トン、乗組員300名の巨大な蒸気船の軍艦「サスケハナ」と1,692トン、乗組員260名の「ミシシッピ」が、大きな帆船プリマス(989トン、260名)、サラトガ(882トン、260名)を曳航して現れたのです。

「泰平の眠りを覚ますジョーキセン、たった四杯で夜も眠れず」と狂歌にも歌われた事件です。もちろん夜も眠れなかったのは幕府の首脳。庶民はその幕府のあわてぶりを、当時人気のあった銘茶「上喜撰」に引っかけて、4杯も飲んでは興奮して眠れないはずだ、と揶揄しています。

この狂歌は、船の数をハイ(杯)と呼ばなければ成り立ちません。日本語はすごいですね。船の数を数えるのに、隻セキ、杯ハイ、艘ソウ、艇テイ、艦カン・・・といろいろ。こんな微妙な違いを言葉にする国が、日本以外にどこにあるでしょうか?

さすがに大洋に浮かぶ島国の民族だけのことはあります。それがわからないと、この狂歌の面白さは理解できません。このジョークを庶民が楽しんだということは、つまり、船の数を「杯」と称することをみんなが理解しているという前提で成り立っています。この庶民の知的レベル、リテラシーの高さ、この時代には世界有数と言っていいでしょう。

緊急事態の出現に、国じゅうが騒ぎ出すかと思いきや、あたふたと慌てふためく幕府を横に、庶民には幕府を茶化して笑い飛ばす余裕があります。じつに頼もしい限りです。


■脅しに屈して不利な条約を締結
狂歌では四杯のジョーキセン(上喜撰)とうたわれていますが、正式には、蒸気船は2杯で、残りの二杯は蒸気船に曳航された帆船でした。それにしても秀逸な狂歌ですね。後から作られたものではないか、という説がありましたが、どうやら同時代のものだという資料が見つかったようです。

現代なら、たちまちマスコミが騒いでコピーライターとして時代の寵児になっているでしょう。これだけの歌が読み人知らずとは、評価が低い。日本人がいかに、サブカルチャーをないがしろにしてきたかを物語っています。
話がそれました。悪いクセです。本文に戻しましょう。

江戸幕府は長い間、海外との交易を厳しく制限していました。その間も出島にはオランダ船が来航していましたし、唐船も来ていました。しかし、いずれも帆船です。
お茶の輸入競争で、新収穫された新鮮なお茶の葉をいち早くアジアからヨーロッパに運ぶために高速艇のカティサークが建造されるのが1869年。これも動力のないクリッパー(高速帆船)です。

蒸気船が日本にやってくるのは初めてでした。スクリューが導入される前の外輪型です。黒塗りの船体から巨大な煙突がそびえ立ち、石炭のボイラーから煙をもうもうと吐きだす蒸気船の異様な姿に、なにごとかと物見高い野次馬が集まり、幕府はとうとうアメリカ軍艦の見物禁止の触れを出さざるをえなくなりました。

そして半年後の翌54年1月、今度は計9隻で神奈川沖にやってきて、江戸湾深くにまで侵入してきます。前回、幕府に1年後の回答を約束させながら、半年後に、しかも9隻もの艦船でやってきたのは、早く回答せよとの圧力をかけるのが狙いでした。

江戸湾深くに侵入して脅しをかけられた幕府は、3月に日米和親条約を締結し、下田・函館港を開港してこれに対応しました。そして、そのあと、1858年日米修好通商条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を結び、翌59年には、函館・横浜・新潟・神戸・長崎の五港を開港します。


ペリー一行上陸の図(横浜市立図書館蔵)。右に見えるのは楠。関東大震災で燃えた後、
根から生えたひこばえが、いま、横浜の開港資料館の中庭に、元気に根をはっている。


脅され、せかされた末の修好通商条約の締結で、したたかな相手の戦略に翻弄されて、条約の内容も、アメリカ側に領事裁判権(日本国内で、アメリカ人が起こした事件はアメリカ領事が裁判を行う権利を有する)を認め、日本に関税自主権がなかったなど、決して対等な条約ではありませんでした。

円―ドルの交換レートにしても不利な条件で妥結してしまい、明治政府はその後、1860(万延元)年の遣米使節団などでもこの条約の改正交渉に苦労することになります。

この時、幕府はいくつかの国と修好通商条約を締結しましたが、それで日本人の海外渡航が自由になったわけではありません。日本人の海外渡航禁止令は、解かれていないのです。5港を開港しての貿易、輸出入といっても、取引はもっぱら外国商人が日本の港にやってきて、5港で取引をするだけなのです。

当時、日本をめぐる情勢は決して安穏としたものではありませんでした。
1840年ころから盛んに欧米の船が日本の周辺を行き来し、国内ではこの対策が求められていました。オランダから入ってくる情報から、日本が技術的にも遅れていることに多くの藩も気づき始めます。開けた先進的な藩の首脳たちは、こうしたことに危機感を持ち、出島・長崎に人を派遣して情報を収集させます。海外の情報を集めれば集めるほど、進んだ技術や文化を学ぶ必要性を痛感します。


■サムライたちの海外留学

ペリーの来航によって、外国の先進国から学ぶ必要性を感じたいくつかの藩は幕府に留学のための渡航申請を出すのですが、はねつけられます。1854年、吉田松陰が海外への渡航を志願して黒船に潜り込みますが、幕府からも渡航禁止を伝えられていたため、黒船側が乗船を拒否し、吉田松陰が捕縛されるという事件が起こります。

国内は相変わらずそんな状態でしたが、幕府は、通商条約の批准書の交換や海外視察の機会を利用して各国に使節団を派遣し、その際に、留学生も送り出します。その最初が1860年の咸臨丸での遣米使節団です。

しかし、一般の海外渡航は禁止されたままです。この期に及んでもまだ、幕府の立場を維持しようという内向きの発想は変わりません。優れた将軍のリーダーシップによる政治ではなく、忠誠度を見せることが立場を守ることにつながる老中の合議制という悪しき習慣の中に浸かったままです。

こうしたことにいら立って、先見性のある藩主に率いられた各藩は、競うように留学生を海外に送り出すようになります。
●1863年に長州藩から
 井上馨、伊藤博文ら5名が
イギリスに留学
●1864年には
 新島襄がアメリカ留学
●1865年には薩摩藩から
 森有礼、五代友厚ら19名が
 イギリスに留学
他に佐賀藩、土佐藩も留学生を派遣します。
伊藤博文たち5人は、のちに長州ファイブと呼ばれるようになりますが、これらは長州藩や薩摩藩が派遣したもので幕府が認めたわけではありません。基本的に、海外渡航は解禁になっていませんから、国の旅券もなし。厳密に言えば国禁を犯しての密航です。武士の命と言われたチョンマゲも落として渡航ですから、サムライたちは、それこそ人生をかけた命がけの覚悟だったはずです。
<写真>長州藩からイギリスに留学した5名の藩士たち(撮影:ロンドン)。明治維新をさかのぼる
5年前の1963年のこと。武士の命と言われた髷を落とし、後戻りのできない決死の覚悟である
ことがわかる。(前列左から、井上馨・山尾庸三、後列左から、遠藤謹助・井上勝・伊藤博文)

この旅券なしでの留学を助けたのが、長崎に滞在していたジャーデン・マセソン商会のグラバーだったと言われています。それにしても、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、翌59年に5港が開港してすでに数年が経過しています。
通商を可能にしておきながら、日本人が外国に売りに行くのはご法度、もっぱら外国商人が日本にやって来て、港で取引をさせるだけ、いかに幕府の意識が遅れていたかを示すものと言えるでしょう。

そんな環境の中で、庶民の意識はどうだったかといえば、「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政6年の10月を迎えた頃である。・・・」。
これは、木曽路はすべて山の中である・・・で始まる島崎藤村「夜明け前」の第4章の書き出しです。

安政6年10月といえば、西暦に直すと1859年11月。幕府が通商条約で約束して5港を開港したのが1859年7月1日のことですから、木曽の山の中の商人でさえ、4か月後には、生糸を売りに横浜に出ようかという状況です。この、時流の流れを察知して遅れてはならじ・・・と迅速に行動する機動力、好奇心の旺盛さと庶民の物見高さに比べると、いかに幕府の対応は遅いことか。

遅ればせながら、1866年4月7日(新暦:5月21日)、多くの藩からの要望もあり、とうとう幕府は「海外行き許可の認証に関する布告」を発布します。
ここではじめて民間人の海外渡航が可能になるのですが、この時、日本国政府発行の第一号旅券を取得して海外に出たのは、幕府や雄藩の侍たちではなく、なんと手品師・曲芸団一行だったそうです。国内に来ていた興行師に誘われてアメリカ公演に出たそうです。

海外が宇宙と同じように謎の多い時代のことです。私たちの先輩は、いまの私たちが考えるよりも、ずっと好奇心旺盛で前向きな人たちだったと言えると思います。この間に、薩長などが英・米・仏・蘭などの国と薩英戦争、下関戦争・馬関戦争を経験。彼我の軍事力の格差の大きさを目の当たりにした幕府は、攘夷は不可能であることを知り、欧米から技術を学んで軍事力を強化するという方向に政策を転換します。


■攘夷から開国へ180度の転換
この後日本は、1967年の王政復古を受けて、68年に薩長土肥を中心とした新政権が誕生しますが、攘夷を掲げて奪取した新政権は、政権を取ると幕府の政策を踏襲し、富国強兵策を柱にした開国へと180度転換します。

国をリードする根本政策が、政権奪取後に大きく変わるのですが、このあたり、与党の政策に反対したマニュフェストを旗印に選挙戦に挑みながら、政権を取った後は、すっぱり主張を忘れてマニュフェストとは真逆の政策に舵を切る、と現代風に翻訳してみると、なにやらどこかで聞いたことがあるようなお話になります。それがあまり大きな問題にもならずに通ってしまうところは、日本人の国民性なのかもしれません。
とはいえ、ヘアピンカーブさながらの急転換を行ったことで、維新政府はその後の政策運営に苦慮することになります。

しかし、開国・富国強兵と決めてからの思い切った対応で、こうした苦境を見事に乗り切ります。一つは、江戸時代に培われた日本人の基本的な素養・能力が、大きな転換にあたっても十分に対応できる高いレベルで確立されていたということ、さらに、国のかじ取りを担当したのが、怖いもの知らずの30代の若い世代だった、という要素もあったはずです。

そして、維新直後の明治4年(1871年)11月12日、岩倉具視を大使として欧米に使節団がでかけます。

新しい政府が組織されて、やっと廃藩置県が行われたばかりのころです。
藩が廃止され、藩から禄をはんでいた武士たちは職を失いました。幕府の家来、幕臣も同様です。全国の侍たちが一挙に職を失うことになるわけですから、何とか生きる道を考えてあげないといけません。

新しい国のスタートにあたって、やることは山積している状態で、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚房という最高首脳がそろって国を留守にして、海外の視察に出かけました。

使節団総勢46名、これに随従が15名、官費・私費の留学生42名を加えて総勢103人の一大デレゲーションです。しかも期間は1年9か月。欧米事情を知りたいという気持ちは分かりますが、これを意思決定し、実行した当時の首脳たちのとてつもない好奇心、向学心、そしてなによりも胆力に驚きます。この視察の成果は「特命全権大使米欧回覧実記」として報告されます。写真は、桑港(サンフランシスコ)での岩倉具視ほかの首脳。右から2人目が伊藤博文。

名前は「特命全権大使」となっていますが、実は、天皇陛下からの信任状を持参していないことをアメリカから指摘されて、あわてて取りに帰国するなどの失態もあり、その後は、全権大使の公式名を外し、「使節団」と称しています。


■31歳伊藤博文の英語スピーチ
この岩倉使節団は、最初の訪問国アメリカで大歓迎を受けます。サンフランシスコに到着した2日目にグランドホテルで晩さん会が開催されるのですが、その席で伊藤博文はなんと通訳なしの英語でスピーチを行います。

1841年に長州で足軽の子として生まれた伊藤博文は秀才として名高く、青年となって吉田松陰の松下村塾で学びます。1863年に長州藩から派遣されてイギリスに留学しましたが、翌年、長州藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国を相手に下関戦争を仕掛けたことを聞いて、それを止めるために留学を1年で切り上げて帰国。また、71年には半年ほどアメリカ・ワシントンに法律を学ぶために滞在しています。

当時のアメリカは、1776年の独立から100年、進取の気象に燃えた若い国でした。広い国土の割に人口が少なく、ヨーロッパから多くの移民を受け入れていました。移民とともにヨーロッパの産業技術や知識を輸入することもねらいでした。

こうしてイギリス、フランスなどから移り住んだ若い技術者たちは、自由の地で本家をしのぐ発明・改良を進めて産業を急成長させます。ヨーロッパの諸国から見れば、アメリカは新参者。作られる商品は、粗削りで、品質的にはいまひとつの感はあったようですが、それでも、それまで見られなかった新しい工夫がそこここに加えられていて、価格もリーズナブル、ヨーロッパ諸国でそれなりの市場を獲得し始めていたところでした。

アメリカとしては、ヨーロッパに次ぐ新しい販売先としてアジアの開拓を目指している時期で、燃料や食料、水を補給するための中継基地として、また、当時盛んだった捕鯨のための補給基地として、日本は重要なポイントになると考えていたところでした。

アメリカの市民から見れば、日本は、ペリー艦隊を派遣して開国させ、世界で初めて和親条約を結んだ国として、世情的にも多くの国民が関心を持っていました。町中がウェルカムという雰囲気の中での視察団の訪米であり、伊藤博文のスピーチだったわけです。

その頃のアメリカは、スピーチが大流行していたそうです。人々はスピーチを楽しむためにパーティや晩さん会、演説会を開き、そこでお互いの弁舌を競ったそうです。そのため、スピーチを収録した講演録集なども販売されていました。

そんな背景の中で行われた伊藤博文のスピーチは、流れるような英語というわけにはいかなかったようですが、それでも終わった後、しばらく拍手が鳴りやまなかったといいます。
外国人を前に、国の将来を思う気持ちと、若さからくる気負いに溢れた、非常に気高いスピーチで、いま私たちが読んでも、強く訴えてくるものがあります。
当時の伊藤博文の年齢を見るとなんと31歳。武士が14歳で元服といっていた時代の流れの中にありますから不思議ではないかもしれませんが、わたしたちの31歳はどうだったかと思えば、内心忸怩たるものを禁じえません。

スピーチはちょっと長いのですが、非常に興味深い内容ですので、全文をご紹介しましょう(明治百年叢書「伊藤博文伝(上)」原書房、1945)を元に、旧漢字を新漢字に変えたりしています)。以下文中( )内は、筆者付記です。
写真は伊藤博文スピーチの英文。


■日本に実施せられたる幾多の改良

吾等使節として当国に到着以来、到る処にて受けし慇懃なる接待、殊に今夕の特別なる饗応に対し、深厚なる感銘の意を諸君並に諸君を通じて桑港(サンフランシスコ)市民に表す。
惟(おも)ふに今夕は、日本に実施せられたる幾多の改良に就き、精確なる概要を述ぶべき好機会なるべし。蓋(けだ)し我日本人以外には、我国内の状況に就き正確なる知識を有する者稀れなればなり。
条約国――合衆国を以てその最初とす――との親交は維持せられ、我国民の理解に依り通商関係は増進せり。
本使節は、天皇陛下の特命に依り、彼我両国民の権利及び利益を保護するに努むると同時に、将来に於て内外国民の結合を一層親密ならしめんことを期するものなり。我等は互に益々相知るに従ひ、双方の意思は愈々(いよいよ)疎通するに至るべしと確信す。


 ここまではイントロ、相手国に対する儀礼とあいさつですね。
当時のアメリカは前述したように、独立を果たして100年、南北戦争も北軍の勝利で奴隷解放が進み、また、大陸横断鉄道も完成したばかり。蒸気機関や産業革命の成果を積極的に導入し、自らも工夫改善を進めて経済発展に自負を持っている時期です。

彼等の日本への知識については、前年、伊藤博文がニューヨークに滞在していたときに、ペリーが帰国後に表した「日本遠征記」が公開されていることを確認し、米国内に「後進国=日本」のイメージが定着しているのを知っています。

そんな空気も感じたのでしょう、伊藤は「今夕は、日本に実施せられたる幾多の改良に就き、精確なる概要を述ぶべき好機会なるべし。」と述べています。
1865年には横須賀に製鉄所が建設されて戦艦づくりが始められ、使節団が出発する時には、すでに新橋―横浜間の鉄道の工事も始められていて、半年後には品川―横浜間が仮営業します。「日本遠征記」の時代から、十数年が経過した現在、日本は急速に改良を遂げ、いまや昔の日本ではないぞ、ということを伝えておきたい。今日こそ、待ちに待ったその絶好の機会!という気負いがスピーチに溢れています。

横浜−新橋鉄道の横浜駅風景(横浜蒸気機関の図:横浜市立図書館蔵)



■文明の最高点に到達せんとする
伊藤は次のように続けます。

我国民は、読むこと、聞くこと並に外国に於て視察することに依り、大抵の諸外国に現存する政体、風俗、習慣に就き一般的知識を獲得したり。今や外国の風習は日本全国を通じて諒解せらる。今日我国の政府及び人民の最も熱烈なる希望は、先進諸国の享有する文明の最高点に到達せんとするに在り。この目的に鑑み、我等は陸海軍、学術教育の諸制度を採用したるが、外国貿易の発展に伴うて知識は自由に流入せり。



日本は、アメリカとの修好通商条約を結んだあと、イギリスやロシア、オランダ、フランス、など五か国と修好通商条約を結んだことで、外国との貿易が開始され、諸外国の政治・風俗・習慣についての情報が入って来るようになりました。
そうしたことから、諸外国の事情はよく理解している。そして、各国の風習なども日本全国に知らされていると述べた後、伊藤はこの視察を通して、日本は何をしようとしているのかを、「今日我国の政府及び人民の最も熱烈なる希望は、先進諸国の享有する文明の最高点に到達せんとするに在り。」と明確に述べています。

つまり、先を進む欧米先進国に追い着き、トップに並びたい、といっているのです。当然、追い付けると思っているのでしょう。圧倒的な差を自覚している中で、この自信はどこからくるのでしょうか。

我国に於ける改良は物質的文明に於て迅速なりと雖(いえど)も、国民の精神的改良は一層遥かに大なるものあり。我国の最も賢明なる人々は、精密なる調査の結果、この見解に於て相一致す。数千年来専制政治の下に絶対服従せし間、我人民は思想の自由を知らざりき。物質的改良に伴ふて、彼等は長歳月の間彼等に許されざりし所の特権あることを諒解するようになれり。尤もこれに伴ふ内変は一時の現象に過ぎざりき。我国の諸侯は自発的にその版籍を奉還し、その任意的行為は新政府の容るる所となり、数百年来鞏固に成立せし封建制度は、一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さずして、一年以内に撤廃せられたり。かくの如き驚くべき成績は政府と人民との合同行為に依り成就せられたるが、今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつあり。中世紀に於ける孰(いず)れの国か戦争なくして封建制度を打破せしぞ。
此等の事実は、日本に於ける精神的進歩が物質的改良を凌駕するものなることを立證す。


我が国にとって、西欧の物質文明の導入は大きな成果を上げているが、我が国の国民にとっては、それよりも、精神的な改良効果の方が、はるかに大きくて重要であり、このことは多くの人間の認める所となっている、と述べ、物質的な改良とともに、長い間許されなかった精神的な自由さも得た。そして、諸大名は、自主的に版籍を奉還し、数百年続いた封建制度は、一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さずに撤廃された、と語ります。

数百年来の鞏固な封建制度が一年もかからずに撤廃され、国民と政府の協力で、平和の裡に国づくりが進んでいる。世界に、戦争無くして封建制度を打破した国は他にあるだろうか。この事実から、日本という国は、物質的な進歩をはるかに凌駕して、精神性という点では進んだ国である……と伊藤博文は誇らしげに訴えているのですね。

政権交代にあたっては、鳥羽伏見の戦い、彰義隊との上野戦争、戊申戦争、函館戦争……などがあり、多くの血が流されました。しかし、肝心の江戸城の開城、大政奉還、版籍奉還までは一滴も血を流さずに話し合いで行われました。伊藤はこのことの意味を訴えたかったのでしょう。

■未だ創造的能力を誇る能はず
先進国から多くを学び、早く追いつきたいと言いながらも、教えてください……と卑屈になるのではなく、無血革命を実現した精神性の高さはどうだ!と逆にアピールしています。なんとプライドに満ちたことばでしょうか。

このあたりは、二度にわたるイギリス、アメリカへの留学で感じた思いをぶつけたものでしょう。留学で欧米の個人主義や物質的な利益を優先する風潮を知り、その結果、逆に我が国の文化が持つ精神性の高さが世界的にも誇れるものであることを発見した、そんな伊藤博文の経験がここに出ています。彼我を冷静に比較できるところは、とても31歳のものとは思えません。

又我が女子を教育することに依り、我等は将来の時代に於て今より一層優秀なる智能の涵養を庶幾(しょき:切望する)するものなり。この目的を以て、我国の少女等は既に勉学の為め貴国に来りつつあり。

岩倉使節団とともに留学した女学生。左から、永井しげ
上田てい、吉益りょう、津田うめ、山川捨松。明治4年。
この視察団の一つの特徴は、多くの男子に交じって、5人の女子留学生がいたことです。しかも、8歳、9歳、12歳、15歳、16歳と全員が若い。なかでも津田梅子(帰国後に女子英学塾、後の津田塾大学を創設)は数えで8歳、満でいえば6歳という幼さでした。その彼女たちも先進国の英知を学ぶことで、「今より一層優秀なる智能の涵養を庶幾する」、と大きな期待を背負っていたのです。

この後、日本はいまだ創造的な能力に欠けるところはあるが、良い点は積極的に取り入れていくとし、さらに、自らが一年ほど前に滞在したニューヨークでの体験を語り、これまで諸外国から学んだ多くのことは既に実行に移されていると紹介して、今回も学んだことは国に持ち帰って導入したいと述べています。

日本は、猶ほ未だ創造的能力を誇る能はずと雖(いえど)も、経験を師範とせる文明諸国の歴史に鑑み、他の長を採り誤を避け、以て実際的良智を獲得せんと欲す。一年足らず以前に予は合衆国の財政制度を精細に調査したることありしが、その時華盛頓(ワシントン)滞在中貴国大蔵省高官より貴重なる援助を受けたり。而して予の学び得たる各種の事項は、誠実に我政府に報告せしが、その献策は大抵採用せられ、既に実行に移されたるもの少なからず。
現に予の管轄下にある工部省に於ても、進歩の大いに見るべきものあり。鉄道は帝国東西両方面に敷設せられ、電線は我領土の数百哩に亘(わた)って拡張せられ、数箇月中に殆ど一千哩に及ばんとす。燈台は今や我国の沿岸に設置せられ、我造船所も亦活動しつつあり。此等の施設は総て我文明を助成するものにして、我等は貴国及び他の諸外国に対し深く感銘する次第なり。

日本には、新しいものを生み出す力はないが、文明諸国から良いところを学び、学んだ結果は、即座に反映させていると、鉄道や電線の敷設、灯台の設置、造船所の建設など具体的な例を紹介し、こうしたことへの支援に感謝を述べています。

■日の丸…昇る朝日の尊き徽章
そしてさらに、今回も多くの情報を持ち帰り、みなさんが発展してきた成果を学び、短時日で通商を増進し、健全なる基礎をつくりたいと述べています。

使節としても個人としても、我等の最大の希望は、我国に有益にして、その物的及び智的状態の、永久的進歩に貢献すべき資料を齎(もた)らして帰国するに在り。我等は固(もと)より我人民の権利及び利益を保護するの義務を負ふと同時に、我通商を増進することを期し、且つこれに伴ふ我生産の増加を図り、その一層大なる活動を助長すべき健全なる基礎を作らんことを望むものなり。
太平洋上に今将に展開せんとする新通商時代に参加し、大いに為す所あらんとする大通商国民として、日本は貴国に対し、熱心なる協力を捧げんとす。貴国の現代的発明及び累積知識の成果に依り、諸君はその祖先が数年を要せし事業を数日にて成就し得るならん。貴重なる機会の集中せる現時に於て、我等は寸陰をも惜まざるべからず。故に日本は急進を望むや切なり。


通商を増進し、生産の増加を図りたいというのではなく、「その一層大なる活動を助長すべき健全なる基礎を作らんことを望む」と言っているのですね。結果を求めるのではなく、結果が生まれる状態をつくりたい、と言う主張です。これは、すごいことですね。

普通であれば、結果を求めるでしょうが、伊藤はそうではありませんでした。言ってみれば、成績の悪い子供が、「成績をよくしたい」というのではなく、「成績をよくできるような習慣を身に着けたい」と言っているようなものです。こんな発想は日本人にもともとあったものでしょうか? 早急に成果を求めるのではなく、体質を変えたいという主張は、聴いていたアメリカ人を驚ろかせたのではないかと思います。

そして最後に、伊藤は以下のように続けます。

我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋(ふうろう)の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす。


日本の国旗である、白地の中央に描かれた赤い丸は、国を封じる「封蝋」(手紙に封をする蝋のシール)ではなく、「昇る朝日の尊い徽章」であり、「世界における文明諸国の間に伍して、前方に、かつ上方に向かって昇ろうとしているものだ」と締めくくりました。

なぜここで日の丸が唐突に出てくるのか、若干の説明が必要かもしれません。
明治維新で体制が変わった時、まだ日本の国には正式な国旗が制定されていませんでした。つまり、国家としての体裁が整っていなかったということですね。黒船来航いらい、諸外国と通商条約を締結し、行き来をするようになると、国旗の必要性が生まれてきます。

最初に問題になったのは、船舶です。
公海を渡る船は、その船の船籍を示す国旗を掲示することが義務付けられています。そこで、明治政府は明治3年(1870年)、商船規則の制定に際して、白地に赤丸の日の丸を「御国旗」として規定しました。1870年に商船規則で制定された当時の「日の丸」は、縦横比は7対10(現在は1:1.5)、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置(現在は中央)とされていたようです。

しかし、日本の国そのものが古い封建社会の国とみられていたアメリカでは、この赤い丸は人々を封じ込める赤い封蝋と揶揄されていました。伊藤の演説は、こうした揶揄に対する想いを熱く語ったものでした。

このスピーチは、万雷の拍手でたたえられ、翌日の新聞にはこのスピーチへの賛辞があふれていたそうです。

のちに、「日の丸演説」と呼ばれることになるこのスピーチは、後進国と見下していた東洋の小さな国から来た若者が、英語で演説を行ったというアメリカ人にとっての驚きもあったでしょう。しかし改めて読んでみると、それ以上に、新しい国を作ろうという、伊藤の溢れるほどの熱い思いが伝わった名スピーチといえます。

視察団は、このあと一年半以上にわたって欧米諸国を視察していくのですが、この伊藤博文のスピーチ、国を憂う思い、卑屈にならずに堂々と主張する自負心、そして、先見の明……。後に首相になる人物とはいえ、弱冠31歳でこれだけの演説をやってのけるとは、見事というほかありません。

その後の日本は、この話しの通りに歩みました。殖産興業・富国強兵を経て、現在のものづくりの国に通じる出発点を、この伊藤のスピーチの中に見ることができます。


■「超ド級」戦艦の完成
殖産興業・富国強兵に取り組むにあたって最初の課題は製鉄です。軍事力の増強には、大砲や軍艦が不可欠です。しかし、製鉄の量産技術や、大型軍艦を造る技術がありません。
古来、日本の製鉄技術は、砂鉄を木炭で溶かし、たたらと呼ばれるふいごで風を送って高温にするたたら製鉄法が用いられてきました。これで作られる玉鋼は、硬さがあって曲がりにくい特徴があり、刀剣や農具、生活用具などを作るには良いのですが、柔軟性が求められる構造物には適しません。

そこで、たわんでも折れにくい均質な構造物用の鉄鋼を生産するために、西洋式の反射炉・高炉などの製鉄技術が導入する一方、長崎・横須賀に造船所を作って船舶の建造技術の確立を図ります。とはいえ、せいぜい木造の千石船しか建造できなかった技術で、造船所を作ったからといって、いきなり戦艦を作れるわけはありません。

日露戦争の日本海海戦の旗艦「三笠」。現在、横須賀市の三笠公園に設置されている。

そこで、イギリスに戦艦を発注し、技官を送って、軍艦づくりのノウハウを学ばせます。そして技術を持ち帰った技官らが中心になって、自力で建造する道を歩みます。このときイギリスに発注されたのが、後に日露戦争(1904-05年、明治37-38年)で旗艦となった「三笠」(1902年完成)などでした。

その後、広島・呉、神戸に造船所をつくり、各地で競うように軍艦が作られていきます。こうして我が国で初めて西洋式の戦艦が作られたのが1910年(明治43年)、広島・呉の海軍工廠で「薩摩」です。全長137.2メートル、排水量19,372トン、石炭による焼玉エンジンです。

続いて、大正時代になると、巡洋艦「榛名」(26,330トン、1914年神戸・川崎造船所)、「霧島」(27,000トン、1915年長崎・三菱造船所)を建造。
1920年(大正9年)になると、世界最強35,000トン級の戦艦「長門(呉工廠)」「陸奥(横須賀海軍工廠)」を作りあげるまでになります。
この長門、陸奥は、当時世界最強と言われた英国の戦艦「ドレッドノート」(1906年竣工)を上回る航行速度や大砲などを備えた戦艦として建造され、「ドレッドノート」を超えることから、スーパー・ドレッドノート・クラス=「超ド級」ということばで呼ばれるようになりました。

最近は、甲子園で活躍する選手に「超高校級」「超ド級」などと使われたりしますが、もともと「英国の戦艦ドレッドノート」から生まれた表現でした。
黒船が来航した当時、日本の産業技術力は西洋と比較にならないレベルでした。その日本が、富国強兵をめざして50年後、自力で最初の軍艦を作ってからわずか10年後にはイギリスに追いつき、それらに匹敵する世界一のレベルの戦艦を建造する能力を持つまでに至ったのです。ノウハウを学び、応用する能力とキャッチアップの速さ、ものづくりへの適応性は見事というほかはありません。

つい50年ほど前まで、世界史からこぼれ落ちていたような東洋の小さな未開の国が、またたく間に力をつけて、列強をしのぐ軍艦を建造するようになった、その潜在力は、列強の目には、大きな脅威と映ったに違いありません。


■世界のパラダイムを変えた日本のものづくりの力
西欧を目指して追いつけ追い越せで突き進んできた日本は、その猪突猛進の勢いのまま第二次大戦まで突っ走ってしまいました。軍事力で列強に並んでからの迷走ぶりは、いかんともしがたいところがありますが、目標を決めてゴールを目指す時に発揮する集中力とパワーは、列強に対して日本という国の潜在力を強く意識させることになったと思います。

しかし、世界一の軍艦を建造したといっても、実態は付け焼刃で、インフラの整備や社会的な蓄積は金メッキのような薄っぺらなものでしかありませんでした。キリのような鋭角な切っ先に全リソースを投入して一点突破には成功しても、そうした力や資産を社会全体に配分して、底辺の底上げにつなげるという方向には使われませんでした。
国策として力を入れ、獲得してきたその技術力や経済力を、列強に伍して領土拡大に投入するのではなく、国民の福祉と生活の向上につなげていれば、日本はまた別の国になっていたかもしれません。しかしそれはいまだから言えることで、当時はそんな状況ではなかったようです。

万国公法が示す当時の世界の勢力秩序
大航海時代以後、世界をリードしてきたのは、欧米の国々でした。19世紀後半に欧米諸国が集まって作った国際法「万国公法」では、欧米の「文明国」は、アフリカなどの「非文明国」や、アジアの「半文明国」に対しては、不平等条約などをもって国交・通商を迫り、万一それを拒む場合には、武力によって受け入れさせることが正当な行為として認められていました。
そのため、彼らは競ってアジア、アフリカ、南米へと進出し、植民地化を進めました。
ペリーが1853年7月に来航し、一年後の回答を約束させながら半年後の1854年一月に再びやってきて、条約の締結を催促した裏には、こうした文明国の半文明国への恫喝があったわけです。植民地化の危機は、日本にも迫っていたのです。
世界史的に見れば、それまで、欧米以外の国が、列強に伍して政治・経済・技術面で台頭してきたことはありませんでした。そんな時代に、半文明国とみなされていたアジアの一小国である日本が、開国以来、急速な発展を遂げて、世界の舞台に飛び出し、自己主張を始めたのです。

彼らにとってみれば、圧倒的な力の差で面倒を見ていたはずの幼な子が、あれよあれよという間に大きくなり、力をつけてやがて背伸びを始め、気が付けば、おれの方が強いぞと分け前を要求するまでになっていたということでしょう。
力をつけてからの国のあり方に議論はあるとしても、経済力で「半文明国」とさげすまれていたアジアの中から、初めて日本が列強の仲間入りをしたという事実は、世界史的にもそれなりの価値と栄誉を持って語られてもいいのではないかと思います。
そのベースとなったのが、私たちの先輩が培ったものづくりの力でした。


■ブータン・ワンチュク国王のメッセージ
国会でスピーチするブータンのワンチュク国王
ブータンはアジアの中央部、ヒマラヤ山脈の東端にあり、中国とインドと国境を接している小さな国です。
長い間、鎖国をしていたため、独自の文化を持っていますが、最近は国の政策を国民の幸福度という尺度でみていることでも知られています。
2011年11月17日、日本を訪問したブータン王国の若きワンチュク国王は国会で演説を行いました。その中で日本に対する思いを次のように語ってくれました。

「2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。」


ワンチュク国王は、日本を高く評価していると話してくれたのですが、わたしたち自身がこうしたことをどれくらい認識しているでしょうか。

いま、アジアの時代と言われています。中国を中心としたアジアの国々の経済発展が注目されるようになったのはほんの最近です。百数十年前のアジアは、多くの国が欧米諸国によって侵略され、植民地として蹂躙され、資源の収奪が行われていました。
そんな中で、日本は西洋文明に出会っても屈服せずに、その知識や技術を取り込んで自分のものとし、産業を興してやがて列強に並ぶほどの力をつけました。

その意味で開国は、日本にとっては国内改革の大きな契機でしたが、同時に、欧米列強の覇権主義に対して、遅れた「半文明国」とみられていたアジア地域の国々にも西欧の諸国と同じ可能性があることを認識させるきっかけとなった、世界史的にもきわめてエポックメーキングなでき事だったということができます。

 そして、それを可能にした原動力が、維新以来の富国強兵政策を支えた殖産興業であり、日本の「ものづくりの力」であったと言えます。欧米列強の支配体制という世界のパラダイムを大きく変革する源泉に「ものづくり力」があったのです。




第3章 豊かに広がるものづくりの世界

■通奏低音を聴きとったペリー
幕末から明治にかけて、わたしたちが西洋の科学技術を取り入れようとする以前に、私たちの中に流れている通奏低音ともいうべき、ものづくりの発露と資質を肌で感じとった外国人もいます。

黒船でやってきたペリーは、3度の来日で見聞きした記録を「日本遠征記」としてまとめています。その中で彼は、日本人のものづくりの巧みさを目の当たりにして、以下のように報告しているのです。

「実際的及び機械的技術に於て日本人は非常な巧緻を示してゐる。そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののやうである。」(『日本遠征記』C、岩波文庫)

「日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず錬達であって、人民の発明力をもっと自由に発達させるならば日本人は最も成功してゐる工業国民に何時までも劣ってはゐないことだらう。・・・彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによって、・・・日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならは、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加はるだらう。」(同)

粗末な道具を使いながら、巧妙な細工を仕上げる高い技能に驚きながら、ペリーは、日本が西洋の機械技術を学べば、やがて我々の強力なライバルとして台頭してくるだろうと書いています。江戸時代の日本人の手工業の巧みさから、現代の日本人の姿を予見したペリーの慧眼に驚きます。

同書では他にもあちこちで日本人職人の卓越した技術と工夫に驚嘆したと紹介されていますが、彼らの驚きは、単に仕上がりの巧みさ、工夫の質的な高さに対してだけではありません。

動物学者で標本採集に来日して大森貝塚を発見したエドワード・モースは、後に東大で動物学を教えながら日本各地を訪れ、日本人の生活ぶりをつぶさに観察・記録しています。

そして、『日本のすまい 内と外』(鹿島出版会)など貴重な著書をいくつか残しているのですが、著書の中で、モースは、洗練された細工が大きな都会の家屋だけにあったり、名の知れた作家によるものであったりするだけではなく、小さな農村の民家の中の小さな家具や道具についても、ひとつひとつの細部に、神が宿るような細やかな神経が注がれていることに驚いているのです。

そして、壁面一杯に装飾品を飾るアメリカの家庭とくらべて、日本の家屋では、家具も目立たないように配置し、装飾品もたくさんある中から一つだけを選択して季節や状況にあわせて表に飾る控えめさ、余分なものを徹底的にそぎ落した素朴なたたずまい、洗練された美しさに感嘆の声を上げています。

ペリーも、モースも、日本人のものをつくるという行為だけでなく、作られたものの扱い方、ものに対する愛情の持ち方、さらにはものをつくることを通して構築された文化や様式に秘められた背景をしっかりと見ています。

明治初めには、数千人のお雇い外国人が来日しています。そのほかにも、政治やビジネスなどで来日し、長期滞在をした人の数は、かなりの数にのぼります。

彼らの視点は、単なる物見遊山から学術的な深い考察まで、質的には玉石混交のようでしたが、なかには、ペリーやモースのように、当時の日本人の生活やつくられたものの中に響く、ものづくりの通奏低音を感じ取っていた人たちもいたのです。


■やまとことば「ものづくり」
ところで、いまさらなのですが、ここで、ここまで書いて気になっていることを処理しておきたいと思います。それは、わたしたちがよく使う「ものづくり」ということばの、表記法、記述法についてです。

わたしたちは、「ものづくり」ということばを、匠の熟練した伝統工芸の技から最新鋭のマシニングセンターによる全自動の加工、さらには子供の工作教室から粘土細工などまで、なんの抵抗もなく使っています。

単に物を加工する、つくるという物理的な行為だけでなく、その前後の発想や計画・設計、さらには準備、片づけなどまで、きわめて広い範囲を含めたことばとして使っています。このことばがもつ、なんでもありの融通無碍さにこそ、日本人の「ものづくり」の本質があるのではないかと思います。

わたしは外国語の専門家ではないので自信はありませんが、日本人が使うようなニュアンスの「ものづくり」に相当することばが、英語やドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語……など、他の国にあるかと問えば、答えはおそらく「?」でしょう。このことばこそ、日本のものづくりを特徴づけることばではないかと思います。

本稿ではここまで、ことばとしては「ものづくり」と表記してきました。なかには、なぜ「モノづくり」や「物づくり」、「物作り」、「物造り」、あるいは「もの創り」ではないのかと違和感をお持ちの方もいらっしゃると思います。

一例をあげただけでこの組み合わせの数です。その無限さも日本語のすごいところです。組合せによって意味が微妙に変わる、それを楽しめるのも日本語ならではの魅力と言っていいでしょう。
話しを本論に戻しましょう。

「ものづくり」ということばは、Wikipediaなどでも、日本固有の「やまとことば」と説明されています。ここでいうやまとことばとは、やまとの時代から使われていた、日本本来のことばの使い方ということです。

といっても、「ものづくり」ということばそのものが、やまとの時代から使われてきたというわけではありません。「もの」「つくる」ということばがあって、両方をつなげた「ものづくり」という表現が、本来から日本にあったことばの使い方だということですね。

本来から日本にあったというのは、漢字が大陸から輸入される4、5世紀以前から日本で使われていた日本オリジナルのことばだということです。

ものづくり、あるいはモノづくりという表現が意味するところは、加工や手作業、生産、技術などの物理的な作る、加工する行為に限りません。ものを発想したり、企画・設計したり、作ることにまつわる思いや知恵、工夫、思索、概念、姿勢など広い範囲の意味が含まれています。

そのためでしょうか、「つくり」のことばに「作り、造り」などの漢字を当てずに、ひらがなをあて、ものづくり、あるいは、モノづくりと表記する人が多いようです。

私もこれまで、「ものづくり」とひらがなを使ってきました。
そのことにさしたる理由はありませんでした。ただ、「物」「作り」「造り」とすると、漢字の意味に引きずられて、具体的な「物」を加工する物理的な行為のイメージが強くなり、それでは、発想やアイデア、企画・設計などの要素が抜け落ちてしまう、「創り」とするのは、また逆に偏ってしまうので、「ものづくり」と表記した方がしっくりくる、そんな気がしていたにすぎません。

そして、ひらがなで書くことについて、きちんと根拠を説明できずにいたことに、ある種の落ち着きのなさを感じていました。

しかし、あるときたまたま手にした、中国文学者である高島俊男の『漢字と日本人』(文春新書)を読んで、以下のような説明に出会い、目からうろこの思いがありました。

高島は、『とる』という語には、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などがあるが、どうつかいわければよいかと質問をされることがある、と前置きをして、

『「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」という語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかき分けるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」も、おなじ。その他の語ももちろんおなじ。・・・(中略)・・・純粋の日本語を書くときに、ここは中国人だったら何という動詞をあてるだろう、と頭を悩ます必要なぞ、さらさらないのである』(同)

と書いています。
小気味のよい明解な説明ですね。

ここで高島が、和語と書いたものが、ほぼ、やまとことばを指しています。


■豊かに広がるものづくりの世界
どういうことかと言えば、漢字が入ってくるまで、日本には話しことばがあるだけで、それを書き表す文字はありませんでした。
だから、その頃に使われていたことばは、「とる」という発音があり、それで、取る、採る、捕る、執る、摂る……のすべてを表現していたのです。だから、どの意味で使うときにも、漢字を使わずに、「とる」と書けばよいと言っているのですね。受け手も、その意味するところを、取る、採る、捕る、執る、摂る……の意味を持つことばとして受け入れ、判断し、理解すればよい、ということです。

「ものづくり」に当てはめれば、このことばがやまとことばである以上、「もの」も「つくり」も漢字をあてずに「ものづくり」とすることが日本語的に自然だという説明です。

ことばが示す意味としても、「作り」や「造り」、「創り」の一つに限定せずに、それらを広く包含した「つくり」として表現し、理解することが正しい……と高島は主張しているわけですね。

これを読んで、長年のもやもやが一瞬で飛び、すとんと腑に落ちる思いがしました。
言われてみれば、「ものづくり」という表記法が、わたしたちがこのことばに抱いているイメージや豊かなニュアンスを見事に表現していることに気づかされます。高島の説明に深く納得です。

また、「もの」について、上代日本文学の第一人者中西進は、物理的な「もの」を示すだけでなく、「ものみ」(物見)、「ものがなしい」「もののけ」(物の怪)などを例にあげて、「もの」には目に見えるものと見えないものがあると言い、日本語は「包容力のある、創造性豊かな沃野」をもつことばで、この「意味の豊かさ」こそが日本語であると『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)の中で書いています。

書き文字として漢字が日本に輸入されるようになったのは、5世紀から6世紀ころと言われています。わたしたちの祖先は、中国で使われていた漢字を輸入しながら、一つの文字が「音読み」と「訓読み」という2つの読みをもつ、世界にもまれな仕組みを発明し、さらにカタカナ、ひらがなという書き方も生み出しました。

日本語は、一つのことば「山」を、やま、ヤマ、山と三つの文字で表記でき、しかも、やま、さん、ざん、せん……と何種類もの読み方=発音がある、世界でも天然記念物的な希少種の言語なのです。

しかも、「雨」ということばだけでも、「あめ」、「さめ」「う」「あま」と呼び分けて、春雨、秋雨、朝雨、小糠雨、細雨、桜雨、五月雨、霧雨……と、数十の「雨」を生み出し、さらには、雨上がり、雨だれ、雨あし、雨模様、雨宿り……など状況を表すことばを作り出して、わたしたちはその繊細な違いを使い分けてきました。

「〇〇雨」のことば(『逆引き広辞苑』1992年第1版より)」

中国語では、「雨」は、どこでどのように使われようと、読み方はひとつ、「yu」だけです。そして、降る雨を表現することばは、日本語と比較しても数えるほどしかありません。
自然を表すのに豊かとはいえない語彙の言語(中国語)を輸入しながら、わたしたちは独自の感覚で隙間を埋める多くのことばを生み出してきました。

前出の高島俊男は、日本語が熟していない段階で文字として漢字を入れてしまったので、日本語(和語)はそこで成長が止まり、中途半端なことばとして現代まで来てしまった、と述べています。
そうした要素があるとしても、私は、表記法が3つもあり、豊かな表現力をもつ日本語そのものを、世界の文化遺産として登録してほしいと思っているほどです。これほど豊かな表現を持つ言語は、まさに文明・文化の高さを示すもの、世界遺産として十分にふさわしいと思っています。

緩やかで多彩な四季の変化の中で育まれた豊かな日本語表現

こんな多様で、独創的なことばをもつ国民は世界でもあまり例はありません。
ことばはわたしたちの精神形成に大きな影響を及ぼしています。こうしたことばの豊かさも、わたしたちの「ものづくり」を豊かなものにしてきた重要な要因のひとつなのです。


■自然環境が生む特有の感性
日本のものづくりの特徴として、細部の仕上げに注がれる神経とともに、現場で継続して進められている改善の例がよくあげられます。日本では現場で日常的に改善が繰り返されるために、現場の姿は絶えず変化しています。こんなに変化する現場は世界でもまれでしょう。

変化を好まない保守的な人が多いと言われる日本ですが、私たちの生活環境では、小さな変化は日常的に起こっています。

日本人にとって1年は、ほぼ均等に分けられた4つの季節で成り立っています。
春の桜と桃、夏の照葉樹林の濃い緑と蝉の声、秋の鮮やかな紅葉と虫の音、そして落葉、冬の雪景色と春の到来を告げる梅……。3か月ごとに春夏秋冬がやってきて、折々にそれぞれ特徴のある花が咲き、景色が展開されます。

3月の末から4月初めにかけて、桜の開花日を今日か明日かと気にしながら、わずか二週間ほどの間に、つぼみから開花して絢爛たる光景を見せながら葉桜となって散っていきます。その変化の激しさは、季節の変化の少ない国の人から見ると、早送りの動画を見るようではないかと思います。

日々生まれる小さな変化が積み重なって季節の移り変わりが生まれ、年々同じようで、決して同じではない光景がグラデーションのように変化していきます。日本人には当たり前のことですが、世界的にみれば、こうした国は多くありません。

わたしたちが持っている美意識の源泉として、こうした季節ごとに移ろう自然環境の変化があります。日本の工芸には、梅や桜の春景色、錦秋など一瞬の美しさが切り取られて細やかな神経でちりばめられていますが、自然が多くの芸術にも扱われているのが日本の工芸の特徴でもあります。

「万葉集は世界の古典の中で一番多くの植物名が登場する作品だ」

というのは元大阪府立大学教授の中尾佐助です(『花と木の文化史』岩波新書)。

中国の『唐詩選』にも植物は登場するのですが、種類は貧弱で、しかも「花」「木」「植物」として概念的に扱われているにすぎません。それに対して、万葉集の中で歌われた植物は圧倒的に多く、しかもほとんどが日本原産植物で、ハギ、ウメ、マツ、サクラ……と具体的な植物名が登場する、と中尾は紹介しています。

しかも、単に、花が咲いているというのではなく、どんな植物の、どんな花が、どんなふうに咲いているのかが関心事になっていて、花の咲き方、あるいは花が置かれている環境、花を見る状況、切り取った一瞬によって印象が大きく変わり、その心象風景が日本人にとって重要な詩の主題になっているというのです。

そして、季節から季節へ、あたかもエッシャーのだまし絵のように毎日少しずつ移りゆく変化もまた、私たちには楽しみの一つになっています。

多田道太郎は自身の著作集4『日本人の美意識』(筑摩書房)のなかで、「植物の色を四季に応じて移すことで、(日本人に)変化への適応力を身につけさせている」と書いています。

保守的に思われがちな日本人が、これほどものづくりの現場でせっせと改良・改善に取り組んでいるのも、こうした自然の移り変わりの中に身を置いて、変化への適応力を身に着けてきたためでしょうか。


■清濁を併せのむ美意識
わたしたちは、美しさに対する感覚や意識を「美意識」と呼んでいますが、フランスやイギリス、ドイツなどでは、こうしたものは「美学」Aestheticsとして扱われます。

西欧文化で「学」であることが、日本人にとっては「意識」なのですね。
言い方を変えれば、西洋の美学は、「学」である以上、鑑賞者・受け手に無関係に「美」が存在しますが、日本人の言う美意識ということになれば、意識する受け手を抜きには語れません。日本流に言えば、美しさそのものが存在するのではなく、見た人間が美しいと感じるから美しいのだということになります。

西洋の「美学」の基本には心理の追求という合理がありますから、美醜に対する評価と価値づけは学問として体系的にでき上がっています。だから「美」に対する評価に比べて「醜・キッチュ(まがいもの、俗物)」に対する評価は厳しいものがあります。

それに対して、日本人の美意識は美しいものに対してだけでなく、キッチュに対しても寛容だといわれます。崩れた魅力もまた、美意識を刺激する一つの要素でありうるということでしょう。
よく言われるのが、朝日=日の出、夕日=日没に対する考え方です。日本人ほど、日の出、日没をありがたがる国民もいません。西洋の美学では、夕日の美しさは、キッチュ(まがい物、醜悪さ)の例と言われて低く評価されていますが、日本の美意識の中では夕日もまた美の一つとして、夕日を見る名所もあちこちにあります。崩れゆく美、あるいは束の間の美にふける「耽美」に対する思いの違いかもしれません。

私たちはよく、「日本人は合理だけで生きていない」などと口にします。また、清濁を併せ呑むという言い方もあります。美意識の中の、キッチュをも容認する精神には、いわゆる西洋式一神教の合理基準とは違った、「万物に八百万の神が宿る」とする日本的な合理、融通無碍な基準が働いているのではないかと思います。

原因と結果をつなぐラインの中で、有用なものだけを直線で結んだ単線的な西洋流の思考にくらべて、遊びやムダ、迷い、遠回りなども包含しながら、さまざまな形状のラインを緩やかにつなぐ思考が、日本人にはあるような気がします。

台湾出身の物理学者で文明史家の謝世輝は、

「西洋の近代合理主義は貫徹性があり、全てのものを科学的に処理していくが、日本の合理主義は不分明で、心情的な解釈と処理に終わりがちである」と述べ、さらに、「日本の合理主義は、理性ですべてを割り切ってしまうことはしなかった。人間は自然の一部分であり、自然にしたがい、自然との調和が重視されてきた。・・・日本では自然は温和で美しいものと考えられていた。日本人の自然観には、常に美的情緒がともなっていたのである。

そのために日本の文化伝統では、人間と自然が融和し、その中に血の通う造形作品が絶えず生まれてきたのである。そのため、元来の日本の合理主義は、自然と人間を温かく包み込むものであった」(『日本近代二〇〇年の構造』講談社)

と述べています。

高橋浩伸によれば日本人の美意識の中には、あいまいさや滅びやすさも含まれているとして、西欧的な美と日本的な美の違いを図のようにあらわしている。(「第3章 日本人の美意識に関する基礎的研究」(http://www.design.kyushu-u.ac.jp/lib/doctor/2006/k028/k028-04.pdf)

日本人は論理の正しさだけに走るのではなく、論理と感性の狭間にある微妙な揺れを容認しながら、解を見つけてゆこうとします。このあたりに、論理を第一義に重視する西洋の合理主義との違いがあります。

ものづくりの現場で、苦し紛れの最後にひねり出される問題解決の工夫なども、こうした論理だけでは思いつかない発想が重要なポイントになって生まれるケースも少なくないような気がします。


■算術に見る日本的合理主義
こうした日本的な遊びを含めた思考を説明するときに私がよく使う一つの例として、江戸時代の野沢定長という数学者の、円周率に関する話があります(『日本史再発見』朝日新書)。

江戸時代、日本の数学レベルはかなり進んでいたそうです。
古くから、円周率=πパイ(直径に対する円周の長さの比)は、数学に興味を持つ学者たちの一大関心事でした。日本においても例外ではなく、すでに江戸時代の初期には円周率の値として3.1*までは把握されていたようです(円周率=3.141592・・)。

そんな数学者の一人に、野沢定長という人がいました。1600年代中ころのことです。
野沢定長も円周率の研究に携わり、紆余曲折を経て、1767年には、計算によって、3.14と小数点下2ケタまで算出します。

円周率の値をどのようにして求めたかと言えば、円周は、円に外接する正多角形の辺の和より小さく、円に内接する正多角形の辺の和より大きい、ということから算出します。

内接・外接する多角形を、正方形からはじめて、正8角形、正16角形・・・とだんだん多角形にしていって、外接する正多角形と内接する正多角形の間をどんどん狭めていきます。1650年ころを境にそろばんが普及しはじめましたので、計算はそろばんと手計算です。



当時の数学者たちの間で、用いられていた方法に「遺題継承」というやり方があります。
これは、数学者が著書を出版する際に、巻末に問題を提起する。次の著者はこれに回答を提示し、その上でさらに自分から問題を提起するというやり方で、どんどん問題を継承していくというものです。

これを遺題継承と呼びました。こうしたテーマに円周率も扱われ、板倉によれば、円周率の数値はすでにかなりの桁まで把握されていたようです。

さて、3.16を経て、3.14までたどり着いた野沢定長でしたが、しかし彼は、たどりついた3.・14を捨てて、ある時からあえて3.16を円周率の値として主張したといいます。計算によって算出した3.14という値が、論理的に正しいことを自覚しながら、数学的に正しいだけでは満足しなかったと言うのです。


■忽然と知る円数の妙
野沢定長が、数学的に正しい3.14を取らず、あえて3.16を選択したのは、なぜなのでしょうか。

円周率の計算に明け暮れるある日、彼はあることを発見して「忽然と円数の妙を知った」と紹介されています。
その「妙」とは、

「円周率は形で求めれば3.14だが、理で求めれば3.16」というのです。

実際の形からくる値を「形で求める」といい、理屈に沿った値を「理で求める」として、野沢定長は、形よりも、「理」を取りたい、というのです。そうすると、3.162になるというわけです。なぜ3.16なのでしょうか。何やら狐につままれたような話ですが、こういうことです。

数学というと、どちらかと言えば計算がすべてで、感情や思いなど入り込む余地がない無機的な世界と思いがちですが、そのなかで野沢定長は、いつしか「円は美しい形をしている。ならばその値も美しくなければならない」という思いに行きついたそうです。というよりも、そうあってほしいという願望の表れかもしれません。

そんな野沢定長が「忽然と円数の妙を知った」のは、10の平方根(面積が10になる正方形の一辺の長さ)が3.16であることを知ったことがきっかけだと、板倉は説明しています。
外接する正多角形と内接する正多角形の間に円周率の真理があると追求してきた野沢定長が、面積が10の正方形の一辺の長さ=平方根を美しいと感じるのは、数学者特有の感性かもしれません。

数字が、人間の感情など入り込む余地がないほど絶対的な真理として、合理のみで進められていくのとはまったく逆に見えますが、当時の数学者の感性からいえば、意志や思いを込めて「理で求める」算法の方が、むしろ自然ということでしょうか。

日本の現場改善では、考えられないような工夫で改善が行われたりします。そんなとき、この、野沢定長の3.14よりも3.16を支持したい、という感覚が、論理だけでは気が付かない改善のアイデアを生みださせる切り札になっているような気がします。

直感でムリと思われるようなアイデアでも、さらに追求してみると、意外と方法が見つかったり、アイデアが生まれたりします。

この話しは、正しい/正しくない、あるいは、事実は何か、と議論をしているときに、いきなり、「それはそうかもしれないけど、アタシそれ好きじゃない」とか、「でも、それでいいの?」と、突然、別の論理基準を持ち出して相手をケムにまくやりかたに近いかもしれません。

論理で固まりがちな数学の世界で、自らの感覚や思いを信じて、あえて論理を外れてみることで見えてくるものがある、そんな感覚は、日本人には理解できそうですが、西洋的な合理性からいえば「クレイジー、わけが分からない」ということになりそうです。


■融合するカン・コツとマニュアル
日本のものづくり現場の強さの秘訣は、野沢定長がこだわったように、論理的な正しさを越えて、しっくりこないといった感覚を大事にする中から、目からウロコのような改善案が生み出されていることにあると、私は本気で思っています。

それが匠の技、高度技能というものに含まれるカンやコツの一部でもあると思います。このあたりの感覚は、おおかたの日本人は「まあ、そんな考えもあるかな」と納得しても、外国人には、理解してもらえないかもしれません。

日本人の合理主義とは、単に論理だけのものではなく、感性をも併せ呑んでしまうような奥の深いものがあります。ところが、ある時期から、こうした矛盾をも包含しながら自在に遊ぶような特有の感覚を、私たちは、「非合理」と称して排斥しようとしてきました。

技術者たちはよく、カン・コツと言います。
ベテラン職人が、マニュアルの旋盤などを使って、設備の仕様では考えられない微細な精度で加工を仕上げる姿は、長いこと現場の華でした。工夫と知恵で「すっぽん」と呼ばれる五角形の嵌め合わせ加工(嵌め合わせて抜くときに、「ポン」と音がするのですっぽんと呼ばれる)を見事に仕上げたときなど、まさに神業とたたえられたものでした。

しかしながら、コンピュータが現場にも入り、先端技術を応用した設備がものづくりの現場に入ってくるようになると、そうしたベテラン職人にしかできない高度な技は、数値化できない暗黙知、汎用性のない技として、否定されるようになっていきました。

ある時期、技能伝承が危機と言われ、技術・技能はマニュアル化、数値化し、カンやコツを暗黙知から形式知化しなければならないと言われ、工場では高度技能の数値化、マニュアル化がすすめられました。

ほとんどの現場で、熟練工のカンやコツの数値化がすすめられましたが、結局、いくら数値化しても、それは使い物になりませんでした。暗黙知を形式知化すると、複数のパラメータが複雑に絡んでいることが分かり、最後の判断には長い間に蓄えた経験値が不可欠で、ほとんど実用上、使い物にならなかったからです。


■合理と論理/非合理と非論理を容認する文化
長い間、西洋文化の合理性や価値観を前提にして、暗黙知であるカンやコツは非合理的な要素として排除されてきました。
しかし最近は、逆に、むしろカンは経験に裏打ちされた論理だとして、それを重視し、カン・コツの状態で伝承しようという動きが生まれています。やっと正しい方向に進んできたと思います。

合理性=論理を重視しながらも、非合理・非論理をも容認するおおらかさが日本の伝統的な文化だとすれば、カン・コツを数値化せずにそのまま認めるという認識への変化は、自然の流れと言っていいのではないかと思います。

神は唯一の絶対神とするキリスト教の西洋文明に対して、八百万の神が万物に宿り、最近ではトイレにさえ女神さまがいると考える日本人の精神は、合理/非合理の枠を超えた、ある意味で自由な発想を生みだす、東洋的な感性ではないかと思います。

そしてその自由さは、神道の八百万を信じる自由さよりも、むしろ無宗教から生まれる万物への等距離感から出ているのではないかと思います。感情にも、理性にも等距離、万物に等距離で接する、いわばこだわりのなさが、日本のものづくりで目からうろこの工夫が生まれる根底にあるような気がします。

世界にはさまざまな人たちがいます。論理は一つではありません。日本のものづくりはこうした融通無碍さを含んだものですが、世界に対してもっと分かりやすくして、こうした日本流の発想を理解してもらえるように努力することも重要ではないかと思います。



第4章 律令時代を支えた計数管理

■科学的なマネジメント
第二次大戦で焦土と化した日本は、明治維新後に続いて、2度目の欧米産業へのキャッチアップを体験しました。そのきっかけになったのは、やはり、アメリカでした。
大戦後、米軍が日本に駐留するようになり、必要な通信機器などを日本で調達することになりました。しかし、焦土から立ち上がったばかりの日本産業界には満足な設備もなく、製品を作らせてみると、品質が悪く、とても使い物になりませんでした。日米産業の技術力の差は大きく、米国のものづくりの質と物量に日本の産業界は圧倒されました。

そうした状況のなかで、日本に駐留していた米軍の本部(正式に言えば、連合国駐留軍のGHQ:ゼネラル・ヘッド・クォーター)は、日本国内での調達をめざして、日本の産業を育成するとの方針を打ち出します。そうすれば、アメリカから運ぶよりずっと安く調達できるからです。

GHQによる指導を得て、日本の産業界が最初に取り組んだのが品質改善です。米軍を通じて招聘された専門家から、統計的な品質管理の方法を学びました。後にデミング賞のきっかけとなったデミング博士のセミナーが開催されたのは昭和25年でした。
製造の現場で、良い品質を確保するためには、厳しい検査を行って不良品を排除しなければならないという考え方が当たり前の時代に、加工物や設備に触れることなく、データを統計的に計算するだけで不良の原因を解明するという、スマートな手法に、企業の品質担当者たちは目を見張ります。
そして、検査で不良品をはじいて品質を保証するのではなく、工程で品質を作りこみ保証する、という考え方と手法は、日本の産業界にまたたくまに浸透していきました。

『ジャパン・アズ・ナンバーワン』エズラ・ボーゲル著
広中 和歌子・木本 彰子訳 TBSブリタニカ 1979年
こうして産業界は急速に力をつけ、1979年(昭和54年)にはハーバードビジネススクールのエズラ・ヴォーゲル教授が、『ジャパン・アズ・ナンバーワン―アメリカへの教訓』を著し、急成長を続ける日本に学ぼうとアメリカ産業界に警鐘を鳴らすところまで到達しました。
人口でアメリカの3分の1、国土面積で25分の1、しかも天然資源のほとんどない日本が、大国アメリカと一人当たりのGDPで肩を並べるようになったことは、世界からも大きな驚きを持って見られました。

やがて、日本のものづくりは世界的にも高く評価されるようになっていきましたが、日本人の中には、わたしたちは、とかく理性より感情に頼り、デジタルよりアナログな管理を得意として、前近代的なマネジメントや人事管理が行われがちで、科学的管理がなかなかできない国、というイメージを持っている人は少なくありません。
数字を基にしてドライに判断・処理することに抵抗を感じ、とかくウエットに対応しがちな国民性もあって、「科学的管理に遅れた国」のイメージはなかなか払拭できないようです。しかし、わたしたちが、科学的なマネジメントや数値管理に弱い国民という評価は、歴史的に見ても正しくありません。


■公平な一日の仕事量
ものづくりの世界では、数値を基本にした科学的管理法が行われはじめたのは、F・W・テイラー(米:Frederick Winslow Taylor)からとされています。

1881年ころ、ミッドヴェール製鋼会社の機械工場では、親方が出来高を算出し工員の給与を支払うというやり方が行われていました。そして、親方の個人的な裁量による給与の算定法に工員たちの不満が絶えませんでした。工員が努力をして出来高を増やせば、親方は賃率を切り下げて給与を調整するということがたびたびくり返され、そのことに不満を持った工員たちがストライキで対抗するということが繰り返されていたのです。

23歳の若さで工場長になったテイラーは、工員たちも納得する公平な一日の仕事量を設定できないかと考えました。そこでまず、工員たちの作業を分析し、最も作業のしやすい作業手順を決め、標準的なスピードで作業したときに仕上がる出来高を算出してみました。そして、それを公平な一日の作業量として、出来高×1個当たりの単価で給与を算出することを始めたのです。
出来高と給与の関係から親方の裁量を外すことで、数値的に明確にしたわけですね。この結果、工員の給与額が誰にでもわかるように数式で決められるようになり、工員の不満も解消して、生産性も向上しました。

この時に設定された標準的な作業手順、一日の作業量が、のちに作業標準や標準時間として多くの工場でも導入されるようになりました。彼が科学的管理法の創始者と言われるゆえんは、仕事の進め方と管理に「標準」の考え方をもたらしたことによります。

テイラーがミッドヴェール製鋼会社でこの賃金算出法の改革を行った1881年は明治14年です。まだ日本では、富岡製糸場に続いていくつか工場ができ始めたところで、作業を分析し、賃金を科学的に設定しようという流れにはありませんでした。富国強兵の最先端、長崎造船所のエネルギーを支えてきた長崎市の高島炭鉱などでも、賃金への不満から労働争議が頻発していましたが、科学的に賃金を決めるには程遠いレベルにありました。

私たちがもっている日本人のイメージから考えると、こうした状況の中で、テイラーがやったような数値で把握し、標準化を進めるようなやり方は、あまり得意ではなさそうに思えます。戦後、マネジメントに科学的管理法が取り入れられるまでの日本は、雇用者と被雇用者の関係性が重視され、数値による管理などむしろ否定的にみられていました。

しかし、一般に広がっているこうしたイメージは、本当に正しいのでしょうか。古い書物などよむと、そこから浮かび上がってくる私たちの祖先は、私たちが感じているイメージと裏腹に、決して大雑把などんぶり勘定を得意とし、数値による緻密な管理をないがしろにしてきたわけではないようなのです。
たとえばその資料の一つが、東大寺正倉院に残されている、文書(もんじょ)に記されて残されている、700年〜800年ころの奈良-平安時代の仕事の実態です。


■写経という仕事
日本で木版の印刷技術が行われたのは、七七〇年に称徳天皇が陀羅尼(ダラニ)を木版で100万巻印刷し、百万基の小塔に収めて各地の国分寺においたのが最初とされていて、これが世界最古の印刷物とされています。
しかし、印刷技術としての木版が本格的に普及するのは江戸時代になってからです。それまでは、書類のコピーを必要とするときには、手で書き写すのが一般的でした。

資料等を手で書き写す筆写が、最初に組織的に行われたのは、東大寺です。正倉院にある経典を普及させるために、写経所が設けられ、経典の書写が行われました。
正倉院はもともと、聖武天皇の遺品を収蔵する倉庫として756年に建立された倉庫ですが、その保管機能の高さから、収税品の保管庫としても使われるようになりました。
そして、遣唐使や海外に派遣した留学僧たちが行くたびに書写を購入して持ち帰った大量の経典もここに置かれるようになりました。そして、それらの経典を普及させるために、ここで筆写が行われるようになったのです。

正倉院の写経所には、専属の写経師だけでなく、写経された経典の誤字をチェックする校生や、写経料紙の紙すきや罫線を引く専門家、経典を巻くための軸を付ける、軸付けの専門家なども採用されていたそうです。正倉院に残る古い文書に、写経師たちの仕事ぶりを紹介した資料がある、と国立歴史民俗博物館の展示案内冊子『日本の歴史と文化』に記されています。 写経所では、写経作業は毎日行われたようです。写経を行うにあたって、写経師は体を浄め、仕事用の浄衣に着替え、袴と冠で正装して机に向かいました。

写経作業は、もともとの経典の書式にかかわらず、1枚の写経料紙に、1行17字×25行=425字を筆写することが求められたそうです。標準フォーマットですね。1枚の写経紙に書く字数を一定にすることで、作業量の把握をしやすくしたのでしょう。

正倉院に残る文書の例(梵網経):宮内省ホームページ
そして、書き手の経験や熟練度によって出来高に応じた布施(=工賃)が支払われました。平均的には、布施は、写経料紙40枚で布一端=約200文、つまり一枚5文(8世紀中頃の5文は米4合に匹敵)だったそうです(『奈良町末期写経師の実態』大井重三郎、園田学園女子大学論文集一七)。

写経師たちの一日の仕事量としては、写経料紙にして、6枚では生活を支えるに若干苦しく、7〜8枚あたりが妥当ではないか。それでも、生活は苦しく、役所から前借することも多く、待遇改善の要求の文書なども一緒に残されていると、園田学園女子大学教授の大井重三郎は書いています。
7枚という仕事量は、前述のフォーマットに従って一枚を17字×25行として計算すると、文字数は2975字と、かなりの量です。

今日、わたしたちが見る、正倉院に残されている経典の文字は、力強いていねいな筆致で、楷書で書かれています。あのしっかりした文字で、1日7〜8枚、約3000字を書き写し続けるのは、集中力も求められ、容易な作業ではありません。


■厳しいノルマと罰則規定
格調の高いしっかりした筆致で経典の文字を1日に3000字書き写すという作業スピードはいったいどのくらいのペースなのでしょうか。
下世話な話ですが、現代の代表的な写経である般若心経を手掛かりに比較してみましょう。

般若心経の本文は字数にしてわずか266文字。タイトルの「摩訶般若波羅蜜多心経」の10文字を加えて276文字です。この般若心経の写経では、慣れている人でも1枚を仕上げるのに、約40分、一般的には約1時間かかるのが普通とされています。
これを、標準時間として算定すると、1枚を写経する時間としては45分〜50分くらいになるのではないかと思います。
1日3000字を書くということは、般若心経にすれば、3000/276=約10・8枚です。正倉院での写経の設定時間を、現代の仕事時間に合わせて、1日に8時間を従事したとして比較してみましょう。

写経を行うための、筆を手入れし、紙を用意して・・・などの付随作業に20パーセントの時間が使われたとして(余裕率20%)、正味稼働時間は、480×0・8=384分。この時間で般若心経10枚を完成させるペースは、1枚38・4分程度で筆写し続ける計算になります。 実際には余裕時間も各自が管理したと考えられますが、300字弱を38・4分で、誤字・脱字もなく、一定の品質を保って仕上げるスピードは、同じ文字を繰り返し写す般若心経のケースでも、かなりの速度です。しかも、毎回初めての経文を書き写す緊張感を考えると、とんでもないペースといえるでしょう。

当時の写経所で筆写された経典は、正倉院の他にも五島美術館はじめいくつかの美術館で見ることができますが、しっかりと書かれた字体は、書の専門家の意見では、このレベルの質で筆写を求められれば、集中力が続いてもせいぜい1、2枚、日常作業として一日に7枚も書写し続けることは不可能に近い……といいます。
作業の質や量、作業時間を見るかぎり、現代の標準時間と比較しても、考えられない厳しさであったようです。

しかも、経典だけに要求される仕上がり品質は高く、
 ・1ページの字数は、1行17文字×25行=2975文字で、
 ・1日に7〜8枚を筆写。
書き終わったものを校生がチェックして、
 ・5文字誤字があると1文が、
 ・1字欠けていると1文が、
 ・さらに一行脱落していると20文が、
書誤料として減給されるといいます(同)。

写経作業の対価は写経料紙(425文字)1枚に対して約5文、1日に7枚で35文です。それに対して、1行の脱落があると20文の罰金をとられるということは、ミスをすると、4枚分の作業が無に帰し、その日の収入は15文になってしまいます。
さらに、1枚に2行の脱落があると、その紙は反故にされ、その分はその日の俸給から差し引かれたそうです。それだけ、写経料紙が高価なものだったということでしょう。

これでは、書いた時間が無駄になる以上に、アシがでます。いずれにしても、誤写、脱落への厳しさは並大抵ではありません。現代では、こんな厳しい罰則では、写経師になり手がいないでしょう。しかもこんな罰則規定は労働協約違反で、ブラック企業として糾弾されそうです。


■明解なインセンティブ給与の算出法
そんな厳しい状況でありながら、反故にされる用紙の率は、最悪の人でもわずかに2.5パーセント、なかには195枚の大般若経を書写して1枚も反故を出さなかった写経師もいたそうです。神経を使う作業に従事して、集中力を長時間継続できる質の高さは、現代なら高度技能者、現代の名工ということになるでしょう。

決して高給というわけでもなく、こんなに厳しい条件にもかかわらず、写経師が常にいたということは、あるいは、写経師が役所勤めや、寺社での出世の登竜門になっていたというような状況があったのかもしれません。

前出のように大井は、1日、7〜8枚が妥当なところと書いていますので、写教師の生活レベルはどのようなものだったのかをみると、現代風な家族構成で考えれば、係長クラスの中堅サラリーマンクラスというところかもしれません。
写経師になるには、なによりも学問が必要であり、その意味で、特別な選ばれた職業、エリート中のエリートです。ここから役人への道があったとしても、こんなに厳密に作業が管理されていたということに、驚きます。

前掲の論文で大井重三郎は、「元来、写経師は達筆を要求されるのは当然であり、かつ作業は綿密慎重を要した。・・・能書は当然であるがやはり過酷な労働であった」と書いています。
一冊の経典から何冊かを作るなら、同一ページを続けて書かせた方が効率はよいが、そんなやり方もしていたのか、とそんな余計なことまで頭に浮かびます。

それにしてもこの品質とスピード、とてもいまの事務作業の標準時間には採用できません。たとえ役人への登竜門としても、どれだけの人間がこんな過酷な作業にたえられるか、応募者を探すことも難しいのではないか。

これが西暦700年から800年の奈良時代、平安時代に行われていた、プロ中のプロ、高度技能を持つ専門職・写経師の仕事ぶりであり、賃金算出の仕組みです。厳しいとはいえ、疑問の余地のない明解なインセンティブ給与の算出法ではありませんか。

「時間の計測」さえ一般的ではなかった時代、源氏物語が生まれるはるか以前に、これだけ細かな数値を基礎にした作業管理と出来高の管理が行われていたのです。
こうしたものを見てみると、むしろ、私たちの先輩は、意外と数値を使ってものごとを管理していたのではないかという予想も生まれてきます。


■情報の宝庫「延喜式」
東大寺の写経所で、遣唐使たちが持ち帰った経典の筆写が行われているころ、朝廷では「延喜式」の編纂が進められていました。

大化の改新(645年)後の3世紀ほど、律令時代と呼ばれる時代が続きます。律令時代という呼び名は、法令や規定をしっかり制定し、それに則って中央集権制度を運営した時代ということから、後世につけられた名前です。当時、法の整備は、「律」「令」「格」「式」の構成で行われていました。

「律」と「令」は、国家の根本法・原則法であり、「格」と「式」はその補充法、細目条例・規定というべきもので、『「式」は律令格などの規定の細則を定める付属法令であった』と延喜式研究の第一人者として知られた虎尾俊哉は書いています(「延喜式」日本歴史叢書、吉川弘文館)。

「延喜式」が編纂されたのは、延喜五年(905)から延長5年(927)にかけての通算22年。905年に詔勅が下りて編纂委員が任命されましたが、完成された時には、当初からの編纂委員は一名しか残っていなかったという長丁場の作業でした。

延喜式は、名前の通り「式」にあたり、900年前後の時代の司法・立法・行政の各役所が任務を遂行するために必要な細則が、全50巻に集大成されたものです。

その内容は、具体的には、朝廷の毎日の行事とその進め方から、各役所の年間行事や開閉門時間、朝廷用の衣服の縫製の仕方、さらには、税制とその徴収実務・刑罰……など、役所ごとの、業務遂行の細かな細則が、記載されています。

私はどちらかと言えば手当たり次第興味を持った本を読むという乱読タイプです。いろいろな書籍を読んでいるときに、ある行事や習慣などの出発点やルーツの話になると決まって「延喜式によると……」という表現が出てきます。

気になっていましたが、ずいぶん時代をさかのぼった資料で、とても素人が手を出せるシロモノではないと思い、読もうという気もおこらずにいました。が、ある時、たまたま立ち寄った書店で、前掲の吉川弘文館・日本歴史叢書『延喜式』を発見し、手にとってペラペラとページをめくってみて、おどろきました。なんと、さまざまな行政にまつわる数量規定がたくさん記載されているではありませんか。

読んでみて、目からうろこでした。規定されている数字を「標準」と読み替えてみると、私たちが教えられてきた日本人像とは、また別の面が見えてくる気がしたのです。

そこに紹介されている数量規定の細かさは驚きでした。これは業務規程、作業標準、標準時間そのものではないか、というのがその時の第一印象です。牛車に揺られて、光源氏が恋を語っている時代の100年も前に、役所の仕事が、細かな数値をつかって管理されていた、というイメージの落差が大きすぎたのです。

失礼をも顧みず、著者の虎尾先生にそんなことを書き、当時館長をされていた佐倉の国立歴史民俗博物館に押しかけて行ったのでした。
先生にとっては、歴史や民俗学の専門家ではない門外漢が延喜式に興味を持ったことが、面白かったようで、素人のぶしつけな質問に、半ばあきれながら、贅沢にも、博物館の応接間で即席の「延喜式講座」を開講してくださり、その後、館内をご案内いただきました。

私にとっては、例えば、天皇陛下を中心として政治を行う場所、体制を「朝廷」と呼ぶのは、天皇を中心として政務を執り行う役所が朝(午前中)だけ開かれていたから、などという、専門の方にとってはイロハのイのようなお話も、目からうろこでした。

以来、延喜式が気になり、暇な時間を利用して調べてみました。さいわい、自宅の近くにある神奈川大学が、地域貢献活動の一環として図書館を地域住民に開放するという制度を実施しており、これを利用させていただいて、『延喜式、上中』(虎尾俊哉、訳注日本史料、集英社)を拝見させていただくようになりました。読み進むたびに驚きの発見があり、まさに情報の宝庫でした(最近やっと、「上」「中」に続いて「下」巻が刊行されました)。

■税は都まで”納税者”が持参する
製造業でものづくりや改善のお手伝いをしている人間から見れば、延喜式の作られた900年頃は、極めて単純で原始的な管理が行われていたと考えるのが普通です。
原始的なという意味は、大雑把な計画や目標はあるとしても、そこに達するまでのステップやプロセスが明確に示されていたり、また、標準的な作業法や、時間が明確に設定されていて、目標を達成するまでの緻密な計画がつくられているというようなやり方はされていなかっただろうということです。

なんといっても、時間の進行が不定時法で、朝廷が管理する漏刻と呼ばれる水時計で時間を計測し、太鼓や鐘を打って知らせていた生活リズムですから、緻密な時間管理そのものが不可能、管理全般が緩いものだったと考えるのが普通です。

ところが、それがそう大ざっぱに管理が行われていたわけではないようなのです。
例えばこんな具合です。

当時もいまも、国家を運営するための基本的な財源は税金です。
当時の税システムは、歴史で習ったように租・庸・調・雑徭(ぞうよう)の四種類で行われていました。
庶民は、計帳と呼ばれた住民基本台帳に登録され、口分田と呼ばれる田畑が貸与され、借りた面積に応じた税の納入義務を負いました。税は現物納付です。基本は米で、それが「租」です。

「庸」「調」は住民基本台帳に従って成人男子に課せられた役務で一般には絹・糸・真綿・地域の特産物などで納められていました。
「雑徭」は道路や建設に関する用役で、年に60日以下が課されていました。京などでは、都市整備のための工事も必要だったことから、庶民は庸・調を免除され、代わって道路工事などの用役に駆り出されることが多かったようです。

租庸調雑徭……ということばは、税の仕組みとして歴史で教わった記憶がありましたが、改めて資料を目にして、当時(西暦900年ころ)、計帳と呼ばれた住民基本台帳がかなりの精度で整備されていたということが、驚きでもありました。

税の徴収は国家運営の基本なので、計帳がしっかり管理されているのは、言われてみれば不思議ではないのですが、時代は900年ころのことです。少し前に菅原道真の意見で遣唐使が廃止され、大陸からの文化輸入を止めています。

驚いたのは計帳だけではありません。
税は、納税者が自分で都まで持参するというのです。
「ええーっ??交通手段も何もない時代に、全国各地から京まで、納税者がわざわざ持参するなんて、そんなバナナ?」と思いましたが、事実は教えられたとおりでした。

交通手段がない、と思ってしまうところが現代人で、歩いて持参するという原始的な方法が意識からすっぽり抜けています。重い荷物があれば、馬に背負わせればいい、まさにその通りに、納税者自身が都の中央の役所まで、国府の役人に付き添われて歩いて搬送することになっていたのです。

行政組織は、中央政府―国―郡(里)という仕組みで、国には国司が置かれていましたが、国司には地方自治を行うほどの体制は整っておらず、業務はもっぱら徴税の管理にありました。税を徴収するのではなく、“納めさせる”ことが仕事だったのですね。

一人一人の納税者が都の中央政府まで運ぶのは不可能なので、村では人選をして、運ぶ代表者を決めて対応しました。これを運脚人と呼びました。

村から納めるべき物品を搬送するためには人手と費用がかかります。その間は自分の仕事もできません。なので、運搬する人のために中央政府が費用の一部や日当を支払います。

国司は費用を支払うために、中央政府に支払金額を申請することになりますが、そのためには費用算出の基準が必要です。それが京への運送費を支出する場合の算定基準として「延喜式」に明確に記されているのです。馬に荷を積むときの積む量も、産品ごとに明確に定められています。

律令国家の行政組織


■一日の行程は30キロ
一例をあげると、こんな具合です。
運搬する日数に応じた日当を支払うとして、納税品を地元から都まで運搬する所要日数を算出する必要があります。そのため、全国各地から都までの距離と、一日に進むべき距離を明確にしなければなりません。

中央政府がある京から各地方の都までの距離は、その遠近によって近国、中国、遠国と分けられています。
例えば、信濃の国を例にとると、信濃の国は「中国」とされ、

・都から信濃までは560里
・荷馬一頭に背負わせる絹は70疋(布の大きさは1尺9寸×84メートル)で、
・所要日数は荷を積んだ上りは21日
・荷を下ろした空身の帰りは10日
で運搬すると決められています。

この日数を基準として補助金を算出しているのです(『延喜式、上中』(虎尾俊哉、訳注日本史料、集英社))。
これはまさに、現代で言えば旅費規定、物流規程です。

当時は、そのために七道と呼ばれた東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道が整備されており、30里(当時の1里は540メートル=約16キロ)ごとに駅が設けられ、荷物の運搬用に、各駅には伝馬の用意もされていました。

往来も少ないこの時代に、街道がなぜそんなに整備されていたのかと、最初は不思議でしたが、税をしっかりと徴収するためには搬送用の街道を整備することが必要だと知って、なるほどと納得しました。街道は、往来が少ないどころか、税の納付者である運搬人の往来で、かなりの混雑だったのではないかと思います。

したがって、駅伝馬の使い方などもしっかりと決められていたわけです。
たとえば、京から信濃へ行くには東山道が利用されました。京―近江―美濃―中津川―塩尻と経由して、国府(国司がおかれていた町)であった松本に至る道で、距離は560里とされています。キロメートルに換算すると約302・4キロです。

現在のJRの路線図で見ると、京都―松本間が335・7キロになっています。東山道は、ほぼこれに沿っていますので、誤差は10パーセントほどで、なかなかの精度と言っていいかもしれません。

日数として、上り下りの準備に何日か費やすとして、荷を積んで平安京への上りは、積み荷の準備や宿場ごとの積み替え(伝馬の積み荷は駅ごとに積み替えねばならなかった)などを勘案して、21日、空身の帰り道は10日と設定されています。日数で計算すると、荷を運ぶ上りは1日15、6キロ、帰りは身軽で30キロを歩いたというところでしょうか。当時の人たちはかなり健脚だったと考えられます。

七道と呼ばれた東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道




■精度の高い距離算出
信濃以外の各地域も、近国、中国、遠国と分けられ、以下のように規定されています。

・近国:畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)、東海道(伊賀、伊勢、志摩、尾張、参河) ・中国:東海道(遠江、駿河、伊豆、甲斐)、・・・
・遠国:東海道(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸)・・・・以下、北は、出羽、陸奥〜南は、大隅・薩摩まで・・・

それぞれの距離もしっかり確認されており、京からの距離を一里=540メートルで、メートルになおしてみると、以下のようになります。ちなみに(  )内は、現在のJR路線の京都からの距離です。

・近国:越前315里=170q(福井148q)、安芸490里=264q(東広島?348q)
・中国:信濃560里=302q(塩尻322q)、伊予560里=302q(西条353q)
・遠国:伊豆770里=415q(三島393q)、安房1190里=642q(鴨川646q)、
 常陸1575里=850q(日立801q)、佐渡1325里、隠岐901里、土佐1225里

JRの線路と比較してみると、当時の七道と現在の鉄道路線との差や距離の丸め、誤差などを前提とすれば、当時の距離の算出はそれなりの精度といっていいでしょう。

直線が多い鉄道と比べて、道路は曲がりくねっていたはずで、距離はもっと長くなるのではないか……というご意見が出そうですが、じつはそうでもないようです。
古代道路(鎌倉時代以前の道路)について研究をしている北海道教育大学教授の中村太一は、「古代道路の第一の特徴は、とにもかくにも「まっすぐな」ことである。場所によっては10キロメートルにわたってまっすぐな区間が続いていることもある。駅路は、このような区間を組み合わせた道路として、全国的に作られている」と書いています。なので、鉄道路線のように比較的カーブの少ない道が作られていたと考えられます。

こう紹介してくると、どうしても延喜式に記載されている距離の測定精度にこだわりそうになりますが、いまから1100年以上も前の話です。測定精度は時の技術レベルに従いますから、高度な技術が発達した現代とは比較にはなりません。ここでは細かな精度にこだわらずに、大雑把にとらえておく方がいいでしょう。

重要なのは、精度ではなく、距離を計測し、その数値に基づいて行政を行うという、現代と全く同じやり方で、業務が管理されていたということです。
逆に言えば、21世紀になって、当時と比べて、何が変化したかと言えば、ただ計測技術は進んだだけ、基本的なやり方は昔から全く進歩していないと言えるかもしれません。
遠国、中国、近国の区分



■律令時代の物流規程
寡聞にも、伊能忠敬以前の10世紀に測量をして地図を作成したという話は聞いたことがありませんが、中央の朝廷が租庸調雑徭の税額を算出するためにも、ある程度の面積計算や距離の算定が不可欠なはずですから、それなりの地図は作られていたということになります。

実測で初めて地図を作ったとされている、伊能忠敬をさかのぼること、1000年の昔です。測量、地図作成に関しては、日本の歴史からこのことが全く欠落しているのはどういうことでしょうか? 専門家の意見をお聞きしたいところです。
設定されていたのは距離だけではありません。

駅に設けられていた伝馬を管理する部署もあり、伝馬を使用する際の規定なども明確に定められていました。このほかに、

・運搬人に支給する運搬中の食糧の米の量は、出発より官に納めるまでは1日米2升(当時の1升は4合)
 塩2勺、帰りの工程は半分(荷物なしで軽いために支給量は半分?)
・陸路の荷馬一頭の運賃、産品ごとの1頭のウマへの荷駄の積載量
・米一石当たりの船賃、水手の賃金
・運搬人の日当
・海路を使う場合の水夫への手当、積載量
……など、さまざまなものが「諸国運漕雑物功賃」として細かく決められているのです(『延喜式』「主税式」巻26・27)。

こうした数量規定はさまざまな分野に及び、例えば、高級絹織物を織り、染色などを行う織部司について、「織部式」の中で、機織作業の作業者の定員から、

・高級絹織物の一疋(長さ5丈1尺・広さ2尺2寸)あたりの原糸量、
・織手の数、
・一日あたりの法定工程量

などが、長功(夏の長時間働ける日)、短功(冬の短時間しか働けない日)に区別して設定されています。
これらの数量規定は、もとはと言えば中国の隋・唐のものをまねて制定したものです。しかし、ここまで細かいものは中国にはありません。

この詳しさは、当時の時間感覚や管理レベルから考えると、緻密さは何と表現したらよいのだろうか、驚異的ではありませんか。現代の旅費規定にも匹敵しますね。こんな緻密さで業務管理が行われていたことに、驚きます。
各地方からの運送支給額を定めた「諸国運漕雑物功賃」


■水時計で不定時法を管理
朝廷の役所の門の開閉時間も記されていますが、その時刻が、不定時法に合わせて日数の経過とともに少しずつずらされて設定されているのです。この緻密さは、現代の私たちに通じるものです。

不定時法では、日の出が明け六つ、日の入りが暮れ六つとなりますから、定時法でみればこの日の出/日の入りの時間は、毎日変化することになります。

明石の標準時で日の出時間の変化を見ると、

              
時  季  日の出時間
春分の日 (6:03)
夏至の日 (4:46)
秋分の日 (5:47)
冬至の日 (7:02)

という具合です。
日の出(明け六つ)、日没時間(暮れ六つ)は、年間で2時間以上、1日に約45秒変わります。1週間で5分前後、ひと月に20分前後変化します。

当時は、漏刻と呼ばれる水時計が使われていましたので、不定時法の環境で、毎日、日の出・日の入りに開門、閉門しようとすれば、漏刻の時間の進み方、つまり水の溜まり方を毎日変化させておかなければなりません。延喜式では1年間を21に分けて、昼夜ごとに、21通りの目盛を作成し、開門、閉門時間をずらしています。

古代から、時間管理は支配者の特権で、この時代も、時間は朝廷が太鼓を叩いて知らせていました。太鼓の叩き方も、定時の通報、開門・閉門、その他行事の開始・終了時間の知らせ……などなど、それぞれ規定されています。

こんな面倒な作業をよくやるものだ、とあきれますが、こうしたこだわりが現代の私たちにないかと言えば、「そういえば……」と思い当たるフシもないわけではありません。
それにしても、現代の会社もびっくりの、見事な出張旅費規程、物流規程、作業規定ではありませんか。

これらは、わたしたちがいま一般に、標準と呼んでいるものにほかなりません。
科学的管理法に先立って1000年以上も前に、先人がこんな細かい規定を作り、それで業務を処理していたことをみると、私たちの祖先が計数管理に弱く、どんぶり勘定で行っていたと、言ってしまっては、申しわけない気がしてきます。

日の出(明け六つ)、日の入り(暮れ六つ)を基準とした不定時法の時間


■三つ子の魂は千年を超えて
当時の日本にとって、大きな情報源は大陸の先進国「隋」や「唐」でした。自分たちの存在を大陸政府に認知してもらい、仏教や国家制度、法律など先進情報を得ることが重要な課題でした。

そのために歴代の朝廷は盛んに大陸に人材を派遣し、情報を吸収しようとします。
聖徳太子が遣隋使を送ったのが最初とされていますが、経典や法典を学び、輸入することを目的に、1回数十〜数百人という多くの人材が大陸へ派遣されました。

遣隋使の後、遣唐使が派遣されましたが、天候によって海難事故も少なくなく、無事に到着する率は8割程度と言われています。鑑真などもこれで来日していますが、いずれにしても命がけの事業で、留学僧などは、数年から数十年と滞在し、大量の経典や法典などの資料を書写・購入して持ち帰ります。

この学びへの強い欲求はどこから来るのでしょうか? 前項で紹介したエズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の趣旨は、アメリカ人に対して、「経済成長を実現した背景にある日本人の学び精神に学ぼう」と呼びかけるものでした。日本人の学ぶ姿勢が、現代でも高く評価されているのです。

遣唐使・遣隋使ですが、持ち帰った資料を基に、隋、唐の制度を真似て、国家の仕組みを作り、法令を施行します。そして、日本でも同じように、法令をまとめようという動きが出てきます。

こうしてまとめられた資料「延喜式」は、それまでに個別に作られたさまざまな法令や条例を整理・統合、アップデートして集大成したもので、延喜五年(九〇五年)に勅命が下りて編集委員が決まり、延長5年(927年)に完成。施行されたのは康保四年(967年)という62年がかりの、全50巻、約3300条からなる壮大な法典です。当時の4、50年という人間の寿命を考えると、何世代かにまたがった大変な作業でした。

内容は、まつりごと=行政を行うにあたっての具体的な細目、実施法です。行政執行の百科全書と言ってもいいと思います。
これほどの規模の法典は元祖の中国でも作られていません。まねて作ろうとした後追いの日本が、実は本家を越える膨大な法典を作ってしまったというわけです。
何よりも、本家にはないほどの、緻密な計数管理が行政で行われているという点に注目しないわけにはいきません。

いまを去ること1100年以上の昔の話です。貴族たちが牛車でゆったりと異動している時代に、業務をこれほど明確に数値で管理していた緻密さに驚きます。私たちの祖先もなかなかやるではありませんか。

私たちの中に、こうしたことを行う何らかの性癖、資質が、この時代からあったという以外にないと思います。三つ子の魂百までと言いますが、戦後の統計手法の活用がスムーズに行われたのも、もしかすると、律令時代以来の数値活用の経験が、千年の時を超えて、通奏低音・DNAとなって私たちの中に受け継がれていたのかもしれません。


■参勤交代のダイヤグラム
生産管理、スケジュール管理の世界でよく使われる手法に、PERT、ダイヤグラムというのがあります。ある製品を作るまでに10の作業が必要であった時、どのような組み合わせと順序で行えば最短で完成させられるか、作業を線で結んで、最適な作業経路・スケジュールを見つけ出そうという手法です。実際にプロジェクトのスケジュール管理などに、よく使われる便利な手法でもあります

これらの手法は、戦後、大きくなったプロジェクト計画を効率的に立てるために米軍やデュポン社などで開発されたものと教えられましたが、実は、こうしたダイヤグラムの手法をすでに1600年代の末に考案し活用していたサムライがいるのです。

当時の幕藩体制では、各大名は、一定期間ごとに江戸での勤務(参勤)と領国での勤務(交代)が義務付けられており、大名にとってそのための移動は一大行事でした。
加賀藩のような大藩になると行列に参加する部下の数は2000名を超えます。移動と宿泊の計画づくり、随行武士の食事など、参勤交代での移動は「旅」ではなく「行軍」とされていましたから、道中は戦の際の移動=行軍と同様に自家調理しなければなりません。

なので、事前準備と物資の搬送、通過後の処理などの兵站は困難を極めたそうです。合戦と同様に移動計画を担当したのが軍学者で、いかに費用をかけずに効率的に行うかは、かれらの知恵の絞りどころでした。

当時の宿場の規模は、それほど大きくなく、例えば、一茶の生まれた北国街道の信州・柏原宿(現信濃町)は旅籠が23軒、間口の最大は24間が1軒で、本陣でさえ間口17間。座敷坪数で見ると、本陣が15坪あるが、あとは7坪が2軒、他は2、3、4坪しかありません。7坪といえば、しきりに1坪を入れて6畳間が2つで、本陣を除けばほとんど民宿のような兼業農家の旅籠ばかり。合計坪数は86坪で(『参勤交代道中記』忠田敏男・平凡社)、全部を借り切って畳一枚に2人を押し込み、廊下に寝かしても200〜300名ほど、民家に分宿しても数百人しか泊まれません。

2000人が動く加賀藩では、どの宿場でも一つの宿場で全員が宿泊することは不可能なので、前後の宿場に分宿することになります。当然、野営するケースもありましたので、それが可能な季節を選ばざるを得なかったようです。手配をする細工人(今でいえばツアコンですねえ)と食事を作る料理人は行列に先行し、到着までに準備を整えます。行列のしんがりは、一日遅れて、財務を担当する家老が追いかけ、宿場でかかった費用を精算していくという次第。北国街道の各宿場にとっても、加賀藩の参勤と交代の行列は年に一度の一大イベントだったのです。

ことは順調に進むとは限りません。天候はおてんとうさま次第。移動の途中で雨が降って川が渡れなくなれば足止めをくい、宿の手配から食事の世話まで予定が変更されます。いまでも総勢2000人の社員旅行といえば、雲をつかむような大変さ。それが天候に左右されて、毎日のように修正が生じるのです。当時のインフラを考えると、その煩雑さは想像するだに、頭がおかしくなりそうです。

加賀藩の参勤交代での金沢〜江戸間の移動日数は10泊11日〜15泊16日ほどで行われたようです。ルートも、金沢から琵琶湖東を通り、関が原を抜けて中山道へ入る道と、北国街道を糸魚川で南に入り長野を通って追分で中山道に合流するコースがあります。

この間、さまざまな事態が生じますので、つねに臨機応変に街道、支道を選択できるようにしておかなければなりません。そこで、生まれてきたのがダイヤグラムの考え方。 宿場を網の目のように繋いで、状況に合わせて自在にルートを選択できるようなダイヤグラムを作っておけば、どのルートを選択するとよいか、一目瞭然です。そう考えるのは現代の私たちですが、実は、それがすでにつくられていたのです(図)。

参勤交代のダイヤグラム。
11泊12日と9泊10日の両用のダイヤグラムで、行程を1日づつに区切ってつなげられ、どの宿場からも自在に旅程を組めるようになっている。加賀藩の軍学者・有沢永貞が考案したもの(『参勤交代道中記』より。金沢市立図書館蔵)。
2000人が行列に参加する加賀藩では、1日に払う金額が1,000万円ほどもかかったそうですから、いかに日数を短縮できるかも重要な課題でした。江戸に上る最終宿場も、上尾・鴻巣・蕨・大宮・浦和・板橋などが選択可能になっています(同書)。


参勤交代というと、ものものしい行列ばかりが強調されて伝えられており、裏で行われているこうしたロジスティックス面での対応などまったく表にでてはきません。しかし、全国の藩で、これだけの移動と兵站が、1年おきに行軍と同様な扱いで繰り返されていたわけですから、さまざまな知恵も生まれたでしょう。江戸時代というと、とかく柔軟性のない硬直した時代というイメージがありますが、逆に厳しい条件が付けられ、制約されていただけに、それをカバーするためには実務的にはさまざまな工夫が凝らされ、PDCAが回されていたのではないかと思います。

写経生の集中した仕事ぶりと、しっかり写された経典の高度な品質、延喜式に見る緻密な数量規定、そして複雑な兵站を見える化して効率的に処理した江戸時代の軍学者……などなど、そこに現代の私たちのマネジメントにつながる工夫の一端が垣間見られるような気がします。



第5章 科学より技術に向かう職人たち

■パクリが出る江戸時代の人気本の秘密――諸国名産案内
北太平洋に南北に延びる日本列島では、地域ごとに特徴のある産品が生み出されています。各地域で作られるそうしたさまざまな産品への関心の持ち方も、わたしたちに特有なものがあります。

書店には旅や食べ歩き、名店紹介などの書籍や雑誌、ムックがところ狭しと並んでいます。百貨店の催事として行われる地方の「○○物産展」とともに、雑誌の特集も、定番の人気プログラムになっています。こうした、名産品を紹介する書籍の出版や物産展の人気は、最近の特徴・・・と思いがちですが、いまに始まったことではないようです。日本人の物見高さは、伊勢詣りと称した弥次喜多の東海道中膝栗毛でもおなじみですが、これも遺伝子に組み込まれているのかと思われるほどハンパないようなのです。

1754年に出版された、平瀬徹斉著、長谷川光信挿画の『日本山海名物図会』は、各地の名産品を挿絵で紹介するカタログ本です。第一巻「鉱山」、第二巻「農産物・加工品」、第三巻・第四巻「物産品」、第五巻「海産物」が紹介されています。

江戸幕府が定まって150年、このころには、各藩が奨励した新田開発や地場産業の育成策も成果をだしはじめていて、各藩の名産物などの販売を活性化するための物産会所が、各地に設けられるようになりました。伊勢詣りと並んでこうした物産会もまた、庶民に産業や産品への強い関心を呼び起こしたようです。

そして、こうしたものを紹介するために案内書が作られるようになります。いまでいえばカタログ誌ですが、諸国名産品の紹介など、庶民の好奇心をくすぐり、大いに流行ったそうです。その一つが『日本山海名物図会』と呼ばれる書籍です。

同じように、『日本山海名産図会』なる本も出されています。わかりましたか?
同じような名前で、すーっと読むと見逃しがちですが、『日本山海名物図会』の「名物」が「名産」になっただけの完璧なパクリです。

中国で縫製業がはやり始めた80年代、工場用の高速ミシンは日本のJUKIやBrotherブランドが高い品質で人気でした。そのころ、上海の見本市に行くと、JUKIと並んで、地元メーカーの、JAKI、JUJI、JIKI,JUKU・・・などの名前を付けたミシンがところ狭しと並んでいました。『日本山海名産図会』は、そんな中国人もびっくりの柳の下の二匹目のドジョウを狙ってパクリ本です。

江戸時代のベストセラー『日本山海名物図会』(国立国会図書館蔵)


■関心は名産品より“つくり方?”
こんな書籍が出版されるほど人気が出たということが言えるのですが、よく見ると、なぜこうした書籍があの時代に、そんなに売れたのか、実は、これが非常に不思議なのです。 書名から見ると、各地の名産品を紹介するカタログ誌のように見えますが、中身はそんななまやさしいものではありません。
たとえば、『日本山海名物図会』の第一巻は、鉱工業の産品ですが、挿絵入りで紹介されているのは、金山堀口、銅山諸色渡方、銅山鍛治、金山諸道具、金山鋪口、金山鋪口の中、ノ石くだく、銀山淘汰、山神祭、釜屋、銅山床家、鉛、真鞴(吹)、大工所作、金山淘汰、南蛮鞴(吹)、鉄山、鉄蹈鞴(てつふみたたら)、灰吹、銅山ふき金渡し方……などなど。
字は読めなくても、また意味が明確に分からなくても結構です。目で見て、おおよそどんなことが書かれているのか、読み飛ばしていただいて結構です。フリガナをいれた鞴の文字が「たたら」です。
たたらとは、ふいごのことですね。製鉄では強い火力を起こすために、ふいごを踏んで風を送りますが、この作業を、たたらを踏むと言います。たたら製鉄とは、たたら(ふいご)を使って火を興して鉄を溶かすので、たたら製鉄と言います。
この鉄蹈鞴のページ(上図)では、たたら製鉄の現場でたたらを踏んでいる図が紹介されています。片側に3人ずつ計6人でたたらを踏んでいます。すべてがこの調子です。
名物図会といいながら、「名物」の紹介ではなく、それを採集している現場と、作っている現場の「名物産品の現場紹介」の本なのです。現代風に言えば、メイキング本、「ものづくりの現場拝見」です。『日本山海名物図会』というタイトルの書籍の中身が、製鉄の現場でふいごを踏んでいる作業風景とは、いったい誰がどのような関心と目的で手に取るのでしょうか? 現代で言えば、オタクの世界そのものです。

しかも驚いたことに、『日本山海名物図会』は、1754年に発行された後、1797年、1829年……と都合、3回も発行されたものが見つかっています。2刷、3刷、と重版しているのですね。当時の事情を考えれば大ベストセラーと言っていいでしょう。
解説もありません。専門書というには網羅的すぎて浅く、ここから同業の専門家がものづくりのノウハウを得ようという実務書には無理があります。ということになれば庶民が手に取って見たのでしょう。
諸国名産に関心があるだけではなく、その作り方、現場の様子に関心を持っている庶民とは、いったいどんな人たちなのでしょうか? かなり物見高く、好奇心も旺盛だったことは間違いないようです。諸国名産品の形や料理法や味への関心ならばわかりますが、作り方への興味とは、どういうわけか? しかも製鉄現場です。好奇心の方向がおかしくありませんか、と聞きたいところです。
日本という国の国民、ものづくりへのこだわりぶり、尋常ではありません。
何とも不思議な民族ではありませんか。


■農業技術の改善――こき箸から千歯こきへ
ものづくりという面で、長い間日本人の最大の関心事は米の生産でした。
税金、年貢が米で納められ、各藩や武士の禄高が米で決められましたから、経済はいはば米本位制、農民も藩も米の収量を増やすことがそのまま豊かさにつながります。
戦国時代を経て秀吉が天下を統一し、徳川家康によって幕藩体制が構築されると、農民が兵力として借り出されたり、畑を荒らされたりしていたいくさがなくなり、世の中が落ち着いてきます。
各藩では税収の拡大をめざして新田開発が奨励されるようになります。藩をあげての開墾が進められ、耕作面積が増えていきます。1代目、2代目、3代目……と新田開発の努力が続けられ、農地が広がって米の収量が増えて、農民にも余裕が出てきます。
農家も何代かを経て新田が次々と開墾され、収穫が安定し、年貢を納めてもコメが余るようになります。余った米が市場に出されて、市場経済が生まれ、農業に依存せずに生きる町民が増えてきます。消費経済が活発になり、経済がバブル化して、絢爛豪華な元禄時代(1688年〜)になだれ込みます。

1600年代は、こうした新田開発で高度成長を実現し、経済が活性化した時代でした。しかし、新田を開発するのも限度があります。開発可能な土地があらかた開発されてしまうと、現在ある農地での収穫量の増大を目指す生産性向上の方向に目が向くようになります。
農業で人手が求められるのは、田植えと収穫の時期です。最大の課題は、最も人手が必要になる収穫作業でした。ここで、効率化をめざしてさまざまな工夫が凝らされ、道具の発明・改良が行われるようになります。
刈り入れた稲から実をそぎ取る脱穀作業は、1700年頃まではこき箸と呼ばれる道具が使われていました。竹を2つに割って下端を縛り、右手で掴んだ稲をこき箸に挟んで左手で締め、稲を引いて実を落とすというもので、作業をするには力も必要で、作業効率は極めて低い方法でした。おおむね女性の仕事で、終日働いても作業量は約2斗ほどだったといいます。 こうした中で、元禄期(一1688〜1704年)に大阪・高石で使われ出したのが、大きな櫛のような千歯こきと呼ばれる道具です。両手を使って引き抜けるために作業量は一気に増え、一日の作業量は一石二斗と6倍になりました。能率の良さが認められて、千歯こきは瞬く間に全国に広まっていきます。

当時の農業のノウハウを紹介した『農具便利論』にも、「昔時 備後の国 福山なる商人、伊勢大神宮へ詣づるとて浪速に着ぬ」という書き出しで、備後の国・福山の商人が大阪で千歯こきを見つけ、大量に仕入れて国に持ち帰って売り出したところ、わずか2年もしない間に300両ほどの売り上げになり、相当に利益を得ることができたという話を紹介しています。(図)

千歯こき(農具便利論:国立国会図書館蔵)

■第一線で展開される実践的な改良
この千歯こきの話から、伊勢講は庶民の楽しみとして古くから行われただけでなく、農機具や農業技術を各地に伝える重要な機会にもなっていたことが分かります。
これは、逆にいえば、いかに農民たちが、優れた栽培法や効率的な作業方法、道具を求めていたかを物語るものです。そして千歯こきも、各地でまた改良が加えられて伝播していきました。 『農具便利論』には、改良され使われている例として、さまざまな鍬の図が紹介されています。紹介された先でまたその土地に合わせて工夫・改良が加えられたもので、柔らかい土壌用、固い土壌用、湿地用、畑用、田んぼ用、粗おこし用、畝おこし用……などその形は、じつにさまざまです。
とはいえ、同書には、たびたび、「農夫は古い習慣に固執してなかなか新しい道具を使いたがらない。もっと柔軟な発想で積極的に新しい道具を使用するべきだ」といった意見も紹介されています。積極的に工夫を加えて新しい道具を導入しようとする人たちがいる一方で、従来のやり方を変えようとしない人たちもいることが分かりますが、このあたり、いつの時代にも変わらないようです。
明治維新以降、新しい動力源の開発で農機具は大きく変化しました。しかし、コメ作りの基本的な知識やノウハウに関していえば、コメの栽培に関する基本的な技術は江戸時代に完成され、以降ほとんど大きな変化はないと言われています。
私たちにとって、江戸時代の農業と言えば、どうしても人手作業に頼り、抑圧された農民たちによる発展性のない職業というイメージがあります。映画や小説などで描かれる江戸時代の農民は、そういう人たちとして描かれていますが、実際はどうだったのでしょうか。
全国を股にかけて教えて歩く指導者がいて、また、伊勢詣りなどを通じて全国規模の情報交流が行われ、改良種の種子もかなりオープンに伝播していたようです。また、農業書も流通し、実践的な栽培技術の改良が進められていました。
農業の専門家に聞くと、米作の技術は江戸時代でほぼ完成されていたそうです。そんな話を聞くと、江戸時代の農民や、当時暮らしていた人々のイメージが大きく変わって見えるではありませんか。
いかにも日本的なのは、その仕組みです。農夫たちは庄屋を核として、第一線で田畑の管理と栽培を行い、米作の実践的な生産性向上の努力を続けていましたが、他方で、幕府や藩は、米作に代表される農業生産によって経済が成り立って<いるにもかかわらず、生産性を高めるための研究面での支援をあまり行ってきませんでした。
言い換えれば、江戸時代を通じて、科学としての農業はほとんど扱われず、もっぱら道具や栽培法などのコメ生産の実践技術的な改良が続けられてきたということです。
つまり、米作を中心とした農業は、科学として研究されずに、道具や栽培技術の実践的な実験と研究が農民自身によって行われてきたわけです。


さまざまに改良されたクワ(農具便利論:国立国会図書館蔵)

■不定時法に合わせた時計の工夫
江戸時代を通じて、農業においても道具や装置は大きく工夫・改善されてきましたが、日本人の機械的な工夫という点でよく語られるのは、からくり人形と和時計づくりの技術です。 とくに和時計は、不定時法というややこしい仕組みの中で工夫された、世界にもまれな道具です。こんな時計を生み出す国、こんな面倒な工夫を実際にやってのける国民は、世界でもただひとつ、日本人だけです。このことだけでも、ものづくりにおける日本人の特殊性が分かるような気がします。
前章の延喜式の項でもご紹介しましたが、不定時法では、日の出が常に「明け六つ」、日没が「暮れ六つ」です。
日本の標準時で見ると、夏至は昼が14時間31分(夜は9時間29分)。冬至は、昼の長さは9時間56分(夜の長さは14時間04分)になります。江戸時代には、昼・夜をそれぞれ6等分して一刻(とき=約2時間)としていましたから、これを時計にすると、夏至の日の時計は、昼間の一刻の長さは2時間23分、夜は一刻を1時間47分にする必要があります(図)。昼は時計をゆっくり進め、夜は早く進めるわけですね。
日出時間/日没時間は毎日変化しますから、一刻の長さも毎日変化します。それに合わせて、針の進む速さを毎日変えなければいけません。日の出、日没が45秒ずつ早く/遅くなりますから、昼の長さは、夏至から冬至にかけては、毎日1分31秒ずつ短くなり、夜の長さは逆に毎日1分31秒ずつ長くなります。
時計を作っても、こんなややこしい時間の進み方を調整しなければなりません。そんな複雑な時計をだれがつくるでしょうか。
不定時の時計があるということ自体、海外では全く理解できないようです。定時、つまり、一定の速さで時間が進むから機械式の時計が作れるのであって、1分の長さが毎日変わるのを、どうやって機械化するのか、いや、毎日変わるということがおかしいので、一定の進み方にすればよいではないか……というのが合理的な考えでしょう。
ドイツ人に日本では不定時の自動時計があると紹介したことがありましたが、「意味が分からない」と言われました。定時法にすればよいのに、なぜいつまでも不定時法などというものを使うのか、それが分からないという意味と、そんなものを自動化しようという発想が分からないという両方の意味です。
時計作りの細工や加工の技術があるかどうかという問題ではなく、ことは、時間の進み方が毎日変わる不定時法という仕組みを受け入れて、それに合わせて道具を工夫してしまう、という生き方が、同じように技術に関心を持っている国民とはいえ、彼等には不可解なのですね。
このあたりのニュアンスは、ドイツ人だけではなく、日本人以外には理解不能かもしれません。


■時計の誕生で定時法に変えたヨーロッパ
と書いてきましたが、不定時法がヨーロッパにはなかったのかと言われればそうではありません。ヨーロッパでも、中世まで、不定時法が使われていました。生活のリズムとしては、日の出とともに活動を開始し、日没とともに活動を停止する方が、自然だからです。
しかし、14世紀なか頃に機械式の時計が作られ、町の中心にある市庁舎などに大時計が設置されるようになると、自然の成り行きとして、ほとんどの国で機械時計の進み方に合わせて生活時間が定時法に変えられるようになっていきました。
定時法への移行を早めたのが、1700年代のなか頃から始まった産業革命でした。工場労働で、給料算出と生産性向上の両面から、年間を通して変わらない1時間が求められ、より厳密な時間管理が不可欠になったからです。
こうしてヨーロッパ諸国では、機械時計が登場したことで、生活時間は不定時法から定時法へと変わって行きました。
これに対して、日本では、生活の時間を変えることをせずに、不定時法に合わせて時計を工夫することで、不定時法がそのまま続けられることになったのです。
機械時計がヨーロッパで発明されたのは14世紀中頃です。これがアジアにやってきたのは16世紀末から17世紀にかけてで、時代の先端を行くこのハイテクメカに対する対応法は、受け入れた国ごとにそれぞれ大きく異なっています。
例えば、中国では、最新のハイテクメカが広く活用されることはなく、宮廷内でむなしく時を刻む皇帝用の高級玩具の域を出ませんでした。このメカを目の前にして、自分達でも作ってみたい、というような動きにはつながらなかったようです。アジアの他の諸国でも同様です。
これに対して、日本では積極的にこれを工夫し、当時行われていた不定時法に合うように改良を加え、「和時計」と呼ばれる、世界的にも珍しい独自の機構を備えた時計を作り上げてしまったのです。
新しいきっかけを得て、現実の仕組みを大きく変えようとするヨーロッパと、仕組みを変えずに道具を工夫して現場で対応しようとする日本、この違いは、大きなものがあります。
定時法は、時間の進む速さは常に一定ですから、時計作りは難しくありません。そのため、ヨーロッパの国々では時計産業が発達し、時計を持つことは貴族たちにとってステイタスのシンボルになっていきました。
「フランスでは特に、時間を正確に測定するよりも、装飾的な価値が優先され、16〜19世紀まで、高貴な人の肖像画に、置時計や懐中時計をこれ見よがしに描き入れることが流行した」と京都産業大学文化学部・成田知佳栄は『フランスにおける時計と労働』で書いています。


■江戸版自動機――二丁テンプの和時計
それに対して日本では、相変わらず、夜明けと日没を境にして、昼/夜のそれぞれを六等分したものを一刻とする不定時法が使われていました。
不定時法に合わせた時計は、一刻(とき=約2時間)の長さも昼夜で変わり、それが季節の移り変わりとともに、毎日変化していきます。この不定時法で使える時計を作ろうとすると、夏至から冬至に向けて、昼は時間を短くするために針の進み方を少しずつ早くし、夜は長くするために針の進み方をゆっくりさせていく必要があります。冬至が過ぎると逆に、昼は針の進み方を少しずつ遅くし、夜には針の進み方を早くさせる必要があります。
前章の延喜式の開門時間の項でもご紹介しましたが、日の出、日没時間は、1日に約45秒ずつ変わり、1週間で約5分、ひと月に20分早く/遅くなります。
この変化に合わせて、どうやって針を進めるのか、それが課題です。
ここからさまざまな不定時式時計のための機構が生み出されるのですが、そのプロセスで、時間の進み具合の調整を自動的に行うという、とんでもないからくり機構を生み出してしまいます。 日に2回、自動的に昼夜の進みを切り替える二丁テンプの工夫がそれです。
時計はテンプと呼ばれる機械で、一定のリズムを刻み、針をすすめます。不定時の和時計も初期はテンプが一つでした。そのため、時間の進む速さが違う昼と夜のために、毎日、日の出と日没に、テンプのおもりの位置を移し替え、時間の進み方を変える必要がありました。この面倒さを避けるために施された工夫がテンプを二つにしてそれぞれ昼と夜のリズムを刻ませ、それを日の出と日没に自動で切り替わるようにした和時計です(図)。
これで、昼と夜の時間の進み方の変化を、自動的に切り替えて調整することは可能になりましたが、日一日と変化していく昼夜の長さ、季節の移り変わりは調整できません。そこで、年間を二四節句に分けて、二週間に一度、手で調整することで、季節の変化に対応させたのです。和時計の図で、テンプに刻まれているギザギザのミゾがこのための目盛です(図)。
前述のように、日の出の時間は、明石の夏至の日には4時46分、遅い冬至には7時02分と、年間で2時間以上、1月に20分、1週間で5分ほど変化します。この変化までは自動で処理できませんので、2週間に一度、手でおもりの位置を調整する必要がありました。
こうしたからくりを組み込む工夫と技能があったことも驚きですが、それ以上に、この難解な課題に対して、何とか工夫をしてそれを可能にしてしまおうとする職人の業のようなものに興味を持ちます。
これを、仕組みや設計の問題として解決するのではなく、現場の技能力でカバーすると言い換えると、そのまま、現在もあちこちの工場で日常的に起こっていることでもあります。これも日本人のDNAみたいなものかもしれません。

 
不定時法に合わせた2丁テンプの和時計(セイコー時計博物館蔵)
帽子の下のおもりがついて横に出ている2本ノ棒がテンプ。これが回転するリズムでメモリが進む。節季ごとにおもりの位置を中心からずらすことで、回転速度を変え、時間の進む速さを調整する。2本あるテンプを昼と夜で交互に動かすことで昼夜の時間の進み方を変えるしくみ。


■好奇心と技のスパイラルが生むからくり
 それにしても、こうした緻密な工夫と技はどうやって生まれたのでしょうか?
ずいぶん前のことですが、名古屋・御器所の伝統的なからくり人形師八代目玉屋升兵衛さんのアトリエをお尋ねしたことがあります。
現在は代が変わって九代目が継がれていますが、八代目玉屋升兵衛さんは、寛政8年(1796年)に土佐藩の細川半蔵が書かれた『機巧図彙(からくりずい』(首巻・上巻・下巻)の中の、茶運び人形など、いくつかを復元しているほか、祇園祭りの山鉾で長い間動かずにあった「蟷螂山(とうろうやま)」のからくりを復活させています。
復元した茶運び人形の機構などを詳しく拝見させていただき、からくり人形に施されている工夫についてお話を伺いました。和時計はこのからくりの技術を活かして作られたといわれています。その意味では時計もからくりの一つです。
『機巧図彙』に収録されているのは、
・首巻=掛時計・櫓時計・枕時計・尺時計、
・上巻=茶運人形・五段返・連理返、
・下巻=竜門滝・鼓笛児童・揺盃・闘鶏・魚釣人形・品玉人形
などですが、木材と麻ヒモ、動力源のぜんまいにクジラのひげなどを使って動力を伝え、精度の高い動きを生み出す工夫は見事で、動作のスムーズさは、見る人を驚かせます。
茶運人形は、前に伸ばした腕をスイッチに使い、掌にお茶を置くと客に向かって動き出し、客の前で停止。客がお茶を手に取って飲み、茶碗を戻すとくるっとまわって元の位置に戻る……というものです。
この人形も見た人を驚かせますが、なによりも見た人を驚かせるのは、五段返(ごだんがえり)(図)です。
上から下へ独立して五段に配置されたステップを、人形がバク転しながら降りてくるもので、なんの支えもない人形がくるくると回りながら柱の上を伝って一人で降りてくる仕掛けに、見た人々は、どぎもを抜かれたのではないかと思います。ロボットを知っている現代人でさえ、そんなことを、マイコンを使わずに機構の仕掛けだけでさせようとはなかなか思いつきません。
細工の緻密さにも驚きますが、なによりも、おもりに水銀を使い、ガラス管の中の水銀を体の傾斜で移動させ、体をバック転させる工夫は、斬新です。喜んで見る庶民がいて、からくりの工夫も生まれます。つくり方に強い関心を持つ好奇心旺盛な庶民が、こうしたからくりを目の当たりにして、仕掛けがどうなっているのか、興奮しながら口角泡を飛ばして推論し合う姿が目に浮かぶようです。庶民をあっと言わせ、催し物は人気を博しただろうことは、想像に難くありません。

五段返(「機巧図彙」)
人形がバク天をしながら、階段を次々に下りてゆく。
中に仕掛けられた水銀の移動を利用している。


■アイデア・美しさを活かす匠の技能
もともと和時計職人と言われていた竹田近江が、からくり一座の興行を行ったのは、1600年代の中頃からです。そんな時代の道具や材料でこんな工夫をやってのけてしまうすごさは、見事というほかありません。
観客のつくられたものに示す強い関心と称賛の声、からくりを生み出す作り手の技術と工夫、どちらが先でどちらが後か、鶏と卵の論争ではありませんが、お互いが相互に刺激し合って、からくり技術のスパイラルを高めてきたのでしょう。
こうしたからくりを完成させる裏には、素材や機構・動きに対する深い追求と考察があります。先代の玉屋庄兵衛さんに伺った折に、アトリエにあるおびただしいノミや彫刻刀の数に驚いたことを覚えています。
「からくりに使う素材は、場所や用途によってカシやヒノキなどさまざま。同じような歯車でも、求める動きでその形が微妙に違います。当然削るカンナもノミも違う。その日の刃の砥ぎ方で、歯車や支点の動きが違う」……そんな話を伺った記憶があります。
若いころは能面作りを志していたという玉屋庄兵衛さんが削る人形のやさしい顔が印象的でした。からくり機構だけでなく、人形の顔にも神経を注ぐ、工芸と呼ばれる日本的なものづくりの奥行のひとつです。
からくりに合わせた最適な素材を選び、素材に合わせた最適な加工を極限まで追求した結果、可能になる動きがあります。他の工芸品でもこの点は同様です。
海外の美術館に行くと、意外なところで日本の美術・工芸品と同時に、和製の道具に出会うことがあります。その多くは、江戸時代の南蛮貿易や明治時代初めに日本にやってきた人たちが収集して持ち帰ったものですが、工芸品としての質の高さが群を抜いているだけでなく、さまざまな道具に見られる工夫とていねいな扱いに驚きます。この道具の工夫と手入れがあって初めて作品があることがよく分かります。その結果作られる緻密さは、現地の細工物をすぐ横で見て実感していることもあって、感動的ですらあります。
 それは、アイデアや発想といった芸術的な創造性だけでなく、目を見張るような細工、洗練された色づかいと美しさ、そして何よりも、最後まで手を抜かずに仕上げられたていねいさに感動します。芸術品、アートというよりも、技巧を極めた工芸品という呼び方がふさわしいことを実感します。


先代玉谷兵衛さんのノミと人形の頭


■理論より技術にこだわり
 漆細工や螺鈿(らでん)などは言うまでもありませんが、刀剣や根付、帯留め、陶器なども実用的な機能と美しさを求めて生み出された工芸品の一つでしょう。
武器としての日本刀は、実際にいざという時に、強靭さと十分な殺傷能力を発揮できなければ意味がありません。その意味で、切れ味と強さが最も求められた道具です。刀と刀がぶつかった時に、どちらが折れずに機能するか、その強さは刀剣としての生命線です。 形としてシンプルでありながら、強靭に鍛えた鋼の肌目、刃に現れた特有の文様など、その美しさは息をのむほどです。刀だけでなく、鞘(さや)や柄(つか)に施された工夫や細工の奥深さもまた同様です。
日本刀は武器です。握る手が滑らないように、ぎざぎざのあるサメの皮を柄に巻くそうです。鮫皮の種類にも色々とあって、装飾的な価値を含めて、最高級のものは日本にはないので、わざわざ南蛮貿易で東南アジア産のものを輸入して使ったと言われています。
単なる芸術品としてではなく、武器としても並はずれた性能を備えた完成品を追求すると、柄に巻き、持ち手が直接触れる皮についても、そんなところまで求めてしまう、そのあくなき行為こそ、日本の伝統技術の真骨頂と言っていいと思います。
芸術と実用性を兼ね備えた工芸品が生まれるためには、そうした気が遠くなるような機能・美への追求があるのです。
鋼についても同様です。強靭で美しい鋼を作るには、試行錯誤と工夫、洗練された匠の感性と技が不可欠ですが、加工の技だけでなく、そうした鋼づくりの、熱処理や鍛造のプロセスにも独自の技術上のノウハウがたくさんあります。
しかし、「鋼」を作り出す技術が、科学として追求されることはありませんでした。あくまでも刀を作るために必要な「強靭な鉄」を造り出し、美しい刀剣として完成させる実務技能に徹しているのです。
アメリカの金属学者で技術史家のC・S・スミスは「日本の刀の仕上げは金属組織学者の卓越した金属芸術である」といい、「日本人は物理や化学の法則の世界にはほとんど寄与しなかった反面、いい鋼を作り、すばらしい熱処理・加工の技術を展開するというかたちで、経験的な手作りの知恵を古くから生み出してきた」と書いています(『江戸のメカニズム』収録「江戸の技術思想」飯田健一、たばこと塩の博物館)。
私たちは、なぜそうなるのか(why)という真理を追究するのではなく、どうすればそうなるのか(How to)ということに関心を持っているようです。これは、封建制度の下で、なぜ?という疑問を封印せざるを得なかった結果なのでしょうか。
確かに、日本人は理学よりも工学、実技・技術を重視する性癖があり、理屈より具体的な行動に重きを置くところがあります。
欧米の人たちは、「有言実行」に高い価値を置いていますが、日本人は逆に、「不言実行」を尊び、理屈が勝る人間を頭でっかちと称して嫌うところがあります。そんなところも原理原則や科学の探求に向かわず、ひたすら実践にのめり込んでいく、匠を生み出す土壌が作られてきた要因かもしれません。
鍛えられた鋼と刃物につけられた文様。


第6章 勤勉革命と能力主義の萌芽

■勤勉革命
日本人を語るうえで、勤勉、あるいはまじめ、というのはいまでも欠かせない要素になっています。そして、日本人の「勤勉」さはもともとDNAとして持っている特質だと、私たちは考えていましたが、どうやらそれはせいぜい第二次大戦後に獲得した行動様式に過ぎないということを、第一章で見てきました。

東京大学大学院経済学研究科教授の武田晴人も、工業化社会における日本人の勤勉さは、戦後になって獲得した労働のエートスであると書いています(『仕事と日本人』ちくま新書)。
そうなると、新しい疑問が生まれてきます。私たちが「勤勉=日本人のDNA」と思いこんでいる誤解は、どこから定着してしまったのでしょうか? 

一方で、むかしから日本人は勤勉だったという専門家もいます。
経済学者で慶応大学教授だった速水融(あきら)は、早くから日本人の勤勉さに着目してきた学者の一人です。速水は江戸時代における農民の勤勉さについて、産業革命をもじって「勤勉革命(Industrious revolution))ということばで説明しています。

一般に産業は、労働集約型から始まり、成熟するにしたがって道具が利用され、次第に機械化・設備化されて生産量を増大させていきます。農業も同様で、最初は人手による作業が行われますが、やがて道具が使われるようになり、さらに家畜等の利用(設備化)で生産性を向上させていきます。道具を活用することで、生産性=時間・人当たりの収穫量を増やしていくわけですね。

ところが、日本の場合はそうではなかったというのが速水説です。

「江戸時代における農業技術の発展方向は、労働生産性の上昇をもたらすような資本の増大(=設備導入(筆者注))を通じてではなく、むしろ逆に、家畜という資本の比率を減少させ、人間の労働に依存するという形態をとった」


というのです。(『近代移行期の日本経済』「近世日本の経済発展とIndustrious revolution」日本経済新聞社、新保博・安場保吉編)。

その一つの例として、江戸時代には作業を助ける家畜(馬や牛)はあまり利用されなかったと紹介しています。開発された道具は鍬や鋤、せいぜい千歯こき(脱穀機)や唐箕(とうみ:選別機)くらいまでなのです。

産業革命のお膝元イギリスなどの場合、技術発展の方向は、資本を絶対的にも相対的にも増加させ、逆に労働の占める比率を低下させるという方向ですすんだ、つまり、一単位当り投入される資本/労働の比率を高める性格のものであったが、日本は逆に、資本ではなく、より多くの労働力を投入して長時間激しく働く方向に進んだというのです。

速水は、この日本式の「より多くの労力を投入して生産量を増大させた」方式を、道具による改革である産業革命になぞらえて、「勤勉革命」と名付けているのです。
そして、「勤勉革命」の特徴は、なによりも、その労働が強制されたものではなく、農民たちの自発的な意志によって進められたところにあるとしています。つまり、年貢などの負担が大きいためではなく、農民がより多くの収穫を目指して自発的に勤勉になっていったというわけです。

この結果として、農民は隷属的な身分から解放され、農業経営に対して自身が責任をもつシステムになり、農業経営はもっぱら勤労によって維持・発展されてきた。「このような経験は工業化に際して大きな利益として作用した」と述べ、「一国の国民が勤労的であるか否かということは歴史の所産であり、日本について言うなら、それは17世紀以降、現在に至る僅々数百年の特徴なのである」(同)とまとめています。

つまり、速水は、ここで、農民は勤勉さによって生活水準を向上させ、それが工業化に際して、勤労的な国民にすることに作用したと述べています。
ここで速水が主張するように、もし、日本人が勤勉で、近代日本人が農民の勤勉さを受け継いでいたとしたら、明治初期に、工場で欠勤率21パーセントという工員や職人たちは、なぜ、その勤勉さを受け継がなかったのでしょうか。


■バブルが生むこだわりの職人
自然を相手にした農業は、自動的にやるべき作業が決まり、しかも手掛ける面積が広がれば広がるほど働く時間が求められ、手をかければかけるほど収量が増えるという関係にありますから、まじめな農民ほど長時間働き、暮らしも豊かになっていくことになります。

農業以外のわらじ作りなど夜なべ仕事もあり、こうして、農民の社会では、豊かさを指向すれば、自然と労働が長時間化していきます。
こうして農民の労働が長時間化していけば、コメの収穫量が増えて農民が豊かになり、消費経済が発達していきます。その結果、かつては高禄をはむ武士階級にしかできなかった、わずかな差別化に大金を払うことを、町人たちも抵抗なく行えるような世界が生まれてきます。

江戸時代の士農工商の人口割合は時代によって変化していますが、ざっくりとみれば、武士族が8パーセント、農民(含む漁民)が80〜85パーセント、工商(神職・僧職などあわせて)5〜8パーセントほどです。職業的に言えば常に中心は農業従事者であり、時代の変化に合わせて町人(商工従事者)が増えて行ったと考えられます。

労働時間の長さが勝負で「勤勉さ」を要求される農作業に代わって、生活が豊かになっていくにしたがって商品経済が発達し、仕上がりこそが命、という「質」を課題とする新しい職人の一派が生まれ、「粋」などの特有の文化を支えるようになってきます。

日本人の働き手として、地道に長時間労働をいとわない農業と対極に、独自の工夫、こだわりと仕上げ細工の緻密さ、新しさこそが命というエートスを持った、工芸家や新しい職人集団が誕生してきます。

こうして刀匠や冶金、漆、金属・木工・貝・鉱物などさまざまな工芸品が一気に花開き、それによって農民の長時間労働に耐える勤勉さと違った、腕と技を競う「職人」がそれなりの位置を占め、新しい働き方が生まれてきます。

明治以降に来日した多くの外国人は、大工や職人の気ままな仕事ぶりを紹介していますが、その源泉が、「働く時間」の長さより、働いた結果の「仕上がりの質」に自負と誇りを持つ、職人と呼ばれる専門技術者の働く姿です。
江戸時代の人口構成比。農民(含む漁民)が80〜85パーセントで、武士族が8パーセント、工商(神職・僧職などあわせて)5〜8パーセントほどで構成されていた。


■遊民化する武士
一方、戦う専門家で武力を本職としていた武士も、徳川時代に入ってしばらくすると戦さがなくなり、主君に対して武力で奉仕するという本来の役割を果たすことができなくなってきます。戦闘の専門家として力を発揮する機会を失って、いざという時に備えた準備、つまり自宅待機が日常になります。

この状態を国際日本文化センター教授の笠谷和比古は、

「戦争の軍役を奉仕するという前提で、主君から封禄を給付されているというのが武士の世界の原則だ。ところが戦争は一向に勃発する状況にはない。武士はずっと自宅待機の状態に置かれたままである。働かずとも俸禄や自分の知行地からの年貢収入は保証されているわけだから、遊んで暮らすことができる。・・・そんな意味のない、遊民的な毎日を送っていた。」(『武士道と日本型能力主義』新潮選書)

と書いています。
新田開発に伴って、幕府や藩の行政も大きく変化していきます。
各藩では、検地が行われ、法律の制定、徴税制度、財政業務、消防や治安維持、道路などのインフラ整備、土地改良、治水灌漑、検地、人別帳の整備など、藩体制を運営するための行政制度が整備されてきます。

当然、武士の業務も、戦う兵士から、与えられた知行地、あるいは藩の領国を正しく治める行政担当者としての役割が大きくなってきます。
そうした行政を処理する役職や部署が設けられ、そこに家制度があてはめられます。人ではなく、「家」に役務が与えられ、代々受け継がれていく仕組みが作られました。

とはいえ、実のところ、処理しなければならない役務は多くありません。
そのため、一つの役割に複数の担当者が作られ、勤務は、ほぼ二、三日に一日の交代勤務などというペースになります。背景に、主君を守る武術・戦さこそ本務であり、行政のしごとは余業にすぎない、と言う意識があり、行政実務軽視の気持ちが抜けきれませんでした。

しかも、処理すべき業務はそれほど多くはありませんから、登城をしても、時間を持て余すというのが実態だったようです。
役所に詰めても仕事がない、仕事をしないということが習い性になるのは自然のなり行きです。そうなると、作業を効率的に処理するよりも、出仕時間と退出時間を守り、いかにその間の時間を過ごすかということが重要な課題になります。

こうして、少ない仕事を多くの人間で処理するためのノウハウが蓄積されていきます。回覧、承認、許認可、稟議……業務がやたらと増えるのは致し方ありません。

これが、江戸時代を通じての武士=行政マンの労働の基本でした。勤務=業務処理ではなく勤務=始業-就業の間を在籍すること、という形式化です。


■武士道は損得勘定を取らない
里山の山林が新田に開発され尽くされてしまうと、やがて収穫量は頭打ちになり、税収も増えません。
しかし、いったんバブル化した財政は縮小しません。各藩では参勤交代や江戸屋敷での生活を維持するための出費がしだいに負担になり、幕府からの普請要請なども増えて、財政を圧迫していきます。

藩財政を運営するために有能な会計・財政担当者、行政面での強力なコストカッターが求められるのですが、課題に応えられる勘定奉行は、家制度の上にあぐらをかいて、時間を無為に過ごしてきた高禄武士階級の中にはいません。

なによりも、新渡戸稲造が書いたように「武士道は損得勘定を取らない。むしろ足らざることを誇りにする」(『武士道』奈良本辰也訳、三笠書房)という精神が、勘定・計算という作業をいやしいものとして武士たちに忌避させてきたからです。

一般の庶民を対象にした手習い所、寺子屋では読み書きそろばんを教えましたが、武士の教育に当たって、「読み」「書き」は教えても「そろばん」を教えることはありませんでした。教養は、もっぱら四書(論語、大学、中庸、孟子)、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)の素読と議論をたたかわすことで行われ、一貫して理財の道をいやしいものとしてきました。

その結果が、藩財政においても勘定意識の欠落につながります。本来、金庫番を担当する勘定奉行は重要な役職とされていましたから、家格の高い者が担当してきましたが、主君大事で言いなり、計算ができないうえに、細かなコスト意識は皆無ですから、緊縮財政など考えも及びもしません。

為政者として、自己を理財の道から遠ざけるという高潔さは、正しい政治を行うという面では重要な役割を果たしますが、それが藩の運営においても財務会計を緻密に行うことから眼を背けるようになれば、行く末は明らかです。

諸制度が整えられ、知行地内でさまざまな事業が行われれば、藩の財政を計算し、収入と支出をしっかりと把握し、管理することが必要になってくるというのは当たり前の道理です。行政を担っている武士が財政から目を背けて、ではいったい誰が藩の財政のかじ取りをするのか。当然の成り行きとして、この面で幕府も各藩も苦悩することになり、財政は時代が進むにつれて、次第に逼迫するようになってきます。

時代の流れはうまくいっているもので、財政がひっ迫するとともに、商人が力を持ち出します。藩の金庫に金がなくなれば、出入りの商人への支払いを猶予させ、さらに借金をすることができる、という逃げ道ができたために、ひっ迫していながらも、傷口が知らないうちに広がっていくという、マイナスのスパイラルに陥ります。

増えた借金は、代々の勘定奉行に申し送られ、殿様に知られることはありません。
当時、ほとんどの藩が、幕府の制度と同様の「家」制度を採用していました。

代表的なものが家格と役職の関係です。各役職に就く条件を禄高で基準石高として設定し、その禄高を保有する身分の家臣だけがその役職に就くことができるとしていたのです。有能であっても、出身の家にその格式がなければ、抜擢することはできません。

本来、金庫番を担当する勘定奉行は重要な役職とされていましたから、家格の高い家の者が担当してきました。家格が高いのは、何代か前の当主が戦で手柄を立てたため。代々の当主は、単に家格で勘定奉行を受け継いできただけで、数字がからきしダメなうえに、コスト意識がありません。


■能力主義の萌芽……下級武士の登用・足高制
財政に関心を持たない勘定奉行の下で、財務処理を行うのは計算に長けた家格のずっと低い下級武士ですが、下級武士がいくら危機意識や緊縮財政の必要性を訴えても、勘定奉行をはじめとした高級武士が数字・計算が苦手で、主君や藩行政の浪費にブレーキをかけられないのでは、財政は悪化する一方です。

説得力を持たせるために、計算に長けた財政政策に強い有能な下級武士を責任者=勘定奉行として抜擢・登用するとなれば、その武士に基準石高まで加増して資格を与えなければなりません。かといって、その加増分を、もともとの家禄を持った家から減俸するわけにはいきませんから、登用すればするほど、藩が支払う総禄高は増えて、さらに財政を悪化させることになります。

膨れに膨らんだ元禄時代のバブル景気をへて、こんな状態が続けば幕府や各藩の財政破たんも時間の問題、という切羽詰まった状態の1716年、紀州尾張藩から抜擢されて登場したのが、第八代将軍吉宗です。

吉宗は、将軍に就任早々、新田開発の奨励や倹約令などを出して財政の再建をめざしますが、同時に一つの施策を採用します。それが身分制度の秩序に縛られ、固定化していた家制度の壁を打破する「足高制」(たしだかせい)と呼ばれる制度です。

下級武士を勘定奉行に登用するためには、下級武士に基準石高まで加増して家禄を上げなければなりません。いったん加増すればそれは家禄として代々受け継がれますから、これでは財政負担になるので、おいそれと登用はできません。

そこで、役職についている間だけその役職の基準石高を付与する、つまり、ワンポイントでゲタをはかせる、という手を考えだします。
試験の点数を足りない生徒に点数を気持ち加えて合格させることを、ゲタをはかせる、と言いますが、この言葉は、いまはもう、死語になっているかもしれません。背が足りないならば、ゲタをはかせて背伸びさせようというわけですね。

例えば、勘定奉行や江戸町奉行の基準石高は3000石です。ここに抜擢したい者が、家禄500石の家のものであった場合には、その役職在任中に限って、その不足分2500石を「足高」として加算し、3000石を支給するというものです。

究極まで困れば解決策はおのずと出てくるということでしょうが、これは、それまでの武士の身分を守ってきた家制度の崩壊を意味します。強い反対があったはずですが、それを実行してしまう所は、さすがに吉宗、強いリーダーシップがあったと言えるでしょう。

この仕組みは、能力のある下級武士を登用する一つの有力な方法になりましたが、予想以上に大きな効果を生みます。何よりも、家格のために出世は望めないと思われてきた下級武士に、大きなチャンスが生まれてきたわけです。虐げられていた下級武士が俄然やる気を出すようになるのが目に見えるようです。
勘定所の職階と基準役職高。


■官僚として能力が問われる時代へ
勘定奉行にふさわしい家格の武士たちは計算ができず、財務処理を卑しいものとして誰もやりたがらないのですから、下級武士にとって、実力さえつければ、登用される可能性は大です。下級武士にとって、勘定奉行という職務は、またとない出世のねらい目になりました。

足高制が実際にどのように利用されたのか、勘定奉行についてみると、実施以後では500石以下層からの登用がその半数近くを占め、「徳川時代中期以降に活躍した勘定奉行の中には、禄高が150〜200石という、旗本でも最下位の身分の出自ながら、順次に昇進して、3000石相当の勘定奉行にまで至ったという経歴の持ち主」が何人もいたと、笠谷和比古は紹介しています。

ここで初めて、有能な人材が活躍する場が作られるのですが、他方、旧来の家制度の上にあぐらをかいた武士は、大きな失政がない限り家禄を召し上げられることはなく、相も変わらず遊民的に時を過ごし続けることになったのです。

勤務時間をきちんと守ることを重視して、効率を無視するという責任の果たし方は、一般的には共産主義の計画経済の下での労働の特徴です。各担当者が担当の業務を分担してこなすことに意味があり、効率は求められなかったという武士の立場はこの点で計画経済的です。

江戸時代=封建制度=専制政治、というイメージがあります。しかし、働き方という点で改めて見てみると、藩そのものが領主の専制という形を取りながら、家老らの高級家臣団による合議制で決められることが多かったということもあり、藩の運営は、武士というギルド(職業別の寄合)により、きわめて計画経済的に行われていたというのが正しい理解かもしれません。

そして、勘定奉行だけでなく、藩の行政の各所で、旧態依然たる計画経済的な運営体制を打破する新しい発想を持った勢力として、下級武士の中から有能な青年が登用されるようになり、新しい集団が生まれてきます。江戸時代の後半は、幕府・各藩ともにこうした下級武士たちが、高い能力を発揮して、財政の改革を進めていった時代でもあります。

維新の原動力になった幕末の志士たちや、伊藤博文などの明治時代を動かした人材に、足軽などの下級武士の出身が多いのも、うなずける気がします。

勤勉な農民、気ままな職人、遊民となった武士、そして有能な下級武士……それぞれがそれぞれの立場で仕事を果たしながら、開国という新しい時代に向かって世の中が流れていきます。

基準石高 足高制前  足高制後 
 5000石  4  0 
 4000石  1  1 
 3000石  6  2 
 2000石  6  3 
 1000石  18  19 
 500〜999石  2  8 
 500石以下  1  23 

足高制度による登用件数(「武士道と日本型能力主義」より)

 
■働きの対価と日本人のモチベーション
こうした武士、農民、職人たちの、仕事へのモチベーションはどこにあったのでしょうか。現代の日本人を考える時に、彼らは、与えられた仕事の完成度に対する責任と「働きの対価」あるいは、自らの役割をどのように考えていたのか、非常に気になるのです。

より良い商品を開発し、多くの市場を得て、たくさんの対価を得る。より良い品質、安い商品を作り上げ、多くの客を得て、たくさんの対価を得る……という競争の論理は、現代の民主主義と資本主義の組み合わせを支える基本的なエートスです。これがないとイノベーションが起こらず、社会が発展しないということになっています。

また労働者は、報酬が少なければ工夫も努力もしない、対価次第でサービスは低下する、というのが、世界経済を席巻する資本主義経済学の法則です。しかし、日本人の働き方を見ていると、そこに対価という要素が入り込む余地が少ないような気がするのです。

高度成長期を通じて、働くことが経済的な豊かさを招くという意識が動機となって、日本人は懸命に仕事をしてきました。そして、今後は、かつてのような経済成長はあまり望めないというなかで、日本人の勤労への動機づけは、もう一つ明確ではありません。

アメリカのように、経済的な豊かさを大きなモチベーションとして、アメリカンドリームの実現を社会が奨励している国もあります。そうした国では、企業が赤字を出しながらも、経営者が巨額の報酬を得ているケースも少なくありません。最近、そうしたアメリカの金融業を中心とした報酬優先主義は、アメリカの経済専門家の一部からも「強欲」という声が上がっています。

一般に、仕事の結果から得る「対価」としては、

●報酬
●仕上がりの質
●働き手の満足度
●顧客の満足度

の4つが考えられますが、日本人の仕事の対価を考えると、「仕上がりの質」や「働き手の満足度」、「顧客の満足度」が過重に言われ、「報酬」がかなり弱く見られているのではないかと思えてくるのです。

前章でご紹介したアメリカ職人の仕事ぶりも、仕上がりと満足度に関心を持って行われていたことが分かりますが、しかしその根底には、「対価」があるような気がします。
これまでも何度か引用しているペリーの「日本遠征記(一)」にきえもんという漁師の話が紹介されています。これはペリー一行が直接体験した話ではなく、出島のオランダ商館の記録にあったでき事として記録しているものです。

それはこんな話です(『ペルリ提督日本遠征記』1岩波文庫D)。


■仕事の報酬
幕末のことです。
あるとき、オランダ人がアメリカの船を雇って、出島から銅および樟脳を積んで出帆しました。そして、そのうちの一艘が港内の岩礁に衝突して、沈没してしまいました。
乗組員たちはなんとかボートで海岸にたどり着きましたが、積み荷は船中です。オランダ商館やアメリカ人乗組員、長崎当局が集まって、沈んだ艦船の引き揚げ方法について協議を重ね、引ぎ揚げる努力がなされましたが、うまくいきませんでした。

途方に暮れていると、きえもんと名乗る一人の漁夫がやってきて、作業費を支払ってくれるならば、同船を引き揚げようと持ち掛けました。周囲は彼の大ボラを嘲笑しましたが、他に方法も考えられなかったので、きえもんに任せることにしたそうです。

きえもんは、干潮の時を見計らって座礁した船の両側へ、小型の帆船15、6隻を並べ、ロープで繋がせました。そして沈没船の艫にしっかりと結びつけると、潮の満ちてくるのを待ち、満潮の瞬間に、全部の小舟に帆を張ることを命じたそうです。沈没船は小舟の浮力で浮き上がり、海岸に着岸しました。そして、海岸で積荷が回収され、沈没船は修繕されたそうです。

この行為できえもんは手厚い報酬を貰ったと言われていますが、その報酬は、

●帯刀を許されることと、
●オランダの帽子と
●2つのオランダのキセル

をもらうことだったそうです。

ペリーは、もし事情が逆で、オランダ人、あるいはアメリカ人が日本人のために船を引き揚げたのであれば、2本の刀とオランダ帽、2つのキセルでは、このような価値ある働きに対する報償としては、はなはだ不十分であることが、早速日本人に告げられたであろうと書いています。

きえもんにとって「帯刀を許されること」の価値がどのくらい大きかったのか、外国人には想像もできないでしょうが、それにしても、オランダの帽子とキセルとは、いかに欲のないことでしょうか。 

『完訳 日本奥地紀行2 』イザベラ・バード著、 金坂 清則訳、東洋文庫、2012
また、1878年に来日し、6月から9月まで、日本人の通訳兼従者を伴って東北から北海道へ旅行をした英国人のイザベラ・バードも、『日本奥地紀行2』(平凡社東洋文庫)のなかで、旅の間に各地で「無報酬」で受けた日本人の親切さに感嘆しています。

「その日の旅程を終えて宿に着いたとき、馬の革帯がひとつなくなっていた。もう暗くなっていたのに、その男(従者)はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが白分の責任だと言って拒んだ。」
「新潟県と山形県境の悲惨な山中の村で、みっともない恰好の女は、休息した場所でふつう置いてゆくことになっている2、3銭を断固として受けとらなかった。私がお茶ではなく水を飲んだからというのだ。私が無理に金を渡すと、彼女はそれを伊藤(同行の通訳)に返した」

また、内国運送会社の継立所では、バードが暑がっていることに気が付くと、女性たちがウチワで1時間も無償であおいでくれた、・・・などを紹介しています。
そして、バードは、

「ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかにわが国でも、女性が外国の衣裳でひとり旅をすれば、現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は(日本では)一度たりと無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない」。



■文明の悪を回避する
江戸から明治に変わって10年ほどの頃です。後進国にこんな安全に旅ができる国があったということが、バードには驚異だったようです。

「攘夷から開国へ180度の転換」でご紹介した岩倉使節団の「特命全権大使米欧回覧実記」には、欧米の社会や産業の見たままが記されています。日本国内の実情と比較して、経済発展のすさまじさに目を見張りましたが、同時に、英国での貴族や富豪と庶民の間にある格差の大きさや、市中の治安の悪さに驚かされています(『ザ・タイムズ』に見る幕末維新』皆村武一、中公新書)。

ノンフィクション作家の泉三郎は、

「政治の目的が利益追求と保護にあることに対する、東洋政治の理想型である道義政治に照らしての批判が書かれています。そして、西洋の民は「欲深き民」であり、「快楽追求の民」であるとし、「資性元悪なり」とし、それが国際間で帝国主義となって「弱肉強食」の世界を現出しているとも分析している。」(『岩倉使節団と久米邦武』泉三郎http://www.gakusai.org/gakusai/10/gakusaijin.html)

と紹介しています。
視察で見た、圧倒的な産業の発達に驚き、早く追い付きたい、としながらも、その陰の部分ともいうべき、経済的な豊かさのみを対価とする考え方に、精神的な欠陥を感じているのです。幕末に来日した駐日大使ハリスは日本を称して、「富者も貧者もいない」貧しくとも平和に暮らす国、と書きましたが、そうした日本とは大違いと感じたのでした。

そして、岩倉具視は、マンチェスターでタイムズの記者に次のように語っています。

「われわれは世界を一巡し、訪問先の国々から西洋文化の長所はなんでも取り入れたいと思っています。われわれはそれと同時に、文明の発展に伴って各国に発生したと思われる悪の回避にも努めるつもりです」(『国際派日本人養成講座』伊勢雅臣、メール・マガジンJOG208)。

悪の回避とは、つまり、西欧文明が経済発展の裏側に抱えている「富の配分のいびつさ」と「治安の悪さ」です。米国や英国の社会を見ていると、共和制で民主主義+資本主義が行われているために、富の分配が偏って貧富の差が大きくなり、治安が悪化しています。

これを回避する解決策として明治政府がとったのが、庶民の意識を高める教育の機会均等化と、庶民に政治をゆだねる共和制ではなく立憲君主制でした。久米邦武は欧米回覧実記の中で

「英米蘭などは町人国家なり」

と書いています。


■取り込み詐欺の被害
『特命全権大使米欧回覧実記』(2)久米邦武編 田中修校注 岩波文庫
立憲君主制とは、庶民に政治を任せると、利益追求に走って、イギリスやアメリカのような富の配分がいびつな国になる、それを防ぐには、利益追求に関心を持たない、皇族・士族のリードで国を運営する必要がある、ということです。

『ザ・タイムズ』のインタビューに応えて「悪の回避」という話が出てくる裏には、実は、こんな経験もしているのです。

視察団一行の参加者や留学生の多くは、長州出身の南貞介なる人物が役員をしていたアメリカン・ジョイント・ナショナル・バンクに、金を預けていたそうです。しかし、ロンドン滞在中にこの銀行が倒産し、預けていた資金を失ってしまいました。調べてみると、南はおとりにすぎず、南自身もだまされていたというので、苦情の持っていきようがなかったそうです(『特命全権大使米欧回覧実記』イギリス編}。

少なくとも、女王が謁見するような使節団を相手に、取り込み詐欺が行われるなど日本人には考えられません。こんな経験もあって、欧米流の経済発展が、必ずしも文化や道徳面で人を高めるものではないという思いを強くしたのでしょう。

その是非はともかく、明治政府がとった立憲君主制は、言い換えれば、利を求めない貴族と、持たざることさえも誇りとする武士階級(政府)のリードがなければ国は正しく運営されないというのが根本でした。過度な富の追求を避けることが大切との判断でしょう。

 ダントツの周回遅れで文明社会に参入した日本が、はるか高みに到達して発展を遂げているアメリカ、イギリスを訪問しながら、決して卑屈にならず胸を張って視察を続けてきた背景には、欧米の文明が持つ負の面へのしっかりした認識があったからかもしれません。

久米邦武がこうした報告を自信に満ちた筆致で書いているのは、おそらく団長の岩倉具視をはじめとする視察団一行の宿舎で、何度も熱い議論がたたかわされ、コンセンサスができていたに違いありません。

その時の議論のテーマが、西欧社会の経済発展のプラスの面だけでなく、マイナスの面にも及んでいたというのは、ある意味で理想主義的な国家づくりという視点がしっかりあったということではないかと思います。

明治維新のクーデターが、世界でさんざん繰り返されてきた、権力闘争や私利私欲のぶつかり合いとは一線を画した、「忠」や「義」を基盤にして、「私欲」から離れた国の長期的なあり方をめぐっての争いであったと彼らが考えていて、このあたりが、伊藤博文が言う日本人の「精神性」の高さの基本になっていると思われます。


■高度なものづくりを生む環境
報酬を当てにせずに仕事を行う、これを経済学的に未熟というべきか、成熟というべきか、その判断には、いろいろな意見があるでしょう。

かつて、国民に「浪費をつつしんでつつましく暮らす」ことを奨励してきた政府は、いまでは、「どんどん消費して景気の向上に貢献しよう」と呼びかける時代です。「もったいない」ということばも海外から逆輸入される時代になりました。

最近は、グローバル化の怒涛のような流れを受けて、アメリカに倣って、日本の企業も取締役に巨額の報酬を支払うようになりつつあります。世界の流れには逆らえないということでしょうが、果たして、報酬、経済的な豊かさ、それも限度を超えたレベルでの巨額な報酬だけが、私たちのモチベーションの源泉なのでしょうか。

もしそうだとすれば、部門間を越えた連携でしか生まれない、評価のされにくい高度なものづくりの技は、生み出されにくくなるのではないかと危惧します。

かつて職人が持っていた、自分の技へのプライドと仕事を届けた客の喜びを対価と感じられるような文化を、グローバルに広めたいような気もしますが、速攻で、青臭い書生論と一蹴されてしまいそうです。

いずれにせよ、「日本人は勤勉」は後天的に身に着けた性癖であり、決してDNAなどという根深いものではないことがわかりました。
やがて何年かたった後には、日本人が勤勉さと活力を失っている横で、新興国に、当たり前のように勤勉に働く社員が増え、さらに、ものづくりや科学技術の中心が、新興国のひとつに移っているかもしれません。

 少なくとも、そうした国が台頭し、しっかりとものづくりの高度な技を受け継ぎ、ブラッシュアップしてくれるまで、ものづくりの質を高める努力をする義務が、私たちにあるのではないかと思います。



第7章 日本人の創造性と独創性

■日本人の独創性
ここまで日本人のものづくりに対する意識や考え方、働き方を見てきましたが、日本のものづくりという点で外すことができないテーマがあります。それは、ペリーの日本遠征記をはじめ、多くの外国人から指摘され、日本人の口からもよく聞かれる「日本人は創造性に欠けるが、細工の精緻さには驚かされる」という問題です。

江戸末期の日本を訪れた多くの外国人から、日本人は、創造性、独創性に欠けるが、緻密な加工をする力は目を見張るものがある、と言われてきました。

現在においても、QCDの能力、つまり、緻密に加工し、組み立てた高品質な製品を作るという能力は、他の国々と比較して日本の製造業の顕著な特徴と言われます。

そして、日本人には、巧みに作り上げる技能はあるが、独創的なものをつくる創造力に欠けるという声もまた、海外・国内を問わず、多く聞かれてきました。いま、模倣天国と非難されている中国の姿に、50年前の日本の姿を重ねる人もいます。

製造業にとって、

●「What」何を作るか(Product:プロダクト、商品・商品企画)と、
 ⇒イノベーション・プロセス
●「How to」どのように作るか(Process:プロセス、作り方・生産技術)
 ⇒オペレーション・プロセス

の2つは、いわば車の両輪です。

この両輪がスムーズに回転することでものづくりは前に向かって前進しますが、商品開発やプロセス開発の原動力になるのが、創造力とQCDを実現する力=生産技術力です。
この創造性とQCD能力は、日本の特徴を語るときに、例えば、

創造的なものを生み出す力はあまりあるとは言えないが、
   ⇔
高品質、仕上がりのきれいさは他の追随を許さない日本の独擅場である

……というように、対語として語られることも多いようです。

戦後の高度成長期に、日本の研究者たちは、外国で生まれた研究成果を取り入れ、応用して、ものづくりに生かしてきました。
そのため、一時期までは、日本の製品と言えば、「模倣」品といわれて、日本の研究者たちには独創的な研究をリードする力はないと言われ続けてきました。

1970年代の初めころには、すでに日本のGDPはドイツに次いで世界第3位に成長していましたが、それでも「日本の合成皮革は、皮革の匂いまで模倣されている」などと冗談半分に言われたことを覚えています。

いまでも製造業も経営者に聞くと、日本人の課題は創造力、研究開発力にある、という人は多いようです。
果たしてほんとうに日本人に、創造力はないのでしょうか?


■科学先進国は時代とともに変わる
科学技術研究は、過去の積み重ねという基礎の上に成り立ちます。
トップに立つためにはそれなりの土壌と環境が必要で、先進国以外の国で、優秀な科学者がいるからといって、それだけで世界のトップに並ぶ成果が出せるというわけではありません。

チームや環境としてではなく、個人の力でできること、たとえば理論物理などの世界では、組織的な土台なしでも個人の力で、ある部分突出した研究が可能ですから、1949年に湯川秀樹が中間子の理論でノーベル賞を受賞するようなことが可能でした。

科学的な成果を生むには、国としての総合力が必要ですから、ある国が科学的な総合力をもてるかどうかは、歴史の流れにも大きく左右されます。
日本人に独創性があるのか/ないのか、日本で独創的な成果を生むことができるのか、という議論をする際に、「歴史的な流れを見ることが重要だ」というのは、北海道大学大学院教授で科学史が専門の杉山滋郎です。

杉山は、著書『日本の近代科学史』(朝倉書店)のなかで、日本はこれまで欧米の進んだ科学や技術を導入することに汲々としてきたが、そのことを根拠に日本人には独創性がないとの議論もされてきた。しかし、欧米がいつも科学の先進国であったわけではなく、また「欧米」と一くくりにされる国々の間でも、科学・技術の先進国はたえず移動していた……と前置きして、以下のように書いています。

『1600年代半ばまではイタリアが科学研究の中心であったが、後半になるとイギリスへ、1800年頃にはフランスへ、1800年代後半にはドイツへ、そして1930年代に入るとアメリカへと科学の中心が移動した。それに応じて、科学を志す人たちはイタリアへ、イギリスへ、フランスへ、ドイツへと遊学の旅に出た。19世紀の前半にはフランス語の読み書きと会話の能力が要求され、19世紀後半からはドイツ語の能力が要求された。イギリスの代表的な専門科学雑誌Philosophical Magazineには、フランス語やドイツ語で書かれた論文を英語訳したものがたびたび掲載された。また第二次世界大戦後にアメリカの科学・技術が世界的に優位に立つことができた背景には、ヨーロッパからの「亡命科学者」の存在がある。
こうして見ると、科学の後進国はみな、先進国から科学の成果を必死に学び取って先進国に追いつこうとし、うまくすると追い越していった、それが歴史の「常態」である。先進国から科学や技術をひたすら導入することがただちに独創性の欠如を意味するとは思えない。』


これは言い換えれば、小学生にいきなり独創的なものを生み出せと言っても無理な話で、それなりの成果を生み出すためには学んで力を蓄える期間が必要だということでしょう。

問題は、学ぶなかから、独創的な研究が出てくるためには、どのような環境づくりが必要なのか、そして、成果を生みだすためにどのような孵化装置が必要なのかということです。

そもそも学んで力をつけることができるのか、その期間をどのくらい必要とするのか、そこにその国民の持つ基本的な資質が現れてくるのではないかと思います。


■未だ創造的能力を誇る能はず
伊藤博文は、日の丸演説の前年の1871年にニューヨークに滞在し、法律の調査をしていますが、すでにその時には、1856年に発行されたペリーによる合衆国議会版『日本遠征記』(原題『アメリカ艦隊の支那海域及び日本への遠征記』)が発刊されていました。

当時のアメリカは、日本を鎖国から開いたのは自分たちだという意識もあって、日本への注目が高かった時です。「日本遠征記」に記載されている内容について政府の関係者たちと議論をする機会もあったのではないかと思います。
その日本遠征記(4)(岩波文庫)にはこんな一節があります。

「すべてのアメリカ人は、木造の家屋を建築する際に日本の大工達が示した熱棟した枝術、即ち整理の巧さ、接合の滑な仕上げ、床張りの整然さ、窓框、移動式戸板及び幕のきちんとしたはめ方と滑りよさを歎賞した。家屋や公共建築物全体の設計は、構造の細部の仕上げよりも甚だ劣ってゐた。前者は画一的で、叉多分昔の型に従ってゐるのでもあり、叉疑もなく、政府から定められた規格内に創造力が制限せられてゐることを示すものであったが、細部の仕上げは経験が進むに従って獲られた完全さを示してゐた。」

「全体の設計は、構造の細部の仕上げよりも甚だ劣ってゐた」

これは言い換えれば、全体を捉える力がない、デザインする力がないということでしょう。 現代でも、日本のものづくりについて、「大きな絵は描けないが、細部を加工させると見事に仕上げる」といったことが言われていますが、ペリーはすでにこの点も見通していたということになります。

そして、設計が劣っているのは、「疑もなく、政府から定められた規格内に創造力が制限せられてゐることを示すものであった」と書いています。つまり、国民の自由な発想を制限するような施策を幕府がとっていたと言うのです。

このことは、大型船の建造禁止令などからも理解できます。
1635年に出された大型船の建造禁止令では、大きさは五百石船(75積載トン)までが許可されていました。

その理屈は、海外貿易を禁止している日本には(とはいえ、支那貿易は海外貿易として扱われず許可されていた)、国内の廻船に使用する程度の大きさの船があればよいので、五百石船で充分、大型の帆船は必要がない、ということでした。

しかし、これでは小さすぎるということで、3年後には改正されて、商船については千石(150トン)までが許されるようになり、千石船とよばれる弁才船(図:日本海事科学振興財団)がつくられて北前船などに活用されました。

しかし、大型船の建造禁止令が施行されることになった本当の理由は、大量の兵士や資材を一挙に搬送できる軍船を建造されて幕府転覆に利用されては困る、というもっぱら為政者側の「御身大切」という論理で出された禁令で、歴史的な流れや環境の変化、国家としてのあるべき姿といったことを無視した、まったく内向きの発想です。

もちろん、ある時期には、体制を固めることが最優先されて、そうした施策を取ることも必要でしょう。しかし、長期にわたって、こうした内向きの論理で大きな枠をはめて庶民の行動を制限し続ければ、当然、技術はそこで止まり、その国が歴史の流れから取り残されるようになっていくのは自然の成り行きと言えます。


■新規製造物の禁止令
江戸時代には、こうした禁令がたくさん出されています。ぜいたく禁止令などもいくどか出され、庶民はそうした制約の中で、表がダメなら裏地に凝るなど、抜け道を作って楽しんできました。わたしたちが自由な発想で工夫するというよりも、むしろ与えられた制約のなかで工夫を凝らして解決策を見出すことに喜びを見出すような性向を身につけるようになったのもうなずけます。

 贅沢や浪費を禁止した奢侈禁止令が最初に出されるのは、1716年吉宗が紀州藩から抜擢されて将軍になり、課題であった幕府の財政再建に取り組みはじめてからです。

江戸幕府が始まって、戦争がなくなり、世情が落ち着いてくると、各藩では新田開発を奨励し、税収がふえ、藩の財政も潤います。町人が町に溢れ余った金が巡って社会が活気に溢れて、爛熟した元禄文化(1688年〜1704年)が花開きます。

やがて新田は開発されつくします。しかし、バブルで膨らんだ支出はそのままです。浪費が過ぎて破たんした幕府や各藩の財政を再建するため、幕府は奢侈禁止令をだします。このパターンは江戸時代を通じて、何度か繰り返されることになります。

吉宗の時代に、奢侈禁止令と同じように出された禁止令の一つに、新規の工夫を制限する令があり、これが、その後の江戸時代後半の経済・産業を停滞させた一つの要素になったのではないか、というのは、「忽然と知る縁数の妙」の円周率の計算の項でご紹介した『日本史再発見』(朝日選書)の著者板倉聖宣です。

バブルで膨らんだ元禄期の後、反動で停滞が続き、1716年に吉宗によって財政再建が行われます。そんななかで1720年に出された条例が、「新規製造物禁止令」です。

新規製造物禁止令とは、後でつけた呼び名で、「徳川実記」には「今日、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・勘定吟味役の輩に仰せ下さるは・・・」として、以下のような触れが出されたと伝えられています。

「いま世上に売り買うよろずの品物、何一つ備わらぬこともなきに、なお多く造りださば、人びと身のほどに越えて買い求むるようになり、自ずから家資窮乏し、ついには国の衰えとなるべければ、米穀・薬物のほか衣服・調度のたぐい、こと新しく製し出すはいうまでもなく、たとい有り来れるとも、物数増益することなきようにすべし」(『日本史再発見』)。

どういうことかと言えば、穀物・薬・衣類・調度品など新しいものを作り出してはならぬ、よそから持ってくるものは、数を増やしてはならぬと指示しているのです。大阪で「きつねうどん」が評判だからといって、それを江戸に持ち込んではならぬ、というわけです。どうしても、という場合には、「役所に訴え指揮に任すべし」と徹底しています。

同様の指示は江戸時代を通じて都合七回も出されていますので、かなり本気だったようです。このお触れで、新田開発も止められ、経済は大きく停滞することになりました。

50年後の1776年に、平賀源内がエレキテルの実験などを行っていますが、これも直後の1787年の寛政の改革で倹約令、緊縮財政、さらには蘭学までをも否定し、新規開発は大きく制約を受けることになりました。どうやら日本人は、倹約、内向き志向があるようです。

こうした相次ぐ禁止令が、国民にマインドコントロールのように働き、開発意欲を減退させてきたことは想像に難くありません。以来、「変わったことをしない」、「新しいことはしない」という保守的な自己規制の意識が、教育やしつけを通して、わたしたちのなかにしみついてしまっているのかもしれません。


■ノーベル賞受賞者と創造性
正否はともかくとして、日本人は「日本人には創造性がない」というイメージをいまだに持ち続けています。そう語る姿は、多少自虐的でもあります。

創造性があるのかないのか、簡単には結論付けられませんが、ノーベル賞の受賞者数はひとつのメルクマールとして考えられるでしょう。この数字が、そのまま国の研究開発力、独創性の証明になるとは思いませんが、ひとつの参考にはなると思います。

日本人で初めてノーベル賞を受賞したのは1949年の湯川秀樹「中間子の理論」です。
原子核の中で、陽子と電子を結合させる媒介として中間子があると予想したもので、この研究そのものは、1935年に発表されたものですが、後の研究でそれが証明されて、1949年に42歳でノーベル賞を受賞しました。その後、長い間受賞者がなく、内外で日本の研究は創造性に欠ける模倣大国とさかんに陰口をきかれました。

2人目の受賞者は16年後の1965年の朝永振一郎で、3人目がさらに8年後の73年の江崎玲於奈。以降、2000年までは、81年福井健一、87年利根川進と、わずか5人にすぎませんでしたが、2016年現在は、米国籍で米国在住の南部陽一郎・中村裕二の2人を除いても自然科学系で20名と、欧米諸国以外の国では最多の受賞者を出しています。

世界で受賞者数を国別に見れば、物理、化学、医学生理学賞の自然科学系ではアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの4か国が多く、ついで、スウェーデン、スイス、ロシア、オランダ・・・となっています。日本人はと言えば、20人、米英独仏について世界で5番目の受賞者数です。

戦前までは、受賞者が欧米諸国に集中していたため、合計で見るとこれらの国から多くの受賞者が出ています。そういう事情を念頭においてみれば、日本の授賞者数は、遅れてきた青年としては、かなり健闘していると言っていいのではないでしょうか。

「科学先進国は時代とともに変わる」でご紹介した北海道大学の杉山は、科学・技術の先進国は、歴史の変遷とともにたえず移動していたと書いています。ここしばらくはアメリカの時代が続いていますが、2000年以降に限って、自然科学系3賞のノーベル賞受賞者数をみれば、日本は2000年:白川英樹、01年:野依良治、02年:田中耕一・小柴昌俊、08年:小林誠・益川敏英・下村脩、10年:鈴木章、根岸英一、12年:山中伸弥、14年:赤崎勇・天野浩、15年:梶田隆章・大村智、16年:大隅良典の計15人が受賞しています。

これは、米国74人、英国18人に次ぐ人数で、日本の後は、フランス7名とドイツ・イスラエル6名が続いています。2000年以降を見れば、イギリスはアメリカとの副w数国籍者や、ロシア出身の研究者など、出生国が異なる受賞者も多く、日本はイギリスとならんで、フランス、ドイツをしのいで、ノーベル賞の授賞者数は日本が世界第3位の位置にいるのです。
 国  受賞者数 
 アメリカ  74 
 イギリス  18 
 日 本  15 
 フランス  7 
 ドイツ  6 
 イスラエル  6 
 ロシア  4 

2000年以降の国別ノーベル賞受賞者数


■日本を世界の研究者がくる国に
なお、基本的な姿勢として、ノーベル賞の選考委員会はどの国の研究者に授与するか国を問うていません。
というのは、研究のために国籍を移すということが当たり前のように行われていて、出身国時代の研究成果が授賞対象になるケースも少なくないので、国籍は意味をなさない、ということでもあります。

南部陽一郎・中村裕二がそのよい例です。なので、ここであえてことさらに「日本人受賞者数」をあげることがナンセンスであることは言うまでもありません。

とはいっても、あらためてこうした数字を見てみると、日本人もなかなかのものではありませんか。そして、毎年、受賞候補者として多くの日本人科学者の名前があげられていますので、今後も、日本人受賞者は生まれそうです。

21世紀に入って17年目になりますが、ノーベル賞受賞者数世界第3位の国に対して、「創造性はない」とは言う人はいないでしょう。日本人は世界の中でも有数の研究開発力、創造力、独創力を持った国である、と認識を新たにすべきではないでしょうか。

翻って考えれば、もともと日本人に創造力がなかったわけではありません。独創力がないと言われていたのは、単に基礎的な研究を習得するのに時間が必要だったということです。先進的な研究を生み出すまでの雌伏の時間をへて、やっと成果を生むようになってきたのです。

いまの教育では今後の研究開発力が不安だ、ノーベル賞受賞者は出なくなるのではないか、という声も受賞者の間で聞こえます。研究の世界ではそうした危惧が現実にあるのかもしれませんが、あるいは、この意見も、多少“自虐的な”ニュアンスで語る日本人の性癖を考慮して受け取る必要がある?・・・のかもしれません。

アジア地区をみると、世界第2位の経済大国となった中国は平和賞・文学賞で受賞者は生まれていますが、自然科学系では出ていません。国際技能五輪では常勝国となった韓国も、平和賞が一人いるだけで自然科学分野では受賞者はゼロです。

だからと言って、中国、韓国をはじめとするアジア諸国の人々に創造性、独創性がないかといえば、10年、20年後に、世界中の科学者が中国語を学び、中国留学をめざすようになっている、そんな時代が来ないと言えるでしょうか。

 ここで気になるのは、日本の受賞者がアメリカの大学や研究機関で研究活動をブラッシュアップし、成果を上げているケースが多いことです。ボーダーレスの時代、そろそろ、高いレベルでの受賞者を輩出している日本に来た研究者が、母国に帰ってノーベル賞を受賞するような成果は出てこないものか、と思います。

 いまスーパーカミオカンデにはたくさんの研究者が来ています。こうしたことが当たり前になるような、研究体制になってほしいと思います。もっと多くの研究者を日本に招き、外国人研究者とともに日本の研究活動をレベルアップしていきたいものです。


■「改良・工夫の国」アメリカの成長
いま、世界で最も創造力と独創力を発揮している国がアメリカという意見に異論はないでしょう。ノーベル賞の授賞者数や海外からの留学者数も人気も圧倒的です。しかし、その核になっているのは、世界からアメリカに研究環境を求めて集まってきた人たちです。

そのアメリカが、どのような経緯をたどって現在に至ったのかをみれば、創造力や独創力がどのようにして獲得されていくのかが分かります。

本稿コラムでは、最初に、アメリカ職人の仕事ぶりをご紹介してきました。
その際、アメリカ人たちは、

●ヨーロッパの発明は巧みに実用化される
●人々は勤勉であるが、発明者たちはほとんどいない
●この国の人は生まれついての職人である
●職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている
●この国の職人は、常に改良を施す。何時も何か新しい工夫を凝らしている

と言われていたのです。
150年ほど前のことですが、アメリカは、創造性・独創性よりも、ヨーロッパで発明されたものに改良をくわえて、もっぱら実用品づくりに力を発揮する国であったことが分かります。

そのアメリカが、文明の発達とともに力を蓄え、改良・改善から次第に新しい発明・発見へと力を発揮してきました。ヨーロッパで生まれた知識や文化を学んで取り入れ、やがて自ら創造し、独創力を発揮するようになっていったのです。

杉山滋郎が述べたように、「科学の後進国はみな、先進国から科学の成果を必死に学び取って先進国に追いつこうとし、うまくすると追い越していった、それが歴史の「常態」である。先進国から科学や技術をひたすら導入することがただちに独創性の欠如を意味するとは思えない」(前出『日本の近代科学史』)のです。

わたしたちはともすると、一時的に教えられたこと、刷り込まれたことを、盲目的にそのまま信じ続けるという性癖があります。もう少し、歴史の流れや時代の変化に目を向けて、絶えず自分たちのありようを冷静に見つめ直す、という習慣を身につける必要があるかもしれません。

少なくとも、創造性という点でも、もっと日本人は自信を持っていいと思います。
伊藤博文は、サンフランシスコでの日の丸演説で、

「日本は、猶ほ未だ創造的能力を誇る能はずと雖(いえど)も、経験を師範とせる文明諸国の歴史に鑑み、他の長を採り誤を避け、以て実際的良智を獲得せんと欲す」

と述べています。

「未だ創造的能力を誇る能はず」であって、文明諸国の実際的良智を学ぶことで追いつくと述べているのです。その叡智と誇りに拍手を送りたいと思います。


■打出の小槌と魔法のランプ
データから見れば、文句なしに現代の日本は欧米先進国に匹敵する創造性を持った国と言ってもいいでしょう。

創造力、独創力によく似た能力に、もう一つ「空想する能力」があります。この空想力もまた、創造性に大きな影響を持っているのではないかと思います。どこが違うのか広辞苑には以下のように説明されています。

 ●創造:新たに造ること、新しいものを造りはじめること←→模倣
 ●独創:模倣によらず自分ひとりの考えで独特のものを作りだすこと
 ●空想:現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすこと

○○力というのは、それぞれを行う力ということですね。「創造」だけに反対語が記されていて、「模倣」と書かれています。模倣の反対が創造ということのようです。創造と独創は、自分一人で行うことを除けば、新しいものをつくり出すということは共通しているようです。

そこで空想力ですが、他の2つと大きく違う点は、他の2つの意味が「つくること」であるのに対して、空想は「思いめぐらす」ことで、つまり、現実に可能かどうかの制約はないのです。
これまで、日本人はものづくりに際して、大きなスケールで作るよりも、コンパクトなものづくりを愛する性癖があると紹介しました。それには「空想力」がかかわっているのではないかと思います。研究開発などの際の創造性と独創性の大きさを決める出発点として、どれだけのスケールで空想できるか、そんなことが重要な気がするのです。

作るという行為は、自分の頭の中でイメージしたものを目標にして、それに近づけて作るということを行うことだとすれば、日本人が頭の中にイメージする像は、コンパクトなものだということになります。

アラビアンナイトと一寸法師というおとぎ話を比較して、空想力の違いを述べているのは金田一春彦です(『日本人の言語表現』講談社現代新書)。
アラビアンナイトに、アラジンの物語があり、そこに「魔法のランプ」が出てきます、

ランプをこすると、魔神が出てきて、その魔神がランプをこすった者の望みをかなえてくれる、というものですが、さすがに大平原の国で生まれた物語です。一度こすっただけで大都会を出現させてしまいます。

一方、一寸法師は鬼を退治して「打出の小槌」を手にします。
小槌も振れば望みのものを出せるという魔法のランプに匹敵する無限の性能を持っているはずなのですが、この小槌を使って一寸法師が現出させるのは「人並みの身長と、1回分のぜいたくでもなさそうな食事」の2つだけです。

金田一は一寸法師の何と欲のないことかと書いていますが、このあたりが日本人の空想力の差でもあるのではないかと思います。

そこで描かれている一寸法師の人間像が、つまりその程度の夢と希望しかもたない人物ということかもしれません。このスケール感の違いは、ことばとしての表現力にもかかわってくると思います。日本人の誇張からはとても「白髪三千丈]は生まれてきません。

難破船を引き揚げたきえもんの要求も、オランダの帽子と2本のキセルでした。鶴が命の恩人に果たす恩返しも、自分が織った一棹のきれいな布にすぎません。

創造性、独創性の出発点として、現実離れした大きなスケールの空想力もほしいところですが、このあたりが日本人の今後の課題ということになるのでしょうか。


■近代化を可能にした読み書きの土壌
独創性に欠けると言われながら、日本は経済大国と呼ばれるようになり、科学技術の面でも、ノーベル賞の受賞大国に成長しました。

いまにしてみれば、明治以来の道のりは、順風満帆とはいかないまでも、あたかも、あらかじめ設置されたレールの上を行くがごとく、予定通りに走ってきたように見えます。

千石積みの弁才船や櫓こぎの小舟しかなかった江戸時代末期の日本で生まれ育ち、巨大な蒸気船を前にした30代の若きサムライたちは、技術先進国欧米と競って、トップに並ぶ経済大国になるというゴールをなぜ描けたのか、そこへのロードマップをなぜ設定できたのか、わたしには、とても不思議でした。

冒頭に紹介したように、1872年、岩倉使節団に参加した伊藤博文は、太平洋を横断して到着したサンフランシスコのホテルの歓迎パーティで、「西欧の科学を学び、日本は近い将来、トップに追いつき追い越したい」と豪語しました。

そして、明治の初期に若き政治家たちが目指した殖産興業という「ものづくりの国」への道程は、その後の経過を見ても分かるように、紆余曲折はあったもののほぼ目指したようなロードマップで実現されました。

いきなり文明社会の技術開発レースに、大きく周回遅れで飛び入り参加した日本が、トップに並ぶと宣言したその自信はどこから来るのか、大きな疑問でもありました。

明治維新を迎えて西洋文明が大量に入って来るに際して、それらをしっかりと受け止め、大きな混乱もなく導入・利用できたのには、それなりの土壌が必要と思います。

そうした土壌の一つとして、ペリーに「読み書きが普及していて」と指摘された教育程度の高さもあげられるかもしれません。

当時来日した多くの外国人たちが、表現が違っても口をそろえて「日本には読み書きできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」と言っています。この言葉は、多少割り引いて受け取る必要があるかもしれません。

というのは、彼らの周りに集まってきた町人、農民が字の読み書きができるレベルは、名前が書けたレベルともいわれていますし、判断したのは外国人ですから、決して厳密な意味で、読み書きができたことを保証するものではない、ということです。 

それにしても、幕末には、寺子屋が全国で1万5千軒もあったといわれています。現在の全国の小学校数の約2万と比較しても大変な数です。それだけ多くの町人の子供が手習いを学んだ、世界史的にも極めて珍しい教育大国だったといえると思います。

四ハイの蒸気船に玄関を叩かれて、開けてみたら自然科学の進んだ知識やその応用技術、さまざまな新しい文化が堰を切ったように入ってきました。

それらを見た日本人は、いずれも考えられない質の高さと物量の豊富さに驚き、その格差に圧倒されたことから、日本の社会は知識・文化レベルも低く、庶民には科学性もまったくなかったかのように喧伝されてきましたが、この時期に来日した外国人たちの目には、必ずしもそうは映らなかったようです。


■庶民の学習意欲は日本の伝統文化
明治維新当時、つまり江戸末期の識字率を見てみると、世界的にも日本は高い方だったというのは、世界に学者の共通認識でもあります。
高い教育が施されていたといわれるアメリカなどでも、そうした教育が行われていたのはごく一部の人たちで、決して全体のレベルが高かったわけではありません。

一説に1850年ころの識字率は、
 ●ロンドン市民が20パーセント程度、
 ●パリ市民で数パーセント
と言われていますが、江戸の町では70パーセントを超え、日本全体でも40〜50パーセントという説があります。
先進国である欧米諸国と比べても、江戸末期の日本人の識字率は非常に高かったのです。これを支えたのは寺子屋です。

「江戸時代は、一種の生涯学習社会であったと評価できる」と述べているのは日本女子大教授の入江宏です。そして、英国ノッチンガム大学の教授で成人教育学の権威であるE・トーマスは、日本の社会教育の歴史と現状を調査し、その特徴は市民教養教育にあり、それは日本の伝統文化に属するものであると紹介しています(「現代農業」増刊『すべては江戸時代に花咲いた』)。

寺子屋は、江戸時代になって幕藩体制が固まり、庶民が落ち着いて生活ができるようになって生まれました。最初は寺僧の余業のようにして京・江戸から始まり、次第に地方に広がって、1800年代には全国で1万5千件くらいに達していたといわれています。

井上ひさしの「京伝店の烟草入れ」(講談社文芸文庫)に、「化政期の貸本屋は600余」と書かれた一節があります。化政期(文化・文政期:1804〜1829年)は、元禄と並ぶ文化の爛熟期で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などが発刊された時期です。

当時の貸本屋は、店を構えているというのではなく、棒手振りといっててんびん棒の前後に本箱をつけ、これを担いで町を練り歩き、得意先を回る訪問販売です。

武家屋敷や大店だけでなく、あるいは、長屋の井戸端会議にも出向いたかもしれません。瓦版が飛ぶように売れ、貸本屋が商売として成り立ったのは、それだけ文字を読める、レベルの高い成熟した読者がこの時代に多くいたということでもあります。


■利益を期待しない学習――生涯学習先進国
寺子屋を語るときに、よく藩校が話題になりますが、藩校は寺子屋より年齢が高い武家の子弟を対象にした成人教育機関であり、多くが維新になって学校として改革されました。論語や漢学を教えた私塾も、多くは藩校と同じで成人学習機関です。

こうしたさまざまな形での教育が、江戸時代を通じて活発に行われましたが、そこで学ぶ人たちのねらいは、あくまでも教養を身に着けることにありました。

たとえば、中国でも多くの人たちが日本の藩校や私学と同じように論語や四書五経などを学びましたが、ねらいは役人になるための試験「科挙」受験を目指したものでした。欧米の教育もどちらかと言えば、教育を受けることによって地位や収入の増大をめざした投資型・資格取得型です。

それに比べて、日本では教育は、利益を目的としたものではありませんでした。庶民の寺子屋での学習を含めて、教育を受けるということが、経済的な対価や資格取得などのメリットを求める目的ではなく、あくまでも個人としての教養を高めること、自身の人間性や品格を高めることがねらいであったという特徴がありました。

元慶応義塾大学教授で教育学者の村井実は、明治維新以後の日本の目覚ましい近代化の根源力が、すでに江戸時代の教育にあったと主張して「江戸時代の教育」を著したイギリス人ドーアを紹介しています(「現代日本の教育・改訂版」村井実、NHK市民大学叢書37)。

前記ドーアによれば、

「江戸時代の教育が、たんに「善い武士」「善い百姓」「善い町人」の教育に止まらず、常に、「より善い武士」「より善い百姓」「より善い町人」への教育であり、その意味で人々に向上の意欲を育て上げることができた。・・・・それが明治以後の日本の発展を、他に類をみないほどのものにした」

と指摘していると紹介しています。

言い換えれば、寺子屋や藩校での教育は、いまでいう生涯教育にあたり、このほかにも江戸の町では、さまざまな社や社中、連、講などが広く行われていました。

プログラムは多様で、国学、蘭学、和歌、俳諧、さらには和裁や生け花、茶の湯、さらには芸能の家元制度まで多彩な組織を形成していました。男子だけでなく町家の妻女なども同様に、こうしたものを趣味のサークルとして楽しんでいたようです。

寺子屋での教育は、論語などの素読が主でしたから、科学的な知識は後れをとっていたとしても、江戸時代末期の庶民には、新しい西洋の知識を受け入れ、消化するための基礎的な素養は十分あったと理解していいでしょう。


 基準石高  足高制前  足高制後 
 5000石  4  0 
 4000石  1  1 
 3000石  6  2 
 2000石  6  3 
 1000石  18  19 
 500〜999石  2  8 
 500石以下  1  23 

足高制度による登用件数(「武士道と日本型能力主義」より)


■ものづくりを育てた肥沃な土壌
こうして見てみると、明治時代の初期に、西洋の合理性や科学技術・工学に大きく差をつけられた状態で国を開いた日本が、「独創性はないが、見事に仕上げる巧みさがある」という素養をベースにものづくり大国に成長できた理由が、なんとなく見えてきます。

封建制度で遅れていたと思われる江戸時代が、実は、開国しても対応できるように庶民の識字率を高め、学習意欲を向上させていた、つまりは肥沃な土壌をしっかりと培養していた時代であったということに気付きます。

一般的に私たちが理解している江戸時代は、一部の為政者を除いて、領民に「知らしむべからず、寄らしむべし」という立場をとっていたように教えられてきました。

建前上は、学んで知恵をつけることは、権利の主張につながりますから、領主が喜ぶわけではないし、領民が知恵をつけて啓蒙されていくことに、むしろ反対の立場をとってきたようですが、しかし、実情は、必ずしもそうではなかったということです。

武士が支配する社会で、農工商の子供たちが、識字率世界一と言われるような密度で教育を受ける仕組みを、政策的に作り上げてきたとすれば、これは見事な政策と言わざるを得ませんが、実際には、庶民からの発想で、自然発生的に寺の僧や、あるいは職を失った浪人などによって教育が行われてきたというのが、実情でしょう。

必ずしも庶民に有利な環境がつくられていたわけではない中で、何とか自らに良いような状況を作り出していくというあり方は、与えられた状況の中で、しぶとく生き、楽しんでいく、日本人の生き方の特徴を示しているのではないかと思います。

寺子屋という機会を利用して、庶民がいわばボトムアップ的に生活に学びを取り入れていったわけですが、その根底には、向上心、好奇心があったはずです。

しかも、農家の子弟が学ぶことで経済的な利益を得るわけではありません。江戸時代から、学ぶことを通して自身を向上させる、そんな指向を持っていたとすれば、たぶん、世界的に見ても、あまり例がない、特異な存在ではないかと思います。町では塾やカルチャーセンターが花盛りです。

日本人は、世界的にも珍しい、学ぶことを楽しむ人種と言っていいと思います。
生涯教育というのは、1965年にユネスコが提案した新しい概念です。しかしそれ以前から、日本では伝統的に、生涯にわたって人格を磨き、教養を高めることが人生を豊かにするという考え方がありました。

好奇心と向上心、たゆまない努力、そうしたことによって、高度なものづくりを生み出す基盤が江戸時代から私たちの中に育まれていたといえるのではないかと思います。


第8章 どこへゆく日本のものづくり

■ものづくりのゆくえ

ここまで、私たちがものづくりや仕事とどのように付き合ってきたのかを、ざっと振り返ってきました。

ご紹介してきたように、日本人は「ものをつくる」ということに対して、強いこだわりを持っている、世界でも数少ない国民です。

江戸の末に国を開き、西洋文明を導入して百数十年。わたしたちは西欧の近代科学を学び、ものづくりに励んできました。そしていまもなお、ものづくりに思いを託して、経済を発展させようとしています。「ものをつくるというプロセス」に、これほどのこだわりを持っている国民は、世界を見渡してもほかにあまりありません。

第2章「通奏低音を聴きとったペリー」で、日本のものづくりの底には、特有の通奏低音が静かに流れていて、この通奏低音こそが、日本の伝統と文化から生まれたものづくりの特徴だと述べました。

日本が持つ緻密で高品質な製品づくりの仕組みは、日本の伝統文化に西洋の科学技術や合理性が融合して生まれた、世界でもきわめてユニークな文化であり、日本でしか実現できない日本の財産です。そしてそれは同時に、世界の、人類の財産でもあります。

もし、これが人類の財産であるとするならば、この財産をさらに高度なレベルへとブラッシュアップしてゆく仕事は、私たちに課せられた責務と言えるでしょう。

高度成長、バブル崩壊、失われた20年を経て、いま日本は、アメリカ、中国に次いで、GDPで世界第3位の位置にあります。人によって、この位置にあることをどう考えるかさまざまな意見がありますが、私は、国土面積が25倍以上もあり、人口も圧倒的に多い2つの国と張り合って、小さな日本もなかなか頑張っているではないかと、この国を頼もしく思います。

日本、アメリカ、中国の国土面積比較


しかし、2位から3位へと順位を落としたことで、日本は優位性を失い、ものづくりでは世界で戦えないと主張する意見もあります。

日本の将来を考えたとき、ものづくりはいったいどのような役割を果たすのでしょうか。この点に関して、大きく2つの意見があるようです。

●高度なものづくりこそ日本の産業を支える生命線であり、これからもものづくりにこだわって高度化を進めていくべきだとする意見と、
●いつまでもハードウエアの加工技術にしがみつかず、ソフト・コンテンツなどの情報通信産業や金融・流通・サービス産業の方向に進むべきだとする意見

です。


■ハードとソフトの融合
この議論の立て方には少し違和感をもちます。それは、問題が、

●ものづくりか/ソフトウエアか
●ものづくりか/情報・サービス産業か
という二者択一で議論されてしまっているからです。

いまや、ものづくりに限らず、あらゆる領域で、ハード技術とソフト技術は切り離せない関係になっており、両者を融合させたところからしか、新しいイノベーションは生まれません。

日本はこれからものづくりとどう付き合うべきか、という問いに答えるとすれば、ものづくり技術の高度化は、日本の産業の基盤として捨てるわけにはいきません。
私たちの何年か先を走っているといわれているアメリカは、しばらく前にものづくりを放棄して、金融工学に走り、またソフトウエア、知的財産の高度化と活用を目指して世界をリードしようとしています。
日本が同じ路線を目指し、アメリカと競争して勝っていけるかといえば、はなはだ心もとないところがあります。アメリカと違って、日本には、日本にあった独自性、創造力を発揮する方向があるのではないかと思います。

前章でお話したように、研究開発力と緻密な生産技術力の両方を高いレベルでもつ日本のような国は世界にはほかにありません。どんな時代になっても、高度なものづくりの技術力は、競争力の源泉でもあります。これを捨てる必要があるとは思えません。

もちろん、ソフト・サービス分野の活性化が不要というわけではありません。たとえどの領域に力を注ぐとしても、最先端のものづくり技術の向上は不可欠なのです。最近は、
●Iot(Internet of things)、
●ドイツ発のindustrie4.0
が話題になっています。
緻密な加工とアッセンブリー技術、さらにソフトウエア+通信技術の組み合わせは、まさに日本がもっとも得意とするところではないかと思います。

研究開発の重要性は非常に分かりやすく、かっこいい話でもありますので皆さんおっしゃいますが、それに比べて派手さのないものづくり=生産技術の重要性はあまり理解されていません。

■前提は高度な加工技術
製造業にとって、何を、どうつくるかは、経営の根幹にかかわる重要なポイントですが、何をつくるか(研究開発・商品)にばかり目がいって、どうつくるか(生産技術・製造)にはあまり関心が払われない傾向があります。
しかし、実は製造業が成功するかどうかのカギは、どうつくるかの技術が握っていると言っても過言ではありません。

問題は、ものづくり力を向上させるだけではなく、それを活かしたマネジメントが確立されていることが大切なのですが、この点が私たちに欠けているのではないかと思います。

商品化する過程では、技術の有無が成果を大きく左右します。
たとえば、長い間、人類の夢であった「さびない鉄」ステンレス鋼は1912年に製品化されましたが、溶接技術が開発されるまで、限られた用途でしか使われませんでした。広く普及するには、溶接技術が確立されるのを待たなければならなかったのです。

自動車は、1800年代末にガソリンを使ったエンジンが開発され、自動車会社がたくさん設立されました。多くの工場が従来のやり方で一台一台組み立てている中で、自動車を一気に普及させ自動車業界でイノベーションを起こしたのは、1908年にフォードが部品や作業法を「標準化」することで「分業システム」を取り入れ、製造ラインにコンベアを採用してT型フォードの大量生産を可能にしたからです。

後にフォードシステムと呼ばれることになった、コンベアを利用した流れ生産による大量生産システムは、自動車という新しい商品の開発によって可能になったのではなく、
・すり合わせなしでも交換可能な標準部品の生産を可能にし、
・作業を標準化して工程ごとに所要時間を均一にし、
・それを、コンベアを使って流しながら生産する
という生産技術的な工夫からもたらされたものです。

新しい素材や技術が開発されたあと、それが実用化・商品化されるためには、どうしてもそれを、高品質で効率的に生産・利用するための技術を開発するという大きな壁を乗り越えなければならないのです。

ステンレス・鋼板の接着



■ガラパゴス化する? 日本のものづくり
日本は世界でもトップクラスの科学技術力と生産技術力を持っています。
グローバルに比較しても、日本の製造業の競争上の優位性は高いはずですが、どういうわけか、市場では負けるという結果になってしまっています。そのため、日本のものづくりは、ガラパゴス化していて、グローバルの競争に勝てないという意見が聞かれます。

ガラパゴスといわれる理由として
@日本の家電製品などが中国や韓国などの企業にシェアを奪われて苦しんでいること、
A日本企業からイノベーションを興すような新製品が生まれていないこと、
の2つが言われています。

 家電製品などの不振から、日本のものづくりはグローバルな競争に勝てない、日本のものづくりは時代おくれでガラパゴス化している、などと言われるのですが、これはちょっと違います。「ものづくりが負けている」わけではないのです。

「ものづくり」が負けていると言われると、ものづくり力、つまり研究開発力や生産技術力、製造技術力が劣っているようにいわれますが、果たして本当にそうでしょうか。

ガラパゴス化しているのは、日本のものづくり技術力ではなく、高度なものづくり力を持ちながら、それを生かしたマネジメントが行われていないことが問題なのです。

つまり、「日本のものづくり」が負けているのではなく、製造業のマネジメントが負けているのであって、問題は高度なものづくりの力を活かせない「マネジメント」にあるのです。

いつまでも日本の企業が、技術的に成熟しきった家電を作っているのが正しいか、ということも、あるでしょう。縫製業を考えてもこのことは分かります。

高度な技術よりも、単純労働力が求められる縫製業は、低開発国が産業化をめざす最初の関門ですが、それを日本でいつまでも続けることが有効でしょうか。
同じように考えれば、家電のある部分は、当然、縫製業に続く産業領域として、開発途上国が力を入れてくる領域で、必然的に、そうした領域は、先進国から消えていく運命にあります。


■急速に進む技術のモジュラー化
かつて日本が、先頭を切って家電製品を世界の市場に送り出していた時代、家電製品は先端技術を生かしたイノベーティブな商品でした。

過去の蓄積された技術がベースとなって専用の部品を作り、新製品が作られていました。新製品を生み出すためには、摺り合わせながら組み合わせて高品質を実現する新しい技術が必要で、そうした技術を統合化して作りだされるインテグラル型のアーキテクチャーを持っていたのです。

しかし、技術が高度化し、ITが発達した現在、設備・部品に半導体を使った電子部品が組み込まれ、それが自動で作られるようになって、PCをはじめとして家電製品は、基本的な技術さえあれば、部品を購入して組み合わせ、インターフェースを工夫することで誰でもが作れるようなモジュラー型の商品になってしまいました。

日本が得意としてきた、技術の摺り合わせで作り上げるものではなく、あたかもレゴブロックのように、組み合わせて作られるような商品になっているのです。

現在は自動車がインテグラル型製品の代表ですが、電気自動車が普及するようになると、次第にモジュラー型の組み合わせ型商品になっていくと予想されています。現状では自動車業界への新規参入は簡単ではありませんが、電気自動車が普及することで、モジュラー型に変化し、新規参入はよりやりやすくなるでしょう。

現在は、安全性への需要から一ケタ高い精度が求められている航空機産業でも、やがて、そうしたプロセスをたどることが予想されます。そしてさらに1ケタ高い精度が求められている医療用の製品にも波及していくことになるでしょう。

その流れを止めるにはどうしたらよいでしょうか。そのためには、新しいイノベーションが必要で、その一例がメカとソフトの世界に、新たに通信機能を加えたIoT技術の活用です。ドイツが目指すindustrie4.0がまさにこの領域です。

モジュラー型の商品になった状況で求められるのは、それまでになかったまったく新しい機能を備えた商品の開発と、低コストで作り上げる力です。
新しい商品の開発に関しては次項で述べるとして、低コストで作り上げる力に関して言えば、日本が苦戦している中国や韓国の企業のものづくり力の源泉に日本の技術があることを確認する必要があります。

かつて日本が強さを誇っていた半導体産業や家電産業などの分野で、日本はアメリカや韓国や中国の企業の後塵を拝しています。熾烈な競争を展開しているライバル企業の多くは、日本製の高度な部品やシステムを使い、それが、製品の品質や特性・機能を支えるカギになっていたりします。

日本の最先端のものづくり技術がうまくマネジメントを得れば、グローバルな競争力をもつことは難しくないでしょう。世界でオンリーワンの高度な技術力をもちながら、日本が市場を奪われている原因は、その技術力や高品質づくりのノウハウを活かしたビジネスモデルを確立できなかった、マネジメント、つまり経営の問題があることがわかります。


■高度なものづくりを活かすマネジメント
ガラパゴス化していると言われる背景の2つ目は、新製品開発、イノベーションです。

【ガラパゴス化する日本のものづくり】A日本の産業界からイノベーションが生まれずに海外に先を越されている
かつて、日本の産業界は、世界の市場を沸かせたイノベーションを矢継ぎ早に興してきた国でした。

歴史的に見れば、カメラ、時計、トランジストラジオ、ビデオ、ウォークマン、カセットテープ、家電製品、ファミコン・ゲーム、デジタルカメラ、最近ではハイブリッド車……など、さまざまな製品で世界のイノベーションをリードしてきました。

それが、ここしばらく、アップルをはじめとし他企業に後塵を拝しています。
なぜ、こんな状態になってしまったのでしょうか。

日本の製造業の経営者に、当面の課題は何ですかと聞くと、決まって、「技術開発」が高い優先順位であげられます。そして、イノベーションには最先端の研究開発成果が必要で、それがないために自社からイノベーションにつながるような新製品が生まれないという意見が言われます。

しかし、この発想は、バブル時代くらいまでの、日本の製造業が研究開発力に弱く、欧米企業から特許を借りて商品化していた重厚長大型の産業構造の時代のもので、マネジメントの巧拙を問題にしないような圧倒的なイノベーションを求める、経営者の願望を表すものでしょう。

アップルに代表されるようなイノベーションにつながる発想ではありません。技術開発でイノベーションを起こそうという考えが消費財の商品開発では大きな誤解なのです

 第7章のノーベル賞の受賞者数でみたように、科学技術力・研究開発力では日本と中国や韓国の差は歴然です。そうした企業に商品開発力、市場占拠率で後塵を拝している状態を見れば、研究開発成果がないから市場でイノベーションをおこせない、という理由が成り立たないことは明らかです。

例えば、こんな話があります。

いま、タブレットPCは教育の場などにも導入されるようになって、大きな市場を獲得しています。この分野を切り開いたのはアップル社ですが、実は、タブレットPCが商品として販売される数年前、ある日本の企業の技術部門で、キーボードをなくした液晶のPCが試作されていたそうです。まさにタブレットPCです。

「これは面白い」ということで技術部門から、商品開発の提案がなされたそうですが、トップを交えた商品開発会議では、理由は不明ですが、新製品としてゴーは出されなかったそうです。数年後、アップルからiPadが発売され、ヒット商品として市場で飛ぶように売れていくのを横目で見ながら、技術者たちはやるせない気持ちになったといいます。

提案を受けたマネジメント層は、こうしたものへの需要があるという予測ができなかったのでしょうか。リスクを恐れたのでしょうか。もしそうだとすれば、経営者としては資格ですが、彼らを評価する機能が、内部にあるのでしょうか?

イノベーションを興すような新製品が日本の企業から提案されない、ものづくりがガラパゴス化している・・・と言われる実体の一つはこういうことでもあるのです。

全てがこの調子で、新製品が生まれなくなっているというわけではないと思います。しかし、この話しを聞く限り、問題はものづくりではなく、高度なものづくりの技術を活かせないマネジメント力にもあるのではないかと思います。


■イノベーションを生む条件
イノベーションは、どうやって起こされるのでしょうか。
企業が、市場でイノベーションを興すような新製品を開発するためには、どのようなプロセスが必要なのでしょうか?

たとえば、ウォークマンなど、過去にイノベーションを起こした商品をみてみましょう。
これらはいずれも、かならずしも、新しい技術開発がきっかけで商品化されたというものではありません。

既存の技術を組み合わせ、その中の、ある機能に特化して商品化し、ユーザーとのインターフェースに独自のデザインを施すことで、消費者に未体験の新鮮な価値や喜びを提供する、つまり、開発者の発想やニーズが起点となって、既存の知識、技術を組み合わせて作られた商品なのです。

新しい研究開発の成果がもとになって生まれたシーズ型の商品ではないのです。
もちろん、素材産業などでは、炭素繊維のように研究開発力がベースになって生まれるものもありますが、消費財マーケットで見れば、むしろ既存の技術を巧みに応用した商品が多いのです。

経済学の巨人シュンペーターは、1926年に著した「経済発展の理論」(東畑精一ほか訳、岩波書店、1980)で、経済の発展は「新結合」によっておこされ、「決して科学的に新しい発見に基づく必要はない」と書いています。そして、新結合が起こされる5つのケースを上げています(図)。

当時はイノベーションということばはなく、イノベーションに近い大きな変革を不連続の発展とよんでいた。そして、シュンペーターは、「不連続の発展は、新しい科学的な発見によってではなく、既存のものを“新しく”組み合わせることによって起こされる」と言っているのです。

しかも、そのイノベーションはどうやって起こるかについて、

「経済における革新は、新しい欲望がまず消費者の間に自発的に現れ、その圧力によって生産機能の方向が変えられるというふうに行われるのではなく、――それを否定するものではないが――むしろ新しい欲望が生産の側から消費者に教え込まれ、したがってイニシャティブは生産の側にあるというふうに行われるのが常である。」

と書いています。
 新製品企画では、新しいマーケットが生まれるかどうかを判断すべきところで、現状のマーケットだけを見て<売れる/売れない>の判断をするトップが多い。それが、愚の骨頂であることをシュンペーターはすでに100年以上も前に喝破しているのですね。

 シュンペーター「新結合の遂行の5つのケース」
 1.新しい財貨、=消費者の間でまだ知られていない財貨 
   あるいは新しい品質の財貨の生産 
 2.新しい生産方法、すなわち当該産業部門においても実際上未知 
   な生産方法の導入。(科学的に新しい発見に基づく必要はない) 
 3.新しい販路の開拓。 
 4.原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得。 
 5.新しい組織の実現、すなわち独占的地位の形成 
   あるいは独占の打破。 

「経済発展の理論」シュンペーター著 東畑精一ほか訳、岩波書店より


よく見ると、ジョブズの商品開発がまさにこのやり方なのです。
必要なのは、ゼロからの技術開発ではなく、既存商品・技術に新しい価値を見つけ、その価値を形にして提供することであり、イノベーションは科学的な新しい発見から始まるという思い込みが、日本からイノベーションを生まれにくくしているのではないかと思います。

スティーブ・ジョブズは、新製品開発の世界で、イノベーションを起こし続けた一人ですが、彼がどのように商品を開発してきた、少し振り返ってみましょう。


■優れた芸術家は真似し、偉大な芸術家は盗む
ジョブズは、アップル社を立ち上げて成功した後、1985年にアップル社を追われます。
そして、傾いた同社を再興するため九六年に復帰し、POWER PC、iMACを生み、2001年にはApple Storeを開店し、さらに、03年に音楽の分野に進出して、携帯音楽プレーヤーiPod、iTunes、を開発。07年にはスマートフォンのiPhoneを市場に投入、10年にはiPadを送り出し・・・と、デジタル時代における新しいコンテンツの楽しみ方を、矢継ぎ早に提案し、どれも大ヒットとなりました。

こうした流れをみると、ジョブズがオリジナリティあふれる新しい商品を提案してきたように思えますが、ジョブズ自身は決してそう思っていなかったようです。

早稲田大学商学学術院教授の井上達彦によると、「米オハイオ州立大学教授のオーデッド・シェンカーは、著書『Copycats』において、アップルを「アセンブリー・イミテーションの達人」と評していると紹介しています。既存の技術を新しいコンビネーションで結びつけ、アッセンブリーで商品化するのが上手な企業だという意味です。

「よそで開発された技術を結びつけて、優美なソフトウエアとスタイリッシュなデザインで包み込む。他社の技術やアイデアを持ち込むことを恐れず、ちょっとひねりを加えて自社の魅力的な製品を作り出す。そういった強さを持っているのがアップルです。」(『アップルの本質は模倣の達人』「日経ビジネス」(取材構成・秋山基、2012年3月21日))。

実際に、ジョブズは、模倣することについて肯定的で、

「素晴らしいアイデアを盗むことに我々は恥を感じてこなかった」
「優れた芸術家は真似し、偉大な芸術家は盗む」

などのことばを残しています。

ただ、単に模倣するだけでなく、彼の商品には、新しい価値を発見し、独自のデザインを加えているなど、ジョブズならではのこだわりが込められているのです。

マイクロソフトも、いくつかアップルのシステムを模倣していますが、ジョブズは「マイクロソフト社がマックをコピーすることに長けていたわけではない。マックが10年もの間コピーしやすい製品だっただけだ。それはアップル社の問題だ」と語っています。

『Copycats』の著者であるシェンカーも、「イノベーションとは必ずしも何か新しいものや技術を発明すること自体を指すわけでなく、既にある技術やアイデアを組み合わせて、全く新しい技術や製品・サービスに昇華する力を指すのだと考えています。イノベーションとは、組み合わせる力であり、「連結力」であるということです」と書いています(同)。

とはいえ、そうして生み出したものが、単に形状や技術の模倣に終わらず、消費者の生活様式を変えてしまうほど、まったく新しい価値を提供する商品に仕上がっているところが、ジョブズのイノベーションの深さといえるでしょう。模倣から出発して、最後には、それまでになかったまったく新しい価値を生み出しているのです。

『アップルの本質は模倣の達人』「日経ビジネス」(2012年3月21日))。



■チャンスは「ニア・ハイ」にあり
この原稿を書いているときに、偶然こんな話を読みました。ちょっと面白かったのでお付き合いください。

サッカーの国際マッチでは日本チームの決定力のなさがよく指摘されます。ヨーロッパの強豪チームなら確実に一点というところで、日本チームはしばしばゴールを外し、惜しい試合展開になるというのが、デジャヴのようなお決まりのパターンです。

それに比べて、メッシやロナウドなど、世界的なストライカーのゴール決定力は圧倒的だと評論家の中村僚はいいます(「『落ち着け』では解消しない! 日本人選手に決定力がない本当の理由」「フットボールチャンネル」2013年6月8日)。

日本のストライカーと彼らとの違いはどこにあるのか。一般にサッカーのゴールには、三種類があるそうです。

A:GKがとどかないゴールマウスぎりぎりのミドルシュートや、鋭利なカーブを描いた直接フリーキックなど。
B:GKが反応できない、視覚外から放たれたシュートやフェイントでGKを抜き去ってから放つシュートなど。
C:別段、球速があるわけでもなく、タイミングをずらした形跡もない。それでもあっさりとゴールに収まるシュート。具体的には、GKの顔の横や肩口、股間、倒れ込んだ際の脇の下など、一部で「ニア・ハイ」と呼ばれるシュート。

日本のJ1、J2でのゴールと、メッシ、ロナウドのゴールを比較したところ、

Aのゴールは、メッシが68%、ロナウド70%、Jリーグが70%と変わらない、
Bでは、メッシ、ロナウドは共に12%、Jリーグが22%と差があり、
Cはメッシ20%、ロナウド19%に対して、Jリーグは8%止まり

 つまり、日本の選手はGKから遠いコーナーや死角を狙って外してしまうケースが多いが、メッシらはGK近くの「ニア・ハイ」を狙い成功させる確率が高いという。

そして、このことを少年サッカーチームに教えて、ニア・ハイを狙わせたら、得点力がグーンと上がった、といいます。

サッカーのゲームに関して、紹介されたような内容が本当に正しいのか、専門家ではない私には、正否はわかりません。しかし、この話、なにやら、独自の研究開発から取り組んでヒット商品をなかなか出せない日本の企業と、既存の技術にあるものを活用して(ニア・ハイ)、ヒットを連発するジョブズとの違いを、ほうふつとさせるような話ではありませんか。

 ゴールの種類  メッシ  ロナウド  Jリーグ 
 GKがとどかないゴールマウスぎり 
 ぎりのミドルシュートや、鋭利な 
 カーブを描いた直接フリーキック 
 68%  70%  70% 
 GKが反応できない、視覚外から放 
 たれたシュートやフェイントでGK 
 を抜き去ってから放つシュート 
 12%  12%  22% 
 GKの顔の横や肩口、股間、倒れ込 
 んだ際の脇の下など、一部で「ニア 
 ・ハイ」と呼ばれるシュート 
 20%  19%  8% 



■独自の価値を生む、換骨奪胎と合わせ技
異なったものを合わせ、つなぎ、結びつけるという行為は、私たちが伝統的に親しんできたものです。

わたしたちは、古くから、貝合わせ、歌合わせなどの遊びをしてきました。また、炊き合わせ、抱き合わせなど「合わせる」行為も多く行ってきました。また、和歌・連歌の世界では、古くから古歌の語句・趣向などを取り入れて和歌を詠む、本歌取りという手法が用いられ、藤原定家などによる名品も数々生まれています。

 岩波書店の「逆引き広辞苑」(岩波書店、第一版)を見てみると、「○○あわせ」ということばは「歌合せ」をはじめ130もあり、「合わせ××」も合わせ鏡など20近く。同様に、「○○結び」も100近く、「○○つなぎ」は18が掲載されています。この語彙の豊かさと自在さは、驚異というしかありません。これは私たちの発想の多様さと自在さを示すものです。

異なったものを組み合わせ、結びつけるという行為をこれだけ多様に行ってきたのは、逆に言えば、私たちが遠い昔から、組み合わせ、結びつけることから生まれる新しい発見、驚きに価値を見つけていたということです。こうしたことを楽しめる感性、知性、創造力を備えているということにほかなりません。

生産技術力の基本は、素材、工具、加工法、技能をいったんばらして、合わせ、結びつけ、つなぎ、そのうえでインターフェースを工夫することで成り立っています。

知日家で、構造主義の旗手と言われたフランスの哲学者ロラン・バルトは、「《天ぷら》はポルトガルの、もと、四節句中の肉断ち(テンポーラ)の料理に由来する」と紹介した後で、

「だが、日本人の例の換骨奪胎の技術によって洗練されて、これはもはやそれとは別な場合の食べものとなっている。」(「表象の帝国」宗左近訳 ちくま学芸文庫)

と書いています。

換骨奪胎とは、元にあるものをいったんバラし、他の要素と結びつけ、つなぎ合わせて再構成することです。その結果、模倣の枠を大きく超えて新しい価値を持った、別のものが生みだされます。

そこに新鮮な楽しみや刺激があり、ユーザーに合わせて洗練されたインターフェースをデザインすれば、それはジョブズが行ってきた行為そのものではありませんか。

テンポーラの知識なしに、ゼロから天ぷらを考案するのは、至難の業です。そして、だれでもが、テンポーラから天ぷらを作りだせるわけではありません。模倣を越えてイノベーションへと昇華させるには、その過程で、「新しい価値」への気付きと、求めるゴールを想像するデザイン力が不可欠です。

ジョブズは、「素晴らしいアイデアを盗むことに我々は恥を感じてこなかった」、「優れた芸術家は真似し、偉大な芸術家は盗む」と語っています。

開発に際しては、ユーザーの新鮮な驚きや喜びを優先し、仕上がりの微妙な質にこだわり、何度でも修正を要求してスタッフとぶつかったそうです。こうした仕上がりへのこだわりは、若いころから傾倒した禅や、深い関心を持った日本の工芸品に大きく影響されたと言われています。

ジョブズのイノベーションを生む斬新な発想は、もしかしたら、西欧流の合理性と日本の伝統的な美意識という、異なった価値観が融合することで生み出されたものかもしれません。

■日本の時代がやってくる−−本番はこれからだ
わたしたちがこれまでに作り上げてきた高度なものづくりの技を、未来に向けてさらにブラッシュアップしていくことが重要だということについて、どなたも異論はないと思います。

改めて、私たちの過去から続く、ものづくりへのこだわりを見ていると、日本人は、もしかすると、ものづくりを高度化するために生まれてきた民族ではないかと思うほど、ものづくりのプロセスに抱く関心の強さは超弩級です。

 国内からものづくりの場が消えつつあるなかで、日本のものづくりは終わりだという人がいますが、わたしは、まだまだ大きな可能性を秘めている、いえ、むしろこれからが日本の感性を世界にアピールする本番だと思います。

これまでわたしたちは西洋の科学技術を礼賛し、どちらかと言えば伝統的な考え方や行動様式を古いもの、劣るものとして退けてきました。

しかし、西洋の文明から見ると、私たちが古いものとして退けてきた日本古来の文化や伝統は、これまで全くなかった、新しいもの、新しい文化や価値観を持った新鮮なものであるという認識が欧米から表明されるようになってきました。文化遺産に登録された和食の世界、素材を加工し、味わうそのやり方もその一例です。

1859年、アメリカとの間で結ばれた通商条約に従って5港を開港し、西欧文化に門戸を開いて以来、西欧社会から、日本の文化、あるいは慣習や伝統は「古い、異端なエキゾチズム、目を向ける価値のない低俗なもの」としてみなされてきました。

その一因として、列強に張り合って領土拡大を図った明治以来の軍国日本の歴史もあって、部分的に、日本的なものは忌み嫌われるマイナスのイメージを持たれてきたこともあったと思います。

そのカウンターイメージとして私たちも、私たちの文化や伝統を古いものとして退けてきたきらいがあります。しかし、明治以来150年の交流を経て、日本古来の伝統の上にあるものは、西洋の文明から見ると、

●これまで全くなかった新しいもの、
●自分たちにはない文化や価値観を持った新鮮なもの

であるという気づきが欧米から表明されるようになってきました。
和食の世界が文化遺産に登録されたのも、

●素材を加工し、
●味わう

日本独自のやり方が、「異端」なものとしてではなく、新しい価値観、論ずる価値のある文化として、やっと彼らに受け入れられるようになったためと思います。

一神教に対して、万物に神が宿るとする発想は、西洋思想から見ると、目からうろこのものでしょう。
地球にはさまざまな民族が住んでいます。一つの価値基準ですべてを序列化してしまうのではなく、それぞれの民族が独自の価値基準と文化を持って共存する、いわば、八百万の神の存在が、地球の共生という観点からも自然な発想であることは言うまでもありません。

それはある意味で、これまで競い合うことで自己の正しさを主張し合ってきた西洋の文明が、自分たちと価値観を共有しない他者の存在とそのもつ異質な価値観を先入観なく認め始めたということかもしれません。

西欧の文明が、明治以来、異質の存在として列強の仲間入りしようとしてきた東洋の小国に対して、その文化や価値観を理解するまでに150年という時代が必要だったということでしょうか。つまり、コミュニケーションを正しくかわすということが、いかに長い時間を必要とするものかということです。

日本の文化、価値観、伝統や慣習が世界に広がっていくのは、これからなのです。


■グローバルなイノベーションを起こすために
これまで私たちは、多くの文化や技術を欧米始め、多くの国から学んできました。そして、逆に欧米も、アジアのもつ異質さ、その価値観に目を向けようとしています。

いまやITの高度化によって、通信は空間的な距離をものともせず、コミュニケーションすることを可能にしてきました。また輸送機器の発達によって、物理的な移動も、つい、50年前までは東京から大阪への出張が移動に8時間もかかり、一泊が必要だったことさえ信じられないほど手軽になりました。

距離という障害がなくなり、また、国境という障壁が開かれるようになったいま、市場は国内より、国外に移動しています。そんな時代には企業の思考・行動範囲もよりクローバルなものが求められます。

1978年、ケ小平が中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で打ち上げた改革・開放政策を受けて、安価な労働力を求めて、多くの企業が中国に進出し、ものづくりの場が国内から海外に移動しました。中国の開放政策に刺激されて、多くのアジアの国々でも改革が進められ、ものづくりの現場は滝つぼに水が流れ落ちるように、アジアへと移っていきました。

そうした国々では、産業の発達とともに、給与所得者が育ち、いまや、製造の場としてだけではなく、購買力を持った消費市場として重要な意味を持つようになりました。大きなマーケットをもつそうした国々と良好な新横浜ビジネスを展開するためには、お互いの理解が不可欠です。

アメリカも、ヨーロッパの国々も、もともと海外からの移住者が多く、あらゆる世界で、いわば異文化を持った人たちが、活躍しています。
アメリカの企業を訪ねれば、事務所にいる人材の半分は、ヨーロッパ出身だったり、南米、アフリカ出身だったり、あるいはアジア出身だったりします。そうした人材がお互いに競い、せめぎ合って、新しいエネルギーを生み出しているのがアメリカ社会です。

ヨーロッパも同様です。ヨーロパは元々地続きで、人材の交流は活発です。西欧の国々にも東欧から中東、アジア、アフリカの人材は溢れています。かつて植民地を持っていた経験から、アフリカ、南米、アジアの人材はかなりの高い比率で人口を構成しています。

さらに、いまはEUが域内の人材に国境を開放していますから、EU加盟国の企業の事務所は異文化人材の宝庫と言ってもいいでしょう。海外の企業では、多くのグローバルな人材がグローバルな市場をめざして戦略を検討し、活動を展開しているのです。

ひるがえって、日本を見ると、日本の企業で働いているのは、ほぼ100パーセント日本人です。企業は海外進出をめざしてグローバル戦略を立案し、グローバルを対象にした商品を開発し、マーケティング活動を展開しています。

グローバルな市場をめざして・・・と言いながら、日本の企業で戦略を検討するのは日本人ばかりです。果たして、こんな状況で本当に日本の企業は海外の企業とグローバルな市場で競争できるのでしょうか?


■外部の価値観を取り込もう
いま、日本ではさかんにグローバル人材の育成が叫ばれています。日本の国も、海外に門戸を開き、人材の交流を進めるために、留学生の誘致を進めています。

文科省が進める留学生誘致の目標は、2020年に30万人の留学生を招へいすることですが、2013年に18万人だった留学生数は、2016年には、20万人を突破しています。

日本で学ぶ留学生数は順調に増えているのですが、残念なことに、そうした留学生の多くが日本で働くことを希望しながら、半分の留学生が、就職先が見つからずに帰国したり、他国で就職してしまったりしていることです。

せっかく優秀な人材が日本の企業で仕事をすることを望みながら、受け入れる企業がないのです。理由は、日本語を十分に理解できないから、あるいは、外国人を雇用しても、彼らの能力を発揮してもらうことができないから。わかりやすく言えば、文化と価値観の違う人材は社内のトラブルのもとで、逆にこれまでのやり方が侵され、問題が生じるため、敬遠する・・・というわけです。

イノベーションとは異質な価値観がせめぎ合う所から生まれるのだと思いますが、異質な価値観のぶつかりを、マイナスとして避ける文化が日本の企業にはあるのですね。これを克服しないと、これからのグローバルなイノベーションはなかなか起こせないのではないかと思います。

価値観がせめぎあうなかから新しいイノベーションは生まれます。優秀な頭脳と異なる文化・価値観を持った留学生を、今後、いかに日本の企業に取り込めるか、ITの進歩で、ますますグローバル化が進むなかで、新しい時代にリーダーシップを発揮するために、不可欠な要素ではないかと思います。

日本は、日本の良さに気付いていない、材料はあるのに、それを生かしきれていない、とよく言われます。いい材料はあるのに、それを、生かす知恵がないということが言えるかもしれません。これまでの解決策は、外国のノウハウを借り、ディズニーランドを作るという借り物発想です。

日本人だけでなく、異文化を持った人たちの知恵を入れることで、これまでになかった新しいテーマパークの創造など、日本文化の発露法も生まれてくるのではないかと思います。そのために何が必要なのか、そうした思考法が日本人に欠けているのかもしれません。グローバルな知恵をどんどん入れて、日本の良い素材を世界に向けて発信していきたいものです。

いま、世界の企業で、優秀な人材の獲得競争が展開されています。企業は人なり、つまり、優秀な人材を獲得することが企業の発展に大切だということですが、ところが、日本の企業の経営課題を調査すると、優秀な人材は必要だといいながら、グローバル人材の必要性は、2014年に比べて、2016年では下がっています。

これはどういうことでしょうか? 当然、日本人で優秀な人材を求めているということですね。もちろん優秀な人材であればいいのですが、目の前にいる、外国人留学生が見えていないのですね

日産自動車、ルノー、三菱自動車のCEOを務めるカルロス・ゴーンは、ベイルート生まれで、ブラジルで育ち、フランスの大学を卒業しています。パリで、ミシュランに採用されたことで、飛躍のきっかけをつかみ、今では世界的な経営者として活躍しています。

いま、日本で学んでいる外国人留学生の中に、第2、第3のゴーンになる逸材がいるかもしれません。日本の会社からそうした人材が生まれてくるのはいつのことでしょうか?
もっと、グローバルな視点で人材を考える必要があるのではないかと思います。


■和のものづくりの底力と潜在力
万物に神が宿る、最近ではトイレにさえ、それはそれはきれいな女神さまがいるとする日本人の発想は、共生という切り口で見れば、宗教的というよりも魂のコスモロジーという方がふさわしいひろがりをもっています。

八百万の神や、ロラン・バルトが言う換骨奪胎、さらには融通無碍、清濁併せのむ、お客様は神様です、などという言葉は、例えばフレキシビリティやダイバシティ、カスタマー・サティスファクションといま風のことばで言い換えてみると、それはグローバルな時代にも通じる最先端の考え方になります。そしてこれらは、日本人には、長い歴史のなかで使い慣れてきた土着の思想でもあります。

たとえば、こんな商品をご存知でしょうか。
お湯をさすだけで食べられる、生みそを使ったインスタントみそ汁があります。あるメーカーの製品の10食パックは、生みそと具の小袋が10個ずつ入ったものですが、みそと具の小袋が、/みそ10個/具10個/とまとめて10個ずつ入れられているのではなく、/みそ/具/みそ/具/・・・と一個ずつ対になって交互に入れられています。 

購入した客は、調理に際してみそと具の袋を一つずつ取り出す必要はありません。隣り合った任意の2袋をつまんで取り出せば<みそ>と<具>が一つずつ取り出せるようになっているのです。

異なったものを交互に隣り合って封入するためには、生産工程でひと手間多く必要ですが、そんなサービスに価値を認めてコストをかけるのは、日本くらいでしょう。


そんなサービスにどれほどの価値があるのか、と問うのが、これまでの西洋の合理思想です。しかし、そんな彼らが、いまは、日本式のゆるい、おもてなし発想に価値を見出し始めています。
洗浄トイレの人気なども、言うまでもなく、日本のおもてなし精神から生まれた商品と言えるでしょう。

西欧の人たちも、すごいですね、文明の最先端を走りながら、あらゆるきっかけを利用して、新しい価値を求め、受け入れて、自らを変えようとしています。

いま、「おもてなし」や「もったいない」などのことばが海外でも話題になっています。最近は、日本の価値観から生まれた新しいサービスや行動様式を心地よいと感じる外国人も増え、日本に駐在したビジネスマンたちのなかには、帰国する際のみやげに洗浄トイレを買って帰る人も少なくないそうです。中国人の爆買いもその一例でしょう。

西欧の科学技術や合理性を導入し、精いっぱい活用してきた私たちが、ものづくりやマネジメントをはじめとする世界で、改めて日本古来の伝統的な共生の発想や行動様式を活かして新しい価値を提案していくのは、これからです。やっと、その緒についた所です。

まだ、私たちには、私たち自身が気付いていない大きな潜在力、可能性があります。やっとそうしたものが力になる時代がきたと言っていいと思います。 日本のものづくりが本当に力を発揮するのはこれからなのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。<了>




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