ものづくり日本の心


日本のものづくりは世界の財産である


第2章
近代産業への足がかり――日の丸演説



富岡製糸場・繰糸工場


■発端は四ハイのジョーキセン
日本の産業の近代化は、黒船の来航がきっかけで始まりました。
後に鎖国と呼ばれることになる、江戸時代の二百数十年間、私たちは出島を通じてオランダと、さらに対馬や琉球を経由して支那や朝鮮とわずかに交易を行うだけで、実態は、ほぼ、世界史の舞台から隠れて、ひっそりと泰平の眠りを味わっていました。

その間、西欧では自然科学が学術的にも実践面でも大きく進歩を遂げていましたが、日本国内では相変わらず豊かな自然の恵みを受けて、四書五経を素読みで学ぶ世界にありました。

そんな状況の中、黒船がやってきて、門をたたきます。
ペリー率いる、四ハイの蒸気船が浦賀に姿を見せたのは、1853年6月です。ペリーは和親条約の締結と開港を幕府に迫り、1年後に回答するとの約束を引き出していったん日本を離れます。その対応は、やさしく「コン、コン」とノックしたなどというヤワなものではなく、英語で何というかわかりませんが、訳せば「いつまで寝とるんじゃ。早よ、門を開けんかい!」という脅しまがいの催促です。

当時の日本は、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「五百石積以上の軍船は建造してはならない」という「大型船建造禁止令」のもとにありました。大型の船を持つことは、兵站に大きな機動力を持ち、幕府転覆を狙う基になるとして、諸大名の反乱を恐れた幕府が大型帆船や軍船の建造を禁止していたのです。

そのため、せいぜい五百〜七百石(積載量70〜80トン)から千石ほどの大きさの、「朱印船」と呼ばれるジャンク型1本マストの「弁才船」が建造され、北前船などの内運に使われているにすぎませんでした。外国貿易が制限されていた状況では、大型の外航船の必要がなかったのです。

そんなところへ、突然、東京湾の入り口に、積載量2,450トン、乗組員300名の巨大な蒸気船の軍艦「サスケハナ」と1,692トン、乗組員260名の「ミシシッピ」が、大きな帆船プリマス(989トン、260名)、サラトガ(882トン、260名)を曳航して現れたのです。

「泰平の眠りを覚ますジョーキセン、たった四杯で夜も眠れず」と狂歌にも歌われた事件です。もちろん夜も眠れなかったのは幕府の首脳。庶民はその幕府のあわてぶりを、当時人気のあった銘茶「上喜撰」に引っかけて、4杯も飲んでは興奮して眠れないはずだ、と揶揄しています。

この狂歌は、船の数をハイ(杯)と呼ばなければ成り立ちません。日本語はすごいですね。船の数を数えるのに、隻セキ、杯ハイ、艘ソウ、艇テイ、艦カン・・・といろいろ。こんな微妙な違いを言葉にする国が、日本以外にどこにあるでしょうか?

さすがに大洋に浮かぶ島国の民族だけのことはあります。それがわからないと、この狂歌の面白さは理解できません。このジョークを庶民が楽しんだということは、つまり、船の数を「杯」と称することをみんなが理解しているという前提で成り立っています。この庶民の知的レベル、リテラシーの高さ、この時代には世界有数と言っていいでしょう。

緊急事態の出現に、国じゅうが騒ぎ出すかと思いきや、あたふたと慌てふためく幕府を横に、庶民には幕府を茶化して笑い飛ばす余裕があります。じつに頼もしい限りです。


■脅しに屈して不利な条約を締結
狂歌では四杯のジョーキセン(上喜撰)とうたわれていますが、正式には、蒸気船は2杯で、残りの二杯は蒸気船に曳航された帆船でした。それにしても秀逸な狂歌ですね。後から作られたものではないか、という説がありましたが、どうやら同時代のものだという資料が見つかったようです。

現代なら、たちまちマスコミが騒いでコピーライターとして時代の寵児になっているでしょう。これだけの歌が読み人知らずとは、評価が低い。日本人がいかに、サブカルチャーをないがしろにしてきたかを物語っています。
話がそれました。悪いクセです。本文に戻しましょう。

江戸幕府は長い間、海外との交易を厳しく制限していました。その間も出島にはオランダ船が来航していましたし、唐船も来ていました。しかし、いずれも帆船です。
お茶の輸入競争で、新収穫された新鮮なお茶の葉をいち早くアジアからヨーロッパに運ぶために高速艇のカティサークが建造されるのが1869年。これも動力のないクリッパー(高速帆船)です。

蒸気船が日本にやってくるのは初めてでした。スクリューが導入される前の外輪型です。黒塗りの船体から巨大な煙突がそびえ立ち、石炭のボイラーから煙をもうもうと吐きだす蒸気船の異様な姿に、なにごとかと物見高い野次馬が集まり、幕府はとうとうアメリカ軍艦の見物禁止の触れを出さざるをえなくなりました。

そして半年後の翌54年1月、今度は計9隻で神奈川沖にやってきて、江戸湾深くにまで侵入してきます。前回、幕府に1年後の回答を約束させながら、半年後に、しかも9隻もの艦船でやってきたのは、早く回答せよとの圧力をかけるのが狙いでした。

江戸湾深くに侵入して脅しをかけられた幕府は、3月に日米和親条約を締結し、下田・函館港を開港してこれに対応しました。そして、そのあと、1858年日米修好通商条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を結び、翌59年には、函館・横浜・新潟・神戸・長崎の五港を開港します。


ペリー一行上陸の図(横浜市立図書館蔵)。右に見えるのは楠。関東大震災で燃えた後、
根から生えたひこばえが、いま、横浜の開港資料館の中庭に、元気に根をはっている。


脅され、せかされた末の修好通商条約の締結で、したたかな相手の戦略に翻弄されて、条約の内容も、アメリカ側に領事裁判権(日本国内で、アメリカ人が起こした事件はアメリカ領事が裁判を行う権利を有する)を認め、日本に関税自主権がなかったなど、決して対等な条約ではありませんでした。

円―ドルの交換レートにしても不利な条件で妥結してしまい、明治政府はその後、1860(万延元)年の遣米使節団などでもこの条約の改正交渉に苦労することになります。

この時、幕府はいくつかの国と修好通商条約を締結しましたが、それで日本人の海外渡航が自由になったわけではありません。日本人の海外渡航禁止令は、解かれていないのです。5港を開港しての貿易、輸出入といっても、取引はもっぱら外国商人が日本の港にやってきて、5港で取引をするだけなのです。

当時、日本をめぐる情勢は決して安穏としたものではありませんでした。
1840年ころから盛んに欧米の船が日本の周辺を行き来し、国内ではこの対策が求められていました。オランダから入ってくる情報から、日本が技術的にも遅れていることに多くの藩も気づき始めます。開けた先進的な藩の首脳たちは、こうしたことに危機感を持ち、出島・長崎に人を派遣して情報を収集させます。海外の情報を集めれば集めるほど、進んだ技術や文化を学ぶ必要性を痛感します。


■サムライたちの海外留学

ペリーの来航によって、外国の先進国から学ぶ必要性を感じたいくつかの藩は幕府に留学のための渡航申請を出すのですが、はねつけられます。1854年、吉田松陰が海外への渡航を志願して黒船に潜り込みますが、幕府からも渡航禁止を伝えられていたため、黒船側が乗船を拒否し、吉田松陰が捕縛されるという事件が起こります。

国内は相変わらずそんな状態でしたが、幕府は、通商条約の批准書の交換や海外視察の機会を利用して各国に使節団を派遣し、その際に、留学生も送り出します。その最初が1860年の咸臨丸での遣米使節団です。

しかし、一般の海外渡航は禁止されたままです。この期に及んでもまだ、幕府の立場を維持しようという内向きの発想は変わりません。優れた将軍のリーダーシップによる政治ではなく、忠誠度を見せることが立場を守ることにつながる老中の合議制という悪しき習慣の中に浸かったままです。

こうしたことにいら立って、先見性のある藩主に率いられた各藩は、競うように留学生を海外に送り出すようになります。
●1863年に長州藩から
 井上馨、伊藤博文ら5名が
イギリスに留学
●1864年には
 新島襄がアメリカ留学
●1865年には薩摩藩から
 森有礼、五代友厚ら19名が
 イギリスに留学
他に佐賀藩、土佐藩も留学生を派遣します。
伊藤博文たち5人は、のちに長州ファイブと呼ばれるようになりますが、これらは長州藩や薩摩藩が派遣したもので幕府が認めたわけではありません。基本的に、海外渡航は解禁になっていませんから、国の旅券もなし。厳密に言えば国禁を犯しての密航です。武士の命と言われたチョンマゲも落として渡航ですから、サムライたちは、それこそ人生をかけた命がけの覚悟だったはずです。
<写真>長州藩からイギリスに留学した5名の藩士たち(撮影:ロンドン)。明治維新をさかのぼる
5年前の1963年のこと。武士の命と言われた髷を落とし、後戻りのできない決死の覚悟である
ことがわかる。(前列左から、井上馨・山尾庸三、後列左から、遠藤謹助・井上勝・伊藤博文)

この旅券なしでの留学を助けたのが、長崎に滞在していたジャーデン・マセソン商会のグラバーだったと言われています。それにしても、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、翌59年に5港が開港してすでに数年が経過しています。
通商を可能にしておきながら、日本人が外国に売りに行くのはご法度、もっぱら外国商人が日本にやって来て、港で取引をさせるだけ、いかに幕府の意識が遅れていたかを示すものと言えるでしょう。

そんな環境の中で、庶民の意識はどうだったかといえば、「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政6年の10月を迎えた頃である。・・・」。
これは、木曽路はすべて山の中である・・・で始まる島崎藤村「夜明け前」の第4章の書き出しです。

安政6年10月といえば、西暦に直すと1859年11月。幕府が通商条約で約束して5港を開港したのが1859年7月1日のことですから、木曽の山の中の商人でさえ、4か月後には、生糸を売りに横浜に出ようかという状況です。この、時流の流れを察知して遅れてはならじ・・・と迅速に行動する機動力、好奇心の旺盛さと庶民の物見高さに比べると、いかに幕府の対応は遅いことか。

遅ればせながら、1866年4月7日(新暦:5月21日)、多くの藩からの要望もあり、とうとう幕府は「海外行き許可の認証に関する布告」を発布します。
ここではじめて民間人の海外渡航が可能になるのですが、この時、日本国政府発行の第一号旅券を取得して海外に出たのは、幕府や雄藩の侍たちではなく、なんと手品師・曲芸団一行だったそうです。国内に来ていた興行師に誘われてアメリカ公演に出たそうです。

海外が宇宙と同じように謎の多い時代のことです。私たちの先輩は、いまの私たちが考えるよりも、ずっと好奇心旺盛で前向きな人たちだったと言えると思います。この間に、薩長などが英・米・仏・蘭などの国と薩英戦争、下関戦争・馬関戦争を経験。彼我の軍事力の格差の大きさを目の当たりにした幕府は、攘夷は不可能であることを知り、欧米から技術を学んで軍事力を強化するという方向に政策を転換します。


■攘夷から開国へ180度の転換
この後日本は、1967年の王政復古を受けて、68年に薩長土肥を中心とした新政権が誕生しますが、攘夷を掲げて奪取した新政権は、政権を取ると幕府の政策を踏襲し、富国強兵策を柱にした開国へと180度転換します。

国をリードする根本政策が、政権奪取後に大きく変わるのですが、このあたり、与党の政策に反対したマニュフェストを旗印に選挙戦に挑みながら、政権を取った後は、すっぱり主張を忘れてマニュフェストとは真逆の政策に舵を切る、と現代風に翻訳してみると、なにやらどこかで聞いたことがあるようなお話になります。それがあまり大きな問題にもならずに通ってしまうところは、日本人の国民性なのかもしれません。
とはいえ、ヘアピンカーブさながらの急転換を行ったことで、維新政府はその後の政策運営に苦慮することになります。

しかし、開国・富国強兵と決めてからの思い切った対応で、こうした苦境を見事に乗り切ります。一つは、江戸時代に培われた日本人の基本的な素養・能力が、大きな転換にあたっても十分に対応できる高いレベルで確立されていたということ、さらに、国のかじ取りを担当したのが、怖いもの知らずの30代の若い世代だった、という要素もあったはずです。

そして、維新直後の明治4年(1871年)11月12日、岩倉具視を大使として欧米に使節団がでかけます。

新しい政府が組織されて、やっと廃藩置県が行われたばかりのころです。
藩が廃止され、藩から禄をはんでいた武士たちは職を失いました。幕府の家来、幕臣も同様です。全国の侍たちが一挙に職を失うことになるわけですから、何とか生きる道を考えてあげないといけません。

新しい国のスタートにあたって、やることは山積している状態で、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚房という最高首脳がそろって国を留守にして、海外の視察に出かけました。

使節団総勢46名、これに随従が15名、官費・私費の留学生42名を加えて総勢103人の一大デレゲーションです。しかも期間は1年9か月。欧米事情を知りたいという気持ちは分かりますが、これを意思決定し、実行した当時の首脳たちのとてつもない好奇心、向学心、そしてなによりも胆力に驚きます。この視察の成果は「特命全権大使米欧回覧実記」として報告されます。写真は、桑港(サンフランシスコ)での岩倉具視ほかの首脳。右から2人目が伊藤博文。

名前は「特命全権大使」となっていますが、実は、天皇陛下からの信任状を持参していないことをアメリカから指摘されて、あわてて取りに帰国するなどの失態もあり、その後は、全権大使の公式名を外し、「使節団」と称しています。


■31歳伊藤博文の英語スピーチ
この岩倉使節団は、最初の訪問国アメリカで大歓迎を受けます。サンフランシスコに到着した2日目にグランドホテルで晩さん会が開催されるのですが、その席で伊藤博文はなんと通訳なしの英語でスピーチを行います。

1841年に長州で足軽の子として生まれた伊藤博文は秀才として名高く、青年となって吉田松陰の松下村塾で学びます。1863年に長州藩から派遣されてイギリスに留学しましたが、翌年、長州藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国を相手に下関戦争を仕掛けたことを聞いて、それを止めるために留学を1年で切り上げて帰国。また、71年には半年ほどアメリカ・ワシントンに法律を学ぶために滞在しています。

当時のアメリカは、1776年の独立から100年、進取の気象に燃えた若い国でした。広い国土の割に人口が少なく、ヨーロッパから多くの移民を受け入れていました。移民とともにヨーロッパの産業技術や知識を輸入することもねらいでした。

こうしてイギリス、フランスなどから移り住んだ若い技術者たちは、自由の地で本家をしのぐ発明・改良を進めて産業を急成長させます。ヨーロッパの諸国から見れば、アメリカは新参者。作られる商品は、粗削りで、品質的にはいまひとつの感はあったようですが、それでも、それまで見られなかった新しい工夫がそこここに加えられていて、価格もリーズナブル、ヨーロッパ諸国でそれなりの市場を獲得し始めていたところでした。

アメリカとしては、ヨーロッパに次ぐ新しい販売先としてアジアの開拓を目指している時期で、燃料や食料、水を補給するための中継基地として、また、当時盛んだった捕鯨のための補給基地として、日本は重要なポイントになると考えていたところでした。

アメリカの市民から見れば、日本は、ペリー艦隊を派遣して開国させ、世界で初めて和親条約を結んだ国として、世情的にも多くの国民が関心を持っていました。町中がウェルカムという雰囲気の中での視察団の訪米であり、伊藤博文のスピーチだったわけです。

その頃のアメリカは、スピーチが大流行していたそうです。人々はスピーチを楽しむためにパーティや晩さん会、演説会を開き、そこでお互いの弁舌を競ったそうです。そのため、スピーチを収録した講演録集なども販売されていました。

そんな背景の中で行われた伊藤博文のスピーチは、流れるような英語というわけにはいかなかったようですが、それでも終わった後、しばらく拍手が鳴りやまなかったといいます。
外国人を前に、国の将来を思う気持ちと、若さからくる気負いに溢れた、非常に気高いスピーチで、いま私たちが読んでも、強く訴えてくるものがあります。
当時の伊藤博文の年齢を見るとなんと31歳。武士が14歳で元服といっていた時代の流れの中にありますから不思議ではないかもしれませんが、わたしたちの31歳はどうだったかと思えば、内心忸怩たるものを禁じえません。

スピーチはちょっと長いのですが、非常に興味深い内容ですので、全文をご紹介しましょう(明治百年叢書「伊藤博文伝(上)」原書房、1945)を元に、旧漢字を新漢字に変えたりしています)。以下文中( )内は、筆者付記です。
写真は伊藤博文スピーチの英文。


■日本に実施せられたる幾多の改良

吾等使節として当国に到着以来、到る処にて受けし慇懃なる接待、殊に今夕の特別なる饗応に対し、深厚なる感銘の意を諸君並に諸君を通じて桑港(サンフランシスコ)市民に表す。
惟(おも)ふに今夕は、日本に実施せられたる幾多の改良に就き、精確なる概要を述ぶべき好機会なるべし。蓋(けだ)し我日本人以外には、我国内の状況に就き正確なる知識を有する者稀れなればなり。
条約国――合衆国を以てその最初とす――との親交は維持せられ、我国民の理解に依り通商関係は増進せり。
本使節は、天皇陛下の特命に依り、彼我両国民の権利及び利益を保護するに努むると同時に、将来に於て内外国民の結合を一層親密ならしめんことを期するものなり。我等は互に益々相知るに従ひ、双方の意思は愈々(いよいよ)疎通するに至るべしと確信す。


 ここまではイントロ、相手国に対する儀礼とあいさつですね。
当時のアメリカは前述したように、独立を果たして100年、南北戦争も北軍の勝利で奴隷解放が進み、また、大陸横断鉄道も完成したばかり。蒸気機関や産業革命の成果を積極的に導入し、自らも工夫改善を進めて経済発展に自負を持っている時期です。

彼等の日本への知識については、前年、伊藤博文がニューヨークに滞在していたときに、ペリーが帰国後に表した「日本遠征記」が公開されていることを確認し、米国内に「後進国=日本」のイメージが定着しているのを知っています。

そんな空気も感じたのでしょう、伊藤は「今夕は、日本に実施せられたる幾多の改良に就き、精確なる概要を述ぶべき好機会なるべし。」と述べています。
1865年には横須賀に製鉄所が建設されて戦艦づくりが始められ、使節団が出発する時には、すでに新橋―横浜間の鉄道の工事も始められていて、半年後には品川―横浜間が仮営業します。「日本遠征記」の時代から、十数年が経過した現在、日本は急速に改良を遂げ、いまや昔の日本ではないぞ、ということを伝えておきたい。今日こそ、待ちに待ったその絶好の機会!という気負いがスピーチに溢れています。

横浜−新橋鉄道の横浜駅風景(横浜蒸気機関の図:横浜市立図書館蔵)



■文明の最高点に到達せんとする
伊藤は次のように続けます。

我国民は、読むこと、聞くこと並に外国に於て視察することに依り、大抵の諸外国に現存する政体、風俗、習慣に就き一般的知識を獲得したり。今や外国の風習は日本全国を通じて諒解せらる。今日我国の政府及び人民の最も熱烈なる希望は、先進諸国の享有する文明の最高点に到達せんとするに在り。この目的に鑑み、我等は陸海軍、学術教育の諸制度を採用したるが、外国貿易の発展に伴うて知識は自由に流入せり。



日本は、アメリカとの修好通商条約を結んだあと、イギリスやロシア、オランダ、フランス、など五か国と修好通商条約を結んだことで、外国との貿易が開始され、諸外国の政治・風俗・習慣についての情報が入って来るようになりました。
そうしたことから、諸外国の事情はよく理解している。そして、各国の風習なども日本全国に知らされていると述べた後、伊藤はこの視察を通して、日本は何をしようとしているのかを、「今日我国の政府及び人民の最も熱烈なる希望は、先進諸国の享有する文明の最高点に到達せんとするに在り。」と明確に述べています。

つまり、先を進む欧米先進国に追い着き、トップに並びたい、といっているのです。当然、追い付けると思っているのでしょう。圧倒的な差を自覚している中で、この自信はどこからくるのでしょうか。

我国に於ける改良は物質的文明に於て迅速なりと雖(いえど)も、国民の精神的改良は一層遥かに大なるものあり。我国の最も賢明なる人々は、精密なる調査の結果、この見解に於て相一致す。数千年来専制政治の下に絶対服従せし間、我人民は思想の自由を知らざりき。物質的改良に伴ふて、彼等は長歳月の間彼等に許されざりし所の特権あることを諒解するようになれり。尤もこれに伴ふ内変は一時の現象に過ぎざりき。我国の諸侯は自発的にその版籍を奉還し、その任意的行為は新政府の容るる所となり、数百年来鞏固に成立せし封建制度は、一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さずして、一年以内に撤廃せられたり。かくの如き驚くべき成績は政府と人民との合同行為に依り成就せられたるが、今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつあり。中世紀に於ける孰(いず)れの国か戦争なくして封建制度を打破せしぞ。
此等の事実は、日本に於ける精神的進歩が物質的改良を凌駕するものなることを立證す。


我が国にとって、西欧の物質文明の導入は大きな成果を上げているが、我が国の国民にとっては、それよりも、精神的な改良効果の方が、はるかに大きくて重要であり、このことは多くの人間の認める所となっている、と述べ、物質的な改良とともに、長い間許されなかった精神的な自由さも得た。そして、諸大名は、自主的に版籍を奉還し、数百年続いた封建制度は、一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さずに撤廃された、と語ります。

数百年来の鞏固な封建制度が一年もかからずに撤廃され、国民と政府の協力で、平和の裡に国づくりが進んでいる。世界に、戦争無くして封建制度を打破した国は他にあるだろうか。この事実から、日本という国は、物質的な進歩をはるかに凌駕して、精神性という点では進んだ国である……と伊藤博文は誇らしげに訴えているのですね。

政権交代にあたっては、鳥羽伏見の戦い、彰義隊との上野戦争、戊申戦争、函館戦争……などがあり、多くの血が流されました。しかし、肝心の江戸城の開城、大政奉還、版籍奉還までは一滴も血を流さずに話し合いで行われました。伊藤はこのことの意味を訴えたかったのでしょう。

■未だ創造的能力を誇る能はず
先進国から多くを学び、早く追いつきたいと言いながらも、教えてください……と卑屈になるのではなく、無血革命を実現した精神性の高さはどうだ!と逆にアピールしています。なんとプライドに満ちたことばでしょうか。

このあたりは、二度にわたるイギリス、アメリカへの留学で感じた思いをぶつけたものでしょう。留学で欧米の個人主義や物質的な利益を優先する風潮を知り、その結果、逆に我が国の文化が持つ精神性の高さが世界的にも誇れるものであることを発見した、そんな伊藤博文の経験がここに出ています。彼我を冷静に比較できるところは、とても31歳のものとは思えません。

又我が女子を教育することに依り、我等は将来の時代に於て今より一層優秀なる智能の涵養を庶幾(しょき:切望する)するものなり。この目的を以て、我国の少女等は既に勉学の為め貴国に来りつつあり。

岩倉使節団とともに留学した女学生。左から、永井しげ
上田てい、吉益りょう、津田うめ、山川捨松。明治4年。
この視察団の一つの特徴は、多くの男子に交じって、5人の女子留学生がいたことです。しかも、8歳、9歳、12歳、15歳、16歳と全員が若い。なかでも津田梅子(帰国後に女子英学塾、後の津田塾大学を創設)は数えで8歳、満でいえば6歳という幼さでした。その彼女たちも先進国の英知を学ぶことで、「今より一層優秀なる智能の涵養を庶幾する」、と大きな期待を背負っていたのです。

この後、日本はいまだ創造的な能力に欠けるところはあるが、良い点は積極的に取り入れていくとし、さらに、自らが一年ほど前に滞在したニューヨークでの体験を語り、これまで諸外国から学んだ多くのことは既に実行に移されていると紹介して、今回も学んだことは国に持ち帰って導入したいと述べています。

日本は、猶ほ未だ創造的能力を誇る能はずと雖(いえど)も、経験を師範とせる文明諸国の歴史に鑑み、他の長を採り誤を避け、以て実際的良智を獲得せんと欲す。一年足らず以前に予は合衆国の財政制度を精細に調査したることありしが、その時華盛頓(ワシントン)滞在中貴国大蔵省高官より貴重なる援助を受けたり。而して予の学び得たる各種の事項は、誠実に我政府に報告せしが、その献策は大抵採用せられ、既に実行に移されたるもの少なからず。
現に予の管轄下にある工部省に於ても、進歩の大いに見るべきものあり。鉄道は帝国東西両方面に敷設せられ、電線は我領土の数百哩に亘(わた)って拡張せられ、数箇月中に殆ど一千哩に及ばんとす。燈台は今や我国の沿岸に設置せられ、我造船所も亦活動しつつあり。此等の施設は総て我文明を助成するものにして、我等は貴国及び他の諸外国に対し深く感銘する次第なり。

日本には、新しいものを生み出す力はないが、文明諸国から良いところを学び、学んだ結果は、即座に反映させていると、鉄道や電線の敷設、灯台の設置、造船所の建設など具体的な例を紹介し、こうしたことへの支援に感謝を述べています。

■日の丸…昇る朝日の尊き徽章
そしてさらに、今回も多くの情報を持ち帰り、みなさんが発展してきた成果を学び、短時日で通商を増進し、健全なる基礎をつくりたいと述べています。

使節としても個人としても、我等の最大の希望は、我国に有益にして、その物的及び智的状態の、永久的進歩に貢献すべき資料を齎(もた)らして帰国するに在り。我等は固(もと)より我人民の権利及び利益を保護するの義務を負ふと同時に、我通商を増進することを期し、且つこれに伴ふ我生産の増加を図り、その一層大なる活動を助長すべき健全なる基礎を作らんことを望むものなり。
太平洋上に今将に展開せんとする新通商時代に参加し、大いに為す所あらんとする大通商国民として、日本は貴国に対し、熱心なる協力を捧げんとす。貴国の現代的発明及び累積知識の成果に依り、諸君はその祖先が数年を要せし事業を数日にて成就し得るならん。貴重なる機会の集中せる現時に於て、我等は寸陰をも惜まざるべからず。故に日本は急進を望むや切なり。


通商を増進し、生産の増加を図りたいというのではなく、「その一層大なる活動を助長すべき健全なる基礎を作らんことを望む」と言っているのですね。結果を求めるのではなく、結果が生まれる状態をつくりたい、と言う主張です。これは、すごいことですね。

普通であれば、結果を求めるでしょうが、伊藤はそうではありませんでした。言ってみれば、成績の悪い子供が、「成績をよくしたい」というのではなく、「成績をよくできるような習慣を身に着けたい」と言っているようなものです。こんな発想は日本人にもともとあったものでしょうか? 早急に成果を求めるのではなく、体質を変えたいという主張は、聴いていたアメリカ人を驚ろかせたのではないかと思います。

そして最後に、伊藤は以下のように続けます。

我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋(ふうろう)の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす。


日本の国旗である、白地の中央に描かれた赤い丸は、国を封じる「封蝋」(手紙に封をする蝋のシール)ではなく、「昇る朝日の尊い徽章」であり、「世界における文明諸国の間に伍して、前方に、かつ上方に向かって昇ろうとしているものだ」と締めくくりました。

なぜここで日の丸が唐突に出てくるのか、若干の説明が必要かもしれません。
明治維新で体制が変わった時、まだ日本の国には正式な国旗が制定されていませんでした。つまり、国家としての体裁が整っていなかったということですね。黒船来航いらい、諸外国と通商条約を締結し、行き来をするようになると、国旗の必要性が生まれてきます。

最初に問題になったのは、船舶です。
公海を渡る船は、その船の船籍を示す国旗を掲示することが義務付けられています。そこで、明治政府は明治3年(1870年)、商船規則の制定に際して、白地に赤丸の日の丸を「御国旗」として規定しました。1870年に商船規則で制定された当時の「日の丸」は、縦横比は7対10(現在は1:1.5)、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置(現在は中央)とされていたようです。

しかし、日本の国そのものが古い封建社会の国とみられていたアメリカでは、この赤い丸は人々を封じ込める赤い封蝋と揶揄されていました。伊藤の演説は、こうした揶揄に対する想いを熱く語ったものでした。

このスピーチは、万雷の拍手でたたえられ、翌日の新聞にはこのスピーチへの賛辞があふれていたそうです。

のちに、「日の丸演説」と呼ばれることになるこのスピーチは、後進国と見下していた東洋の小さな国から来た若者が、英語で演説を行ったというアメリカ人にとっての驚きもあったでしょう。しかし改めて読んでみると、それ以上に、新しい国を作ろうという、伊藤の溢れるほどの熱い思いが伝わった名スピーチといえます。

視察団は、このあと一年半以上にわたって欧米諸国を視察していくのですが、この伊藤博文のスピーチ、国を憂う思い、卑屈にならずに堂々と主張する自負心、そして、先見の明……。後に首相になる人物とはいえ、弱冠31歳でこれだけの演説をやってのけるとは、見事というほかありません。

その後の日本は、この話しの通りに歩みました。殖産興業・富国強兵を経て、現在のものづくりの国に通じる出発点を、この伊藤のスピーチの中に見ることができます。


■「超ド級」戦艦の完成
殖産興業・富国強兵に取り組むにあたって最初の課題は製鉄です。軍事力の増強には、大砲や軍艦が不可欠です。しかし、製鉄の量産技術や、大型軍艦を造る技術がありません。
古来、日本の製鉄技術は、砂鉄を木炭で溶かし、たたらと呼ばれるふいごで風を送って高温にするたたら製鉄法が用いられてきました。これで作られる玉鋼は、硬さがあって曲がりにくい特徴があり、刀剣や農具、生活用具などを作るには良いのですが、柔軟性が求められる構造物には適しません。

そこで、たわんでも折れにくい均質な構造物用の鉄鋼を生産するために、西洋式の反射炉・高炉などの製鉄技術が導入する一方、長崎・横須賀に造船所を作って船舶の建造技術の確立を図ります。とはいえ、せいぜい木造の千石船しか建造できなかった技術で、造船所を作ったからといって、いきなり戦艦を作れるわけはありません。

日露戦争の日本海海戦の旗艦「三笠」。現在、横須賀市の三笠公園に設置されている。

そこで、イギリスに戦艦を発注し、技官を送って、軍艦づくりのノウハウを学ばせます。そして技術を持ち帰った技官らが中心になって、自力で建造する道を歩みます。このときイギリスに発注されたのが、後に日露戦争(1904-05年、明治37-38年)で旗艦となった「三笠」(1902年完成)などでした。

その後、広島・呉、神戸に造船所をつくり、各地で競うように軍艦が作られていきます。こうして我が国で初めて西洋式の戦艦が作られたのが1910年(明治43年)、広島・呉の海軍工廠で「薩摩」です。全長137.2メートル、排水量19,372トン、石炭による焼玉エンジンです。

続いて、大正時代になると、巡洋艦「榛名」(26,330トン、1914年神戸・川崎造船所)、「霧島」(27,000トン、1915年長崎・三菱造船所)を建造。
1920年(大正9年)になると、世界最強35,000トン級の戦艦「長門(呉工廠)」「陸奥(横須賀海軍工廠)」を作りあげるまでになります。
この長門、陸奥は、当時世界最強と言われた英国の戦艦「ドレッドノート」(1906年竣工)を上回る航行速度や大砲などを備えた戦艦として建造され、「ドレッドノート」を超えることから、スーパー・ドレッドノート・クラス=「超ド級」ということばで呼ばれるようになりました。

最近は、甲子園で活躍する選手に「超高校級」「超ド級」などと使われたりしますが、もともと「英国の戦艦ドレッドノート」から生まれた表現でした。
黒船が来航した当時、日本の産業技術力は西洋と比較にならないレベルでした。その日本が、富国強兵をめざして50年後、自力で最初の軍艦を作ってからわずか10年後にはイギリスに追いつき、それらに匹敵する世界一のレベルの戦艦を建造する能力を持つまでに至ったのです。ノウハウを学び、応用する能力とキャッチアップの速さ、ものづくりへの適応性は見事というほかはありません。

つい50年ほど前まで、世界史からこぼれ落ちていたような東洋の小さな未開の国が、またたく間に力をつけて、列強をしのぐ軍艦を建造するようになった、その潜在力は、列強の目には、大きな脅威と映ったに違いありません。


■世界のパラダイムを変えた日本のものづくりの力
西欧を目指して追いつけ追い越せで突き進んできた日本は、その猪突猛進の勢いのまま第二次大戦まで突っ走ってしまいました。軍事力で列強に並んでからの迷走ぶりは、いかんともしがたいところがありますが、目標を決めてゴールを目指す時に発揮する集中力とパワーは、列強に対して日本という国の潜在力を強く意識させることになったと思います。

しかし、世界一の軍艦を建造したといっても、実態は付け焼刃で、インフラの整備や社会的な蓄積は金メッキのような薄っぺらなものでしかありませんでした。キリのような鋭角な切っ先に全リソースを投入して一点突破には成功しても、そうした力や資産を社会全体に配分して、底辺の底上げにつなげるという方向には使われませんでした。
国策として力を入れ、獲得してきたその技術力や経済力を、列強に伍して領土拡大に投入するのではなく、国民の福祉と生活の向上につなげていれば、日本はまた別の国になっていたかもしれません。しかしそれはいまだから言えることで、当時はそんな状況ではなかったようです。

万国公法が示す当時の世界の勢力秩序
大航海時代以後、世界をリードしてきたのは、欧米の国々でした。19世紀後半に欧米諸国が集まって作った国際法「万国公法」では、欧米の「文明国」は、アフリカなどの「非文明国」や、アジアの「半文明国」に対しては、不平等条約などをもって国交・通商を迫り、万一それを拒む場合には、武力によって受け入れさせることが正当な行為として認められていました。
そのため、彼らは競ってアジア、アフリカ、南米へと進出し、植民地化を進めました。
ペリーが1853年7月に来航し、一年後の回答を約束させながら半年後の1854年一月に再びやってきて、条約の締結を催促した裏には、こうした文明国の半文明国への恫喝があったわけです。植民地化の危機は、日本にも迫っていたのです。
世界史的に見れば、それまで、欧米以外の国が、列強に伍して政治・経済・技術面で台頭してきたことはありませんでした。そんな時代に、半文明国とみなされていたアジアの一小国である日本が、開国以来、急速な発展を遂げて、世界の舞台に飛び出し、自己主張を始めたのです。

彼らにとってみれば、圧倒的な力の差で面倒を見ていたはずの幼な子が、あれよあれよという間に大きくなり、力をつけてやがて背伸びを始め、気が付けば、おれの方が強いぞと分け前を要求するまでになっていたということでしょう。
力をつけてからの国のあり方に議論はあるとしても、経済力で「半文明国」とさげすまれていたアジアの中から、初めて日本が列強の仲間入りをしたという事実は、世界史的にもそれなりの価値と栄誉を持って語られてもいいのではないかと思います。
そのベースとなったのが、私たちの先輩が培ったものづくりの力でした。


■ブータン・ワンチュク国王のメッセージ
国会でスピーチするブータンのワンチュク国王
ブータンはアジアの中央部、ヒマラヤ山脈の東端にあり、中国とインドと国境を接している小さな国です。
長い間、鎖国をしていたため、独自の文化を持っていますが、最近は国の政策を国民の幸福度という尺度でみていることでも知られています。
2011年11月17日、日本を訪問したブータン王国の若きワンチュク国王は国会で演説を行いました。その中で日本に対する思いを次のように語ってくれました。

「2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。」


ワンチュク国王は、日本を高く評価していると話してくれたのですが、わたしたち自身がこうしたことをどれくらい認識しているでしょうか。

いま、アジアの時代と言われています。中国を中心としたアジアの国々の経済発展が注目されるようになったのはほんの最近です。百数十年前のアジアは、多くの国が欧米諸国によって侵略され、植民地として蹂躙され、資源の収奪が行われていました。
そんな中で、日本は西洋文明に出会っても屈服せずに、その知識や技術を取り込んで自分のものとし、産業を興してやがて列強に並ぶほどの力をつけました。

その意味で開国は、日本にとっては国内改革の大きな契機でしたが、同時に、欧米列強の覇権主義に対して、遅れた「半文明国」とみられていたアジア地域の国々にも西欧の諸国と同じ可能性があることを認識させるきっかけとなった、世界史的にもきわめてエポックメーキングなでき事だったということができます。

 そして、それを可能にした原動力が、維新以来の富国強兵政策を支えた殖産興業であり、日本の「ものづくりの力」であったと言えます。欧米列強の支配体制という世界のパラダイムを大きく変革する源泉に「ものづくり力」があったのです。





   


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