ものづくり日本の心


私たちは、なぜこんなものづくりをするようになったのだろうか?


第7章
日本人の創造性と独創性



■日本人の独創性
ここまで日本人のものづくりに対する意識や考え方、働き方を見てきましたが、日本のものづくりという点で外すことができないテーマがあります。それは、ペリーの日本遠征記をはじめ、多くの外国人から指摘され、日本人の口からもよく聞かれる「日本人は創造性に欠けるが、細工の精緻さには驚かされる」という問題です。

江戸末期の日本を訪れた多くの外国人から、日本人は、創造性、独創性に欠けるが、緻密な加工をする力は目を見張るものがある、と言われてきました。

現在においても、QCDの能力、つまり、緻密に加工し、組み立てた高品質な製品を作るという能力は、他の国々と比較して日本の製造業の顕著な特徴と言われます。

そして、日本人には、巧みに作り上げる技能はあるが、独創的なものをつくる創造力に欠けるという声もまた、海外・国内を問わず、多く聞かれてきました。いま、模倣天国と非難されている中国の姿に、50年前の日本の姿を重ねる人もいます。

製造業にとって、

●「What」何を作るか(Product:プロダクト、商品・商品企画)と、
 ⇒イノベーション・プロセス
●「How to」どのように作るか(Process:プロセス、作り方・生産技術)
 ⇒オペレーション・プロセス

の2つは、いわば車の両輪です。

この両輪がスムーズに回転することでものづくりは前に向かって前進しますが、商品開発やプロセス開発の原動力になるのが、創造力とQCDを実現する力=生産技術力です。
この創造性とQCD能力は、日本の特徴を語るときに、例えば、

創造的なものを生み出す力はあまりあるとは言えないが、
   ⇔
高品質、仕上がりのきれいさは他の追随を許さない日本の独擅場である

……というように、対語として語られることも多いようです。

戦後の高度成長期に、日本の研究者たちは、外国で生まれた研究成果を取り入れ、応用して、ものづくりに生かしてきました。
そのため、一時期までは、日本の製品と言えば、「模倣」品といわれて、日本の研究者たちには独創的な研究をリードする力はないと言われ続けてきました。

1970年代の初めころには、すでに日本のGDPはドイツに次いで世界第3位に成長していましたが、それでも「日本の合成皮革は、皮革の匂いまで模倣されている」などと冗談半分に言われたことを覚えています。

いまでも製造業も経営者に聞くと、日本人の課題は創造力、研究開発力にある、という人は多いようです。
果たしてほんとうに日本人に、創造力はないのでしょうか?


■科学先進国は時代とともに変わる
科学技術研究は、過去の積み重ねという基礎の上に成り立ちます。
トップに立つためにはそれなりの土壌と環境が必要で、先進国以外の国で、優秀な科学者がいるからといって、それだけで世界のトップに並ぶ成果が出せるというわけではありません。

チームや環境としてではなく、個人の力でできること、たとえば理論物理などの世界では、組織的な土台なしでも個人の力で、ある部分突出した研究が可能ですから、1949年に湯川秀樹が中間子の理論でノーベル賞を受賞するようなことが可能でした。

科学的な成果を生むには、国としての総合力が必要ですから、ある国が科学的な総合力をもてるかどうかは、歴史の流れにも大きく左右されます。
日本人に独創性があるのか/ないのか、日本で独創的な成果を生むことができるのか、という議論をする際に、「歴史的な流れを見ることが重要だ」というのは、北海道大学大学院教授で科学史が専門の杉山滋郎です。

杉山は、著書『日本の近代科学史』(朝倉書店)のなかで、日本はこれまで欧米の進んだ科学や技術を導入することに汲々としてきたが、そのことを根拠に日本人には独創性がないとの議論もされてきた。しかし、欧米がいつも科学の先進国であったわけではなく、また「欧米」と一くくりにされる国々の間でも、科学・技術の先進国はたえず移動していた……と前置きして、以下のように書いています。

『1600年代半ばまではイタリアが科学研究の中心であったが、後半になるとイギリスへ、1800年頃にはフランスへ、1800年代後半にはドイツへ、そして1930年代に入るとアメリカへと科学の中心が移動した。それに応じて、科学を志す人たちはイタリアへ、イギリスへ、フランスへ、ドイツへと遊学の旅に出た。19世紀の前半にはフランス語の読み書きと会話の能力が要求され、19世紀後半からはドイツ語の能力が要求された。イギリスの代表的な専門科学雑誌Philosophical Magazineには、フランス語やドイツ語で書かれた論文を英語訳したものがたびたび掲載された。また第二次世界大戦後にアメリカの科学・技術が世界的に優位に立つことができた背景には、ヨーロッパからの「亡命科学者」の存在がある。
こうして見ると、科学の後進国はみな、先進国から科学の成果を必死に学び取って先進国に追いつこうとし、うまくすると追い越していった、それが歴史の「常態」である。先進国から科学や技術をひたすら導入することがただちに独創性の欠如を意味するとは思えない。』


これは言い換えれば、小学生にいきなり独創的なものを生み出せと言っても無理な話で、それなりの成果を生み出すためには学んで力を蓄える期間が必要だということでしょう。

問題は、学ぶなかから、独創的な研究が出てくるためには、どのような環境づくりが必要なのか、そして、成果を生みだすためにどのような孵化装置が必要なのかということです。

そもそも学んで力をつけることができるのか、その期間をどのくらい必要とするのか、そこにその国民の持つ基本的な資質が現れてくるのではないかと思います。


■未だ創造的能力を誇る能はず
伊藤博文は、日の丸演説の前年の1871年にニューヨークに滞在し、法律の調査をしていますが、すでにその時には、1856年に発行されたペリーによる合衆国議会版『日本遠征記』(原題『アメリカ艦隊の支那海域及び日本への遠征記』)が発刊されていました。

当時のアメリカは、日本を鎖国から開いたのは自分たちだという意識もあって、日本への注目が高かった時です。「日本遠征記」に記載されている内容について政府の関係者たちと議論をする機会もあったのではないかと思います。
その日本遠征記(4)(岩波文庫)にはこんな一節があります。

「すべてのアメリカ人は、木造の家屋を建築する際に日本の大工達が示した熱棟した枝術、即ち整理の巧さ、接合の滑な仕上げ、床張りの整然さ、窓框、移動式戸板及び幕のきちんとしたはめ方と滑りよさを歎賞した。家屋や公共建築物全体の設計は、構造の細部の仕上げよりも甚だ劣ってゐた。前者は画一的で、叉多分昔の型に従ってゐるのでもあり、叉疑もなく、政府から定められた規格内に創造力が制限せられてゐることを示すものであったが、細部の仕上げは経験が進むに従って獲られた完全さを示してゐた。」

「全体の設計は、構造の細部の仕上げよりも甚だ劣ってゐた」

これは言い換えれば、全体を捉える力がない、デザインする力がないということでしょう。 現代でも、日本のものづくりについて、「大きな絵は描けないが、細部を加工させると見事に仕上げる」といったことが言われていますが、ペリーはすでにこの点も見通していたということになります。

そして、設計が劣っているのは、「疑もなく、政府から定められた規格内に創造力が制限せられてゐることを示すものであった」と書いています。つまり、国民の自由な発想を制限するような施策を幕府がとっていたと言うのです。

このことは、大型船の建造禁止令などからも理解できます。
1635年に出された大型船の建造禁止令では、大きさは五百石船(75積載トン)までが許可されていました。

その理屈は、海外貿易を禁止している日本には(とはいえ、支那貿易は海外貿易として扱われず許可されていた)、国内の廻船に使用する程度の大きさの船があればよいので、五百石船で充分、大型の帆船は必要がない、ということでした。

しかし、これでは小さすぎるということで、3年後には改正されて、商船については千石(150トン)までが許されるようになり、千石船とよばれる弁才船(図:日本海事科学振興財団)がつくられて北前船などに活用されました。

しかし、大型船の建造禁止令が施行されることになった本当の理由は、大量の兵士や資材を一挙に搬送できる軍船を建造されて幕府転覆に利用されては困る、というもっぱら為政者側の「御身大切」という論理で出された禁令で、歴史的な流れや環境の変化、国家としてのあるべき姿といったことを無視した、まったく内向きの発想です。

もちろん、ある時期には、体制を固めることが最優先されて、そうした施策を取ることも必要でしょう。しかし、長期にわたって、こうした内向きの論理で大きな枠をはめて庶民の行動を制限し続ければ、当然、技術はそこで止まり、その国が歴史の流れから取り残されるようになっていくのは自然の成り行きと言えます。


■新規製造物の禁止令
江戸時代には、こうした禁令がたくさん出されています。ぜいたく禁止令などもいくどか出され、庶民はそうした制約の中で、表がダメなら裏地に凝るなど、抜け道を作って楽しんできました。わたしたちが自由な発想で工夫するというよりも、むしろ与えられた制約のなかで工夫を凝らして解決策を見出すことに喜びを見出すような性向を身につけるようになったのもうなずけます。

 贅沢や浪費を禁止した奢侈禁止令が最初に出されるのは、1716年吉宗が紀州藩から抜擢されて将軍になり、課題であった幕府の財政再建に取り組みはじめてからです。

江戸幕府が始まって、戦争がなくなり、世情が落ち着いてくると、各藩では新田開発を奨励し、税収がふえ、藩の財政も潤います。町人が町に溢れ余った金が巡って社会が活気に溢れて、爛熟した元禄文化(1688年〜1704年)が花開きます。

やがて新田は開発されつくします。しかし、バブルで膨らんだ支出はそのままです。浪費が過ぎて破たんした幕府や各藩の財政を再建するため、幕府は奢侈禁止令をだします。このパターンは江戸時代を通じて、何度か繰り返されることになります。

吉宗の時代に、奢侈禁止令と同じように出された禁止令の一つに、新規の工夫を制限する令があり、これが、その後の江戸時代後半の経済・産業を停滞させた一つの要素になったのではないか、というのは、「忽然と知る縁数の妙」の円周率の計算の項でご紹介した『日本史再発見』(朝日選書)の著者板倉聖宣です。

バブルで膨らんだ元禄期の後、反動で停滞が続き、1716年に吉宗によって財政再建が行われます。そんななかで1720年に出された条例が、「新規製造物禁止令」です。

新規製造物禁止令とは、後でつけた呼び名で、「徳川実記」には「今日、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・勘定吟味役の輩に仰せ下さるは・・・」として、以下のような触れが出されたと伝えられています。

「いま世上に売り買うよろずの品物、何一つ備わらぬこともなきに、なお多く造りださば、人びと身のほどに越えて買い求むるようになり、自ずから家資窮乏し、ついには国の衰えとなるべければ、米穀・薬物のほか衣服・調度のたぐい、こと新しく製し出すはいうまでもなく、たとい有り来れるとも、物数増益することなきようにすべし」(『日本史再発見』)。

どういうことかと言えば、穀物・薬・衣類・調度品など新しいものを作り出してはならぬ、よそから持ってくるものは、数を増やしてはならぬと指示しているのです。大阪で「きつねうどん」が評判だからといって、それを江戸に持ち込んではならぬ、というわけです。どうしても、という場合には、「役所に訴え指揮に任すべし」と徹底しています。

同様の指示は江戸時代を通じて都合七回も出されていますので、かなり本気だったようです。このお触れで、新田開発も止められ、経済は大きく停滞することになりました。

50年後の1776年に、平賀源内がエレキテルの実験などを行っていますが、これも直後の1787年の寛政の改革で倹約令、緊縮財政、さらには蘭学までをも否定し、新規開発は大きく制約を受けることになりました。どうやら日本人は、倹約、内向き志向があるようです。

こうした相次ぐ禁止令が、国民にマインドコントロールのように働き、開発意欲を減退させてきたことは想像に難くありません。以来、「変わったことをしない」、「新しいことはしない」という保守的な自己規制の意識が、教育やしつけを通して、わたしたちのなかにしみついてしまっているのかもしれません。


■ノーベル賞受賞者と創造性
正否はともかくとして、日本人は「日本人には創造性がない」というイメージをいまだに持ち続けています。そう語る姿は、多少自虐的でもあります。

創造性があるのかないのか、簡単には結論付けられませんが、ノーベル賞の受賞者数はひとつのメルクマールとして考えられるでしょう。この数字が、そのまま国の研究開発力、独創性の証明になるとは思いませんが、ひとつの参考にはなると思います。

日本人で初めてノーベル賞を受賞したのは1949年の湯川秀樹「中間子の理論」です。
原子核の中で、陽子と電子を結合させる媒介として中間子があると予想したもので、この研究そのものは、1935年に発表されたものですが、後の研究でそれが証明されて、1949年に42歳でノーベル賞を受賞しました。その後、長い間受賞者がなく、内外で日本の研究は創造性に欠ける模倣大国とさかんに陰口をきかれました。

2人目の受賞者は16年後の1965年の朝永振一郎で、3人目がさらに8年後の73年の江崎玲於奈。以降、2000年までは、81年福井健一、87年利根川進と、わずか5人にすぎませんでしたが、2016年現在は、米国籍で米国在住の南部陽一郎・中村裕二の2人を除いても自然科学系で20名と、欧米諸国以外の国では最多の受賞者を出しています。

世界で受賞者数を国別に見れば、物理、化学、医学生理学賞の自然科学系ではアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの4か国が多く、ついで、スウェーデン、スイス、ロシア、オランダ・・・となっています。日本人はと言えば、20人、米英独仏について世界で5番目の受賞者数です。

戦前までは、受賞者が欧米諸国に集中していたため、合計で見るとこれらの国から多くの受賞者が出ています。そういう事情を念頭においてみれば、日本の授賞者数は、遅れてきた青年としては、かなり健闘していると言っていいのではないでしょうか。

「科学先進国は時代とともに変わる」でご紹介した北海道大学の杉山は、科学・技術の先進国は、歴史の変遷とともにたえず移動していたと書いています。ここしばらくはアメリカの時代が続いていますが、2000年以降に限って、自然科学系3賞のノーベル賞受賞者数をみれば、日本は2000年:白川英樹、01年:野依良治、02年:田中耕一・小柴昌俊、08年:小林誠・益川敏英・下村脩、10年:鈴木章、根岸英一、12年:山中伸弥、14年:赤崎勇・天野浩、15年:梶田隆章・大村智、16年:大隅良典の計15人が受賞しています。

これは、米国74人、英国18人に次ぐ人数で、日本の後は、フランス7名とドイツ・イスラエル6名が続いています。2000年以降を見れば、イギリスはアメリカとの副w数国籍者や、ロシア出身の研究者など、出生国が異なる受賞者も多く、日本はイギリスとならんで、フランス、ドイツをしのいで、ノーベル賞の授賞者数は日本が世界第3位の位置にいるのです。
 国  受賞者数 
 アメリカ  74 
 イギリス  18 
 日 本  15 
 フランス  7 
 ドイツ  6 
 イスラエル  6 
 ロシア  4 

2000年以降の国別ノーベル賞受賞者数


■日本を世界の研究者がくる国に
なお、基本的な姿勢として、ノーベル賞の選考委員会はどの国の研究者に授与するか国を問うていません。
というのは、研究のために国籍を移すということが当たり前のように行われていて、出身国時代の研究成果が授賞対象になるケースも少なくないので、国籍は意味をなさない、ということでもあります。

南部陽一郎・中村裕二がそのよい例です。なので、ここであえてことさらに「日本人受賞者数」をあげることがナンセンスであることは言うまでもありません。

とはいっても、あらためてこうした数字を見てみると、日本人もなかなかのものではありませんか。そして、毎年、受賞候補者として多くの日本人科学者の名前があげられていますので、今後も、日本人受賞者は生まれそうです。

21世紀に入って17年目になりますが、ノーベル賞受賞者数世界第3位の国に対して、「創造性はない」とは言う人はいないでしょう。日本人は世界の中でも有数の研究開発力、創造力、独創力を持った国である、と認識を新たにすべきではないでしょうか。

翻って考えれば、もともと日本人に創造力がなかったわけではありません。独創力がないと言われていたのは、単に基礎的な研究を習得するのに時間が必要だったということです。先進的な研究を生み出すまでの雌伏の時間をへて、やっと成果を生むようになってきたのです。

いまの教育では今後の研究開発力が不安だ、ノーベル賞受賞者は出なくなるのではないか、という声も受賞者の間で聞こえます。研究の世界ではそうした危惧が現実にあるのかもしれませんが、あるいは、この意見も、多少“自虐的な”ニュアンスで語る日本人の性癖を考慮して受け取る必要がある?・・・のかもしれません。

アジア地区をみると、世界第2位の経済大国となった中国は平和賞・文学賞で受賞者は生まれていますが、自然科学系では出ていません。国際技能五輪では常勝国となった韓国も、平和賞が一人いるだけで自然科学分野では受賞者はゼロです。

だからと言って、中国、韓国をはじめとするアジア諸国の人々に創造性、独創性がないかといえば、10年、20年後に、世界中の科学者が中国語を学び、中国留学をめざすようになっている、そんな時代が来ないと言えるでしょうか。

 ここで気になるのは、日本の受賞者がアメリカの大学や研究機関で研究活動をブラッシュアップし、成果を上げているケースが多いことです。ボーダーレスの時代、そろそろ、高いレベルでの受賞者を輩出している日本に来た研究者が、母国に帰ってノーベル賞を受賞するような成果は出てこないものか、と思います。

 いまスーパーカミオカンデにはたくさんの研究者が来ています。こうしたことが当たり前になるような、研究体制になってほしいと思います。もっと多くの研究者を日本に招き、外国人研究者とともに日本の研究活動をレベルアップしていきたいものです。


■「改良・工夫の国」アメリカの成長
いま、世界で最も創造力と独創力を発揮している国がアメリカという意見に異論はないでしょう。ノーベル賞の授賞者数や海外からの留学者数も人気も圧倒的です。しかし、その核になっているのは、世界からアメリカに研究環境を求めて集まってきた人たちです。

そのアメリカが、どのような経緯をたどって現在に至ったのかをみれば、創造力や独創力がどのようにして獲得されていくのかが分かります。

本稿コラムでは、最初に、アメリカ職人の仕事ぶりをご紹介してきました。
その際、アメリカ人たちは、

●ヨーロッパの発明は巧みに実用化される
●人々は勤勉であるが、発明者たちはほとんどいない
●この国の人は生まれついての職人である
●職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている
●この国の職人は、常に改良を施す。何時も何か新しい工夫を凝らしている

と言われていたのです。
150年ほど前のことですが、アメリカは、創造性・独創性よりも、ヨーロッパで発明されたものに改良をくわえて、もっぱら実用品づくりに力を発揮する国であったことが分かります。

そのアメリカが、文明の発達とともに力を蓄え、改良・改善から次第に新しい発明・発見へと力を発揮してきました。ヨーロッパで生まれた知識や文化を学んで取り入れ、やがて自ら創造し、独創力を発揮するようになっていったのです。

杉山滋郎が述べたように、「科学の後進国はみな、先進国から科学の成果を必死に学び取って先進国に追いつこうとし、うまくすると追い越していった、それが歴史の「常態」である。先進国から科学や技術をひたすら導入することがただちに独創性の欠如を意味するとは思えない」(前出『日本の近代科学史』)のです。

わたしたちはともすると、一時的に教えられたこと、刷り込まれたことを、盲目的にそのまま信じ続けるという性癖があります。もう少し、歴史の流れや時代の変化に目を向けて、絶えず自分たちのありようを冷静に見つめ直す、という習慣を身につける必要があるかもしれません。

少なくとも、創造性という点でも、もっと日本人は自信を持っていいと思います。
伊藤博文は、サンフランシスコでの日の丸演説で、

「日本は、猶ほ未だ創造的能力を誇る能はずと雖(いえど)も、経験を師範とせる文明諸国の歴史に鑑み、他の長を採り誤を避け、以て実際的良智を獲得せんと欲す」

と述べています。

「未だ創造的能力を誇る能はず」であって、文明諸国の実際的良智を学ぶことで追いつくと述べているのです。その叡智と誇りに拍手を送りたいと思います。


■打出の小槌と魔法のランプ
データから見れば、文句なしに現代の日本は欧米先進国に匹敵する創造性を持った国と言ってもいいでしょう。

創造力、独創力によく似た能力に、もう一つ「空想する能力」があります。この空想力もまた、創造性に大きな影響を持っているのではないかと思います。どこが違うのか広辞苑には以下のように説明されています。

 ●創造:新たに造ること、新しいものを造りはじめること←→模倣
 ●独創:模倣によらず自分ひとりの考えで独特のものを作りだすこと
 ●空想:現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすこと

○○力というのは、それぞれを行う力ということですね。「創造」だけに反対語が記されていて、「模倣」と書かれています。模倣の反対が創造ということのようです。創造と独創は、自分一人で行うことを除けば、新しいものをつくり出すということは共通しているようです。

そこで空想力ですが、他の2つと大きく違う点は、他の2つの意味が「つくること」であるのに対して、空想は「思いめぐらす」ことで、つまり、現実に可能かどうかの制約はないのです。
これまで、日本人はものづくりに際して、大きなスケールで作るよりも、コンパクトなものづくりを愛する性癖があると紹介しました。それには「空想力」がかかわっているのではないかと思います。研究開発などの際の創造性と独創性の大きさを決める出発点として、どれだけのスケールで空想できるか、そんなことが重要な気がするのです。

作るという行為は、自分の頭の中でイメージしたものを目標にして、それに近づけて作るということを行うことだとすれば、日本人が頭の中にイメージする像は、コンパクトなものだということになります。

アラビアンナイトと一寸法師というおとぎ話を比較して、空想力の違いを述べているのは金田一春彦です(『日本人の言語表現』講談社現代新書)。
アラビアンナイトに、アラジンの物語があり、そこに「魔法のランプ」が出てきます、

ランプをこすると、魔神が出てきて、その魔神がランプをこすった者の望みをかなえてくれる、というものですが、さすがに大平原の国で生まれた物語です。一度こすっただけで大都会を出現させてしまいます。

一方、一寸法師は鬼を退治して「打出の小槌」を手にします。
小槌も振れば望みのものを出せるという魔法のランプに匹敵する無限の性能を持っているはずなのですが、この小槌を使って一寸法師が現出させるのは「人並みの身長と、1回分のぜいたくでもなさそうな食事」の2つだけです。

金田一は一寸法師の何と欲のないことかと書いていますが、このあたりが日本人の空想力の差でもあるのではないかと思います。

そこで描かれている一寸法師の人間像が、つまりその程度の夢と希望しかもたない人物ということかもしれません。このスケール感の違いは、ことばとしての表現力にもかかわってくると思います。日本人の誇張からはとても「白髪三千丈]は生まれてきません。

難破船を引き揚げたきえもんの要求も、オランダの帽子と2本のキセルでした。鶴が命の恩人に果たす恩返しも、自分が織った一棹のきれいな布にすぎません。

創造性、独創性の出発点として、現実離れした大きなスケールの空想力もほしいところですが、このあたりが日本人の今後の課題ということになるのでしょうか。


■近代化を可能にした読み書きの土壌
独創性に欠けると言われながら、日本は経済大国と呼ばれるようになり、科学技術の面でも、ノーベル賞の受賞大国に成長しました。

いまにしてみれば、明治以来の道のりは、順風満帆とはいかないまでも、あたかも、あらかじめ設置されたレールの上を行くがごとく、予定通りに走ってきたように見えます。

千石積みの弁才船や櫓こぎの小舟しかなかった江戸時代末期の日本で生まれ育ち、巨大な蒸気船を前にした30代の若きサムライたちは、技術先進国欧米と競って、トップに並ぶ経済大国になるというゴールをなぜ描けたのか、そこへのロードマップをなぜ設定できたのか、わたしには、とても不思議でした。

冒頭に紹介したように、1872年、岩倉使節団に参加した伊藤博文は、太平洋を横断して到着したサンフランシスコのホテルの歓迎パーティで、「西欧の科学を学び、日本は近い将来、トップに追いつき追い越したい」と豪語しました。

そして、明治の初期に若き政治家たちが目指した殖産興業という「ものづくりの国」への道程は、その後の経過を見ても分かるように、紆余曲折はあったもののほぼ目指したようなロードマップで実現されました。

いきなり文明社会の技術開発レースに、大きく周回遅れで飛び入り参加した日本が、トップに並ぶと宣言したその自信はどこから来るのか、大きな疑問でもありました。

明治維新を迎えて西洋文明が大量に入って来るに際して、それらをしっかりと受け止め、大きな混乱もなく導入・利用できたのには、それなりの土壌が必要と思います。

そうした土壌の一つとして、ペリーに「読み書きが普及していて」と指摘された教育程度の高さもあげられるかもしれません。

当時来日した多くの外国人たちが、表現が違っても口をそろえて「日本には読み書きできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」と言っています。この言葉は、多少割り引いて受け取る必要があるかもしれません。

というのは、彼らの周りに集まってきた町人、農民が字の読み書きができるレベルは、名前が書けたレベルともいわれていますし、判断したのは外国人ですから、決して厳密な意味で、読み書きができたことを保証するものではない、ということです。 

それにしても、幕末には、寺子屋が全国で1万5千軒もあったといわれています。現在の全国の小学校数の約2万と比較しても大変な数です。それだけ多くの町人の子供が手習いを学んだ、世界史的にも極めて珍しい教育大国だったといえると思います。

四ハイの蒸気船に玄関を叩かれて、開けてみたら自然科学の進んだ知識やその応用技術、さまざまな新しい文化が堰を切ったように入ってきました。

それらを見た日本人は、いずれも考えられない質の高さと物量の豊富さに驚き、その格差に圧倒されたことから、日本の社会は知識・文化レベルも低く、庶民には科学性もまったくなかったかのように喧伝されてきましたが、この時期に来日した外国人たちの目には、必ずしもそうは映らなかったようです。


■庶民の学習意欲は日本の伝統文化
明治維新当時、つまり江戸末期の識字率を見てみると、世界的にも日本は高い方だったというのは、世界に学者の共通認識でもあります。
高い教育が施されていたといわれるアメリカなどでも、そうした教育が行われていたのはごく一部の人たちで、決して全体のレベルが高かったわけではありません。

一説に1850年ころの識字率は、
 ●ロンドン市民が20パーセント程度、
 ●パリ市民で数パーセント
と言われていますが、江戸の町では70パーセントを超え、日本全体でも40〜50パーセントという説があります。
先進国である欧米諸国と比べても、江戸末期の日本人の識字率は非常に高かったのです。これを支えたのは寺子屋です。

「江戸時代は、一種の生涯学習社会であったと評価できる」と述べているのは日本女子大教授の入江宏です。そして、英国ノッチンガム大学の教授で成人教育学の権威であるE・トーマスは、日本の社会教育の歴史と現状を調査し、その特徴は市民教養教育にあり、それは日本の伝統文化に属するものであると紹介しています(「現代農業」増刊『すべては江戸時代に花咲いた』)。

寺子屋は、江戸時代になって幕藩体制が固まり、庶民が落ち着いて生活ができるようになって生まれました。最初は寺僧の余業のようにして京・江戸から始まり、次第に地方に広がって、1800年代には全国で1万5千件くらいに達していたといわれています。

井上ひさしの「京伝店の烟草入れ」(講談社文芸文庫)に、「化政期の貸本屋は600余」と書かれた一節があります。化政期(文化・文政期:1804〜1829年)は、元禄と並ぶ文化の爛熟期で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などが発刊された時期です。

当時の貸本屋は、店を構えているというのではなく、棒手振りといっててんびん棒の前後に本箱をつけ、これを担いで町を練り歩き、得意先を回る訪問販売です。

武家屋敷や大店だけでなく、あるいは、長屋の井戸端会議にも出向いたかもしれません。瓦版が飛ぶように売れ、貸本屋が商売として成り立ったのは、それだけ文字を読める、レベルの高い成熟した読者がこの時代に多くいたということでもあります。


■利益を期待しない学習――生涯学習先進国
寺子屋を語るときに、よく藩校が話題になりますが、藩校は寺子屋より年齢が高い武家の子弟を対象にした成人教育機関であり、多くが維新になって学校として改革されました。論語や漢学を教えた私塾も、多くは藩校と同じで成人学習機関です。

こうしたさまざまな形での教育が、江戸時代を通じて活発に行われましたが、そこで学ぶ人たちのねらいは、あくまでも教養を身に着けることにありました。

たとえば、中国でも多くの人たちが日本の藩校や私学と同じように論語や四書五経などを学びましたが、ねらいは役人になるための試験「科挙」受験を目指したものでした。欧米の教育もどちらかと言えば、教育を受けることによって地位や収入の増大をめざした投資型・資格取得型です。

それに比べて、日本では教育は、利益を目的としたものではありませんでした。庶民の寺子屋での学習を含めて、教育を受けるということが、経済的な対価や資格取得などのメリットを求める目的ではなく、あくまでも個人としての教養を高めること、自身の人間性や品格を高めることがねらいであったという特徴がありました。

元慶応義塾大学教授で教育学者の村井実は、明治維新以後の日本の目覚ましい近代化の根源力が、すでに江戸時代の教育にあったと主張して「江戸時代の教育」を著したイギリス人ドーアを紹介しています(「現代日本の教育・改訂版」村井実、NHK市民大学叢書37)。

前記ドーアによれば、

「江戸時代の教育が、たんに「善い武士」「善い百姓」「善い町人」の教育に止まらず、常に、「より善い武士」「より善い百姓」「より善い町人」への教育であり、その意味で人々に向上の意欲を育て上げることができた。・・・・それが明治以後の日本の発展を、他に類をみないほどのものにした」

と指摘していると紹介しています。

言い換えれば、寺子屋や藩校での教育は、いまでいう生涯教育にあたり、このほかにも江戸の町では、さまざまな社や社中、連、講などが広く行われていました。

プログラムは多様で、国学、蘭学、和歌、俳諧、さらには和裁や生け花、茶の湯、さらには芸能の家元制度まで多彩な組織を形成していました。男子だけでなく町家の妻女なども同様に、こうしたものを趣味のサークルとして楽しんでいたようです。

寺子屋での教育は、論語などの素読が主でしたから、科学的な知識は後れをとっていたとしても、江戸時代末期の庶民には、新しい西洋の知識を受け入れ、消化するための基礎的な素養は十分あったと理解していいでしょう。


 基準石高  足高制前  足高制後 
 5000石  4  0 
 4000石  1  1 
 3000石  6  2 
 2000石  6  3 
 1000石  18  19 
 500〜999石  2  8 
 500石以下  1  23 

足高制度による登用件数(「武士道と日本型能力主義」より)


■ものづくりを育てた肥沃な土壌
こうして見てみると、明治時代の初期に、西洋の合理性や科学技術・工学に大きく差をつけられた状態で国を開いた日本が、「独創性はないが、見事に仕上げる巧みさがある」という素養をベースにものづくり大国に成長できた理由が、なんとなく見えてきます。

封建制度で遅れていたと思われる江戸時代が、実は、開国しても対応できるように庶民の識字率を高め、学習意欲を向上させていた、つまりは肥沃な土壌をしっかりと培養していた時代であったということに気付きます。

一般的に私たちが理解している江戸時代は、一部の為政者を除いて、領民に「知らしむべからず、寄らしむべし」という立場をとっていたように教えられてきました。

建前上は、学んで知恵をつけることは、権利の主張につながりますから、領主が喜ぶわけではないし、領民が知恵をつけて啓蒙されていくことに、むしろ反対の立場をとってきたようですが、しかし、実情は、必ずしもそうではなかったということです。

武士が支配する社会で、農工商の子供たちが、識字率世界一と言われるような密度で教育を受ける仕組みを、政策的に作り上げてきたとすれば、これは見事な政策と言わざるを得ませんが、実際には、庶民からの発想で、自然発生的に寺の僧や、あるいは職を失った浪人などによって教育が行われてきたというのが、実情でしょう。

必ずしも庶民に有利な環境がつくられていたわけではない中で、何とか自らに良いような状況を作り出していくというあり方は、与えられた状況の中で、しぶとく生き、楽しんでいく、日本人の生き方の特徴を示しているのではないかと思います。

寺子屋という機会を利用して、庶民がいわばボトムアップ的に生活に学びを取り入れていったわけですが、その根底には、向上心、好奇心があったはずです。

しかも、農家の子弟が学ぶことで経済的な利益を得るわけではありません。江戸時代から、学ぶことを通して自身を向上させる、そんな指向を持っていたとすれば、たぶん、世界的に見ても、あまり例がない、特異な存在ではないかと思います。町では塾やカルチャーセンターが花盛りです。

日本人は、世界的にも珍しい、学ぶことを楽しむ人種と言っていいと思います。
生涯教育というのは、1965年にユネスコが提案した新しい概念です。しかしそれ以前から、日本では伝統的に、生涯にわたって人格を磨き、教養を高めることが人生を豊かにするという考え方がありました。

好奇心と向上心、たゆまない努力、そうしたことによって、高度なものづくりを生み出す基盤が江戸時代から私たちの中に育まれていたといえるのではないかと思います。




   


   
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