ものづくり日本の心


日本のものづくりは世界の財産である


第5章
科学より技術に向かう職人たち




■パクリが出る江戸時代の人気本の秘密――諸国名産案内
北太平洋に南北に延びる日本列島では、地域ごとに特徴のある産品が生み出されています。各地域で作られるそうしたさまざまな産品への関心の持ち方も、わたしたちに特有なものがあります。

書店には旅や食べ歩き、名店紹介などの書籍や雑誌、ムックがところ狭しと並んでいます。百貨店の催事として行われる地方の「○○物産展」とともに、雑誌の特集も、定番の人気プログラムになっています。こうした、名産品を紹介する書籍の出版や物産展の人気は、最近の特徴・・・と思いがちですが、いまに始まったことではないようです。日本人の物見高さは、伊勢詣りと称した弥次喜多の東海道中膝栗毛でもおなじみですが、これも遺伝子に組み込まれているのかと思われるほどハンパないようなのです。

1754年に出版された、平瀬徹斉著、長谷川光信挿画の『日本山海名物図会』は、各地の名産品を挿絵で紹介するカタログ本です。第一巻「鉱山」、第二巻「農産物・加工品」、第三巻・第四巻「物産品」、第五巻「海産物」が紹介されています。

江戸幕府が定まって150年、このころには、各藩が奨励した新田開発や地場産業の育成策も成果をだしはじめていて、各藩の名産物などの販売を活性化するための物産会所が、各地に設けられるようになりました。伊勢詣りと並んでこうした物産会もまた、庶民に産業や産品への強い関心を呼び起こしたようです。

そして、こうしたものを紹介するために案内書が作られるようになります。いまでいえばカタログ誌ですが、諸国名産品の紹介など、庶民の好奇心をくすぐり、大いに流行ったそうです。その一つが『日本山海名物図会』と呼ばれる書籍です。

同じように、『日本山海名産図会』なる本も出されています。わかりましたか?
同じような名前で、すーっと読むと見逃しがちですが、『日本山海名物図会』の「名物」が「名産」になっただけの完璧なパクリです。

中国で縫製業がはやり始めた80年代、工場用の高速ミシンは日本のJUKIやBrotherブランドが高い品質で人気でした。そのころ、上海の見本市に行くと、JUKIと並んで、地元メーカーの、JAKI、JUJI、JIKI,JUKU・・・などの名前を付けたミシンがところ狭しと並んでいました。『日本山海名産図会』は、そんな中国人もびっくりの柳の下の二匹目のドジョウを狙ってパクリ本です。

江戸時代のベストセラー『日本山海名物図会』(国立国会図書館蔵)


■関心は名産品より“つくり方?”
こんな書籍が出版されるほど人気が出たということが言えるのですが、よく見ると、なぜこうした書籍があの時代に、そんなに売れたのか、実は、これが非常に不思議なのです。 書名から見ると、各地の名産品を紹介するカタログ誌のように見えますが、中身はそんななまやさしいものではありません。
たとえば、『日本山海名物図会』の第一巻は、鉱工業の産品ですが、挿絵入りで紹介されているのは、金山堀口、銅山諸色渡方、銅山鍛治、金山諸道具、金山鋪口、金山鋪口の中、ノ石くだく、銀山淘汰、山神祭、釜屋、銅山床家、鉛、真鞴(吹)、大工所作、金山淘汰、南蛮鞴(吹)、鉄山、鉄蹈鞴(てつふみたたら)、灰吹、銅山ふき金渡し方……などなど。
字は読めなくても、また意味が明確に分からなくても結構です。目で見て、おおよそどんなことが書かれているのか、読み飛ばしていただいて結構です。フリガナをいれた鞴の文字が「たたら」です。
たたらとは、ふいごのことですね。製鉄では強い火力を起こすために、ふいごを踏んで風を送りますが、この作業を、たたらを踏むと言います。たたら製鉄とは、たたら(ふいご)を使って火を興して鉄を溶かすので、たたら製鉄と言います。
この鉄蹈鞴のページ(上図)では、たたら製鉄の現場でたたらを踏んでいる図が紹介されています。片側に3人ずつ計6人でたたらを踏んでいます。すべてがこの調子です。
名物図会といいながら、「名物」の紹介ではなく、それを採集している現場と、作っている現場の「名物産品の現場紹介」の本なのです。現代風に言えば、メイキング本、「ものづくりの現場拝見」です。『日本山海名物図会』というタイトルの書籍の中身が、製鉄の現場でふいごを踏んでいる作業風景とは、いったい誰がどのような関心と目的で手に取るのでしょうか? 現代で言えば、オタクの世界そのものです。

しかも驚いたことに、『日本山海名物図会』は、1754年に発行された後、1797年、1829年……と都合、3回も発行されたものが見つかっています。2刷、3刷、と重版しているのですね。当時の事情を考えれば大ベストセラーと言っていいでしょう。
解説もありません。専門書というには網羅的すぎて浅く、ここから同業の専門家がものづくりのノウハウを得ようという実務書には無理があります。ということになれば庶民が手に取って見たのでしょう。
諸国名産に関心があるだけではなく、その作り方、現場の様子に関心を持っている庶民とは、いったいどんな人たちなのでしょうか? かなり物見高く、好奇心も旺盛だったことは間違いないようです。諸国名産品の形や料理法や味への関心ならばわかりますが、作り方への興味とは、どういうわけか? しかも製鉄現場です。好奇心の方向がおかしくありませんか、と聞きたいところです。
日本という国の国民、ものづくりへのこだわりぶり、尋常ではありません。
何とも不思議な民族ではありませんか。


■農業技術の改善――こき箸から千歯こきへ
ものづくりという面で、長い間日本人の最大の関心事は米の生産でした。
税金、年貢が米で納められ、各藩や武士の禄高が米で決められましたから、経済はいはば米本位制、農民も藩も米の収量を増やすことがそのまま豊かさにつながります。
戦国時代を経て秀吉が天下を統一し、徳川家康によって幕藩体制が構築されると、農民が兵力として借り出されたり、畑を荒らされたりしていたいくさがなくなり、世の中が落ち着いてきます。
各藩では税収の拡大をめざして新田開発が奨励されるようになります。藩をあげての開墾が進められ、耕作面積が増えていきます。1代目、2代目、3代目……と新田開発の努力が続けられ、農地が広がって米の収量が増えて、農民にも余裕が出てきます。
農家も何代かを経て新田が次々と開墾され、収穫が安定し、年貢を納めてもコメが余るようになります。余った米が市場に出されて、市場経済が生まれ、農業に依存せずに生きる町民が増えてきます。消費経済が活発になり、経済がバブル化して、絢爛豪華な元禄時代(1688年〜)になだれ込みます。

1600年代は、こうした新田開発で高度成長を実現し、経済が活性化した時代でした。しかし、新田を開発するのも限度があります。開発可能な土地があらかた開発されてしまうと、現在ある農地での収穫量の増大を目指す生産性向上の方向に目が向くようになります。
農業で人手が求められるのは、田植えと収穫の時期です。最大の課題は、最も人手が必要になる収穫作業でした。ここで、効率化をめざしてさまざまな工夫が凝らされ、道具の発明・改良が行われるようになります。
刈り入れた稲から実をそぎ取る脱穀作業は、1700年頃まではこき箸と呼ばれる道具が使われていました。竹を2つに割って下端を縛り、右手で掴んだ稲をこき箸に挟んで左手で締め、稲を引いて実を落とすというもので、作業をするには力も必要で、作業効率は極めて低い方法でした。おおむね女性の仕事で、終日働いても作業量は約2斗ほどだったといいます。 こうした中で、元禄期(一1688〜1704年)に大阪・高石で使われ出したのが、大きな櫛のような千歯こきと呼ばれる道具です。両手を使って引き抜けるために作業量は一気に増え、一日の作業量は一石二斗と6倍になりました。能率の良さが認められて、千歯こきは瞬く間に全国に広まっていきます。

当時の農業のノウハウを紹介した『農具便利論』にも、「昔時 備後の国 福山なる商人、伊勢大神宮へ詣づるとて浪速に着ぬ」という書き出しで、備後の国・福山の商人が大阪で千歯こきを見つけ、大量に仕入れて国に持ち帰って売り出したところ、わずか2年もしない間に300両ほどの売り上げになり、相当に利益を得ることができたという話を紹介しています。(図)

千歯こき(農具便利論:国立国会図書館蔵)

■第一線で展開される実践的な改良
この千歯こきの話から、伊勢講は庶民の楽しみとして古くから行われただけでなく、農機具や農業技術を各地に伝える重要な機会にもなっていたことが分かります。
これは、逆にいえば、いかに農民たちが、優れた栽培法や効率的な作業方法、道具を求めていたかを物語るものです。そして千歯こきも、各地でまた改良が加えられて伝播していきました。 『農具便利論』には、改良され使われている例として、さまざまな鍬の図が紹介されています。紹介された先でまたその土地に合わせて工夫・改良が加えられたもので、柔らかい土壌用、固い土壌用、湿地用、畑用、田んぼ用、粗おこし用、畝おこし用……などその形は、じつにさまざまです。
とはいえ、同書には、たびたび、「農夫は古い習慣に固執してなかなか新しい道具を使いたがらない。もっと柔軟な発想で積極的に新しい道具を使用するべきだ」といった意見も紹介されています。積極的に工夫を加えて新しい道具を導入しようとする人たちがいる一方で、従来のやり方を変えようとしない人たちもいることが分かりますが、このあたり、いつの時代にも変わらないようです。
明治維新以降、新しい動力源の開発で農機具は大きく変化しました。しかし、コメ作りの基本的な知識やノウハウに関していえば、コメの栽培に関する基本的な技術は江戸時代に完成され、以降ほとんど大きな変化はないと言われています。
私たちにとって、江戸時代の農業と言えば、どうしても人手作業に頼り、抑圧された農民たちによる発展性のない職業というイメージがあります。映画や小説などで描かれる江戸時代の農民は、そういう人たちとして描かれていますが、実際はどうだったのでしょうか。
全国を股にかけて教えて歩く指導者がいて、また、伊勢詣りなどを通じて全国規模の情報交流が行われ、改良種の種子もかなりオープンに伝播していたようです。また、農業書も流通し、実践的な栽培技術の改良が進められていました。
農業の専門家に聞くと、米作の技術は江戸時代でほぼ完成されていたそうです。そんな話を聞くと、江戸時代の農民や、当時暮らしていた人々のイメージが大きく変わって見えるではありませんか。
いかにも日本的なのは、その仕組みです。農夫たちは庄屋を核として、第一線で田畑の管理と栽培を行い、米作の実践的な生産性向上の努力を続けていましたが、他方で、幕府や藩は、米作に代表される農業生産によって経済が成り立って<いるにもかかわらず、生産性を高めるための研究面での支援をあまり行ってきませんでした。
言い換えれば、江戸時代を通じて、科学としての農業はほとんど扱われず、もっぱら道具や栽培法などのコメ生産の実践技術的な改良が続けられてきたということです。
つまり、米作を中心とした農業は、科学として研究されずに、道具や栽培技術の実践的な実験と研究が農民自身によって行われてきたわけです。


さまざまに改良されたクワ(農具便利論:国立国会図書館蔵)

■不定時法に合わせた時計の工夫
江戸時代を通じて、農業においても道具や装置は大きく工夫・改善されてきましたが、日本人の機械的な工夫という点でよく語られるのは、からくり人形と和時計づくりの技術です。 とくに和時計は、不定時法というややこしい仕組みの中で工夫された、世界にもまれな道具です。こんな時計を生み出す国、こんな面倒な工夫を実際にやってのける国民は、世界でもただひとつ、日本人だけです。このことだけでも、ものづくりにおける日本人の特殊性が分かるような気がします。
前章の延喜式の項でもご紹介しましたが、不定時法では、日の出が常に「明け六つ」、日没が「暮れ六つ」です。
日本の標準時で見ると、夏至は昼が14時間31分(夜は9時間29分)。冬至は、昼の長さは9時間56分(夜の長さは14時間04分)になります。江戸時代には、昼・夜をそれぞれ6等分して一刻(とき=約2時間)としていましたから、これを時計にすると、夏至の日の時計は、昼間の一刻の長さは2時間23分、夜は一刻を1時間47分にする必要があります(図)。昼は時計をゆっくり進め、夜は早く進めるわけですね。
日出時間/日没時間は毎日変化しますから、一刻の長さも毎日変化します。それに合わせて、針の進む速さを毎日変えなければいけません。日の出、日没が45秒ずつ早く/遅くなりますから、昼の長さは、夏至から冬至にかけては、毎日1分31秒ずつ短くなり、夜の長さは逆に毎日1分31秒ずつ長くなります。
時計を作っても、こんなややこしい時間の進み方を調整しなければなりません。そんな複雑な時計をだれがつくるでしょうか。
不定時の時計があるということ自体、海外では全く理解できないようです。定時、つまり、一定の速さで時間が進むから機械式の時計が作れるのであって、1分の長さが毎日変わるのを、どうやって機械化するのか、いや、毎日変わるということがおかしいので、一定の進み方にすればよいではないか……というのが合理的な考えでしょう。
ドイツ人に日本では不定時の自動時計があると紹介したことがありましたが、「意味が分からない」と言われました。定時法にすればよいのに、なぜいつまでも不定時法などというものを使うのか、それが分からないという意味と、そんなものを自動化しようという発想が分からないという両方の意味です。
時計作りの細工や加工の技術があるかどうかという問題ではなく、ことは、時間の進み方が毎日変わる不定時法という仕組みを受け入れて、それに合わせて道具を工夫してしまう、という生き方が、同じように技術に関心を持っている国民とはいえ、彼等には不可解なのですね。
このあたりのニュアンスは、ドイツ人だけではなく、日本人以外には理解不能かもしれません。


■時計の誕生で定時法に変えたヨーロッパ
と書いてきましたが、不定時法がヨーロッパにはなかったのかと言われればそうではありません。ヨーロッパでも、中世まで、不定時法が使われていました。生活のリズムとしては、日の出とともに活動を開始し、日没とともに活動を停止する方が、自然だからです。
しかし、14世紀なか頃に機械式の時計が作られ、町の中心にある市庁舎などに大時計が設置されるようになると、自然の成り行きとして、ほとんどの国で機械時計の進み方に合わせて生活時間が定時法に変えられるようになっていきました。
定時法への移行を早めたのが、1700年代のなか頃から始まった産業革命でした。工場労働で、給料算出と生産性向上の両面から、年間を通して変わらない1時間が求められ、より厳密な時間管理が不可欠になったからです。
こうしてヨーロッパ諸国では、機械時計が登場したことで、生活時間は不定時法から定時法へと変わって行きました。
これに対して、日本では、生活の時間を変えることをせずに、不定時法に合わせて時計を工夫することで、不定時法がそのまま続けられることになったのです。
機械時計がヨーロッパで発明されたのは14世紀中頃です。これがアジアにやってきたのは16世紀末から17世紀にかけてで、時代の先端を行くこのハイテクメカに対する対応法は、受け入れた国ごとにそれぞれ大きく異なっています。
例えば、中国では、最新のハイテクメカが広く活用されることはなく、宮廷内でむなしく時を刻む皇帝用の高級玩具の域を出ませんでした。このメカを目の前にして、自分達でも作ってみたい、というような動きにはつながらなかったようです。アジアの他の諸国でも同様です。
これに対して、日本では積極的にこれを工夫し、当時行われていた不定時法に合うように改良を加え、「和時計」と呼ばれる、世界的にも珍しい独自の機構を備えた時計を作り上げてしまったのです。
新しいきっかけを得て、現実の仕組みを大きく変えようとするヨーロッパと、仕組みを変えずに道具を工夫して現場で対応しようとする日本、この違いは、大きなものがあります。
定時法は、時間の進む速さは常に一定ですから、時計作りは難しくありません。そのため、ヨーロッパの国々では時計産業が発達し、時計を持つことは貴族たちにとってステイタスのシンボルになっていきました。
「フランスでは特に、時間を正確に測定するよりも、装飾的な価値が優先され、16〜19世紀まで、高貴な人の肖像画に、置時計や懐中時計をこれ見よがしに描き入れることが流行した」と京都産業大学文化学部・成田知佳栄は『フランスにおける時計と労働』で書いています。


■江戸版自動機――二丁テンプの和時計
それに対して日本では、相変わらず、夜明けと日没を境にして、昼/夜のそれぞれを六等分したものを一刻とする不定時法が使われていました。
不定時法に合わせた時計は、一刻(とき=約2時間)の長さも昼夜で変わり、それが季節の移り変わりとともに、毎日変化していきます。この不定時法で使える時計を作ろうとすると、夏至から冬至に向けて、昼は時間を短くするために針の進み方を少しずつ早くし、夜は長くするために針の進み方をゆっくりさせていく必要があります。冬至が過ぎると逆に、昼は針の進み方を少しずつ遅くし、夜には針の進み方を早くさせる必要があります。
前章の延喜式の開門時間の項でもご紹介しましたが、日の出、日没時間は、1日に約45秒ずつ変わり、1週間で約5分、ひと月に20分早く/遅くなります。
この変化に合わせて、どうやって針を進めるのか、それが課題です。
ここからさまざまな不定時式時計のための機構が生み出されるのですが、そのプロセスで、時間の進み具合の調整を自動的に行うという、とんでもないからくり機構を生み出してしまいます。 日に2回、自動的に昼夜の進みを切り替える二丁テンプの工夫がそれです。
時計はテンプと呼ばれる機械で、一定のリズムを刻み、針をすすめます。不定時の和時計も初期はテンプが一つでした。そのため、時間の進む速さが違う昼と夜のために、毎日、日の出と日没に、テンプのおもりの位置を移し替え、時間の進み方を変える必要がありました。この面倒さを避けるために施された工夫がテンプを二つにしてそれぞれ昼と夜のリズムを刻ませ、それを日の出と日没に自動で切り替わるようにした和時計です(図)。
これで、昼と夜の時間の進み方の変化を、自動的に切り替えて調整することは可能になりましたが、日一日と変化していく昼夜の長さ、季節の移り変わりは調整できません。そこで、年間を二四節句に分けて、二週間に一度、手で調整することで、季節の変化に対応させたのです。和時計の図で、テンプに刻まれているギザギザのミゾがこのための目盛です(図)。
前述のように、日の出の時間は、明石の夏至の日には4時46分、遅い冬至には7時02分と、年間で2時間以上、1月に20分、1週間で5分ほど変化します。この変化までは自動で処理できませんので、2週間に一度、手でおもりの位置を調整する必要がありました。
こうしたからくりを組み込む工夫と技能があったことも驚きですが、それ以上に、この難解な課題に対して、何とか工夫をしてそれを可能にしてしまおうとする職人の業のようなものに興味を持ちます。
これを、仕組みや設計の問題として解決するのではなく、現場の技能力でカバーすると言い換えると、そのまま、現在もあちこちの工場で日常的に起こっていることでもあります。これも日本人のDNAみたいなものかもしれません。

 
不定時法に合わせた2丁テンプの和時計(セイコー時計博物館蔵)
帽子の下のおもりがついて横に出ている2本ノ棒がテンプ。これが回転するリズムでメモリが進む。節季ごとにおもりの位置を中心からずらすことで、回転速度を変え、時間の進む速さを調整する。2本あるテンプを昼と夜で交互に動かすことで昼夜の時間の進み方を変えるしくみ。


■好奇心と技のスパイラルが生むからくり
 それにしても、こうした緻密な工夫と技はどうやって生まれたのでしょうか?
ずいぶん前のことですが、名古屋・御器所の伝統的なからくり人形師八代目玉屋升兵衛さんのアトリエをお尋ねしたことがあります。
現在は代が変わって九代目が継がれていますが、八代目玉屋升兵衛さんは、寛政8年(1796年)に土佐藩の細川半蔵が書かれた『機巧図彙(からくりずい』(首巻・上巻・下巻)の中の、茶運び人形など、いくつかを復元しているほか、祇園祭りの山鉾で長い間動かずにあった「蟷螂山(とうろうやま)」のからくりを復活させています。
復元した茶運び人形の機構などを詳しく拝見させていただき、からくり人形に施されている工夫についてお話を伺いました。和時計はこのからくりの技術を活かして作られたといわれています。その意味では時計もからくりの一つです。
『機巧図彙』に収録されているのは、
・首巻=掛時計・櫓時計・枕時計・尺時計、
・上巻=茶運人形・五段返・連理返、
・下巻=竜門滝・鼓笛児童・揺盃・闘鶏・魚釣人形・品玉人形
などですが、木材と麻ヒモ、動力源のぜんまいにクジラのひげなどを使って動力を伝え、精度の高い動きを生み出す工夫は見事で、動作のスムーズさは、見る人を驚かせます。
茶運人形は、前に伸ばした腕をスイッチに使い、掌にお茶を置くと客に向かって動き出し、客の前で停止。客がお茶を手に取って飲み、茶碗を戻すとくるっとまわって元の位置に戻る……というものです。
この人形も見た人を驚かせますが、なによりも見た人を驚かせるのは、五段返(ごだんがえり)(図)です。
上から下へ独立して五段に配置されたステップを、人形がバク転しながら降りてくるもので、なんの支えもない人形がくるくると回りながら柱の上を伝って一人で降りてくる仕掛けに、見た人々は、どぎもを抜かれたのではないかと思います。ロボットを知っている現代人でさえ、そんなことを、マイコンを使わずに機構の仕掛けだけでさせようとはなかなか思いつきません。
細工の緻密さにも驚きますが、なによりも、おもりに水銀を使い、ガラス管の中の水銀を体の傾斜で移動させ、体をバック転させる工夫は、斬新です。喜んで見る庶民がいて、からくりの工夫も生まれます。つくり方に強い関心を持つ好奇心旺盛な庶民が、こうしたからくりを目の当たりにして、仕掛けがどうなっているのか、興奮しながら口角泡を飛ばして推論し合う姿が目に浮かぶようです。庶民をあっと言わせ、催し物は人気を博しただろうことは、想像に難くありません。

五段返(「機巧図彙」)
人形がバク天をしながら、階段を次々に下りてゆく。
中に仕掛けられた水銀の移動を利用している。


■アイデア・美しさを活かす匠の技能
もともと和時計職人と言われていた竹田近江が、からくり一座の興行を行ったのは、1600年代の中頃からです。そんな時代の道具や材料でこんな工夫をやってのけてしまうすごさは、見事というほかありません。
観客のつくられたものに示す強い関心と称賛の声、からくりを生み出す作り手の技術と工夫、どちらが先でどちらが後か、鶏と卵の論争ではありませんが、お互いが相互に刺激し合って、からくり技術のスパイラルを高めてきたのでしょう。
こうしたからくりを完成させる裏には、素材や機構・動きに対する深い追求と考察があります。先代の玉屋庄兵衛さんに伺った折に、アトリエにあるおびただしいノミや彫刻刀の数に驚いたことを覚えています。
「からくりに使う素材は、場所や用途によってカシやヒノキなどさまざま。同じような歯車でも、求める動きでその形が微妙に違います。当然削るカンナもノミも違う。その日の刃の砥ぎ方で、歯車や支点の動きが違う」……そんな話を伺った記憶があります。
若いころは能面作りを志していたという玉屋庄兵衛さんが削る人形のやさしい顔が印象的でした。からくり機構だけでなく、人形の顔にも神経を注ぐ、工芸と呼ばれる日本的なものづくりの奥行のひとつです。
からくりに合わせた最適な素材を選び、素材に合わせた最適な加工を極限まで追求した結果、可能になる動きがあります。他の工芸品でもこの点は同様です。
海外の美術館に行くと、意外なところで日本の美術・工芸品と同時に、和製の道具に出会うことがあります。その多くは、江戸時代の南蛮貿易や明治時代初めに日本にやってきた人たちが収集して持ち帰ったものですが、工芸品としての質の高さが群を抜いているだけでなく、さまざまな道具に見られる工夫とていねいな扱いに驚きます。この道具の工夫と手入れがあって初めて作品があることがよく分かります。その結果作られる緻密さは、現地の細工物をすぐ横で見て実感していることもあって、感動的ですらあります。
 それは、アイデアや発想といった芸術的な創造性だけでなく、目を見張るような細工、洗練された色づかいと美しさ、そして何よりも、最後まで手を抜かずに仕上げられたていねいさに感動します。芸術品、アートというよりも、技巧を極めた工芸品という呼び方がふさわしいことを実感します。


先代玉谷兵衛さんのノミと人形の頭


■理論より技術にこだわり
 漆細工や螺鈿(らでん)などは言うまでもありませんが、刀剣や根付、帯留め、陶器なども実用的な機能と美しさを求めて生み出された工芸品の一つでしょう。
武器としての日本刀は、実際にいざという時に、強靭さと十分な殺傷能力を発揮できなければ意味がありません。その意味で、切れ味と強さが最も求められた道具です。刀と刀がぶつかった時に、どちらが折れずに機能するか、その強さは刀剣としての生命線です。 形としてシンプルでありながら、強靭に鍛えた鋼の肌目、刃に現れた特有の文様など、その美しさは息をのむほどです。刀だけでなく、鞘(さや)や柄(つか)に施された工夫や細工の奥深さもまた同様です。
日本刀は武器です。握る手が滑らないように、ぎざぎざのあるサメの皮を柄に巻くそうです。鮫皮の種類にも色々とあって、装飾的な価値を含めて、最高級のものは日本にはないので、わざわざ南蛮貿易で東南アジア産のものを輸入して使ったと言われています。
単なる芸術品としてではなく、武器としても並はずれた性能を備えた完成品を追求すると、柄に巻き、持ち手が直接触れる皮についても、そんなところまで求めてしまう、そのあくなき行為こそ、日本の伝統技術の真骨頂と言っていいと思います。
芸術と実用性を兼ね備えた工芸品が生まれるためには、そうした気が遠くなるような機能・美への追求があるのです。
鋼についても同様です。強靭で美しい鋼を作るには、試行錯誤と工夫、洗練された匠の感性と技が不可欠ですが、加工の技だけでなく、そうした鋼づくりの、熱処理や鍛造のプロセスにも独自の技術上のノウハウがたくさんあります。
しかし、「鋼」を作り出す技術が、科学として追求されることはありませんでした。あくまでも刀を作るために必要な「強靭な鉄」を造り出し、美しい刀剣として完成させる実務技能に徹しているのです。
アメリカの金属学者で技術史家のC・S・スミスは「日本の刀の仕上げは金属組織学者の卓越した金属芸術である」といい、「日本人は物理や化学の法則の世界にはほとんど寄与しなかった反面、いい鋼を作り、すばらしい熱処理・加工の技術を展開するというかたちで、経験的な手作りの知恵を古くから生み出してきた」と書いています(『江戸のメカニズム』収録「江戸の技術思想」飯田健一、たばこと塩の博物館)。
私たちは、なぜそうなるのか(why)という真理を追究するのではなく、どうすればそうなるのか(How to)ということに関心を持っているようです。これは、封建制度の下で、なぜ?という疑問を封印せざるを得なかった結果なのでしょうか。
確かに、日本人は理学よりも工学、実技・技術を重視する性癖があり、理屈より具体的な行動に重きを置くところがあります。
欧米の人たちは、「有言実行」に高い価値を置いていますが、日本人は逆に、「不言実行」を尊び、理屈が勝る人間を頭でっかちと称して嫌うところがあります。そんなところも原理原則や科学の探求に向かわず、ひたすら実践にのめり込んでいく、匠を生み出す土壌が作られてきた要因かもしれません。
鍛えられた鋼と刃物につけられた文様。




   


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