ものづくり日本の心


日本のものづくりは世界の財産である


第3章
豊かに広がるものづくりの世界




■通奏低音を聴きとったペリー
幕末から明治にかけて、わたしたちが西洋の科学技術を取り入れようとする以前に、私たちの中に流れている通奏低音ともいうべき、ものづくりの発露と資質を肌で感じとった外国人もいます。

黒船でやってきたペリーは、3度の来日で見聞きした記録を「日本遠征記」としてまとめています。その中で彼は、日本人のものづくりの巧みさを目の当たりにして、以下のように報告しているのです。

「実際的及び機械的技術に於て日本人は非常な巧緻を示してゐる。そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののやうである。」(『日本遠征記』C、岩波文庫)

「日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず錬達であって、人民の発明力をもっと自由に発達させるならば日本人は最も成功してゐる工業国民に何時までも劣ってはゐないことだらう。・・・彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによって、・・・日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならは、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加はるだらう。」(同)

粗末な道具を使いながら、巧妙な細工を仕上げる高い技能に驚きながら、ペリーは、日本が西洋の機械技術を学べば、やがて我々の強力なライバルとして台頭してくるだろうと書いています。江戸時代の日本人の手工業の巧みさから、現代の日本人の姿を予見したペリーの慧眼に驚きます。

同書では他にもあちこちで日本人職人の卓越した技術と工夫に驚嘆したと紹介されていますが、彼らの驚きは、単に仕上がりの巧みさ、工夫の質的な高さに対してだけではありません。

動物学者で標本採集に来日して大森貝塚を発見したエドワード・モースは、後に東大で動物学を教えながら日本各地を訪れ、日本人の生活ぶりをつぶさに観察・記録しています。

そして、『日本のすまい 内と外』(鹿島出版会)など貴重な著書をいくつか残しているのですが、著書の中で、モースは、洗練された細工が大きな都会の家屋だけにあったり、名の知れた作家によるものであったりするだけではなく、小さな農村の民家の中の小さな家具や道具についても、ひとつひとつの細部に、神が宿るような細やかな神経が注がれていることに驚いているのです。

そして、壁面一杯に装飾品を飾るアメリカの家庭とくらべて、日本の家屋では、家具も目立たないように配置し、装飾品もたくさんある中から一つだけを選択して季節や状況にあわせて表に飾る控えめさ、余分なものを徹底的にそぎ落した素朴なたたずまい、洗練された美しさに感嘆の声を上げています。

ペリーも、モースも、日本人のものをつくるという行為だけでなく、作られたものの扱い方、ものに対する愛情の持ち方、さらにはものをつくることを通して構築された文化や様式に秘められた背景をしっかりと見ています。

明治初めには、数千人のお雇い外国人が来日しています。そのほかにも、政治やビジネスなどで来日し、長期滞在をした人の数は、かなりの数にのぼります。

彼らの視点は、単なる物見遊山から学術的な深い考察まで、質的には玉石混交のようでしたが、なかには、ペリーやモースのように、当時の日本人の生活やつくられたものの中に響く、ものづくりの通奏低音を感じ取っていた人たちもいたのです。


■やまとことば「ものづくり」
ところで、いまさらなのですが、ここで、ここまで書いて気になっていることを処理しておきたいと思います。それは、わたしたちがよく使う「ものづくり」ということばの、表記法、記述法についてです。

わたしたちは、「ものづくり」ということばを、匠の熟練した伝統工芸の技から最新鋭のマシニングセンターによる全自動の加工、さらには子供の工作教室から粘土細工などまで、なんの抵抗もなく使っています。

単に物を加工する、つくるという物理的な行為だけでなく、その前後の発想や計画・設計、さらには準備、片づけなどまで、きわめて広い範囲を含めたことばとして使っています。このことばがもつ、なんでもありの融通無碍さにこそ、日本人の「ものづくり」の本質があるのではないかと思います。

わたしは外国語の専門家ではないので自信はありませんが、日本人が使うようなニュアンスの「ものづくり」に相当することばが、英語やドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語……など、他の国にあるかと問えば、答えはおそらく「?」でしょう。このことばこそ、日本のものづくりを特徴づけることばではないかと思います。

本稿ではここまで、ことばとしては「ものづくり」と表記してきました。なかには、なぜ「モノづくり」や「物づくり」、「物作り」、「物造り」、あるいは「もの創り」ではないのかと違和感をお持ちの方もいらっしゃると思います。

一例をあげただけでこの組み合わせの数です。その無限さも日本語のすごいところです。組合せによって意味が微妙に変わる、それを楽しめるのも日本語ならではの魅力と言っていいでしょう。
話しを本論に戻しましょう。

「ものづくり」ということばは、Wikipediaなどでも、日本固有の「やまとことば」と説明されています。ここでいうやまとことばとは、やまとの時代から使われていた、日本本来のことばの使い方ということです。

といっても、「ものづくり」ということばそのものが、やまとの時代から使われてきたというわけではありません。「もの」「つくる」ということばがあって、両方をつなげた「ものづくり」という表現が、本来から日本にあったことばの使い方だということですね。

本来から日本にあったというのは、漢字が大陸から輸入される4、5世紀以前から日本で使われていた日本オリジナルのことばだということです。

ものづくり、あるいはモノづくりという表現が意味するところは、加工や手作業、生産、技術などの物理的な作る、加工する行為に限りません。ものを発想したり、企画・設計したり、作ることにまつわる思いや知恵、工夫、思索、概念、姿勢など広い範囲の意味が含まれています。

そのためでしょうか、「つくり」のことばに「作り、造り」などの漢字を当てずに、ひらがなをあて、ものづくり、あるいは、モノづくりと表記する人が多いようです。

私もこれまで、「ものづくり」とひらがなを使ってきました。
そのことにさしたる理由はありませんでした。ただ、「物」「作り」「造り」とすると、漢字の意味に引きずられて、具体的な「物」を加工する物理的な行為のイメージが強くなり、それでは、発想やアイデア、企画・設計などの要素が抜け落ちてしまう、「創り」とするのは、また逆に偏ってしまうので、「ものづくり」と表記した方がしっくりくる、そんな気がしていたにすぎません。

そして、ひらがなで書くことについて、きちんと根拠を説明できずにいたことに、ある種の落ち着きのなさを感じていました。

しかし、あるときたまたま手にした、中国文学者である高島俊男の『漢字と日本人』(文春新書)を読んで、以下のような説明に出会い、目からうろこの思いがありました。

高島は、『とる』という語には、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などがあるが、どうつかいわければよいかと質問をされることがある、と前置きをして、

『「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」という語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかき分けるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」も、おなじ。その他の語ももちろんおなじ。・・・(中略)・・・純粋の日本語を書くときに、ここは中国人だったら何という動詞をあてるだろう、と頭を悩ます必要なぞ、さらさらないのである』(同)

と書いています。
小気味のよい明解な説明ですね。

ここで高島が、和語と書いたものが、ほぼ、やまとことばを指しています。


■豊かに広がるものづくりの世界
どういうことかと言えば、漢字が入ってくるまで、日本には話しことばがあるだけで、それを書き表す文字はありませんでした。
だから、その頃に使われていたことばは、「とる」という発音があり、それで、取る、採る、捕る、執る、摂る……のすべてを表現していたのです。だから、どの意味で使うときにも、漢字を使わずに、「とる」と書けばよいと言っているのですね。受け手も、その意味するところを、取る、採る、捕る、執る、摂る……の意味を持つことばとして受け入れ、判断し、理解すればよい、ということです。

「ものづくり」に当てはめれば、このことばがやまとことばである以上、「もの」も「つくり」も漢字をあてずに「ものづくり」とすることが日本語的に自然だという説明です。

ことばが示す意味としても、「作り」や「造り」、「創り」の一つに限定せずに、それらを広く包含した「つくり」として表現し、理解することが正しい……と高島は主張しているわけですね。

これを読んで、長年のもやもやが一瞬で飛び、すとんと腑に落ちる思いがしました。
言われてみれば、「ものづくり」という表記法が、わたしたちがこのことばに抱いているイメージや豊かなニュアンスを見事に表現していることに気づかされます。高島の説明に深く納得です。

また、「もの」について、上代日本文学の第一人者中西進は、物理的な「もの」を示すだけでなく、「ものみ」(物見)、「ものがなしい」「もののけ」(物の怪)などを例にあげて、「もの」には目に見えるものと見えないものがあると言い、日本語は「包容力のある、創造性豊かな沃野」をもつことばで、この「意味の豊かさ」こそが日本語であると『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)の中で書いています。

書き文字として漢字が日本に輸入されるようになったのは、5世紀から6世紀ころと言われています。わたしたちの祖先は、中国で使われていた漢字を輸入しながら、一つの文字が「音読み」と「訓読み」という2つの読みをもつ、世界にもまれな仕組みを発明し、さらにカタカナ、ひらがなという書き方も生み出しました。

日本語は、一つのことば「山」を、やま、ヤマ、山と三つの文字で表記でき、しかも、やま、さん、ざん、せん……と何種類もの読み方=発音がある、世界でも天然記念物的な希少種の言語なのです。

しかも、「雨」ということばだけでも、「あめ」、「さめ」「う」「あま」と呼び分けて、春雨、秋雨、朝雨、小糠雨、細雨、桜雨、五月雨、霧雨……と、数十の「雨」を生み出し、さらには、雨上がり、雨だれ、雨あし、雨模様、雨宿り……など状況を表すことばを作り出して、わたしたちはその繊細な違いを使い分けてきました。

「〇〇雨」のことば(『逆引き広辞苑』1992年第1版より)」

中国語では、「雨」は、どこでどのように使われようと、読み方はひとつ、「yu」だけです。そして、降る雨を表現することばは、日本語と比較しても数えるほどしかありません。
自然を表すのに豊かとはいえない語彙の言語(中国語)を輸入しながら、わたしたちは独自の感覚で隙間を埋める多くのことばを生み出してきました。

前出の高島俊男は、日本語が熟していない段階で文字として漢字を入れてしまったので、日本語(和語)はそこで成長が止まり、中途半端なことばとして現代まで来てしまった、と述べています。
そうした要素があるとしても、私は、表記法が3つもあり、豊かな表現力をもつ日本語そのものを、世界の文化遺産として登録してほしいと思っているほどです。これほど豊かな表現を持つ言語は、まさに文明・文化の高さを示すもの、世界遺産として十分にふさわしいと思っています。

緩やかで多彩な四季の変化の中で育まれた豊かな日本語表現

こんな多様で、独創的なことばをもつ国民は世界でもあまり例はありません。
ことばはわたしたちの精神形成に大きな影響を及ぼしています。こうしたことばの豊かさも、わたしたちの「ものづくり」を豊かなものにしてきた重要な要因のひとつなのです。


■自然環境が生む特有の感性
日本のものづくりの特徴として、細部の仕上げに注がれる神経とともに、現場で継続して進められている改善の例がよくあげられます。日本では現場で日常的に改善が繰り返されるために、現場の姿は絶えず変化しています。こんなに変化する現場は世界でもまれでしょう。

変化を好まない保守的な人が多いと言われる日本ですが、私たちの生活環境では、小さな変化は日常的に起こっています。

日本人にとって1年は、ほぼ均等に分けられた4つの季節で成り立っています。
春の桜と桃、夏の照葉樹林の濃い緑と蝉の声、秋の鮮やかな紅葉と虫の音、そして落葉、冬の雪景色と春の到来を告げる梅……。3か月ごとに春夏秋冬がやってきて、折々にそれぞれ特徴のある花が咲き、景色が展開されます。

3月の末から4月初めにかけて、桜の開花日を今日か明日かと気にしながら、わずか二週間ほどの間に、つぼみから開花して絢爛たる光景を見せながら葉桜となって散っていきます。その変化の激しさは、季節の変化の少ない国の人から見ると、早送りの動画を見るようではないかと思います。

日々生まれる小さな変化が積み重なって季節の移り変わりが生まれ、年々同じようで、決して同じではない光景がグラデーションのように変化していきます。日本人には当たり前のことですが、世界的にみれば、こうした国は多くありません。

わたしたちが持っている美意識の源泉として、こうした季節ごとに移ろう自然環境の変化があります。日本の工芸には、梅や桜の春景色、錦秋など一瞬の美しさが切り取られて細やかな神経でちりばめられていますが、自然が多くの芸術にも扱われているのが日本の工芸の特徴でもあります。

「万葉集は世界の古典の中で一番多くの植物名が登場する作品だ」

というのは元大阪府立大学教授の中尾佐助です(『花と木の文化史』岩波新書)。

中国の『唐詩選』にも植物は登場するのですが、種類は貧弱で、しかも「花」「木」「植物」として概念的に扱われているにすぎません。それに対して、万葉集の中で歌われた植物は圧倒的に多く、しかもほとんどが日本原産植物で、ハギ、ウメ、マツ、サクラ……と具体的な植物名が登場する、と中尾は紹介しています。

しかも、単に、花が咲いているというのではなく、どんな植物の、どんな花が、どんなふうに咲いているのかが関心事になっていて、花の咲き方、あるいは花が置かれている環境、花を見る状況、切り取った一瞬によって印象が大きく変わり、その心象風景が日本人にとって重要な詩の主題になっているというのです。

そして、季節から季節へ、あたかもエッシャーのだまし絵のように毎日少しずつ移りゆく変化もまた、私たちには楽しみの一つになっています。

多田道太郎は自身の著作集4『日本人の美意識』(筑摩書房)のなかで、「植物の色を四季に応じて移すことで、(日本人に)変化への適応力を身につけさせている」と書いています。

保守的に思われがちな日本人が、これほどものづくりの現場でせっせと改良・改善に取り組んでいるのも、こうした自然の移り変わりの中に身を置いて、変化への適応力を身に着けてきたためでしょうか。


■清濁を併せのむ美意識
わたしたちは、美しさに対する感覚や意識を「美意識」と呼んでいますが、フランスやイギリス、ドイツなどでは、こうしたものは「美学」Aestheticsとして扱われます。

西欧文化で「学」であることが、日本人にとっては「意識」なのですね。
言い方を変えれば、西洋の美学は、「学」である以上、鑑賞者・受け手に無関係に「美」が存在しますが、日本人の言う美意識ということになれば、意識する受け手を抜きには語れません。日本流に言えば、美しさそのものが存在するのではなく、見た人間が美しいと感じるから美しいのだということになります。

西洋の「美学」の基本には心理の追求という合理がありますから、美醜に対する評価と価値づけは学問として体系的にでき上がっています。だから「美」に対する評価に比べて「醜・キッチュ(まがいもの、俗物)」に対する評価は厳しいものがあります。

それに対して、日本人の美意識は美しいものに対してだけでなく、キッチュに対しても寛容だといわれます。崩れた魅力もまた、美意識を刺激する一つの要素でありうるということでしょう。
よく言われるのが、朝日=日の出、夕日=日没に対する考え方です。日本人ほど、日の出、日没をありがたがる国民もいません。西洋の美学では、夕日の美しさは、キッチュ(まがい物、醜悪さ)の例と言われて低く評価されていますが、日本の美意識の中では夕日もまた美の一つとして、夕日を見る名所もあちこちにあります。崩れゆく美、あるいは束の間の美にふける「耽美」に対する思いの違いかもしれません。

私たちはよく、「日本人は合理だけで生きていない」などと口にします。また、清濁を併せ呑むという言い方もあります。美意識の中の、キッチュをも容認する精神には、いわゆる西洋式一神教の合理基準とは違った、「万物に八百万の神が宿る」とする日本的な合理、融通無碍な基準が働いているのではないかと思います。

原因と結果をつなぐラインの中で、有用なものだけを直線で結んだ単線的な西洋流の思考にくらべて、遊びやムダ、迷い、遠回りなども包含しながら、さまざまな形状のラインを緩やかにつなぐ思考が、日本人にはあるような気がします。

台湾出身の物理学者で文明史家の謝世輝は、

「西洋の近代合理主義は貫徹性があり、全てのものを科学的に処理していくが、日本の合理主義は不分明で、心情的な解釈と処理に終わりがちである」と述べ、さらに、「日本の合理主義は、理性ですべてを割り切ってしまうことはしなかった。人間は自然の一部分であり、自然にしたがい、自然との調和が重視されてきた。・・・日本では自然は温和で美しいものと考えられていた。日本人の自然観には、常に美的情緒がともなっていたのである。

そのために日本の文化伝統では、人間と自然が融和し、その中に血の通う造形作品が絶えず生まれてきたのである。そのため、元来の日本の合理主義は、自然と人間を温かく包み込むものであった」(『日本近代二〇〇年の構造』講談社)

と述べています。

高橋浩伸によれば日本人の美意識の中には、あいまいさや滅びやすさも含まれているとして、西欧的な美と日本的な美の違いを図のようにあらわしている。(「第3章 日本人の美意識に関する基礎的研究」(http://www.design.kyushu-u.ac.jp/lib/doctor/2006/k028/k028-04.pdf)

日本人は論理の正しさだけに走るのではなく、論理と感性の狭間にある微妙な揺れを容認しながら、解を見つけてゆこうとします。このあたりに、論理を第一義に重視する西洋の合理主義との違いがあります。

ものづくりの現場で、苦し紛れの最後にひねり出される問題解決の工夫なども、こうした論理だけでは思いつかない発想が重要なポイントになって生まれるケースも少なくないような気がします。


■算術に見る日本的合理主義
こうした日本的な遊びを含めた思考を説明するときに私がよく使う一つの例として、江戸時代の野沢定長という数学者の、円周率に関する話があります(『日本史再発見』朝日新書)。

江戸時代、日本の数学レベルはかなり進んでいたそうです。
古くから、円周率=πパイ(直径に対する円周の長さの比)は、数学に興味を持つ学者たちの一大関心事でした。日本においても例外ではなく、すでに江戸時代の初期には円周率の値として3.1*までは把握されていたようです(円周率=3.141592・・)。

そんな数学者の一人に、野沢定長という人がいました。1600年代中ころのことです。
野沢定長も円周率の研究に携わり、紆余曲折を経て、1767年には、計算によって、3.14と小数点下2ケタまで算出します。

円周率の値をどのようにして求めたかと言えば、円周は、円に外接する正多角形の辺の和より小さく、円に内接する正多角形の辺の和より大きい、ということから算出します。

内接・外接する多角形を、正方形からはじめて、正8角形、正16角形・・・とだんだん多角形にしていって、外接する正多角形と内接する正多角形の間をどんどん狭めていきます。1650年ころを境にそろばんが普及しはじめましたので、計算はそろばんと手計算です。



当時の数学者たちの間で、用いられていた方法に「遺題継承」というやり方があります。
これは、数学者が著書を出版する際に、巻末に問題を提起する。次の著者はこれに回答を提示し、その上でさらに自分から問題を提起するというやり方で、どんどん問題を継承していくというものです。

これを遺題継承と呼びました。こうしたテーマに円周率も扱われ、板倉によれば、円周率の数値はすでにかなりの桁まで把握されていたようです。

さて、3.16を経て、3.14までたどり着いた野沢定長でしたが、しかし彼は、たどりついた3.・14を捨てて、ある時からあえて3.16を円周率の値として主張したといいます。計算によって算出した3.14という値が、論理的に正しいことを自覚しながら、数学的に正しいだけでは満足しなかったと言うのです。


■忽然と知る円数の妙
野沢定長が、数学的に正しい3.14を取らず、あえて3.16を選択したのは、なぜなのでしょうか。

円周率の計算に明け暮れるある日、彼はあることを発見して「忽然と円数の妙を知った」と紹介されています。
その「妙」とは、

「円周率は形で求めれば3.14だが、理で求めれば3.16」というのです。

実際の形からくる値を「形で求める」といい、理屈に沿った値を「理で求める」として、野沢定長は、形よりも、「理」を取りたい、というのです。そうすると、3.162になるというわけです。なぜ3.16なのでしょうか。何やら狐につままれたような話ですが、こういうことです。

数学というと、どちらかと言えば計算がすべてで、感情や思いなど入り込む余地がない無機的な世界と思いがちですが、そのなかで野沢定長は、いつしか「円は美しい形をしている。ならばその値も美しくなければならない」という思いに行きついたそうです。というよりも、そうあってほしいという願望の表れかもしれません。

そんな野沢定長が「忽然と円数の妙を知った」のは、10の平方根(面積が10になる正方形の一辺の長さ)が3.16であることを知ったことがきっかけだと、板倉は説明しています。
外接する正多角形と内接する正多角形の間に円周率の真理があると追求してきた野沢定長が、面積が10の正方形の一辺の長さ=平方根を美しいと感じるのは、数学者特有の感性かもしれません。

数字が、人間の感情など入り込む余地がないほど絶対的な真理として、合理のみで進められていくのとはまったく逆に見えますが、当時の数学者の感性からいえば、意志や思いを込めて「理で求める」算法の方が、むしろ自然ということでしょうか。

日本の現場改善では、考えられないような工夫で改善が行われたりします。そんなとき、この、野沢定長の3.14よりも3.16を支持したい、という感覚が、論理だけでは気が付かない改善のアイデアを生みださせる切り札になっているような気がします。

直感でムリと思われるようなアイデアでも、さらに追求してみると、意外と方法が見つかったり、アイデアが生まれたりします。

この話しは、正しい/正しくない、あるいは、事実は何か、と議論をしているときに、いきなり、「それはそうかもしれないけど、アタシそれ好きじゃない」とか、「でも、それでいいの?」と、突然、別の論理基準を持ち出して相手をケムにまくやりかたに近いかもしれません。

論理で固まりがちな数学の世界で、自らの感覚や思いを信じて、あえて論理を外れてみることで見えてくるものがある、そんな感覚は、日本人には理解できそうですが、西洋的な合理性からいえば「クレイジー、わけが分からない」ということになりそうです。


■融合するカン・コツとマニュアル
日本のものづくり現場の強さの秘訣は、野沢定長がこだわったように、論理的な正しさを越えて、しっくりこないといった感覚を大事にする中から、目からウロコのような改善案が生み出されていることにあると、私は本気で思っています。

それが匠の技、高度技能というものに含まれるカンやコツの一部でもあると思います。このあたりの感覚は、おおかたの日本人は「まあ、そんな考えもあるかな」と納得しても、外国人には、理解してもらえないかもしれません。

日本人の合理主義とは、単に論理だけのものではなく、感性をも併せ呑んでしまうような奥の深いものがあります。ところが、ある時期から、こうした矛盾をも包含しながら自在に遊ぶような特有の感覚を、私たちは、「非合理」と称して排斥しようとしてきました。

技術者たちはよく、カン・コツと言います。
ベテラン職人が、マニュアルの旋盤などを使って、設備の仕様では考えられない微細な精度で加工を仕上げる姿は、長いこと現場の華でした。工夫と知恵で「すっぽん」と呼ばれる五角形の嵌め合わせ加工(嵌め合わせて抜くときに、「ポン」と音がするのですっぽんと呼ばれる)を見事に仕上げたときなど、まさに神業とたたえられたものでした。

しかしながら、コンピュータが現場にも入り、先端技術を応用した設備がものづくりの現場に入ってくるようになると、そうしたベテラン職人にしかできない高度な技は、数値化できない暗黙知、汎用性のない技として、否定されるようになっていきました。

ある時期、技能伝承が危機と言われ、技術・技能はマニュアル化、数値化し、カンやコツを暗黙知から形式知化しなければならないと言われ、工場では高度技能の数値化、マニュアル化がすすめられました。

ほとんどの現場で、熟練工のカンやコツの数値化がすすめられましたが、結局、いくら数値化しても、それは使い物になりませんでした。暗黙知を形式知化すると、複数のパラメータが複雑に絡んでいることが分かり、最後の判断には長い間に蓄えた経験値が不可欠で、ほとんど実用上、使い物にならなかったからです。


■合理と論理/非合理と非論理を容認する文化
長い間、西洋文化の合理性や価値観を前提にして、暗黙知であるカンやコツは非合理的な要素として排除されてきました。
しかし最近は、逆に、むしろカンは経験に裏打ちされた論理だとして、それを重視し、カン・コツの状態で伝承しようという動きが生まれています。やっと正しい方向に進んできたと思います。

合理性=論理を重視しながらも、非合理・非論理をも容認するおおらかさが日本の伝統的な文化だとすれば、カン・コツを数値化せずにそのまま認めるという認識への変化は、自然の流れと言っていいのではないかと思います。

神は唯一の絶対神とするキリスト教の西洋文明に対して、八百万の神が万物に宿り、最近ではトイレにさえ女神さまがいると考える日本人の精神は、合理/非合理の枠を超えた、ある意味で自由な発想を生みだす、東洋的な感性ではないかと思います。

そしてその自由さは、神道の八百万を信じる自由さよりも、むしろ無宗教から生まれる万物への等距離感から出ているのではないかと思います。感情にも、理性にも等距離、万物に等距離で接する、いわばこだわりのなさが、日本のものづくりで目からうろこの工夫が生まれる根底にあるような気がします。

世界にはさまざまな人たちがいます。論理は一つではありません。日本のものづくりはこうした融通無碍さを含んだものですが、世界に対してもっと分かりやすくして、こうした日本流の発想を理解してもらえるように努力することも重要ではないかと思います。





   


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