ものづくり日本の心


日本のものづくりは世界の財産である


第1章
「勤勉」は近代産業とともにやってきた



第1回ロンドン万博会場「水晶宮」(http://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/005r.html)


■アイスブレーク「この国はどこの国?」
わたしは製造業のコンサルティングと、マネジメント・技術領域を中心とした出版編集を行う事務所を運営しています。

そのため、ものづくりに携わるビジネスマンの方々を対象にした、講演やセミナーの講師をさせていただく機会も少なくありません。テーマが「ものづくり」に関するものである場合、アイスブレークを兼ねて、最初に皆さんに問題を出して、考えていただくということをよくやります。私自身が気に入って、かなり長い間使っていた問題の一つに、以下のようなものがあります。皆さんにもお考えいただきましょう。

最初は、「この国はどこの国?」です。
セミナーや講演会では、以下の四つのテキストを一枚のパワーポイントに表示し、これを読んでいただいて、ここに書かれている「この国」はいったいどこの国を指すのか、参加者の皆さんに答えを考えていただきます。

(1)「この国ではヨーロッパの発明は巧みに実用化される。そして、ヨーロッパの発明はそこで完成された後、驚嘆されるほどに国の必要に応用される。そこでは人々は勤勉であるが、発明者たちはほとんどいない」。

(2)「この国の人は生まれついての職人である。機械や道具を一つも考案したことのない働き手は存在しない」。

(3)「職業が喜びを構成し、勤労が楽しみをもたらしている点で、この国の住民に勝る人々はおそらく世界にいない」。

(4)「この国の職人は自分の仕事を習ったと同じようにはやらない。常に改良を施す。仕事を達成するためと価格を下げるための両面で、いつも何か新しい工夫をこらしている。

以上の4つの問いはすべて同じ国を指しています。さて、「この国」とはどこの国でしょうか?

 参加者のなかから指名をして、パワーポイントに書かれた内容を読んでいただいた後、「この国とは、どこの国でしょうか?」と質問をすると、皆さんはしばらく黙ります。
しばらくしーんとして声もないので、「いかがですか? お分かりの方は手をあげてください」と催促しても、なかなか手があがりません。

受講者は、基本的に製造業で企画・開発、生産管理、生産技術、製造などを担当する中堅から部課長・役員クラスの方々です。見ているとよく分かるのですが、手が上がらないのは、分からなくて答えられないのではありません。どう対応したらよいのか、戸惑っているのです。


■答えは、しり上がりの半疑問形?
戸惑いの原因は、「答えは日本に決まっているが、そんな簡単な問題なのか? 他に何か意図はあるのではないか?」という迷いと、「こんなやさしい問題に、自慢げに手をあげて「日本」と答えるのは、恥ずかしい」という微妙な心理が働き、お互いへの牽制もあって、手を上げられないのです。

公開のセミナーや講演会ならば参加者は同業他社の競争相手です。ここで屈託なく「日本」などと答えるのは、無知をさらすようでメンツにかかわる……というところでしょう。これは、日本人に特有の、場の空気を読む心理から来る行動ですね。

海外ならば、この国はどこですか?と聞いた瞬間に、即座に「日本」という答えが出てきます。響きが軽い。正解かどうかよりも、質問されたらとりあえず手をあげて答える、正解や深い洞察よりも自己主張することが重視される世界での風景です。

手が上がりそうもないのを見て、「言いにくいでしょうが、あえて言っていただくとどこですか?」と催促をすると、パラパラと2、3人が不安そうに手をあげてくださるので、どうぞと指名すると、「日本?」と答えてくれます。

しり上がりの半疑問形。こんな答えでいいのかな?と逆に問いかけています。
自信がなさそうです。

「はい、ありがとうございます。どう見ても日本を指しているように見えますね。当たり前すぎて答えるのが恥ずかしい、と思っていらっしゃったと思いますが、思い切って口に出してくださってありがとうございます。勇気を持ってお答えくださったのですが、残念ですが、日本ではありません。さて、では、日本でないとすると、どこの国を指しているのでしょうか? これが第二問です」と続けます。

ここから、みなさん迷い始めます。頭の中に、ドイツ? スイス? 韓国? まさか中国?というわけはないよねえ? などの吹き出しがたくさん出ているような顔つきをされています。ですが、手が上がりません。どの国も、「ヨーロッパの発明はそこで完成され」、「生まれついての職人」「機械や道具を考案」「職業が喜びを構成し」……というフレーズが引っ掛かり、日本以外に、どの国も正答と思えなくて迷っているのです。

そのうち、ぱらぱらと手が上がり、答えをいただきますが、そのたびに、「はい、ありがとうございます。そうですよね。日本でなければ他にはそのあたりが考えられますよね。残念ですが、でも違うのです」などと答えながら、「他には?」と挙手を催促します。しかし、なかなか求める正解は出てきません。

ドイツ? スイス? 中国? 韓国? イタリア? ベトナム?……と、思いつく国名があらかた出尽くしたところで質問を切り上げ、答えを明かします。


■変わる「ものづくりの国」
正解は「アメリカ」です。
この問題を私が好んで使っていたのは、どんなに答えを要求しても、アメリカという正解はほぼ出てこないという秀逸さにあります。この設問には、ストーリー展開の極意、あっと驚くどんでん返しの妙があるのです。

後から受講生に聞くと、セミナーの内容よりも、この質問の方が圧倒的に記憶に残っていて、「あのセミナーでは、あのはなし面白かったです!」と嬉しそうに語り、講師をがっかりさせてくれます。中には、「あの話、ウチでもしてください」と講演依頼を受けることもあるのですが、「その後の私のセミナー内容は、記憶にないのかい?」と、つっこみどころを間違えていることに気づいてくれないのが残念です。

その意味では、前座で出て客席を大いに盛り上がらせ、後から出てくるメインイベンターの試合をかすませてしまった若いころのマイク・タイソンのように、この質問は、知らぬ間アイスブレークからにセミナーのメインイベンターに収まってしまいました。この質問の後でするセミナーそのものは、十分に母屋の中身と重さを備えている、と私は思っているのですが、負け惜しみに過ぎないかもしれません。

この質問は、私にとっては講話のイントロ部分の、次への食欲を誘う食前酒の役割を果たしてくれる鉄板ネタになっています。

さて、答えはアメリカと伝えると、みなさん一様に、「ええ? 勤勉だとか、発明者はいないとか、ヨーロッパの発明がこの国で実用化されるとか、設備や道具を考案するとか、職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている人たちとか・・・、アメリカという答えは、おかしいんじゃない? どういうこと?」と、狐につままれたような表情になります。無理もありません、だから正解が出なかったわけですから。

質問の答えに、正解が出ないのは、言い換えれば、それほど、製造業の社員に、「ものづくり」「生まれついての職人」ということばと、現在の「アメリカ」が結びつかないということです。このところ、ラストベルトを中心に、失業対策に、海外に出た製造業をアメリカに戻したい、と表明しているトランプ大統領がセミナーに参加していたら、果たして正解を答えられただろうか。「答えはアメリカ」に彼は「それは、フェイクだ!」と叫ぶ方にノリます。


■第一回ロンドン万博でのデビュー
答えはどうしてアメリカなのでしょうか? 正解のタネを明かせば、設問の背景が、現代ではなく、1800年代中頃のアメリカを舞台にしたものだからです(『アメリカ職人の仕事史』森杲、中公新書)。
それほど国は変化しているということなのですね。
当時の状況を少し説明しましょう。

1700年代のなかごろ、イギリスでは紡績機の改良から始まった機械化が、ワットの蒸気機関の改良で、動力源を得て急速に進展します。その結果、設備の開発競争が他の産業にもおよび、機械化に拍車がかかります。鉄の需要がふえて大規模な製鉄業がはじまり、のちに、産業革命とよばれる機械化、工業化の流れがいっきにすすみます。

イギリスではじまったこの波は、フランス、ドイツを経由してヨーロッパ全体に広がり、1700年代後半から1800年代中頃にかけては、多くの産業で設備の開発競争が繰り広げられました。

日本が幕末から明治維新をむかえた時代は、欧米では産業の機械化が非常ないきおいですすみ、第二次産業がさかんになって、職業としての技術者が誕生した時代です。
そして、ヨーロッパで生まれた最近技術が、移民した人たちを通して独立したばかりの若き新興国アメリカにもたらされます。

当時のアメリカはヨーロッパからみれば開発途上の後進国です。独立の気概に燃える若い技術者たちが、ひと旗あげようと青雲の志をいだいて移民し、ゼロから立ちあげた国でした。1776年に独立をはたすと、そのままのいきおいで産業も急速に力をつけていきます。

希望に燃えて新しい大陸に移ってきた若い技術者たちは、なにもない土地で、必要なものを自分たちでつくりはじめ、次第に技術力を身につけ、新しいものをどんどん生みだしていきます。何よりも、目の上のたんこぶになりがちな先輩や上司がいないという状況が、若い人たちにとって思い切って自由に行動できる楽園となります。

ハイドパーク・クリスタルパレス
そんな1851年、ロンドンのハイドパークで第一回の万国博覧会が開催されます。そのために作られたのがガラスの御殿、クリスタル・パレスでした。参加国は、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、それにアメリカなど35か国。141日間の会期に、なんとイギリス人口の三分の一にあたる604万人が訪れるほどの人気だったそうです。

イギリスは紡績産業の本拠地として、この産業革命に先鞭をつけ、先頭を切ってすすんでいた国です。当然、見物客の人気は、主催国で世界最先端の産業国イギリスの展示物に集まると予想していました。

アメリカにも参加を打診はしましたが、大西洋のはるか向こうの国でもあり、あくまでも添え物で員数外。関心はフランス、ドイツに比べイギリスがどこまで進んでいるか、それをロンドン子たちが自分の目で確かめて優越感を持つ、というのが当初のねらいでした。


■万博の華「錠前開けコンテスト」
そんななか、アメリカ産業界から、イギリスなみの広大な展示スペースの要求が届いたことで、事務局は驚かされます。はたして会場を埋める展示品があるのか、博覧会事務局の心配のタネでしたが、いざ、幕を開けてみると、予想に反して、アメリカの人気がしだいに高くなっていったのです。

アメリカ人気の原因は、展示品の新規さにありましたが、もう一つ、同国の人気を高めたのは、同時に開催されていた錠前開けのコンテストでした。
当時、各国の技術力を目にみえるようにして競わせるイベントとして、博覧会場で錠前開けのコンテストが行われていました。コンテストはこんな仕組みで行われました。

  (1) 各国は、自前の錠前を出品する
  (2) 同時に、錠前製作の技術力をもった最高の技術者を派遣する
  (3) 各国技術者は、他の国が出品した錠前の錠前開けにチャレンジする
  (4) 各国の技術者が、コンテストに出品された錠前開けにチャレンジして、最後まで
   開けられない錠前を作った国が技術力の高い国、出品されたどんな錠前をも開けた
   技術者が、最も技術力が高いエンジニアに選ばれる

というわけです。

競技は会期を通じて行われました。
毎日のように、今日は、どの国の錠前が開けられた、どこの技術者が○○の国の錠前を開けた、というニュースが話題になって来場者の人気をあおり、会期が進むにしたがって盛り上がったそうです。

この結果、アメリカ製の錠前が最後まで開けられずに残り、また、難攻不落を誇っていたイギリス製の錠前が、最後にアメリカの技術者に開けられてしまったことで、アメリカの技術がひときわ注目されるようになったのです。

「博覧会場では、イギリスが生んだ最も評判の高いプラマー錠を、鍵なしで開けた者に200ギニーの賞金がかけられた。これを『イギリスの錠ならどんなものでも2、3分で開けてみせる』と豪語して乗り込んだアメリカ人技術者G・ホップスが、さすがに2、3分というわけにいかなかったが、7月24日から取り掛かって8月23日についに開けてしまった。この大ニュースはただちにロンドン中に広まった。一方、彼が持参したニューヨークのデイ・アンド・ニューウェル社製の錠、および、やはりニューヨークのへリソグ社が展示した耐火金庫の錠のほうにも賞金がかけられたが、これは誰にも開けられないで終わった。ホップス錠(デイ・アンド・ニューウェル社製の錠:筆者注)が人の手で開けられるのは4年以上後のことである。」(『アメリカ職人の仕事史』)


これで一気にアメリカ・パビリオンの人気が沸騰し、万国博覧会は多くの観客を集めて大成功に終わったそうです。

ヨーロッパ諸国から後進国と思われていたアメリカ産業界が、こうして第一回万国博覧会で世界に向けて華々しいデビューを飾ったのでした。


■応用に長けた生まれついての職人たち
こんな万博の状態を見て、欧米の産業人やマスコミは驚きました。
開幕前には、イギリス・パビリオンの人気が高く、自国開催もあって観客が殺到するだろう、続いてフランス、ドイツなどのパビリオンに観客が集まり、アメリカは目新しいものはあっても質的にはイギリスには及ばないと予想されていました。

ところが、開けてみれば最初こそ低調だったものの、アメリカの人気が尻上がりに高くなっていきます。出品された機械類も、新しく開発された専用機などがたくさん出品されていて、目新しさ、新規性、開発意欲という点で観客の強い関心を集めたのです。

会期が進むにしたがってアメリカ人気は急上昇します。予想していなかった事態に、ヨーロッパ各国の産業人やマスコミはあわてますが、実は、こうした状況は、一部の専門家の間では予想されたことでもあったのです。

というのは、1776年の独立いらい、アメリカは活気のある新興国としてヨーロッパでも注目の的になっていて、多くの人たちがアメリカに派遣され、そのレポートがマスコミに登場していました。

技術力についても、すでに1800年ころからヨーロッパで知られるようになり、多くの新聞や雑誌がアメリカの産業事情をレポートしていました。冒頭でご紹介した4つは、そのころにヨーロッパで発表されたアメリカレポートや書籍から抜粋したものです。

「@アメリカではヨーロッパの発明は巧みに実用化される。そして、ヨーロッパの発明はそこでは完成された後、驚嘆されるほどに国の必要に応用される。そこでは人々は勤勉であるが、科学と産業とを研究しない。そこには優秀な労働者たちはみつかるが、発明者たちはほとんどいない」(『アメリカ職人の仕事史』)
これは、1835年に出版されたフランス人貴族のトクヴィルによる『アメリカの民主政治』の一節です。技能はあるが、技術はない。課題は研究開発にある、と書かれています。まるで、日本の産業界が一時期、世界から言われたことばそのものではありませんか。

「Aアメリカ人は生まれついての職人である。マサチューセッツやコネチカットで、機械や道具を一つも考案したことのない働き手は存在しない」(同)
というのは、フランス人で経済学者ミシェル・シュヴァリエが、1834,5年に政府から鉄道敷設の任を与えられてアメリカに滞在し、各地を回った後に書いたレポートです。庶民の生活水準がフランスよりずっと高く、すべての人が活気に満ちて働いていることに強い感銘を受けたようで、彼は技能者としてのアメリカ人を高く評価しました。

「B職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている点で、この国の住民に勝る人々はおそらく世界にいない」、

「Cアメリカの職人は自分の仕事を習ったと同じようにはやらない。常に改良をほどこす。仕事を達成するためと価格をさげるための両面で、いつも何か新しい工夫をこらしている」(同)。
この2つは、オーストリアからアメリカに移住して「『アメリカ人――道徳、社会、政治における諸関係』(1837年)を表したフランシス・J・グルントの文章です。

アメリカでは、この段階ですでにコストダウンを意識して生産、開発・改良が行われていたことも書かれています。

当時のアメリカは、習い覚えた技を持った多くの移民が、各国から手ぶらでやってきて、よーいドンで、開発競争を繰り広げた国だったわけです。


■職業が喜びを構成する国民
 産業の世界の趨勢などを知った現代の人たちが、冒頭でご紹介したような言葉を聞けば、多くの人は、これは日本のことだと思うはずです。
 受講者のみなさんが、「日本」と誤った最大の要素は、

 ●「この国ではヨーロッパの発明は巧みに実用化される」
 ●「そこでは人々は勤勉であるが、発明者たちはほとんどいない」
 ●「職業が喜びを構成し勤労が楽しみをもたらしている」
 ●「常に改良を施す。いつも何か新しい工夫を凝らしている」

などでしょう。

 職業が喜びを構成し、勤勉であり、常に工夫をこらし改良を続けているということばが、頭の中で、日本人の姿とシンクロしてくるのだろうと思います。それほど、現代の私たちのイメージにそのままあてはまります。しかし、その当時、一八五〇年頃の日本人の働き方が、ここに書かれたようだったかと言えば、そうではありませんでした。

たしかにいまでは、日本のものづくりを語るときに、作業を効率化し、品質を安定させるために日常的に行われる小さな工夫や改善とともに、勤勉さ、働くことへの姿勢も欠かせない要素になっています。

かつて日本のサラリーマンの労働時間は、先進国の中でも際立って長いとされていました。最近では、祭日の増加、週休二日制、産休・育児休暇等の導入などで、だいぶ改善されてきていますが、それでも、日本人に対する第一印象として、「勤勉」をあげる人はまだ多いでしょう。

日本人にさえ、「日本人とは?」と問えば、時代は変わったといいながら、ランクの上位に、勤勉ということばがあげられるはずです。

あたかもDNAにしっかりと組みこまれているこうした日本人の「勤勉さ」ですが、この「勤勉さ」は、どこからきたものなのでしょうか。

ここで、もう一つ質問です。

■きままに働く職人たち
次に紹介するいくつかのことばは、ある国に出かけた人間が、その国の作業者を見て発したことばです。このことばは誰が発したものか、また、なかでいう「作業者」とはどこの国の人を指すのかを当ててください。

  (1)「作業者は、日常の糧を得るのに必要な仕事をあまり文句も言わずに果たしてい
   る。しかし彼の努力はそこで止まる。・・・必要なものはもつが、余計なものを
   得ようとは考えない。大きい利益のために疲れ果てるまで苦労しようと思わない
   し、一つの仕事を早く終えてもう一つの仕事に取りかかろうとは決してしない。」
  (2)「作業者は、言われたことはする、でもそれ以上に仕事をしようとはしない」
  (3)「忙しそうであるが、適度に働く」

これも厳密に国名を挙げるのは難しいとして、おおよその見当は付きそうです。
受講者の中には海外工場の勤務経験者もいますので、海外工場に勤務する日本人が、発したことばではないかという想像がつきます。

「言ったのは日本人で、作業者とは、中国人?」
という答えがだされますが、それはブーです。
「じゃ、タイ人作業者ですか?」
「ベトナム人?」
「インド人?」
インドネシア、ラオス、バングラデシュ、ミャンマー・・・と出されますが、どれもこたえは「ブー」。

相手先はともかくとして、言ったのは日本人……という点で、疑問の余地がないほど一致しています。問題は、どこの国かだ、ということで迷っているようです。自明の理に思える答えが違うと言われて、皆さんは迷い始めます。

確かに、これらのことばは、海外に派遣されている日本人担当者から、現地の作業者についてよく聞かされることばです。そのニュアンスは、嘆くというよりも、「もっと仕事をすれば会社の業績もよくなり、収入も増えて、暮らしも楽になるし、仕事も覚えられて力がつくのにどうしてしないのだろう」という、自分たちの思いが伝わらないもどかしさを訴えているように受け取れます。

最近は、こうした現地の人たちの仕事ぶりを理解して、教育の仕組みをうまく作り、彼らにモチベーションを持たせて高い生産性を実現している日系の工場もいくつか出てきています。
とはいえ、働くことに金銭の対価以上の意味を見つけて、仕事に積極的に取り組む人たちは、全体から見れば、まだ一握りといっていいでしょう。

確かに、日本人が海外で嘆くことも多いことばですが、でも、引用したことばは、日本人のものではなく、言われた作業者も、それらの国の人たちではありません。いずれも、「ブー」なのです。


■海外に出て初めて知る日本人の勤勉さ
このあたりで、受講生の頭から「?」マークが吹き出しで見えるようです。多分、日系工場の現地作業者以外に思いつかないでしょう。
もう一つ、こういうのはいかがでしょうか?

「給料日は各人ごとに別の日にしなければならない。というのは、彼らは給料を受け取るとしばしばまる2、3日は姿を見せず・・・有り金を全部使い果たすまで戻ってこない」。


これもまた、特にメキシコなど中南米や南米に進出している工場の幹部から、よく聞かされた意見です。最近は改善されてきたとはいえ、しばらく前までは、給料日の翌日は欠勤率が2ケタ台になるので、それを見込んで配置計画を作っておかなければならない、というのが駐在員の集まりで定番のボヤキになっていました。

海外に出て初めて日本の作業者の質の高さに驚いた、と感想を述べる人もいました。日本人には当たり前の勤勉さが、決してグローバル標準ではないことを実感として知ったという驚きがそこにありました。
このことは、日系の工場だけでなく、韓国系の工場などでも同様の状態であったようです。

しかし、紹介したものが海外工場に勤務する日本人駐在員のことばか、と問われれば、やはり「ブー」なのです。

受講生たちが首をかしげていると、ここでふと気づいて「日本!」という、確信に満ちた声を発する受講者が出てきます。手を挙げません。顔をみると、見るからに「分かった」というドヤ顔をしています。

「なぜ日本?」
「だって、絶対にアメリカじゃない問題の正解がアメリカなら、絶対に日本じゃない問題の正解は日本しかない」
「なるほど、では、そのこころは?」
「いまじゃなくて、むかしのことじゃないの?」

やられました。ピン、ポーン、正解です。

正解が1、2、3と続いて、つぎが4でなければ、2に戻る。知識がなくても正解が出せる、出題者の意図を読んで裏をかくマークシート世代のビジネスマンです。
日本のビジネスマンもやるではありませんか。これだけの柔軟な思考ができれば、将来は楽しみです。

わたしの側から言えば、柳の下にドジョウはいても、2匹目も狙えばケガをするというよい例で、2問続けると、鉄板ネタも、穴だらけのざるになってしまうという教訓です。

たしかに、引用したことばは、日本人が発したものではなく、逆に、外国人が日本に来て、日本人の勤務ぶりに対して発したことばだからです。
しかも、歴史をさかのぼった昔の話、というのも正解です。


■非能率的習性
タネ明かしをすれば、これも時代はさかのぼり、明治維新から明治時代中頃にかけてのことです。
産業だけでなく、司法・立法・行政の各方面で急速な近代化を進める方針を打ち出した政府は、明治維新直後から、指導を仰ぐために大量のお雇い外国人を採用しました。

雇われてきた外国人たちは、日本にやってきて、各職場で指導を始めるのですが、一緒に働く日本人の仕事ぶりにあきれ、発したことばが前記のことばなのです。「勤勉」とはほど遠い姿です。

日本人の「勤勉」というイメージは、戦後の高度成長期以後、日本人ビジネスマンの勤務時間の長さ、欠勤率の低さ、休暇取得率の低さ、残業の多さ、組織を優先させて自己を犠牲にして集団や企業に奉仕する姿などからさかんに言われました。

このイメージの定着には、滅私奉公というかつての封建時代に言われた主従関係や、主君への忠に命さえ捨てて殉じる「武士道」が、会社と社員の関係に重ねあわせてみられたことも影響しているかもしれません。
しかし、お雇い外国人のことばに見るように、幕末から明治にかけての時代には、日本人は決して勤勉だったわけではなかったようです。

明治六年に来日し、海軍兵学寮の英学教師を歴任後、
東京帝国大学文科大学教師となったバジル・ホール
・チェンバレンは著書『日本事物誌』(平凡社東洋
文庫)で、日本でしばらく住んだ外国人たちの意見
を総合すればといって、

 ●貸し方の側(長所)として清潔さ、親切さ、
  洗練された芸術的趣味をあげ、
 ●借り方の側(短所)として、国家的虚栄心、
  非能率的習性、抽象概念を理解する能力の
  欠如
などをあげています。

ご紹介した、「彼らは、日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わずに果たしている。しかし彼の努力はそこで止まる・・・」、言われた以上にしようとしないという意見は、1872年法律顧問としてフランスから来日し、以後76年までの四年間、民法草案の策定や司法省法学校で法学教育に力をそそいだジョルジュ・ブスケが記した日本の作業者、職人の仕事ぶりです(『日本見聞記』みすず書房)。

海外から来日したお雇い外国人たちは日本の各地で専門家として指導に当たり、たくさんの記録を残しています。それらの中に、官庁や学校、民間企業などでの職人や作業者、官僚などの仕事ぶりを紹介したものがありますが、前掲のチェンバレンが書いたように、多く人が日本人の「怠惰な仕事ぶり」を嘆いているのです。

「忙しそうであるが、適度に働く」


と書いたのはイギリスの初代駐日公使だったラザフォード・オールコック(『大君の都』上・中・下、岩波文庫)です。同様に、

「給料日は各人ごとに別の日にしなければならない。・・・有り金を全部使い果たすまで戻ってこないからだ。」


の文章も、1860年にドイツからオイレンブルク遠征隊に参加して来日した画家のアルベルト・ベルクが書いた文章です(『オイレンブルク日本遠征記』雄松堂書店・異国叢書)。

こうした、働かない日本人労働者については、ほかにも多くの外国人が書いています。
これだけ多くの人が書いているということは、よほど怠惰さが目立ったのでしょう。


■工員の欠勤率21パーセント
幕末から明治初期の日本人の働きぶりは、怠惰で仕事をしなかっただけでなく、勤務の形態そのものに慣れていなかったという面もあったようです。

慶応元年(1865年)に建設が始められた横須賀製鉄所は、小栗上野介の発案で、フランス人技術者レオンス・ヴェルニーの指導を得てつくられた官営の造船所で、フランスにならって、一日八時間労働、日曜日休業の週休制、病欠の場合一〇〇日は有給、天引き預金・・・などが取り入れられた画期的な工場であり、後に造船大国、ものづくり大国日本をつくる出発点になる工場です。

そこで、操業後数年たった明治5年、造船所職工規則が公布されています。就業規則はそれまでなかったのですが、稼働してみて必要だということになったのでしょう。
内容をみると、第二項に、

「職工及人夫毎朝入場後直チニ工場ヲ脱出シ、午餐停業ノ頃混雑二紛レテ帰場スル者」(『横須賀海軍船廠史』横須賀海軍工廠編、原書房明治百年史叢書)


を問題とし、これに対する措置を定めています。つまり、朝、出社していったん工場に入ったあと、工場を脱出し、昼食の休み時間を見計らって戻る職人職工が、少なからず存在していたのです。

「厳密ノ尋問ヲ経テ、午後三時間改札場ノ木杭二縛置シ、其側二犯罪者ノ姓名及附属工場ノ名ヲ記シテ之ラ懲罰スベキノミナラズ、脱出中ノ時間ニ応ジテ、一日若クハ数日間ノ給料ヲ減ズベシ」(『同書)


と懲罰を課したことで、違反者は減少したようですが、それでもこれが日本人職工の当時の勤務の実態でした。

江戸時代に培われた気ままな勤労ペースが、時間で管理された勤務実態に馴染めなかったということもありますが、”男子は腕一本で生きるべし、雇われ仕事は女子供のやること”という風潮がハバをきかせている中で、時間で雇われるというのは男子たる者の仕事ではないと、勤務という形態が軽視されていたということもあると思います。

それにしても、木杭に縛るとは、凄い刑罰ですね。たしかに犯罪と言えば犯罪ですが、まだそういう時代だったということでしょう。世の中は、旧時代のまま、横須賀製鉄所だけがフランスの指導を受けて近代化された運営だったことがこれで分かります。

1859年、61年と来日し、64年にはスイス領事
として3度目の来日を果たしたリンダウは著書の中で

「仕事に対する愛情は日本人にあっては、だれにでも見られる美徳ではない。かれらのうちの多くは、いまだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほど不精者で」、「矯正不可能な怠惰」と書いています(『スイス領事の見た幕末日本』リンダウ、新人物往来社)。


多くの外国人が書いているように、過去にわたしたちが怠惰であったとすれば、いまの私たちの勤勉さは、いつ身につけたものなのでしょうか? 「勤勉こそ古くから日本人に備わったDNA」という、私たちの勤勉さに対する誇りは、もしかすると、私たちの勝手な思い込み、世界に広げた風評伝聞かもしれません。
実際はどんなだったのでしょうか。

たとえば明治時代の日本人労働者はこんな具合でした。

明治政府の農商務省の調査報告『明治政府の農商務省の調査報告』職工事情、明治36年)によると、明治30〜40年ころの職工の半数以上は、勤続3年未満の未熟練者で、年にほぼ半数が退職したといいます。
殖産興業・富国強兵を目指して国が鳴り物入りでスタートさせた日本産業のけん引役である三菱長崎造船所でも

「月当り離職率は6パーセント(1898年)、
 欠勤率は21パーセント(1908年)」


という状況でした。

欠勤率は冬の11月〜1月は低いが、暑い7、8月に高くなり、月のうちでも、賃金支払日の5日は出勤しますが、6〜9日はふところが暖かくなったことから遊興のために欠勤し、賃金をほとんど使い果たした9日以後に、ふたたび真面目に働いて、賃金計算のための帳締め日である20日は出勤率が最も高いという「気まぐれな出勤態度」(「日本人の経済観念」武田晴人、岩波現代文庫)であったそうです。


■勤勉は近代産業とともにやってきた
時代からいえば、日本は1905年に日露戦争に勝利して意気軒昂、まっしぐらに殖産興業、富国強兵で工業化・軍事力増強にまい進し、自前で軍艦の建造に力を入れていた時代です。長崎に造船所、横須賀に製鉄所(後の造船所)を開設し、呉に海軍工廠を整備し、国をあげて軍艦づくりを目指していた、まさにその時代の勤務実態がこれです。

挙国一致で増産を目指しているさなかの、その中核ともいうべき長崎造船所での職工の勤務実態が、欠勤率21パーセントです。「勤勉」とは程遠い働きぶりです。

欠勤率が高い理由として、低学歴で、腕を持った職人と違って「職工は女こどものやること」という風潮が強く、まじめにやる対象と思われていなかったと書かれています。

こうした姿勢は、大正期に入ると、徐々に改善がみられるようになるのですが、少なくとも、明治時代には、生活習慣とともに、月―土で定時に勤務する工場労働の近代的な勤務形態に、労働者の意識が追い付いていないということができます。

また、離職率も同様で、

「1898−1902年には、長崎造船所では、在籍する労働者の60〜80パーセントに当たる数の労働者が一年間に雇用され、退職していた。1901年に行われた芝浦製作所、大阪鉄工所など全国10工場の勤続年数調査でも、一年未満しか在籍していない労働者の数が60〜70パーセントであった。・・・この状態は第一次大戦期まで続き、1919年の全国調査でも同じように60〜80パーセントという高い移動率が記録されている。大工場の労働移動率が年間10パーセント程度に低下するのは1920年代の後半になってからのことである」(『日本人の経済観念』)

と言うのが日本人の勤務実態でした。
1900年ころの長崎造船所と第一ドック
前掲の総合研究開発機構(NIRA)の報告書は、「明治、大正期においては、一部の基幹労働者を除き・・・自分の勤める会社に対する帰属意識も希薄で高い離職率と低い定着率」を示し、「勤勉性が本格的に形成、発揮されるに至ったのは第二次世界大戦後の1950〜55年以降である」(『産業労働における勤勉性の研究』総合研究開発機構NIRA)としていますが、日本人が勤勉になったのは、どうやら戦後しばらくたってからのようです。

つまり、DNAのように思われていた日本人の勤勉さは、たかだかここ5、60年間に身に着けた習性にすぎないらしいということです。

「思春期は蒸気機関とともに発明された」
といったのは、イギリスの社会心理学者マスグローブです。そのひそみにならえば、「勤勉」は近代産業とともにやってきたのです。
1800年代、産業の進んだ欧米からきた外国人たちの目に、産業の発達していない日本では、勤務が怠惰に見えたのはしかたありません。


■スイスの時計職人の働き方
 明治の初めに来日したお雇い外国人のなかには、このような怠惰で気ままな働き方は必ずしも日本だけではなかったという人もいます。

スイスの遣日使節団長として1863年に来日したエメ・アンベール・ドロズは、スイスの時計生産者組合の会長を務めた人で、来日中に集めた資料を基に『幕末日本図絵上下』(雄松堂出版)を書いています。その中にこんな文章があります。

「私は幼年時代の終わりころに・・・概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きてきたのを見ている。労働それ自体が、もっと純粋で激しい情熱をかきたてる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分の作るものに情熱を傾けた。彼らにはその仕事にどれくらい日数を要したかは問題ではない。作品が、かなり満足ができる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるのである。疲れがはなはだしくなると仕事場を出て、・・・どこか楽しいところへ友人と出かけて行って、勝手気儘に休息をとるのであった」。


アンベールが近くで見てきたスイスの時計職人の姿です。日本の職人の仕事ぶりを見て、思わず故郷の先人たちを思い出したというのです。
いまでも、スイス人技能者は技能五輪で上位に名を連ねてきますが、かつては、日本人とスイス人がメダル獲得の常連で、第二次大戦後もしばらくは、熟達した技能者と言えば、第一にスイスの職人があげられたものでした。

アンベールは、スイスの職人の情熱を傾けた働き方、つまり、”質の高い、中身の濃い”働き方があり、それは日本の職人にも同じように見られたと書いています。

工場が近代化されて大量生産が求められるようになると、チームで作業が行われるようになります。その結果として始業時間や終業時間が明確に決められて一斉に時間管理が行われます。
機械化されてペースが決められ、集団で働くことが当たり前になる近代化以前の人たちは、そうした管理された労働に、慣れていなかったということでしょう。


■どこへゆく「ものづくりの国」日本
章の冒頭、セミナーのアイスブレークとして「この国はどこの国?」と問題を出すと紹介しましたが、セミナーではこの話の結論は、こんな風に結びます。

ひとつは、国が持つ技術力は、時代とともに変わっていくということです。高い技術力と旺盛な改善・改良意欲を誇ったかつてのアメリカと同様に、やがて何年か先、日本からも技術力が失われていくのではないかということを考えてほしいということです。

ものづくりでこれだけ急成長を遂げたアメリカは、1950年ころを境に、安価な労働力を求めて国内でのものづくりを放棄して、次つぎと海外に工場を展開し、隆盛を誇っていたものづくりの場は、少しずつアメリカ国内から消えていきました。

ものを作る喜びに増して、それによって利益を上げること、裕福になることを求めた結果です。そして現在では、受講者からまったくその名が出されなかったように、ものをつくるという面で、アメリカという国名が聞かれることが、ほとんどなくなってしまいました。
アメリカ文化を象徴しているアップルも、製造業と言いながら、自社では企画・設計だけを行い、ものづくりは海外のホンハイなど、EMSと呼ばれる製造専門会社に依存しています。

かつてアメリカは、
 ●1908年(明治41年)T型フォード自動車の量産を開始し
 ●1931年(昭和6年)102階の超高層エンパイアステートビルを完成し
 ●1937年(昭和12年)全長2830メートル、 塔間1280メートルもある巨大
  なゴールデンゲートブリッジを完成する

という輝かしい技術力を誇った国でした。その集大成としての圧倒的な生産力が豊富な物量を生みだし、第二次大戦を勝利に導いたといえます。

しかし、ものづくりが国内から海外に移ってしまった結果、航空機など最先端の製品さえ、メインパーツを外国に頼らないと製造できないという状況に陥っています。その結果、国内では雇用も確保できず、失業率は高止まりの状態で、オバマ大統領は、雇用を確保するために、海外に進出した工場を国内に回帰させようとしています。
いま日本の製造業で働くみなさんは「日本こそものづくりの国」と自負を持っているようです。

しかし、グローバル化の名のもとに、多くの工場が海外に移転し、国内からものづくりが消えようとしています。日本の産業界も、何年か先に、アメリカのように、海外に工場を展開してものづくりを放棄し、国内には工場さえなくなってしまうということにはならないでしょうか。

もしそうなったとき、私たちは何を頼りに雇用を維持しているのでしょうか。長期を見据えた戦略を考え、いま、わたしたちは何をするべきか、この課題をしっかりと考える必要があるように思います。

アイスブレークのまとめの二つ目は、勤勉さもまた時代とともに変化していくということです。

かつて怠惰で自由気ままな仕事ぶりで先進諸国から来日した人たちを呆れさせていた日本人が、近代産業の導入とともに徐々に働き方を変え、やがて時間に合わせて働く先進国だった欧米の人たちからもあきれられるほどの類を見ない勤勉さを発揮するようになりました。

そして、現在は、経済の成熟化とともに生まれた新しい世代が、勤勉とは一線を画す価値観で、独自の新しい働き方を始めているように思えます。

そうした日本の状況と対照的に、金銭的な豊かさを求めてアジアの各地で、産業の近代化が進められ、日本で進められてきた勤勉とはイコールではないにしても、新しい仕事熱心な働き手が誕生しています。

日本人が勤勉さを失っていく中で、そうしたアジア圏の国々の中から新しい勤勉な国民が誕生するのではないかと思います。いま、私たちがアジアの人たちの怠惰さを嘆いて口にする言葉は、まさに、明治初期に欧米人が日本人を前に嘆いたことばのように、何年か先に、彼らによって、「かつてそんなに言われていた時代があった」と振り返られるときがくるようになるかもしれません。



   


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